ペンキ絵師「菅野涼」6 上機嫌な君は
随分と遅い夜食を食べ終わった後、何時ものように涼が台所でゆらゆらと左右に揺れながら食器を洗っている。何が楽しいのか陽気な鼻歌までついている。
その鼻歌のリズムに合わせ、はたはたとリズミカルに揺れる長い黒髪を何とはなしに眺めながら俺はちゃぶ台の足を畳み、部屋の奥へと追いやった。その後に押入れの戸を開け、一つぽつんと丸まり所在なさげにしてる寝袋を手にすると紐をほどき、ちゃぶ台があったスペースへと並べる。
ところどころほつれがあったり、破れかけている黒いノーメーカーのその寝袋は、かつて涼が実際に使っていたものだ。
感慨深いもので、実はこいつが俺と涼との縁を繋げるものだったりする。今思い出しても、本当に変な汗をかく出会い方だった。
ほぼ絶滅危惧種たるペンキ絵師。涼のような美人が若さとその才能、不断の努力を持って見事な富士の絵を書くともなればそれが噂となり、外面だけを見ていた奴らからも正当な評価を得るまでさほど時間はかからなかった。
皆が一度は耳にしたことがあるだろうヴァイオリンのテーマが特徴の人間ドキュメンタリーへの番組への取材依頼が掛かることもあったようだが、めんどくさいの一言で断ったらしい。
だが、誰にだって下積みという時代がある。
実際涼はペンキ絵師として独立するまではまともに稼ぐことは出来ずに、寝袋一つで野外キャンプを毎晩繰り広げていたとのことだった。暴漢や不審者に襲われる危険度がぐっと下がる様に交番が近くにある公園などの場所を選んでいたが、それでも何度も危ない目に合いそうになったと言っていた。
少なくとも嫁入り前の女子が行うような生活ではないだろう。
あの日の夜。営業時間もそろそろ終わりというところ。
いつものように流しを行う俺がいる男湯に菊さんが入ってきた。
どうやら常連さんからふじの湯の隣の公園のベンチで、若い女性が寝袋に包まり眠っている事を聞いたらしく、俺がその様子を見てこいとのことだった。
久しぶりに動いている菊さんの、その開いた目を見たのが印象に残っている。
田舎って所は良くも悪くも閉鎖的だ。変化があればすぐそれに気づくだけのネットワーク(主に高齢者の散歩による)が構築されており、此処ふじの湯は裸の付き合いがもたらす開放感からか、それらの情報が一点に集まる一種の特異点と化している。なぜか俺の食事メニューがズバリ当てられることも一度や二度じゃない。若気の至りでこっそり買ったエロ本の新刊が脱衣籠に置かれていたことすらあった。
因みに特異点の次点はスーパー、北海マート(地元にのみ存在するヤツ)だ。
そして、ここふじの湯に集う常連さんたちは何というか、特に人懐っこくて世話焼きが多い。独り者の男には飯やお見合い話を気軽に持ち込む程度には。
その若い女性が風邪をひかなくても済むように連れてこい。
言外に込められた意味を俺は間違えることは無かった。
簡単に上着だけを羽織り外に出ると、秋口を迎えたことを告げる冷たい風が火照った体から体温を簡単に奪う。下は短パンのままだったことを思い出し軽く後悔する。
北海道ではそろそろ冬を意識し始め、憂鬱な除雪について嫌な記憶を思い出させる程度には夜の風は容赦がない。
小走りに公園へ向かい件のベンチへたどり着くと、果たして眠り姫はそこにいた。
水色のペンキが所々剥げた木製ベンチの上に、今目の前にある寝袋に包まれ眠る美人さんが一人。
菅野涼がそこにいた。
今と変わらない綺麗な横顔。そして海岸に打ち上げられた海藻みたいに力なく地面へ流れる汚れた黒髪を俺はきっと、生涯忘れることは無いだろう。
初めて見たヒロインの髪はとても汚かった




