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菅野涼の追憶16 お結び

『かなめちゃん、涼ちゃん。お結びもってきたよ!』


 顔を見合わせる私たちだったが、玄関から聞こえてくるおかみさんの声で視線を同時に脱衣所の出口の方へ向けた。


「今行きます!」


 かなめはそう言うと、浴室を出て行くとそのまま脱衣所を抜けてゆく。私はと言うと、ペンキ塗れの惨状をどうしたものかとその場で考え込む。とりあえず筆洗油は持ってきているが、ここまでの惨状となると手荒れが酷くなるのであまり使いたくない。となれば、先ずはクレンジングオイルを使用してみよう。まだ乾いていない部分はまだ何とかなりそうだ。

 一先ずウェスである程度のペンキをこそげ落とした後、リュックサックを漁ってクレンジングオイルを発見する。それで手を洗おうとしたところで、どこで洗ってよいのかが不明であることに気が付く。


「うーむ。これ、排水溝に流しても良いのかね」


 ああ。先に聞いておけばよかった。脱衣所にはこのままの姿では入りたくない。勿論外まで養生はしているが、出来るなら少し綺麗になってから出て行きたいところだ。


 そうしてまごまごしているうちに、脱衣所にかなめとおかみさんがやって来る。おかみさんの両手には水の入ったコップが握られており、かなめの手には山盛りのおにぎりが鎮座する大皿がある。


「どうした?……って、そうだよね。その状態何とかしないとか」

「……涼ちゃん、あんた」


 大皿を洗面台に置いた後で私に駆けよるかなめと、入り口で立ち尽くすおかみさん。


「ここで手を洗って良いのかなーと。それとも違う場所?」

「ああ、出来ればボイラー室の方が良いかな。いまドアを開けるから付いて来て」

「了解。おかみさん、手を洗ってきまーす」


 私はかなめの後を追い、ボイラー室へと入ってゆく。見たことも無い機械から伸びる配管が複雑に絡み合い、不思議な世界観を作り出していた。


「今お湯出すから少し待ってて」


 きょろきょろとあたりを見回す私を尻目に、かなめは湯沸かし器のボタンを押し、そこから伸びる蛇口をひねる。すると、直ぐに湯気を上げるお湯が、取って付けたのだろう四つ足のシンクの中に勢いよく流れだした。


「ありがと。お借りします」


 私はそう言うと、クレンジングオイルを手に付けながらゆっくりとそちらへ向かう。クレンジングオイルはそれなりに頑張っているらしい。ペンキがある程度浮き始める。それを確認して、もうもうと湯気を立てるお湯に手を突っ込んだ。


「……めっちゃ気持ちいい」


 集中していたため、気付かなかったのだろう。ほぼ外の温度と変わらない浴室でずっと作業をしていたためか、相当手が冷えていた様だ。縮んでいた血管が広がってゆく、痒みと痛みが混じる感覚と、 絶妙な湯温に体が融けていくような感覚が同時にやって来る。


