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菅野涼の追憶 天秤を傾けて

 ベッドのついでに買ってきた安い椅子に座り、少し狭くなった部屋に置いたイーゼルに向かう。

 立て掛けてあるのは、真っ白な水彩画用紙。

 左手のパレットには、乾ききって少し罅割れた絵の具が幾つも並んでいる。右手の筆にたっぷりと水を含ませてから、それが滴る前に急いで絵の具に押し付ける。


 筆に乗った絵の具をパレットの上で混ぜ合わせながら、控えめな鼻歌に乗せて描いて行く。久しぶりの水彩はやはり楽しい。

 コントロール出来ない滲みが織りなす光景に、時には寄り添い、時には反発しながら筆を走らせていると、ぼんやりと構図が浮かび上がってくる。

 それを絵にするために、絵の具を混ぜて、色を作っては筆に乗せる。


 かなめの顔を思い出しながら幹を描き、その指先に触れられた感触そのままに枝を描く。代り映えのしない冴えない格好は緑の葉に変えた。


 なんともまぁ、呆れたことに、私の頭はあいつのことで一杯だ。

 大分遅れてやってきた、少女の様な(文句ある?)ときめきに、随分と筆が乗っている。


 枝の先に鳥を描く。もっさりとした葉で光が遮られているので、影は深くシルエットだけ。何の鳥なのかは自分でも分からない。形だけを置いていく。 

 

 空にも数羽、鳥を描く。随分と先を飛んでいるので大変そうだ。

 空は私の気持ちを塗りこめている。


 ある程度書きあがった絵を前に、パレットと筆をちゃぶ台に一度置き、随分と冷たくなったインスタントコーヒーを口に含む。紙が乾くまでの休憩だ。


 ドライヤーでも使えばいいのだが、ベッドで眠るかなめを起こすのは少し忍びない。折角なので寝坊助している顔を見ることにする。

 別に見どころも無いのだが、それなりに見ていられるのが面白い。思わずキスしてみたくなるが、今は一寸だけ我慢だ。


 そうこうしているうちに、ある程度紙が乾いた。

 筆を洗い、濃いめに絵の具を乗せて細部に取り掛かる。私の好きなバーミリオンの原色が紙に置かれ、一寸したアクセントを作り出す。


 テンションが上がってくるのを感じながら、慎重に筆を動かす。

 少し書きすぎた部分は水で洗い流し、滲むに任せる。


 暫くそんなことを繰り返し、完成した絵を眺めてみる。久しぶりの水彩だったが、まずまずと言った所。


 心地良い疲労感を覚えつつ、片づけをした後で筆を洗う。

 シンクの底へ糸を引く、絵の具の残りが次第に薄れていくのを眺めながら、欠伸を一つ。少しばかり早起きした付けが今頃になって帰ってきた。

 時計を見てみると、まだお昼ご飯には少しだけ早いようだ。


 洗い終わった筆を隣に置き、スポンジに洗剤を付けた後にシンクを軽く洗ってゆく。ついでで綺麗になった手をタオルで拭いて、大きく伸びを一つする。


 伸びた背中が気持ちよい。


 すっかり冷え切ってしまった指先に息を吐きかけながら、少し袖が汚れてしまっている上着を脱ぎ棄てる。後でかなめが片付けてくれるだろう。


 そして、静かな寝息を立てるかなめの横にするりと潜り込む。

 冷たい指先を首筋に沿わせてみると、少しだけ嫌がる様に身をよじった後、腕が伸びてきて絡み取られる。


 その熱を感じながら、ゆっくりと瞼を閉じる。


 肌に感じる控えめな重さが、過去のわたしを上塗りすることは無いけれど、たっぷりと水を含ませた絵の具の様に、じわりとその輪郭を滲ませてゆく。

 それでも足りない欲張りな私は、癖が悪い手足を絡ませてこちら側へと引き寄せる。


 顔に掛かる吐息は多少くすぐったかったが、慣れてしまえばそれも心地よく、長い欠伸が一つ出た。

第四幕はこれで終わりです。

随分と難産で、大変苦労してしまいました。

宜しければ感想など頂ければ嬉しいですが、それよりもまず、ここまでお読み頂き本当にありがとうございました。

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