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菅野涼の追憶18 変わる構図と心の内

 結局昼食の後、向日葵を書き始めてから気付けば夜になっていた。多分、100株以上は描けただろう。壁一面に向日葵が咲き誇り、男湯での仕事が終わった。かなめはその間、一度も浴室を出ずに付き合ってくれていたが、トイレとか大丈夫だったのだろうか?


「いやぁ、それにしても年の終わりに良いもの見れたわ。ねぇ、とうさん」

「ああ。新年はふじの湯に行くか」

「そうだね。そうしようか」


 暖かいラーメンを啜りながら、目の前のおかみさんとおやじさんに何とか笑顔だけで返事を返す。一気に噴き出してきた疲労の所為で、箸を持つ手も重たく感じてしまう。かなめは既にギョーザを幾つか摘まんだ後、小上がりで横になると直ぐに寝息を立ててしまった。


「涼ちゃん疲れただろ。食べたら上で直ぐに休みなさい」

「ありがとうございます」

「明日の朝は何が食べたい?」

「えーと、またおにぎりが食べたいです」

「うん。分かったよ。とうさん、お結びね」

「あいよ」


 覚えているのは此処までだ。

 気が付けば、昨日もお世話になった布団で目が覚めた。新年の朝をこうしておかみさんの娘の部屋で迎えてしまっているが、不思議と違和感を感じない私は相当に図太いんだろう。


 おかみさんに起こされることも無く、少し成長した私は洗面所で顔を洗うと、良い香りが漂っている一階へと降りてゆく。


「あら、今起こしに行こうと思ったのに。明けましておめでとう」

「明けましておめでとうございます。何から何まですみません」

「いいのよ。娘が増えたみたいで嬉しいんだから」

「私もお母さんが増えたみたいで嬉しいです」

「あらあら。じゃあ遠慮することないからね。ご飯できてるよ。食べなさい」

「はい」


 階段を下りる私を見つけたおかみさんは何時ものエプロン姿ではなく、ちゃんちゃんこを着ていた。実家の母の姿とはまるで違うのだが、不思議なほど母の姿とダブってしまった。


 おにぎりの山が出来ているテーブルに座ると、おやじさんがみそ汁の入ったどんぶりを持ってきて横に置くと、二階へ上がって行った。私のご飯を作るためだけに正月の朝から早起きしてくれたのだろう。何となく申し訳なく思っていると、反対側におかみさんが座った。


「気にしなくても良いからね。あのクソ親父涼ちゃんの事大層気に入ったみたいで、ニヤニヤしながらお結び握ってたから」

「はぁ……。私にはそう見えませんでしたけど」

「まぁ、腐っても夫婦だからね。それ位はわかるさ」

「へぇー。そんなものですか」

「そんなもんだね。ほら、早く食べな」

「はい。頂きます」


 おかみさんに急かされるようにしておにぎりに齧り付く。もしかして、おかみさんは少し照れているのだろうか?もう少し聞いてみたいところだったが、チャーシュー握りの美味しさに口と手が止まらなかった。


「多めに作ったから持って行ってかなめちゃんにも食べてもらいな」

「……あい」


 辛うじて口の中に隙間を作って返事をすると、ふとした疑問が湧いてくる。みそ汁の入ったどんぶりを手にすると、それを傾けおにぎりと一緒に胃に流し込んだ。鼻から抜ける、おにぎりの海苔と煮干し出汁の良い香りが何とも言えない。


「そう言えばかなめはどうしたんです?あの後帰ったんですか?」


 そう、あのかなめは小上がりで寝こけていたが、どうしたのだろう。ちゃんと家には帰れたのだろうか?


