ペンキ絵師「菅野涼」12 滲んだ黒鉛
どれくらいの間玄関で立ち尽くしていたのだろう。スケッチブックに鉛筆がはしる度に、黒鉛が削れてゆく音が静かなフロントに響いている。迷いが無いのか一定のリズムで聞こえてくるそれは、侵してはならない神聖な儀式のように感じられた。
涼の目は番台とスケッチブックを行ったり来たり。俺が玄関を開けた時の音は全く耳に入っていないようだった。
「うん」
暫くそれが続いた後、涼はそう言うと右手を下ろした。そして俺に気付いたのか、ソファーから立ち上がるとこちらに向かって歩いてくる。
「帰ってきたなら声掛けてよ。おかえり」
「あ、ただいま?」
「さっき今日は銭湯休みだって言ってたからさ、お返しに絵を描こうかと思って」
そう言って涼はスケッチブックを俺に見せてくる。
「私はこれしか出来ないんだ」
その鉛筆だけで描かれた番台の風景に俺は思わず返事をすることも忘れて見入っていると、途中で涼からスケッチブックを手渡された。
絵の事はまぁ、良く分からない。多分デッサンと呼ばれる雰囲気のそれは、鉛筆の濃淡だけで番台の空気までを表現している様に感じる。いや、感じた。
「すご……」
思わず口から言葉が漏れた。語彙力が無くて非常に残念だったけど、涼は何も言わなかった。
そのまま呆然と、スケッチブックに画かれた番台を見ていると、ぽつりと雨粒が落ちてきて一本の黒い線を滲ませる。
「ん?」
慌てて天井を見てみるが、雨漏りをするような場所は見当たらない。ボイラー室の1箇所は雨漏りすることがありバケツを置いてあるのだが、そもそも今日は晴天だ。
そこで俺はようやく冷静になったのか、徐々に広がりにじむ黒鉛にシャツの裾を押し当てる。
「うわ!ごめん!どうしよう!」
シャツの裾を離してみるも時すでに遅し。スケッチブックは水分を吸収して少しだけ凸凹しているし、滲んでしまった黒鉛はもとに戻るはずもなかった。
「あんた、なんで泣いてんの?」
そう言われて顔に手をやると成程納得。雨粒の正体が判明する。でもなんで自分が泣いてるのか分からない。
「は?」
「はい?」
また思わず漏れた言葉に涼は首を傾げる。
「なんで泣いてんの?俺」
「私に聞かれたってわからないよ」
「んー。なんでだろう」
「なんでだろね」
涼は突然泣き始めた三十路過ぎの男を馬鹿にはせず、真面目な顔で腕を組み何やら真剣に悩み始めている。
その様子に何だか可笑しくなってきた俺は思わず笑い始めてしまう。
「もしかして頭がおかしくなった?」
「ずいぶんストレートに言うじゃん?昨日会ったばかりなんですけど」
そして何故か2人同時に大笑いし始める。何なんだこれ。
ひとしきり笑いあった後、どちらともなくソファーに座り一息つく。俺は滲んでしまい台無しにしてしまったスケッチブックを涼に返し頭を下げる。
「折角の絵を台無しにしちゃった。ごめん」
「ん?構わないよ。どうせ水彩にするつもりだったし。気にしないで」
「そうなの!?」
「そうなのだよ、かなめくん」
「良かったぁ……。ブチギレられるかと思ってた」
涼の言葉に思わず胸をなで下ろしていると半眼で睨みつけてくる。
「私の事をどう思ってるのかよーく分かった気がする」
「よく食べる人とは思ってる」
「食いしん坊キャラは失礼じゃない?」
「じゃあ海藻系?」
「海藻系?何だそれ」
俺の例えが意味不明だったのか、涼はきょとんとした顔で首を傾げるけど教えてあげない。
そんな涼を暫く眺めていると、不意に一つの考えが頭に浮かんでくる。関係ないことをしていると、何故か答えが浮かんでくるアレだ。
「ああそうか。嬉しかったんだ、俺」
「また突然意味不明な事言い始める。本当に頭大丈夫?」
今度は綺麗な形の眉をハの字に変える。美人の百面相は見ていて楽しい。ちょい盛られた毒素も心地よい。
「何かこの絵を見てたら何となく涼にふじの湯の事分かってもらえたのかなぁ、とか。そんな感じの気持ち。認めてもらえた、みたいな?」
俺はそう言うと何となく気恥ずかしくなってしまい、空になったコップを2つ手にすると流し場に歩いてゆく。
「ここ、暖かいもんね。みんなして」
後ろから涼の声が聞こえる。
蛇口を捻り、流れる水をコップで受け止めた。
「そうそう。行き倒れみたいな人がいたら直ぐに世話を焼かれる位には」
俺は高校を卒業してからずっとここで働いている。同級生達は殆どが都市部へ働きに行った。少ない友達は更に少なくなった。
「別に行き倒れてた訳じゃないんだけど」
涼の声が少し怒っているように聞こえた。
顔だけじゃなくて、声もコロコロと表情を変えるのが子気味良い。
「似たようなもんじゃないか」
俺も随分とこの場所と町の皆さんに助けてもらった。そんな俺の居場所を少しだけ知ってもらえた様な気がしたから。そう、勝手に思うくらいは良いだろう。
「キャンプみたいなもんだって」
今度は拗ねてるような声に思わず笑みがこぼれた。
「だいぶ違うと思うけど」
緩んだ顔を少し引き締めた後に振り向いて、水の入ったコップを両手に持って片方を涼に渡す。思っていた通りにその表情は少しだけ不服そう。
その涼の正面のソファーに腰掛け、少し乾いている喉にコップの水を流し込む。
「これでもベテランだからね。一人旅」
「え?マジで?あんな感じで何時もやってるの?」
やっぱり危機感ガバガバだ。この美人さん。
「そうだけど?お金ないし」
「マジかよ。家とかは?」
「ないない。引き払った。今は住所不定無職」
「そこで胸張るなよ。やっぱりヤベー奴じゃん」
突然明かされる衝撃の内容に、たぶん俺はアホみたいな顔をしていたと思う。
「超失礼じゃん」
涼は口を尖らせ、少しだけ頬を膨らませていた。
そんな顔もちょっと可愛いと思ってしまった。
住所不定無職のヒロイン。やっぱりヤベー奴だった。




