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三助「大久保かなめ」13 実はなんにも変わらない?

 女湯へ向かうドアの鍵を開け、くぐるようにして向こうの空間に出ると、涼も後ろをついてくる。


「床濡れてる所もあるかもしれないから気をつけてね」

「分かった」


 女湯へ出ると涼は俺の前を歩いて行き、浴槽の裏に描かれているペンキ絵を、まじまじと確認し始める。


 女湯に描かれているのは、青と赤が複雑に混じり合う空と、天井まで立ち昇る入道雲。そして、それらを照らす水平線から昇り始めた太陽が創り出す淡い朝焼けと、雄大に佇む富士山だ。朝焼けに照らされる松の木と向日葵と言う構図自体に変わりはない。夕日ではなく、朝焼けというところが涼らしいと言えば涼らしいところ。

 

 何でだろうか、ペンキは透明じゃないのに冷たく透き通るような空気がそこにあり、日の当たらない影を孕む松の木と、朝日を望む向日葵が繊細に描かれている。銭湯の壁に描かれたとは思えない程の、一枚の絵画がそこにあった。絵が分からない俺でもこの絵が素晴らしいことが分かる。


 これを見ることが出来ない男衆には本当に申し訳ないが、俺はこの絵が本当に好きだ。毎日のように眺めていても飽きることがない。そんな絵だ。


「んー。やっぱり少しニスが剥がれてきてるね。持っても後一、二年かな」


 湯の張っていない浴槽から自分の絵を眺める涼がポツリと言った。


「毎日洗ってるからね。一応優しくやってるつもりなんだけど……」

「いやいや。ゴシゴシやってくれていいよ。また書けば良いだけのことだからさ」


 なんてことなく言う涼の言葉に思わず体温が上がる。


「俺はこの絵が好きなんだ。そんな事言わないでくれよ。涼が初めて描いてくれたこのふじの湯の、この富士山をずっと眺めていたいんだ。……何とかならないのかい?」


 自然と言葉が口から漏れていた。声が次第に大きくなっていた。想いが止められなかった。


「ありがとう」


 そう言ってから振り向いた涼の顔は、一寸困ったような笑顔だった。駄々をこねる子供に向けるような。


「そう言ってくれるのは本当に嬉しいんだけどここは銭湯だからね……。流石に無理かな」


 優しい声音で俺のことを諭すように涼が言う。そんな当たり前のことは分かってはいるのだが、感情が追いつかない。この絵が無くなる所を想像してしまったが、喪失感が心を埋め尽くすようだった。


「また書けば良いだけだよ。……ねぇかなめ。その時は私のこと、呼んでくれるんでしょう?」

「勿論。俺はもうこの絵がなければ生きていけないと思う。それ位当たりになってるんだ」

「……あんたは何でこういう時にはそう恥ずかしいこと言ってくれるかな。全く」

「えぇ?全然恥ずかしい事なんて言って無いぞ?」

「聞いてるこっちが恥ずかしいんだってば」


 涼は頬の辺りを片手で揉みながら溜息を吐く。


「とは言え、まだ暫くは持ちそうだから大丈夫。それに一回書いて終わりなら私の仕事が無くなっちゃう。丁度良いんだよ」

「まぁ、そう言われるとそうなんだけどさ……。この絵が好きなんだよなぁ」

「あはは。でも成長した私の絵を見たらそんな事は言えなくなるよ」

「……確かにそれも見てみたい」

「でしょう?かなめくん」

「うん」

「私の生き方を決めさせたのはかなめだよ?しっかりと見届けて貰うんだからね」


 その言葉に俺は、涼の方こそ恥ずかしい事言ってるんじゃないかな?とは思ったが、何も言わずにしっかりと頷くと、少し時間を開けて涼は顔を引き攣らせた。


「あ、これは、その。そう言う意味ではなくて。つまり、あのね……」


 流石にその言葉を俺がどう受け取ったのかを想像したのか、一気に顔が赤くなる。……あぁ、いい気味だ。たまには、仕返しをしなくては。


「うん。ずっと一緒にいるよ。俺で良ければ。ずっと一緒にいさせてほしい」


 にっこりと笑ってそう言ってやる。でもそれは本心だ。不思議と心臓は落ち着いている。


「……あんたねぇ」

「だめ?」

「……だめじゃない」

「よかった」

「……いっつも何処かに行っちゃうよ?」

「でも帰ってきてくれるんでしょ?」

「……うん。帰る」

「じゃあ待ってるよ。沢山ご飯作って」

「……私意外とめんどくさい女だよ」

「意外じゃないし、結構残念なの知ってる」


 そう言ってから、思わずクスクスと笑ってしまう。それを見た涼は綺麗な眉をへの字にして、俺の方へと歩いてくる。


「意外じゃないってどう言うことよ。あと残念って何?ケンカ売ってるの?」


 目の前まで来た涼がようやくその歩みを止め、頬を膨らませる。顔が真っ赤だ。


「だってさ、いっつもよだれは垂れてるし、いびきはかくし。トイレのドアは開けたままだし靴下は片付けないし。時々歯を磨かないで寝ちゃうし。でも淹れてくれるコーヒーが美味しくて、ご飯は一杯食べてくれるのも知ってるし、何かいい香りするよね。後は、つい最近なんだけどさ。実は可愛いこともわかったよ」


 ゆっくりと話し始めると、最初は涼の眉の形が吊りあがり、次第にふにゃりと崩れてゆく。そして耳の先まで赤くなった。たぶん俺も、同じだと思う。流石に慣れないことを言い過ぎた。


「……あんた、私のこと大好きか?」

「うん。大好きだよ」


 即答する。俺は職場で何を言ってるんだろう。明日は仕事をしながら思い出してしまいそうだ。


「……ふぅん」


 涼はそう小さく言った後、眼鏡を外してポケットに突っ込むと少しだけ顔を上げる。俺はゆっくりとその体を包み込むように抱きしめ、短くキスをする。


「こんなのだけど、宜しく。かなめ」

「こちらこそ、宜しく涼」


 と、まぁこんな感じで落ち着けば格好もついたのだろうけれども。

 ふとあることに気づいてしまった。


「……でもこれって、何時もとあんまり変わってないんじゃない?」


 そして涼も同時に思い当たったようである。当たり前か。


「俺もそう思ってた所」


 そう言って、腕に込める力を少しだけ強くすると、涼が小さく息を吐く。


「でも、こうやって変われたこともあるから」


 今度は少し長めのキスをした。

一寸強気なかなめくん。なお

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