ペンキ絵師「菅野涼」2 君を思えば着信あり
「はぁー……」
ふじの湯の営業が終わり、あらかたの片づけを終えた俺はゆずの浮いた風呂に誘われて、至福の時間を享受していた。
最近では半身浴が美容や健康のためにお勧めされることが多くなっているが、それでも俺は俺のために肩までしっかりと浴槽に浸かっていた。ゆずの爽やかな香りが何時ものお湯以上に疲れた体を優しく癒してくれている。
「気持ちいいわぁ……」
水滴が浮いた天井を眺めながら小さく呟く。少し前までは隣にはいつも先代がいたのだが、今はそれが無いことがやはり寂しかった。
とは言え、やはり銭湯は素晴らしい。自宅で風呂に入るのも悪くはないがこの開放感を感じることは出来ないだろう。そしてその環境を独り占めしている贅沢と、それに伴うほんの少しの罪悪感がたまらない。
「そろそろ上がって浴槽洗うか……」
汗を流した後にもう一度汗をかいてしまうのが玉に瑕なのであるのだけれど。
俺は珍しくその後もたっぷりと柚子湯を堪能し、浴槽、洗い場と清掃をして脱衣場に戻る。既に番台には菊さんの姿は見えない。壁に掛けられた年代物の時計に目をやると既に短針は12の数字を少し回っていた。手早く着替えを済ませてから、何時ものように番台に置かれているフルーツ牛乳を手に取り一気に飲み干すと、空になった瓶をプラケースに入れる。
失われた水分とカロリーを補給して人心地付いた後に簡単な見回りをしてからふじの湯の玄関の鍵を閉める。外に出ると初雪が降っただけありかなり冷え込んでいた。先ほどまで南国の様な環境にいたのも大きいだろう。風が吹いていないのがまだ救いだったが思わず体が一度大きく震えた。
「さすがに寒いな……。柚子湯だからって堪能し過ぎたか」
白く残る息を吐きながら上を見上げると大分薄くなった雲の隙間から星空が顔を覗かせていた。
(今頃何してんだろうなぁ)
ふと、あいつのことを思い出す。
(確か関東方面に行ってるんだっけか。まだもう少し暖かいんだろうな)
人気ペンキ絵師のあいつは、未だ歴史がある銭湯が数多く残っている東京あたりで絵を描いていることが多いが、若くしてその才能を認められ、ともすれば増長して仕事を選べるだけの環境が目の前にある今でも、呼ばれれば北は北海道、南は沖縄とどこにでも行く。その仕事に対する姿勢だけは本当に尊敬できる。仕事に対する姿勢だけは……。
そんなことをぼんやりと思っているとポケットに突っ込んでいたスマホが震え始めた。反射的に手をポケットに突っ込んでスマホを取り出すと画面にはあいつこと「菅野涼」の文字が表示されていた。
現れないヒロイン




