菅野涼の追憶19 滲む横顔と恋心
頭の中の絵を、手を、体を使い現実へと出力してゆく。
口にすれば簡単なことだが、それの何と難しい事か。イメージが出来ているからこそ、徐々に生まれてゆく理想との齟齬。それを、流れ落ちてゆく冷たい汗だけが全てを語っていた。
ああ、クソ。こう言ってしまっては何だが、ウルトラマリンが欲しいぞ。そもそも、ペンキにそれがあるのだろうか?と言うことは今は置いておく。まぁ、あったとしても、それを売っている店は開いてはいないのだが。ここにきて、数を絞ってペンキを準備したことが裏目に出ている。予定通りであれば問題なかったはずなのだが、それを簡単に変えてしまった自分に思わず腹が立つ。
ペンキの残りも大分少なくなってきている。当たり前だ。予定と違うのだから。だから、塗り直しは許されない。その緊張感が心地良い。気を抜けば吐いてしまいそうなほどに。
必死に群青色の空を描き続ける。細かいニュアンスやグラデーションは刷毛で行う。少し青が足りなそうなので、急遽入道雲を描きあげる。それがまた上手くいき、思わず笑みが零れる。面白いことに、男湯と違いローラーと刷毛を程同時に使っていくことが出来ている。脚立を動かすかなめとの息も、大分前からぴったりと合ってきている。もし次があるのであれば、アシスタントとして連れ回したいくらいに。何とも便利な男である。
顎を伝う汗を袖で拭い、富士山に手を掛ける。光源を意識しながら、朝焼けの光が浮かび上がる様にペンキを重ねてゆく。群青色の空が次第に茜色に染まり、複雑な影が浮かび上がる雲に負けないように、力強く。蝦夷富士の様な力強さを。
絵を描くことが楽しい。嬉しい。
まるで子供の頃、落書き帳にクレヨンで好き勝手に絵を描いていた時の様な、純粋な喜びが体中を駆け巡っている。ベタベタと汚れる指先でニュアンスを作る。子供の遊びの様に。
突然笑い出す私にかなめは少しだけ驚いていたが、何も言わずに脚立を支えている。それが面白くて、私は少しだけガタガタと脚立を揺らしてみると流石に怒られた。
ごめん、ごめんと笑いながら、そこから先は文字通り全身を使いながらペンキを塗りたくってゆく。コートの袖を使ってペンキを少しこすり取ってみたり、掌を使って陰影を作り出す。お陰でわたしはペンキ塗れのペンキ女と言う所だ。笑いながら、狂ったように絵を描く私から、かなめはどんな気持ちで技を盗もうとしているのだろうか。覚えていたら後で聞いてみよう。
そして、また頭の中の完成図を体の外へと出力してゆく。
浴槽の上ギリギリまで向日葵を描き切った時、既に日付が変わろうとしていた。
「「お疲れ様」」
ペンキ塗れの養生シートの上に二人でへたり込みながら、私とかなめは思わず顔を見合わせて、同時に同じ言葉を交わした。
「お腹減ったー」
「だろうね。朝から何も食べてないからね」
「久しぶりに集中してた」
「それは見てたから分かってる。途中でおかみさん来てたの気付かなかったでしょ」
「えぇー。来てたんなら教えてよ」
「おかみさん、笑いながら絵を描いてる涼の事を見て、笑いながら帰って行ったよ」
「声かけてくれたら良かったのに」
「……声なんて掛けられないさ」
手渡された新しいタオルでごしごしと手や顔を擦ってゆくと、あっという間にタオルはペンキ塗れに変わってゆく。
「そういえばさ」
「ん、なに?」
「涼、まだ全体像見てないんじゃない?」
「……言われてみればそうかも」
かなめの言葉にほんの少しだけ心臓が跳ねる。構図は崩れていないだろうか?
「見てみようよ。この絵を」
かなめが立ち上がり、手を差し出してくる。私はそれを掴み、何とか立ち上がるが疲労の為か、少しだけふらついてしまう。
「大丈夫?」
かなめが反対の手で、私の脇の辺りを支えてくれたお陰で幸い転ぶことは無かった。意外と大きな手が直ぐに離れてしまい、私は思わず口を尖らせる。
「疲れてるんだからちゃんと支えてよ」
「……了解」
「宜しい」
脇から背中の辺りにためらいがちに回される腕と、微妙な距離感が空いた身体。ペンキが移ってしまうのを嫌がっているわけではないだろう。既にお互いペンキ塗れのコートを着ているのだから。
その微妙な距離に腹が立ってきて、私は思いきり体をかなめに預ける。
「ちょっと、あぶないって」
「疲れたから仕方がない」
かなめはそう言いながらも、預けた身体を受け止めてくれた。まぁ、そうでなければ私は浴槽のタイルに真っ逆さまだ。
「ま、良いか。ほら、向こうに行って見てみようよ」
その少しだけ顔が赤いのは、寒いからだけではないだろう。そう、思いたい。
私はかなめに介護されるようにして、浴槽を跨ぎ、脱衣所の手前までやってくる。
「こんな凄い絵をありがとう」
振り返ってから見た朝焼けの富士の絵を真っすぐに見つめながら、かなめはしっかりとした声でそう言う。
私はと言えば、それに答える暇もなく自分の書いた絵の出来を確認している。
構図は奇跡的に崩れていない。
朝焼けや入道雲、富士山に松、顔を上げ始めた無数の向日葵。どれも気付けば粗が見えてくる。朝に見た、頭の完成図には程遠い。
それでも。
「俺、ふじの湯で働いていて良かった。毎日見れるんだぜ、これ」
隣の男は無邪気に笑っていた。
「そっか。そりゃあ良かった」
もう書き直す気力も体力も尽き果ててしまった。今回は此処までだ。
少しだけ悔しさが残る結果ではあるが、思いの外さっぱりとしている。多分、これが今の私の出し切れる全力なのだから。そう言い切れる程度には、やりきった。
「……ほら、これ使いなよ」
「え?」
差し出された地味なハンカチに思わず声が漏れる。
「なんで泣いてるの?私」
「……さぁ?なんでだろうね」
「その顔ムカつくんだけど」
「……前からこんな顔だよ」
溢れ出した涙でその顔が段々と歪んでゆく。受け取ったハンカチで涙を拭いてはみるが、壊れた蛇口の様に中々止まらない。
始めてふじの湯に来た時、私のスケッチを見て涙を流したかなめの気持ちが、少しだけ分かったような気がした。これは、なかなか表現できるような気持ちではない。
「落ち着いたら手を洗って向こうで少し休みなよ。後片付けは俺がしておくから」
「いや、流石に手伝うよ。大丈夫だって」
「この絵をもう少し見ていたいから気にしなくても良いよ。独り占め出来るのはこれで最後だから」
そう言ったかなめの視線は、私の書いた絵に真っすぐに向けられていた。私を見てくれていた。なんてことの無いその滲む横顔に、だから私は恋をしたのだろう。
「……そう。ありがとう。助かるかも」
その横顔をぼんやりと眺めながら、私は遠慮をすることを止めた。
「向こうにおかみさんが持ってきてくれたおにぎりもあるから」
「ああ、お結びね」
「うん。お腹減っただろう」
「勿論」
「じゃあ手を洗いに行こうか。歩けそう?」
「むり」
「……嘘くさいけど、仕方ないな」
困ったような顔で私を支え直したかなめに連れられて、私たちはボイラー室へとゆっくりと歩いて行った。
絵の描写のパートはこれで終了。絵を描いたことも無いのに無理をしてしまいました。
ツッコミどころがありましたらごめんなさい。頑張った。