「あー、袖まくって!かかるかかる!」


 手を洗っているのか、暖を取っているのか分からなくなっている私の様子を見てだろうか、かなめが慌ててやって来る。おかんかお前は。


「そんなこと言ったって、手にペンキついてるんだもん」


 それを見て少し面白くなった私は、少し子供っぽく言ってやる。


「今やるから!一寸手を出して!」

「はーい。やって」


 慌てたように促すかなめに私は大人しく両手を差し出す。案の定、袖口は大分濡れていた。


「ああ、もう。これ、そんなに汚くないから我慢して」


 それを見て溜息を吐いた後、かなめは配管に干してあったタオルを手に取ると、広げて汚れが無いことを見せてくる。正直な所、私の手の方がよほど汚れている。


「気にしないよ」

「じゃあ動かないでよ」

「はーい」

「子供か!?」


 かなめはぶつぶつ言いながらも、タオルで袖口に付いた水気を一通りふき取った後、何回か袖を折る。その時に触れた指先はまるで氷の様に冷たかった。


「ありがと。かなめも手が冷えてるから一緒にお湯で温めたら?」


 もしかしてこいつもずっとあの場所にいたのだろうか?外とほぼ変わらない気温のあそこに。風がない分、随分とマシではあるが。


「ん?ああ、そう言えば随分と冷えてるな。触れた時冷たかっただろ、ごめんごめん」

「……いや、それは別にいいんだけどさ。寒くないの?」

「え?気付かなかったわ」

「……かなめも変わってるね」

「おいおい、涼と一緒にしないでくれよ」

「いや、結構変わってると思うけど」

「……マジ?」

「マジ」


 途中からマジなトーンで話す私に気が付いたのだろう。かなめは少し傷付いたような表情で聞き返してくるが、何を勘違いしているのだろうこいつは。三助なんて言うマニアックな職業を選んだ挙句、この私に仕事を依頼してきているのだ。一寸どころではない位に変わっている。


「……おかしいなぁ」


 まるで自覚のないかなめは無視をして私はしっかりと手を洗ってゆく。なかなかペンキが落ちないとぐちぐちいう私と、おかしいなぁを連呼するかなめ。

 首を傾げながら蛇口から流れるお湯に両手を突っ込む大人が二人。傍目から見ればさぞ愉快な光景だろう。


「ま、こんなもんで良いか」


 もう少し、お湯の暖かさを感じていたいところだったが、おかみさんを待たせるもの申し訳ない。さっとお湯から両手を引き抜くとプラプラとその他を動かした後、ペンキで汚れていないパンツの部分でさっと水気を切る。


「タオル!タオルがあるよ!」


 それを見咎めたかなめが声を上げて折り返したタオルを手渡してくる。


「別に大丈夫だってば」

「良くない!服が濡れてたら風邪ひくぞ!」

「……まぁ、確かに」


 少しひんやりしている太ももの裏のあたりは、きっと作業に戻れば冷たい風でそれなりに冷えるだろう。相変わらず気が回る男である。


「拭いてー」

「それは自分で拭け」


 タオルを差し出してみるも、素気無く返されてしまうため、仕方なく自分である程度拭き終わるとまだ手を拭いていないかなめに返した。


「……まぁ、最初よりだいぶましになったかな。おかみさん待ってるから戻ろうか」

「ん。そうしよう」


 そうして私たちがボイラー室のドアを開け浴室へと戻ると、私の描きかけの絵を眺めているおかみさんを発見する。


「お待たせしました。それ、すごいでしょう?」


 それは勿論かなめも同じで、おかみさんの近くまで歩いていくと、まるで自分が絵を描いたとでも言うように、自慢げな声でそう言った。


「あぁ、これは凄いね。思わず見惚れてたよ」

「俺もです。ここまであっという間の時間でした」

「……だろうねぇ」


 そうして私を置いて始まる会話だが、悪い気はしない。声色から、本気で言っていることが感じられるから。でも、今やるべきことはそれじゃあない。


「とりあえず、おにぎり食べたい」


 私はその二人の背中に思っていることを伝えると、あきれ顔が二つ同時に振り返ってくる。


「……お前、情緒が無い奴だなぁ」

「こんなすごい絵なんて、この田舎じゃ中々お目にかかることなんてないんだからね」

「その絵はまだまだ完成してないからね。未完成の絵を褒められても嬉しくないんだよかなめくん。それに完成したら毎日だって見れますよ、おかみさん」

「……確かに。涼の言う通りだな。申し訳ない」

「うーん、涼ちゃんも頑固そうだね。かなめちゃん、尻に敷かれそうだけど大丈夫?」

「え?意味が良く分かりませんがね、おかみさん」


 もう少し食事が始まりそうもない二人は無視をして、私は山盛りおにぎりの上のサランラップを外し、一つ目に齧り付いた。

裸の大将に見えてきた

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