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菅野涼の追憶9 あずきバー

 一年越しのふじの湯につかると、思わずうめきにも似た声が漏れてしまう。今日は変わり湯ではないようで、少しだけ残念だったが仕方がない。

 男湯とを隔てる壁の向こうからは湯の流れる音と、和やかな談笑を続けるかなめの声が聞こえてくる。勿論目の前には私の画いたペンキ絵が堂々と鎮座していた。


「そう言えば涼ちゃんがふじの湯に入るのあの時以来よねぇ」


 隣で湯につかるタミ子さんが、わたしの顔を見ながら間延びした声で話しかけてくる。その気持ちはよくわかる。何だかんだやはり湯につかるのは良いものだ。全身が弛緩して、水性絵の具のように湯の中に溶けていくような気持ちになる。


「ですね。あの時は皆さんに随分と玩具にされましたっけ」

「そうねぇ。あの時の涼ちゃん捨て猫みたいだったから」

「捨て猫ですかぁ。そんなに可愛いものではないと思いますがね」

「なーに言ってんの。ちゃんと洗えば可愛くなったじゃない」

「皆さんからお洋服まで貰っちゃって。本当に感謝しています」

「遠慮しない子がみんな好きなのよ。孫とかも札幌とかに行っちゃって会えないじゃない?そんなところに涼なんかが来たら楽しむしかないじゃない」

「私も遠慮しない性質ですけど、皆さんも遠慮しないですよね」

「田舎のばばに怖いものなんてある訳無いでしょ?何年生きてると思ってるの」

「……皆さんには勝てませんね」


 額に浮いてきた汗を掌で拭いながら思わず笑ってしまう。この町の方々は本当に人が良くて、気持ちがいい。


「それにしてもLINEであんなこと言ってくるから驚いたじゃない」


 後ろから簑浦さんの少ししわがれた声が聞こえてくる。


「うへへ。皆さんにはご協力頂き誠に感謝申し上げます」

「でも涼ちゃんなら流しを頼むのかと思ったらその逆で、『ふじの湯いくから流し頼まないで下さい』なんて可愛いところあるじゃない」

「一応こんな私でも乙女心を持っておりますので。見せつけるのはお家だけにしておきます」

「あーらもうそんなこと言っちゃって。おばさん後でよく効くドリンク持っていくわぁ」

「ご馳走様です!有難く頂きます!」


 簑浦さんがそのドリンクを有効活用しているのか、効果はあるのか等、一寸した疑問は浮かんだが、それはひとまず置いておく。後で実際に試してみればよい事だろう。


「それにしてもかなめちゃんと一緒に帰りたいからふじの湯に入りに来るってねぇ。幸せ者じゃない、かなめちゃん」

「本当に感謝してもらいたいものです。あのばか私の事待たせすぎなんですよ。お陰で30歳になっちゃいました」

「涼ちゃんも30歳なのねぇ」

「こんなですが30歳になりました」

「でも随分と立派なことやってるじゃない。最近は忙しいんでしょ?」

「お陰様で公園で寝ることは無くなりましたね。有難い事です」

「もうあんなことしちゃだめよ?」

「ええ。もうしていません。時々やりたくなることはあるんですけど」


 あの野良犬みたいな生き方が今は不思議と懐かしい。あれからまだ一年一寸しか経っていないというのに、随分と生活が変わってしまったものだと感慨深くなる。勿論、今の生活はとても満足しているのだが、知らない人に会い、知らない景色に出会うことが出来るあの生活も悪くは無かった。危ない目に合うこともあったが、得られるものも多かった。

 傷心を埋める、両親からの一寸重い期待の視線から逃げるためと言う、少し後ろ向きなり理由から始まったあの旅の終着点が、ここにあったのだから。


「あぁ、気持ちが良かった」

「涼ちゃん上がるのかい?」

「ええ。まだ入っていたい気もしますけど、そろそろのぼせちゃいそうです」

「上がったらアイスでも食べながらゆっくり休みなさいよ」

「分かりました。パインアイスでも食べようかなぁ」


 すっかりと芯まで温まった体を浴槽から上げると、上がり湯をシャワーで浴びた後に脱衣場へ向かう。バスタオルで体を拭き着替えた後、籐の椅子に座り扇風機の風を受け新たな天国を感じていると声を掛けられる。ああ、なんと素晴らしい環境だ。皆さんが銭湯を入り浸るのも分かる気がする。幾らでもボーっとしていたい。と言うより、既にしているが。


「涼ちゃんこれあげる。のぼせたの?涼むわよ」


 背後から掛けられた声に振り向くと、その手にあずきバーを持ったコンビニオーナー佐藤さんの奥さんが笑っていた。


「わぁ。ありがとうございます」


 それを有難く頂き、霜の付いた袋を開ける。小豆色のそれにかぶりついてみるが、やはりまだ歯が立たない。やっぱ最硬は伊達じゃない。


「それ噛んじゃ駄目よー。ほら、向こういってマッサージチェアにでも座って休みなさい」

「はーい。分かりました!」

「かなめちゃん上がって来るの多分10時過ぎだからね。それまで寝てると良いよ」

「了解です!」


 その言葉に弾かれるように立ち上がり、私はリュックサックと歯型が付いたあずきバーを手に脱衣室を後にした。

あずきバーは定期的に食べたくなる。

自分の歯の健康を試したくて。

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