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菅野涼の追憶15 男湯に描く

 さて、男湯の養生が終わった。うっかり忘れていた脚立はかなめが用意をしてくれた。何とも詰めの甘いことだ。我ながら嫌になるが、始めての仕事と言う事で何とか許してほしい。ごめんなさい。これがふじの湯でないのならば、叩き出されていたかもしれない。反省一つ。

 だけど、準備ができたならここから先は私の仕事だ。幸い壁面はタイル加工ではなく、平面で出来ている。しっかりと掃除をされていて、カビ一つ見当たらないのはそこの男の努力の証なのだろう。


 頭に叩き込まれている予定の構図を、もう一度スケッチブックと見比べて確認を行う。何百回と繰り返したスケッチのお陰で、頭の構図と寸分の狂いがない。

 私はだが、絵とは構図がほぼ全てだと思っている。それを決めるまでに悶々としていたが、何とも楽しい時間を過ごさせて貰った。


 透き通るような青空は、あの時に見た羊蹄山を望む秋の空。高く、ただひたすらに高く天を望むように。遠方は淡く、透き通る様に心掛ける。

 天頂には絹で出来たヴェールのように、細く、優しい雲を描こう。溶けてなくなる様な薄い、薄い雲を。それは地平線に近くなるにつれて、力強さを増し、やがて一つの塊となるように。

 中央には富士山を。やや右に寄せてしまうのは、浮世絵を見過ぎた所為だろうか?モチーフは羊蹄山。私はあの雪を頂く、凸凹とした山肌が描きたい。自然が生み出した力強さをそこに刻む。多少実物とは趣が変わるかもしれないが、これは私だけの、私が描く富士山だ。

 富士山の裾野を描いた他の作品は、良く水面みなもが採用されている。特にペンキ絵ではそれが顕著なようだった。なるほど。富士五湖であったり、逆さ富士が見事であるとかの理由もあるのだろうけど、私が選んだのは向日葵だ。空の色と反対色に近い関係だが、どちらかと言うとその効果は余り狙っておらず、向日葵を描くのが単純に好きだからだ。いつか見た、あの向日葵畑を描きたい。

 空に浮かぶ雲との関係を見てみると、やや季節外れなのかもしれないが、私は私が描きたいものを描く。それが絵の良いところなのだから。

 そして、遠景には松の木を多少添える。多少欲張りだが、昔見たはずのペンキ絵を、少しでも思い出してほしいという、私なりの小さな願いを込めて。

 影を描こう。光が落とす影。それを探すのが私は好きだ。それを表現するのが私は好きだ。影があるということは、そこには必ず光があるということだから。


 脳裏に完成した絵を思い浮かべる。狂いはない。迷いもない。大丈夫だ。


 足元のペンキが入ったケースにローラーを浸す。たっぷりと染み込んだそれを、腕を高く挙げて壁面に押し付ける。随分と練習をしたはずだが、やはり使い慣れた筆と比べると扱い難い。ムラには十分注意をしながらひたすらに腕を動かす。


 たったそれだけの事で、背中に恐ろしい程の震えが走った。あぁ、今、私は描いている。


 鮮やかな青色に染まった壁面を、暫く呆然と見つめる。頭がどうにかなりそうだった。渦巻く感情でどうにかなってしまいそうだ。

 落ち着け。まだ始まったばかりじゃないか。そう自分に言い聞かせるが、どうやら身体は聞き入れてくれそうにもない。


 必死に奥歯を噛み締めながら、一心不乱に青のペンキを塗ってゆく。キャンパスを準備する様に。先ずはグラデーションは考えない。一面の青を表現しよう。コントラストを産み出すのが難しいことは分っている。


 ああ、いちいち脚立を動かすのも、もどかしい。そんな気持ちが伝わったのだろうか、かなめが不意にやってきて、脚立を動かす手伝いをしてくれる。思わずその顔にキスをしそうになってしまった。やるじゃないか。だがそんな暇はない。


 頭の中の富士山のシルエットを残して、大方の空が塗り終わる。挙げっぱなしの両腕が既に若干の悲鳴を上げているが、そんなものを気にしている時間はない。

 続けて別のローラーを使い、冠雪の富士山を描く。水彩画とは違い、滲み重なる表現は使えない。なので、筆のようにとまでは行かないが、力強さを表現できるようローラーの角度を変えながら、一思いに腕を振る。その後はあのすそ野を描いて行く。なだらかで優雅な曲線を。生命力が溢れる緑の色で。


 浮かび上がる富士の形を一度見るために脚立を降りる。浴槽を乗り越え、浴室入り口付近まで歩きながら全体像を確認すると、そこまでのズレは感じない。直ぐに脚立の上に戻ると作業を再開する。

