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菅野涼の追憶14 さぁ、始めようか。

 大晦日の朝、おやじさんの作ってくれたレバニラ炒めとみそ汁を頂いた。ニシン漬けと言う漬物が大量に盛り付けられた大鉢は、いつの間にか食べ切ってしまっていた。とにかく何もかもが美味しかった。これからの作業に向けて弾みがついた。

 その後でお風呂を借りて軽くシャワーで汗を流させてもらうと、既に時刻は8時半を少し回っていた。リュックサックとユーラシアトランクを持ち、お世話になった二人にお礼を言うとふじの湯へ向かうことにした。


「昼は何がいい?」


 その背中におやじさんのぶっきらぼうな声が掛けられる。ここまで来たなら遠慮はしない。後は仕事で返すだけだ。


「多分時間がないからおにぎりが欲しいです」

「分かった。昼前にはこいつが持っていく」

「沢山握っとくよ」

「ありがとうございます!」


 玄関の前で振り返り、頭を下げた後で向かいのふじの湯に向かう。シャッターは既に上がっている。空を見上げると薄曇り。雪は降っていなかった。

 道路を一本渡り、ふじの湯に到着。玄関を開けると靴が一足外を向いて置かれている。私はその隣に汚く靴を脱ぎ散らかすと、ユーラシアトランクの車輪の雪を払い床の上に持ち上げた。


「おはよう。待ってたよ」


 玄関の開けた音が聞こえたのか、かなめがやってきてユーラシアトランクを休憩室の方へと運んでゆく。それについていくと、暖かい空気が出迎えてくれた。


「おはよう。今日はよろしく。全力を尽くすよ」


 休憩室で向かい合う。挨拶をして右手を差し出すと、かなめは少し時間を置いた後その手を握る。昨日まぁまぁビールを飲んでいたけれども、二日酔いの様子は見られない。アルコールにそう強くない私なら昼頃まで寝ていたかもしれない。


「婿さん、……えーと、社長からは好きにやってくれと言われている。脱衣室のアレが随分とお気に入りみたいでね、何も心配してないみたい。だから俺からもお願いするよ。絵のことは分らないから注文はしない。ただ常連の皆が喜ぶようなペンキ絵を描いてくれたらありがたい。それと、社長が菊さんに確認して昔ながらの依頼料も用意してくれたから。とは言え、初めての仕事ってことで少し相場よりは安いみたいだけどもね」


 そう言うかなめは何時もとはちょっと違う、三助と言う職業として、このふじの湯を愛しているのだろう職人としての顔をしていた。この前とは違う、少し挑まれるような表情に思わず口角が上がってゆく。


「任せておいて。二か月間この事だけを考えて生きてきたから。本当はお金なんていらないんだけど」

「駄目だ。仕事を依頼するんだから報酬は必要だよ。その代わり、涼はその仕事に対する責任が発生するよ。まぁ、契約書なんてものがない口約束で悪いけど。……格好付かないなこれ。契約書今からでも作るかい?」

「あは。時間が勿体ないから別にいいよ。でも、口約束から始まったのが嘘みたいだね。勿論、ダメならダメと言ってくれれば何度でも描き直すから遠慮なく言ってね。そんなことは言わせないけど」

「それは心強い。じゃあ始めようか。中は換気のため窓を開けてるから寒いよ。休憩室は暖かくしてるから、時々こちらで温まってね」


 何時もの顔に戻ったかなめはそう言うと、ユーラシアトランクを引っ張りながら男湯の方へと入って行った。私はその背中を追って、男湯へと向かう。


 さぁ、始めようか。

銭湯でのペンキ絵、とてもお高いようですね。

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