菅野涼の追憶17 凡人たちの天才
私が3つ目のおにぎりを食べ終わるころ、かなめとおかみさんの話が終わった。何やら色々と話し込んでいたみたいだが、おやじさんが作ってくれた変わり種おにぎりに夢中になり、ほとんど聞こえてすらいなかった。
エビマヨ握りにエビチリ握り、三つめは野沢菜握りに当たりさっぱりした。おにぎりの口直しにおにぎりで攻めてくるとは、流石おやじさんと言う所だろう。
「じゃあおばさん店に戻るから。晩御飯は何がいい?」
「ラーメンで!!」
「大晦日なら蕎麦では……?それとも麺なら良いのか?……っていうより、おかみさん!お金はちゃんと払いますから!」
「何言ってるの!涼ちゃんはうちの子なんだからお金なんか要る訳無いでしょ!」
「ええー……。なんでそんなに涼と仲良くなってるんですか」
「男の嫉妬はみっともないわよかなめちゃん。仲良くなったのは昨日の夜沢山話してるうちにね。ま、いい子なのは間違いないよ」
「……子?」
「あん?」
一言多いかなめには一応反応を返しておくが、私はおにぎりを食べることが忙しい。
「あらあら、お結び足りるかしら。足りなかったら言いなさいよ」
「ありがとうございます。でも、あまり食べ過ぎると仕事できないからこれくらいで我慢しておきます」
「……これくらい?我慢とは?」
つっこみ待ちのかなめの言葉はあえてスルーする。今は筋子握りを堪能しているところなのだ。
「そうね、じゃあ仕事が終わったら店に寄りなさいね。ラーメン作らせて待ってるから。……涼ちゃん、頑張って」
「……はい。頑張ります」
おかみさんはウィンクをばっちりと決めると、もう一度描きかけの絵を見てからふじの湯を出て行った。
「じゃあ俺も一つ頂こうかな」
「お好きな物をどうぞ」
そして脱衣所で二人、暫くおにぎりを無言で食べる。私もだが、かなめもお腹が減っていたのだろう。直ぐに二つ目を手に取っている。そして、一口齧ったところから、実に美味しそうな鮭の切り身が顔を出していた。私は何となく耐えきれなくなり、その鮭の切り身に齧り付いた。すると弾力のある皮に引っ張られたのか、鮭の切り身がするりと柔らかなおにぎりから綺麗に抜けてきた。
「これで親子おにぎり完成ってね」
随分と大きな鮭の切り身は絶妙な塩加減で、冷めていてもほろほろと身が崩れてゆく。口の中に残っている筋子との相性は勿論最高である。
「……一口で全部具を食う奴がいるか。これじゃ只の鮭の匂いの付いたおにぎりじゃないか」
そしてかなめは具の無くなったおにぎりを手にしたまま、恨めしそうな顔を私に向けている。
「油断している方が悪いんだよ」
「普通はそんなことしてくるとは思わない。油断では無いことを強く訴える」
「じゃあもう一個食べたらいいじゃん。新しい味がかなめを待ってるよ」
「いや、このおにぎり相当大きいから俺は2個で精一杯だぞ?そんなに食べてる涼がおかしいんだからな?」
「少食だなぁ」
「その感想はおかしい」
かなめは口を尖らせてそう言うと、具の無くなったおにぎりの残りを食べた後、コップの水を呷る。そうして口の中が落ち着いたのか、立ち上がると浴室の方へと歩いて行き、そのガラスドアを開けた。ガラガラという音に続いて、吹き込んでくる冷たい風が頬を撫でる。
「ちょっと、寒いって」
「ああ、ごめんごめん。もう一度絵が見たくてさ」
「直ぐ閉めて。私冷え性なんだから」
「うん。分かった。でも少し待って」
かなめはそう言うけれども、暫くの間ドアを閉めず、あろうことかそのドアを全開にする。
「さーむーいー」
「一瞬だけ換気。ペンキの匂い結構すごいから。中にいると鼻がマヒして分からなくなるけど、体に悪そう」
「……確かにね」
「一度休むと気付くもんだね」