 絵は中央からその下へ。地平線近くまでやってきた。ここから先は一面の向日葵畑を描いて行く。きっと際限ない作業になる。その前にやれることをやってしまおう。


 私はもう一度脚立から降りると3㎝程の幅の刷毛を何本か取り出す。ここからは更に集中が必要だ。


 刷毛を手に、もう一度脚立へと上がってゆく。空のコントラストを作るためにペンキを混ぜ、刷毛に乗せる。一度深呼吸をして、少し吐き出した後で呼吸を止める。

 刷毛を握る手がぶるりと震え、直ぐに止まる。青いキャンパスの様な空へ刷毛を走らせる。ペンキが足りなくなると、刷毛をそれに浸す。足りなくなれば継ぎ足し、また腕を動かしてゆく。油彩の知識と経験と技術が足りない。もどかしい。あの時学校を辞めていなければ。そんな雑念を振り払い刷毛を走らせる。


 空にコントラストが徐々に生まれる。それは完全に予想通りとはいかなかった。私の技術が至らないばかりに。だが、立ち止まる暇はない。

 速乾性のペンキは既にある程度乾いていた。そこに雲を描いて行く。余り色を重ねられるわけではないので、ここからは一発勝負だ。

 天井に近い部分は刷毛の先を割り、ペンキは薄く掬い、絹糸の様に細く線を引く。陰影が産まれる様に何度もペンキを混ぜ合わせた。

 地上に富士山に近づくにつれ、雲は徐々に密度を増すように濃く、力強く描いて行く。自身が落とす影は次第に濃くなり、表現のために混ぜ合わせるペンキの数も増えてゆく。使う刷毛の数も幾つか増えた。


 あぁ。私は今、生きている。

 ふじの湯に、ペンキ絵を描いている。


 間違いなく私は現代の社会にとっての不適合者だ。それは自分が一番わかっていた。変わりたいと思っていたが、そう簡単に人間は変われない。

 果たして、人知れず絵を描き、誰にも見られず、何も残せず、やがて老いて死んで行く私は、生きていたと言えるのだろうか。そんな焦燥感に追われて生きていた。一度コンビニでバイトをやってみたこともあったが、どうやら私には接客や品出し等と言った、よくある仕事すら向いていないらしく、使用期間を終えることなく僅かばかりの賃金を手渡されて辞めさせられた。「顔は良いのに」と言う言葉にむかついて、一寸ばかり暴れたところ警察沙汰になったため、両親から「無理をして働かなくても大丈夫」と言われたのが地味にショックだった。そんなにダメ人間か、私は。……うん、その通りだろうけども。


 雲を描き終わり、一度脚立から降りる。全体を見ようとして浴槽を乗り越えようとすると、ぽかんと大きな口を開けたまま、私の後ろを見上げているかなめがいた。


「まだいたの?どうだい?問題無さそう?」


 銭湯と言う所は案外声が反響する。リバーブする私の声が届いていないのか、かなめは身じろぎ一つせずに、私の描きかけのペンキ絵を見つめていた。


「ねー、どうしたのさ。ご依頼主の感想聞いてみたいんだけど」


 なので、浴槽を乗り越え軽く肩を叩くと、混ざり合ったペンキが着ているコートにべったりとついてしまい、思わず「あ、やべ」と声が出てしまう。


「あ?ああ。どうかした?お腹減ったの?」

「おい」


 かなめのあんまりな言葉に私は肘でお腹のあたりを小突いてみると、やっぱりコートにペンキが付いた。気付いたらどこもかしこもペンキ塗れになってるじゃないか、私。


「か・ん・そ・う・は?このまま進めても良いかい?」

「ああ、勿論。このまま涼のやりたいように進めてくれ。しかし凄いな。凄いよ」

「あ、そう。ありがと」


 かなめの視線はちらりと私を見た後、直ぐにペンキ絵の方へと向いてしまった。途中ではあるが、ご依頼主のお眼鏡には適っているようで一安心する。そこで少し集中が解けてしまったのか、思わずお腹が鳴ってしまう。


「……やっぱりお腹減ったんでしょ」

「やっぱりとは何だね。やっぱりとは」


 思いの外響いてしまった、お腹の虫の音を聞いたかなめがもう一度此方を向く。


「どうやら涼の腹時計は優秀みたいだね。そろそろ12時になるよ」

「私を食いしん坊キャラにするな」


 流石、みたいな顔をして腕時計を見たかなめが声を掛けてくるので、私は眉間に皺を寄せて反論する。


「えぇ?それ本気で言ってる……?」


 どうやら向こうも本気でそう言っているようで、驚いた顔をしていた。

涼はただの変な人じゃないんだよ!

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