菅野涼の追憶13 戦の前に
「涼ちゃん朝ごはん出来たよー」と言うドア越しから掛けられた声で、わたしは目を覚ました。寝惚け眼で壁に掛かった時計を見てみると、既に7時を少し回っていた。
昨夜はおかみさんと話し込んでしまい若干寝不足気味ではあるが、暖かい布団で眠れているため、すこぶるコンディションは良い。見つけてもらったことに本当に感謝しかない。
「おはようございます、起こしてもらって有難う御座います。今行きます」
着の身着のままで就寝した私の朝の身自宅は早い。ごしごしと袖でよだれの跡をこすり落とすと布団を畳み、ドアを開ける。そこにはあきれ顔のおかみさんが腰に手を当てて立っていた。
「涼ちゃん、あんた綺麗なんだからもう少し何とかしないの?寝癖も酷いことになってるじゃないか」
「あ、いえ。私この顔それほど好きじゃないので」
「……そうかい。勿体ない気もするけどねぇ」
聞かれようによっては嫌味になるだろうことは理解しているし、自分の顔の事は何よりも良く知っている。が、昨日おかみさんに話した美大時代の話をしていたからだろうか。何とも微妙な顔をして溜息を吐いていた。
「ま、取り敢えずは顔洗っておいで。洗面所は向こうだから。終わったら下においでよ。とうさんが朝から張り切って色々作ってたわ」
「分かりました。ありがとうございます!」
既に下から美味しそうな香りが漂ってきている。それが胃を刺激して大きな音が鳴る。それを聞いておかみさんはにっこりと笑う。
「ふふふ。冷める前においでよ」
「はい!」
おかみさんは笑みをこぼして下へと降りてゆく。私は教えられた洗面所へ行くと用意された洗面用具で顔を洗う。冷水が意識を覚醒させ、不意に体中に震えが走る。
そうだ。私はこれからペンキ絵を書くことが出来るのだ。待ちに待ったペンキ絵を。随分と鈍ってしまった自分がどこまでやれるのかは分からないが、それ相応の準備は行ってきたつもりだ。水彩の方が得意ではあるが、油彩、特にペンキでの練習も繰り返した。構図は既に頭の中に叩きこんでいる。不安はキャンパスとなる壁面の大きさだけだ。もしかすると、足りないのではないかとすら考えてしまっている。
今の自分に出来る全てをそこに塗りこめてやる。そして出来ればそれを見たかなめに喜んで欲しいと考えてしまっているのは、昨日のやり取りの所為だろうか。首の後ろのあたりを熱が帯びるのを感じる。
「……あはははは」
思わず笑いが込み上げてくる。鏡に映った顔は、とても他には見せられない。
この体に溜まり、溜め込んだ物が漏れ出している。溢れ出している。濁りに濁った物が。ドロドロしたヘドロの様な感情が、行き場を求めて渦巻いていた。私の中に、もう少し可愛いものがあっても良いとは思うが、残念なことに今のところは売り切れているらしい。
「楽しい」
ぽたぽたと洗面台に落ちる雫を眺めながら、思わず感情が言葉となって口から漏れ出した。
「まぁ、でも」
戦の前には食事が必要だ。腹が減っては戦が出来ぬ。お腹が減った。
私は濡れた顔と前髪をふかふかのタオルで拭きあげると、香りのもとへと向かうことにした。
朝ごはんを食べよう。




