菅野涼の追憶5 瘡蓋
最近は自分の部屋のように思えるかなめの部屋で、私はスケッチブックに向かって鉛筆を走らせている。この休暇の暫く後の仕事で描く予定のペンキ絵のラフ画だ。デザインはお任せではなく、桜が舞う富士の絵とのこと。構図については未だしっくり来ていない。破り捨てられたスケッチブックだったものが、床に散乱していた。
ちゃんと拾っておかないと後で怒られるのは確定しているのだが、少なくともそれは今では無い。そう思いながらも暫くの間腰掛けるベッドから動くことが出来ていない。あともう少しで良い所まで行けそうな感じがしているのだが、その切っ掛けが掴めないでいる。それがもどかしく、神経を逆撫でる様に苛立たしい。その原因は分っているのだが。
その後も暫くスケッチブックに向かっていたが、結局のところ結果は芳しくなかった。あの夢を見た次の日はこうなることが多いのだ。目が覚めた時にかなめがいてくれたのは本当に助かった。
「ああ、クソ。乗らないなぁ」
スケッチブックと鉛筆を床に放り捨て、私は空いた指で髪の毛を掻きむしる。数本の髪の毛がベッドに落ちてしまい、それを指でつまむと立ち上がりちゃぶ台の隣に置いてあるゴミ箱を目指す。そこで、お腹が派手に鳴り何も食べていなかったのを思い出す。
「……そう言えば何も食べてなかったか」
ふと時計に目をやると短針は4の文字を少し過ぎている。布団の魔力に何とか打ち勝った後はそれなりに集中できていたらしい。空腹に気付かない位には。
「ご飯食べるかぁ」
そう独り言ちて冷蔵庫を開けると、大皿には千切りのキャベツの上に大量に乗ったチキンソテーが鎮座しているのを発見する。味付けは塩胡椒で私の好みで作ってくれている。冷たく冷えているそれを手に取るとレンジの中へ入れてボタンを押す。ブーン、と言う音を確認した後はコンロの上に載っている鍋に入っているみそ汁に火を掛ける。蓋を開けて少しゆすってみると、何時も通りのわかめが少しだけ浮かんできた。
「いい嫁になれるよかなめ君」
思わず緩む頬に気づいて「ガハハ」と声を出して笑う。誰も見ていない筈なのに、何となく恥ずかしくなってノリでやってしまった。少しだけ顔が熱いが、空腹を激しく訴え始めた私の胃に我に返る。
戸棚から私のお茶碗(どんぶりとは絶対に言わないよ)を取り出し、炊飯器の蓋を開けるとしゃもじでごはんをしっかりと詰め込んでゆく。それをちゃぶ台の上に置いた後、少し温まったみそ汁をよそい箸を手に取るとちゃぶ台の前に座る。
「いただきまーす」
今頃は汗を流して労働にいそしんでいるだろうかなめに向かって手を合わせた後、温めの味噌汁でごはんを頂く。うん、美味しい。味の素は全くもって最高である。かなめの作る料理は薄めの味付けなので、おかみさんの所に比べるとやや物足りなく感じることもあるけれど、おうちで食べるのならこれくらいの方が良いのかもしれない。
そのまま、半分ほどごはんを食べているとレンジでの温めが終わったようなので、口の中の物を飲み込んだ後に立ち上がる。そう言えば飲み物も無かったなと思いながら、台所でコップに水を入れて一口飲んだ後レンジの大皿を手にすると予想通り完全には温まりきっていない。それでもいいかと思いながら、大皿と水の入ったコップを持ちながらちゃぶ台へ急ぐ。
「改めていただきまーす」
薄めの味付けのチキンソテーを食べながら、ふとやって来る物足りなさに一つ溜息を吐く。きっと、薄めの味付けだけが原因ではないはずだ。前にかなめが言っていた、私の入れるコーヒーが美味しいと言ってくれるのは、きっとそう言う事なのだろうから。あのあほは気付いていないようだけど、それ位は自惚れても良いだろうさ。
まぁ、ニヤニヤしながら箸を進めているとあっさりと目の前の大皿は綺麗さっぱり姿を消していた。勿論炊飯器の中のお米も空っぽだ。後は食後のコーヒーでも淹れようか。
食器を重ねてシンクの中に置いてから、水切り籠からコーヒーケトルを取り出すと中に水を少しだけ入れ、コンロの上に置き火を掛ける。直ぐにお湯が沸くはずなので、その間に食器を洗ってしまう。
食器を洗い終わるころ予定通りにお湯が沸きかける。掛かってあるタオルで急いで手を拭くと冷蔵庫からコーヒー豆を取り出す。挽くのは面倒臭いので、挽いてある方の奴を。
フィルターも洗うのが面倒なので紙の物をセットしてやや濃いめの量で豆を入れ、私のマグカップの上にそっと置いた後で蒸気を吹き出しているコンロの火を止める。そうしてコーヒーケトルでハンドドリップ。コーヒー豆を蒸らす時間を長めに取るのが何時もの私のやり方だが、今はパス。早めに濃いめのコーヒーを飲みたいのだ。
くるくると円を描きながら細長い熱湯が、フィルターにセットされたコーヒー豆に注がれる。蒸し時間を少しだけ取った後、再び熱湯を注ぐとマグカップの中にコーヒーが溜まってゆく。その香りを嗅ぎながら私はコーヒーケトルをコンロに戻した。
コーヒーが溜まってゆく水の音を聞きながら、シンクに腰を預けて目をつぶる。脳裏に浮かぶのは、昨日の夢。私の心の、記憶の瘡蓋。もう気にもしていない筈なのに。
かなめちゃんは嫁




