菅野涼の追憶8 蝦夷富士
ふじの湯の玄関をくぐると、先ず番台で気持ちよく眠っている菊さんの姿が目に入る。入湯料を番台に置き、常連さんに向かって人さし指を口に当てるジェスチャーを送ると、親指を立てるジェスチャーを返された。
鼻歌交じりで女湯の暖簾を潜ると、この前とは違ってご婦人たちが脱衣所で、おしゃべりを楽しんでいたり、昔ながらのドライヤーで髪を乾かしているのが目に飛び込んでくる。その内数名の常連さんが私に気付きこっちに向かってきた。
「あら、本当に来たのねー。今どきの子は度胸あるのねー」
「うへへへへ。私ははただお風呂に入りにに来ただけですからねぇ」
「そうねぇ。ここ銭湯だから誰でも入れるものねぇ」
「でしょう?」
悪い顔をした常連さん達は次々と私を小突き、元の位置まで戻ってゆく。私は近くの籐の椅子に座り、洗面台に描かれたペンキ絵を眺める。
何の知識もなく描いたそれは、まだ拙く今見ると恥ずかしい。でも、あの約束を取り付けたそれは不思議と誇らしい気持ちになる。
そして、ふと浮かんでくるのは一つの記憶。
あのペンキ絵を描いた後、私は一度札幌に向かった。少なくなった旅費を稼ぐためだ。勿論、多少の貯金は用意してはいたのだが、あの時の私はそれを使うのは何となく負けた気がしていた。なんせ、元手は両親から貰ったものだから。
札幌に着いた私は寒風が吹くアーケード、狸小路の隅っこで、似顔絵やそれまで描いた風景画などを並べていた。結局、人通りは多いもののそれほど稼ぐことは出来なかった。顔を見て声を掛けてくるナンパ野郎の方が多かった位だ。
私は自分のこの顔が本当に嫌いだ。誰も私の事を見ずに、顔だけを見ている。見てほしいのは、私の絵だと言うのに。それだけが私であるのだから。
元手のない商売で、寝泊まりに金を使わない私はそれなりの時間を掛けることで、ある程度の旅費を稼ぐことが出来た。旅費と言っても往復の交通費だけではあるのだけれども。地下鉄や地下街など、夜でも暖かそうな場所があったが、残念ながら夜間には叩き出されるので、マンガ喫茶にお世話になることが多く、予想より時間が掛かってしまったのが口惜しい。札幌のお巡りさんは優秀過ぎた。後清掃員さんも。
それでも私が見てみたかったのは、蝦夷富士とも呼ばれる羊蹄山。そこに行くためになけなしの旅費を奮発して、片道2500円しないバスに乗った。
長い事バスに揺られ、辿り着いたのは倶知安という町。既に目的の羊蹄山は車内からも見えていたが、改めて見たその山は蝦夷富士と呼ばれる名前の通り雄大で、その頂から中腹にかけて真っ白な雪が夕日を浴びて茜色に輝いていた。
富士山の半分以下の標高である羊蹄山は、その山肌に深く刻まれている血管のような凹凸が地上からより近く見えることもあり、私が見た富士山よりも迫力と、ディティールを感じることが出来た。
まるで灯りに誘われる蛾のように、私はフラフラと羊蹄山がよく見える場所迄歩き出していた。その姿を脳に刻み込めるように。魂にまで焼き付けと。
……その結果、私の描く富士山の何割かはこの蝦夷富士になってしまったのだけれども。例えば、その頂に冠する万年雪はあの時に見た蝦夷富士のものだ。まぁ、不評ではないので良いことにしている。
そんな事を思い出してしまったのは、あの夢が私を一寸ばかしセンチメンタルにさせてしまったからだろうか。
結局、あの日はプライドを捨てて両親から貰った旅費を引き出し、駅前のホテルに連泊をした。そして次の日1日はただひたすらに羊蹄山をスケッチした。狂ったように。
そして、一度捨てたプライドは何度でも捨てることが出来る。私は明くる日JRに乗ると、新千歳空港に向かい一度実家へと戻ったのだ。存分にお金を使い。
突然の帰省に驚きながらも喜んで迎えてくれた両親に頭を下げてお金を借り、無駄な時間を使わずに山を見に行った。博物館へ行った。美術館にも行った。図書館へ行き、ペンキ絵について調べてみた。意外と歴史が浅いことにも驚いた。ペンキ絵についての蔵書が少ないこともあり、富士山で有名な浮世絵等を調べる羽目になった。全く知らなかった世界が次々と開いてゆき、頭がパンクしそうになったが、元々少し頭がおかしい私のことだ。余らせたままのエネルギーが、そこに向かって収束していくのを感じた。
ああ、私はなんて無駄な時間を過ごしていたのだろうか。そう思う所もあったが、いや、待てよともう一人の自分が声を掛ける。今考えればあの無謀の一人旅も、悪夢の出来事も確かに私の血肉となり、こうして無様にでも空に飛び立つための羽となり、翼とすることが出来たのだろう。その道標を作ってくれたあの男の困り顔を思い浮かべる。
「ふふ」
思わず笑い声が漏れ、意識が覚醒する。目の前にはふじの湯の洗面所に画かれた、私の拙いペンキ絵がある。時計を見ると、トリップしていた時間は思っていたよりも僅かだったようで安心する。
早くかなめの驚いた顔が見たいとばかりに、私は行儀悪く服を脱ぎ捨てた。
涼さん修行編。