「そうかもね。あぁ、寒い」
私の言葉の後1分ほどしてからかなめはドアを閉めて戻ってきた。お陰でまずまず暖かかった脱衣所の温度が、随分と冷え込んでしまった。
「しかし描きかけとは言うけれど圧倒されるね」
「そう?」
私に笑顔を向けるかなめに何となく目を合わせられず、私は一口大に切られた油淋鶏が沢山入った油淋鶏握りに齧り付く。
「あの絵を見て、涼は天才なんだなぁって感じたよ」
かなめは曇るガラスドアで滲む浴室の方を向いてそう呟いた。
「天才、ね」
私はその言葉で急速に心まで冷えていくのを感じる。天才。その言葉にはいい思い出は無い。
「そうさ。あればきっと、天才の描く絵だ」
浴室をぼんやりと眺めるかなめは、そんな私に気づかない。
ガキの頃から絵を描くたびに「天才だ」と言う言葉を言われた。きっと始めは親の欲目と言う奴だったはずだろうが、私が徐々に大きくなるにつれてその言葉は「重さ」と「現実感」を持ち始めた。それを両親の期待と言う。
私はただ、絵を描くことが好きなだけだった。絵が描ければいいだけだったのだ。
お前までその言葉を口にしないでくれと、喉まで出かかった時。
「師匠が酒を飲むと良く言ってたんだ。『天才ってやつは俺たちとは違う次元で時間を使ってる。勉強をする時も、経験を得る時も、技術や知識を身に着ける時も。呆れ果てるだけの時間を使って、頭が狂いそうになっても辞めることが出来ずに、布団の中で、うなされるような夢の中に出てきたそれが、ヒントになる。答えじゃない。ヒントだ。それを大事に掴み取り、忘れずに目が覚めた時に、一歩だけ踏み出せるやつが奴が天才だ。凡人の一職人としては、喉から手が出るほどに羨ましい』ってね。馬鹿と天才は紙一重ってよく言ってたっけ」
かなめはガラスドアで切り取られた、ぼんやりと滲む浴室を眺めながら小さく笑った。
「……かなめは本当に天才はいると思ってるの?」
思わず吐き出すようにして漏れた言葉は、嗄れていて、とても小さな音だった。それが聞こえているのか、いないのか。かなめはまた口を開く。
「『だから須らく、俺たち職人にとって天才なんて言葉は、努力した者へのただの薄っぺらい称号だ。先人が築き上げた知恵や技術の結晶を、己の才能と勘違いさせるかのように称える奴には、ただ頭を下げて笑っておけ。勘違いをするな。だが、もしも。こいつが天才だと、そうなんだと、お前が認めたやつを見つけた時には、遠慮なく技を盗め。意地汚く食らいつけ。そうすれば凡人の俺たちは、半歩だけでも本当の天才に近づける』ってね。天才はいるかだっけ?……うん、天才はいるさ。今、ここに。俺みたいな凡人が認めた天才が。説得力はまるで無いけどね。まぁ、師匠は本当の天才なんて称号は、死んだ後にもらうもんだって笑っていたけれども」
多分、その視線の先には師匠がいるのだろう。噛みしめる様に、言葉を紡いでいる。そのかなめの師匠が既に亡くなられていることは、初めてここに来た時に聞かされていた。
「まさか、師匠以外にそう思う人に会うとはね。師匠もやっぱり天才に会ったことがあるのかな」
かなめは静かにそう言うと、一度目を閉じた後、大きく息を吐いた。
「折角だからさ、涼から一つだけでも何かを盗ませてもらうつもりだよ」
「……そう。意地汚く食らいつかなくても良いの?」
思わず、口角が上がっている。
「仕事の邪魔をするわけにはいかないからね。出来るだけ見て盗もうと思うよ」
「お好きにどうぞ?私も好きにさせてもらうから」
この男は、私をその気にさせるのが本当に上手いようだ。
かなめの師匠の言葉は私の師匠の言葉です。少しかっこよくしてますが。
仕事に詰まると、「夢で見るまで考えたか!?」って言われてました。




