菅野涼の追憶 1 はじめの一歩を
ふと足元に寒さを感じて目を覚ますと、どうやら足癖の悪い私が布団と毛布を蹴飛ばしたせいで、半分ほどが捲れ上がってしまっているからの様だ。両腕はかなめの首に巻き付けているため、仕方なしに両足を駆使して何とか毛布だけは救出に成功する。
しかし、その毛布は未だ温まっていないため、冷え性の私は足をもぞもぞと動かし、行儀よく布団の中に収まっているかなめの足に密着させる。すると、冷え切った私の足を突然くっつけられたかなめは一瞬身じろぎしたが、どうやら起きることは無かったようだ。なので、遠慮なく私は自分の足をかなめの足に絡みつけた。それでも目を覚ますことは無いようで、ほっとしたような、少しだけ残念な様な気持ちになる。
なので、今度はその無防備な寝顔目掛けてキスをする。残念ながら、体勢の所為で唇には届きそうもないため、すぐそこにある頬になってしまう。
先ほどまでの汗の所為で少しだけ塩っぽいが、不思議と不快感は無い。何度か繰り返していると両腕が伸びてきて抱きしめられてしまい、残念なことに強制的に止めさせられた。
意外と厚い胸板に顔をうずめると、律動が私の頬を通して伝ってくる。もう少しだけ悪戯をしてみようかとも思ったが、共有する体温が一度覚めてしまった眠気をもう一度運んでくる。
まだ気怠さの残る体では、徐々に重くなる瞼には抵抗することは出来ず、何時しか再び微睡に意識が落ちてゆく。
そして、私は何時しか夢を見ていた。
久し振りに満腹になり、幸せな気分のままで電車に揺られ、私は何処までも変わらない田園風景を眺めている。ガラガラの車内の私の席の隣には、古めかしいユーラシアトランクが振動にも負けずに鎮座していた。
まぁ、不思議な縁もあるものだ。そう思いながら、ぼんやりと思考に潜ってゆく。
名前も知らなかった通りすがりの町。ふじの湯。沢山の暖かい人達。銭湯に入ったのは生まれて初めての出来事で、思っていたよりも随分と良いものだった。
おかみさんが持ってきてくれた朝ごはんは絶品で、お昼ご飯に食べた塩ラーメンと炒飯、餃子も最高だった。
そして私は、人生で初めて乞い願い、画いた。空っぽだった、私がいた証を残すが如く。
全国を歩き回り、心とスケッチブックに残した風景を基に、タミ子さん達が言っていた富士の絵を一心不乱に画いた。少し足りない部分は、今の私が出来る限りの想像力で補った。ペンキ絵なんて、日曜日の夕方にやっている、国民的アニメでしか見たことは無い。それでも、今の私に出来ることを全て注ぎ込んだつもりだ。
まぁ、残念ながら浴槽の上には画けずに脱衣所に描くという、ちょっとばかし締まらない結果ではあったのだが、あの町の人たちは随分と喜んでくれた。
だから、かなめと約束が出来たのだけれども。
少し時間が経った今でも鼻腔に残る様に思える、有機溶剤の匂い。あれほど集中をしたのは何時ぶりだろうか。出来栄えは正直なところまるで満足はしていない。スペースに対して画きたいことが上手く纏め切れなくて、全体としては窮屈でちぐはぐな印象を与えてしまった。青空に浮かぶ見かけだけの富士も、それを隠すように描いてしまった木々も、名前も知らない連なる山々も。私の絵ではなく、どこか借り物の集合体で。全てが準備不足で、実力不足だった。情けなかった。
だから、私はまた画きたい。今の私が出来る全てを出し切るためのペンキ絵を。
だから、私は初めて自分から目的をもって旅を始めた。
そんな私を、私は遠くから眺めていた。
涼さんは勿論寝相が悪い。




