ペンキ絵師「菅野涼」9 人の口に戸は立てられぬ
「すごく美味しそうな匂いで目が覚めた。……おはよう」
「あ、おはよう。トイレはそっち、顔を洗うなら女湯の脱衣所を使うといいよ。タオルは洗面台の下の棚を開けると入ってるからそれを使って」
「んー……。分かった。ありがと」
朝は弱いのか、フラフラとした足取りでトイレに向かい、その後女湯へと入ってゆく。まるで常連さんの様な緊張感のなさに、思わず俺の方が謎の緊張をし始めていた。
もしかすると一寸おかしな奴なんじゃないかと感じ始めたのも、この時が最初だと思う。
ビールを注ぐ用のやや小さめなコップを二つ用意すると水を注ぎテーブルまで持ってゆく。流石に見ず知らずの男女が初対面から向かい合って朝食を摂るのはどうかと思い、テーブルの四方に置かれたソファーの隣り合わせにコップと皿、箸を並べていると涼があくびをしながらフロントに戻ってくる。
「向かいのおかみさんからの差し入れ。味は保証するから食べるかい?……というか食べてもらわないと困るくらいの量なんだけどさ」
「すっごくお腹減ってるから幾らでも食べれるわ。この匂い嗅いだだけでもご飯食べれそう」
「しっかりとおかずを食ってくれ」
「勿論」
涼はそう言うと何故か俺が座る向かいのソファーに座り、水の入ったコップを手に取ると実にうまそうにそれを一息で飲み干した。
あれぇ?おかしいなぁ?何だか想定と違うぞぉ?
「お腹減ったぁ。食べていい?」
「勿論。……あ、菜箸とか無いや」
「ああ。私は大丈夫。そういうの気にしないタイプだから」
俺が気にするんですぅ!お前さっき自分の顔見て来ただろ!美人を前に緊張してんだよこっちは!!
そう叫びたい気持ちを抑えながら、よくわからない声を絞り出した俺は一先ず口を付けていない自分の箸で、自分の隣に置かれた皿に白米とおかずを盛り付けてゆく。
「あ、もっと沢山でも大丈夫」
「これくらい?」
「まだまだ。一先ず倍くらいでも大丈夫」
「……倍?」
「倍。野菜はいらないかな」
「……うん」
平皿に小山が出来上がり、生姜焼きでデコレーション。アクセントには生姜焼きの汁をたっぷりと吸った餃子。
「召し上がれ」
「ありがと。かなめも早く盛り付けて。一緒に食べましょ」
「ああ、うん」
促されるままに自分の分を平皿に盛り付け終わると違和感に気が付き、自分の顔に思わず人差し指を向けていた。
「大久保かなめ、32歳独身。ここふじの湯の三助さん。他にもいろいろとタミ子さんから教えてもらったよ。早く食べよ?じゃあいただきます」
「い、いただきます」
ここ、ふじの湯には未だ個人情報保護法は浸透していないらしいことを身をもって知った。人の口に戸は立てられないとは言うけれども……。
タミ子さん……。どこまで何を話したんだい?
いつの間にか流出していた自分の個人情報に呆然としながらも食べ始めた生姜焼きは何時もの通り、絶品だった。
「本当に美味しい!これ幾らでも食べられる!」
一口目を飲み込んだ俺が目にしたのは既に三分の一が崩落した小山だった。
もう一度、一目惚れしてしまうほどの笑顔だったが、その手の平皿が辛うじて俺の理性に待てを掛けている。
「食うの早!?」
「ご飯これで足りるかなぁ」
「マジで!?」
「マジで」
「マジかぁ」
恐ろしい速度でその口に消えてゆく小山だったものを呆然と眺めつつ、ちらりと涼の上半身に視線をやると、スレンダーなその体のどこにその質量が消えてゆくのだろうかという思考が産まれる。
……胸には行かなかったんだな。
そう、俺は決して読まれてはいけない結論に辿り着いたと思われないよう、箸を動かし始めた。
フードファイター×スレンダー