「ああ、かなめちゃんはふじの湯に戻って行ったよ。最後にもう一度壁を磨くって言ってたわ」

「そうですか」


 中々に憎い真似をする奴だ。正直な所、年代の割には十分に綺麗な銭湯だと思ってはいたが、もしかすると昨日もそうしていたのだろうか?いや、間違いなくそうなのだろう。


「案外いい男だろう?」

「職人としてはほぼ満点ですね」

「ふぅん。職人としてねぇ」

「……えぇ、まぁ」


 おかみさんのニヤニヤした視線から逃げるように、新しいおにぎりに手を伸ばす。


「そう言えばね。若い子はおにぎりって言うけれど、人の手で握ったお結びは縁を結ぶって願掛けや願いもあるんだよ。あると良いねぇ。縁結び」


 その言葉に私は少しだけむせてしまい、慌ててみそ汁で喉を潤すことになった。

 それから、私は準備を整えふじの湯へ向かう。後ろから二人の「いってらっしゃい」の声を聞きながら。元旦の早朝だけあり、まだ誰も歩いていない。

 やはりシャッターが上がっているふじの湯の玄関を潜ると、談話室のマッサージチェアで寝息を立てているかなめを発見する。閉じた目の下には薄っすらと隈が見て取れた。隣のストーブは赤く燃えているが、上には何も掛けていないので自分のコートを脱ぐと、起こさないよう上に掛ける。そして、テーブルの上におにぎりの入ったビニール袋を置く。少し音がしたが、かなめは起きそうな様子は微塵も無いようだ。


 昨日のやり取りで勝手はわかっている。女湯の脱衣所に荷物を下ろすと養生を開始。浴室は既に換気窓が開けられかなり冷えているが、やはり壁面にはカビ一つ見当たらない。


 まだ疲れが残っている体に活を入れて養生を終わらせた頃には、しっかり体が温まっていた。スケッチブックを開き、構図を確認しながら完成図を頭に思い浮かべる。


 予定では、男湯とは違う朱に染まる夕焼けを背景に浮かぶ富士山と、これから眠るために少し俯く向日葵畑。夕焼けに浮かぶ富士山の構図は、良くあるものであるが、ここにきてふと小さな違和感に思い当たる。

 私は今、何に大して違和感を感じたのだろうか。その違和感を掘り下げるために、暫し考えてみる。


「ああ、そうか」


 小さな違和感の原因に思い当たる。夕焼けに浮かぶ富士山も良いのだが、少し面白くない。それが見たいのであれば、私が描く絵よりも素晴らしい物が山ほどある。どうやら少し、資料を見過ぎて固定観念に囚われていた様だ。


 静かに暮れゆく夜よりも、静かに始まる朝を描こう。私なりの、これからの覚悟として。

 徐々に深くなる夜に怯える日々はもう止めよう。それよりも、徐々に闇を切り裂いてゆく、希望にあふれる一条の光が見えたのだから。今ならそれが描けるはずだ。

 予定の変更で練習していた色作りは無駄になってしまうが、幸いなことに昨日1日である程度の経験が出来た。無様な真似は晒さない。

 飽きるほど見てきた、あの漆黒から群青へと移り変わる一瞬の景色を。それを切り裂く矢のように、鮮烈な朝日が茜色を連れてくる様子を表現しよう。なら、向日葵は眠るために俯くのではなく、しっかりと顔を上げようじゃないか。希望に満ちた1日を望むように。


 気がつけばころころと予定が変わってゆく。まるで、今の私のようだ。それが可笑しくなって、気付けば声を上げて笑っていた。


「どうしたの!?」


 その笑い声で起きたのかは分からないが、脱衣所へかなめが慌てた様子でやってくる。それも何故か可笑しくなり、私は身体を大きく揺すりながら笑ってしまう。それを見た、若干引き気味のかなめを十分に堪能した後で、私は目頭に浮いた涙を袖で拭った。今年の初笑いは最高だ。


「おはようかなめくん。いい仕事してくれるねぇ。お陰で私もこの通り、やる気に満ちあふれてるよ」

「……今のやつがやる気なのかは少し不安だけど、元気そうなら良かったよ。うっかり寝ててごめん。養生するなら起こしてくれて良かったのに。本当に申し訳ない」

「おかみさんに聞いたんだけど、あんた大して寝ないでこっちに来たんでしょう?もう少しゆっくりと寝てても良いのに。手は抜かないから」

「……仮眠は取ったつもりだったんだけどなぁ。まぁ、誰かさんのコートのお陰でゆっくり寝れたからもう大丈夫。勿論仕事に対して心配はしてないけど、脚立動かしたりするの大変だろ?昨日みたいに手伝えるところは手伝うよ」


 かなめはそう言うと脱衣所に置いてある荷物を手に持ちガラスドアを開けると、浴室へと歩いてゆく。私も荷物を持って後に続く。


 もう既に、頭の中で絵は完成していた。

昔々とあるラジオでお結びのお話を聞いてから、おにぎりの事をお結びって呼んでいます。

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