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友人「正木啓介」5 松湯の効能

 結局、あの後は啓介が持ってきた日本酒はしっかりと開けたらしく、空き瓶が台所に置かれていた。目を覚ますと俺と啓介は床で雑魚寝、麻衣ちゃんは何時の間にか俺のベッドで寝ていた。

 一番早く目を覚ました俺は、寝不足の目をこすりながらコーヒーを三つ用意してから二人を起こすと、コーヒーの香りに気が付いた麻衣ちゃんは顔をこすりながらちゃぶ台でマグカップを啜り始めた。啓介は死んだような顔をして床からよろよろと立ち上がると無言でトイレへと向かっていった。酒に弱いのにはしゃぐからだろう。それも含めて良いところなのだが。

 

 コーヒーを飲んだ後、二日酔い気味でゾンビの様な顔をしている啓介は、麻衣ちゃんの運転する車に乗せられて実家へと帰ってゆく。年末年始の休みは二人とも良い会社にいるため、5日までは休みとのこと。もう一度くらい顔を出してくれるみたいだが、羨ましい限りだ。


 そしてそんなことがあった後、あっさりと一人での年越しが終わった。涼とは年越しのタイミングで幾つかLINEでのやり取りを行ったが、どうやら仕事で疲れ切っているらしく、俺のメッセージに既読が付いた後返事は帰ってこなかった。多分寝落ちしたのだろう。


 今日は既に年が明けてから3日目。ふじの湯の営業始めだ。

 浴槽には松の葉を束ねて入れたガーゼ袋が浮かんでいる。松湯は正月の縁起物の門松と同じように縁起が良いものとされていて、松の油で体も温まり血行促進の効果もある。そして、まるで森林浴でもしているかのような爽やかな香りが漂っていて、非常にリラックスが出来るのだが、俺がそれをしっかりと堪能するまでにはまだしばらくの時間が必要だ。


「明けましておめでとうかなめちゃん。今年も宜しくね」

「明けましておめでとうございます悍さん。今年も宜しくお願い致します」

「やっぱり新年はふじの湯で風呂に入らないとね。この富士山を見ると縮んだ寿命が伸びる気分だよ」

「ええ。やっぱりこれを見ないと新年って気がしませんね。今まで無かったのが信じられませんよ」

「ああ。全くだね。先代にも見せてやりたかったね」

「はい。全くです」

『かなめちゃーん。そっち終わったらこっちで流しお願いねー』

「分かりました!もう少しお待ちくださいね!」


 悍さんの皺の浮いた大きな背中を流していると、女湯から声が掛かる。有難い事だ。涼も向こうで頑張っているはずだ。俺もしっかりと勤めを果たしていこう。

 垢の浮いた背中を手桶の湯でしっかりと流し、肩と肩甲骨に沿ってしっかりとマッサージをした後で一度ボイラー室に入り、小さなIHコンロで煮だしている松の葉の入ったやかんを手に持つと、女湯へと向かっていった。


「いま浴槽に松湯足すので気を付けて下さいね」


 森林その物にいる様な香りを立てるやかんをもちながら、人が少ないルートを選びながら女湯の浴槽に辿り着くと、やや琥珀がかった液体を浴槽の中へと注いでゆく。

 むせ返るほどの力強い香りが立ち昇り、鼻腔を駆けてゆく。

 子供の頃から知っている、ふじの湯の一年が始まる香りだ。

 浴槽のお湯を少し手に取り、やかんの中へと入れた後に少しだけ振ってから、蓋を開けて中のガーゼ袋に包まれた松の葉ごと、浴槽の中へと入れてしまう。

 

「ああ、やっぱり松湯はいいねぇ」


 浴槽に首まで使っている数名の常連さん達が口をそろえて言う。


「神社から頂いている松ですからね。ご利益もばっちりです」


 俺はそう言ってにっこりと笑う。

 とは言え、天然物の松の葉を使うのは本当に骨が折れるものだ。煮沸してしまうので虫などの微生物などは気にすることは無いのだが、蜘蛛の巣がはっていたり鳥の糞があったりと、それを洗ったりして使える状態までに持っていくのはなかなか大変だ。ましてや、家庭用の風呂ならいざ知らず銭湯の浴槽であれば。

 毎年菊さんが松湯の用意をしてくれているのだが、頭が上がらないのと同時に、良い刺激になっているのかもしれないとも思う。


「確かにそれはご利益がありそうだね。多分頑張ったかなめちゃんにも良いことあるよ」

「あはは。そうなってくれるといいんですけどね」

「あら、おばさんたちのいうこと信じられないの?きっとびっくりするくらい良い事あるんだから」

「じゃあ宝くじでも買っておきましょうか」


 そんな話をしながら、俺はやかんを邪魔にならない処へ置いた後、何時もの仕事を始めた。

 


 営業の終わったふじの湯でしっかりと汗を流してから掃除をして、番台上の神棚のお神酒を交換。何時ものフルーツ牛乳を飲み干してから玄関のドアを掛けて外に出る。スマホを取り出してみるけど、特に通知は無い様だ。

 薄い雲に隠れた月がぼんやりとした明かりを積もった雪に落としている。幸い雪は降っていない。速足で帰路に就く。人のまばらなアーケードを抜けると何時ものアパートが見えてくる。


「あ?」


 そして部屋の明かりがついていることに気が付き思わず声が漏れる。電気の消し忘れは無いはずだ。そうであれば、あれは多分きっと、そういうことだろう。……やけにご婦人たちから「良い事」を押されていたが、ふじの湯LINEグループには出回っている話なのだろうか?俺、まだ入れてもらっていないんですけど……?

 錆びた階段を上がり、ドアノブを捻ると思った通りに鍵は掛かっていない。


「ただいま」


 小声でそう言った後に部屋に入るとストーブが点いていて暖かく、ベッドで涼がうつぶせで静かに寝息を立てていた。何時ものユーラシアトランクの上には靴下がちゃんと乗っかっていて、少し成長したなと思わず笑みが零れる。


 コートをハンガーに掛けてから手を洗う。冷蔵庫を開けてビールを取り出すとプルタブを開ける。小さく炭酸が抜ける音がした缶に口を付けると、乾いた喉に甘くて苦い液体が滑り落ちてゆき、胃に溜まっていくのがはっきりと分かった。

 一息ついたところで、シンクの上にビールを置き、もう一度冷蔵庫の中を漁ってみる。幸い年末に使いそびれたものが幾つかあり、簡単な物は作れそうだ。どうせ、あの眠り姫は何も食べていないのだろうから。


 少しだけ振り返り、珍しく静かに眠る涼の顔を眺めながらゆっくりとビールを飲み、まずはコメでも研ごうかと腕まくりを始めた。

松湯は本当に香りが良いです。皆様も宜しければ。

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