第三章|丸の内、静かな勝利
東京駅の丸の内側。
休日の午後二時すぎ。
地下道を抜け、石造りの建物に囲まれた出口を出ると、空気が少し違った。
タクシーの並ぶ通りと、遠くで聞こえるオペラのようなバイオリンの音。
乾いた街路樹の葉が風に吹かれて、歩道に小さな影を落としていた。
ホテルのロビーは、グレーと白を基調にしたモダンな空間で、
ガラス張りの天井から差す自然光が床の大理石に薄く反射している。
受付から奥へ進むと、奥まった場所にあるラウンジは人も少なく、
革張りのソファが低く並び、空間全体が“話すことよりも考えること”に向いていた。
私は、先に来ていた先生の前に静かに座った。
「……待ちました?」
「10分だけ」
「わたしが遅れるって、わかってました?」
「たぶんね」
そう言って、先生は小さな銀色の鍵をテーブルに置いた。
それは、実験機材が保管されているロッカーの鍵だった。
何も言わずに置かれた鍵には、手渡しとは違う意味がある。
「選びなさい」と言われた気がした。
私はそれを、片手で受け取った。
その瞬間、視界の片隅で先生の指がわずかに動く。
私がちゃんと受け取れるか、反射的に確認した気がした。
― わたしは、投げられた“信頼”をキャッチしたんだと思う。
それも、ぎりぎりのタイミングで。
「先生。これ、渡してくれたけど――」
「“使え”とは言ってないよ」
「でも、進む方向はそっちって、暗に言ってますよね?」
先生は首をすこしだけ傾けて、
窓の外――丸の内仲通りの並木を、静かに見つめた。
「僕が示すのは、可能性のひとつだけ。選ぶのは、君」
私は、わざと椅子を引いて立ち上がった。
「じゃあ、わたしは――逆方向、選びます」
「寄り道する方が、面白いんで」
そして、手にしたキーをバッグにしまったあと、
もう一度、席に戻ってメニューを開いた。
「コース、頼んでもいいですか? 和食の、ちゃんとしたやつ」
先生は笑わなかった。けれど、止めもしなかった
料理が運ばれてくる。
小鉢に盛られた八寸、透明な出汁の香り、蒸された鯛のふくよかな匂い。
一口食べるたびに、自分が「今日という時間の中にちゃんと存在している」と感じた。
食器の音、湯気の温度、先生の沈黙。
全てが、今の私を肯定していた。
― 勝った、と思った。
でもそれを言葉にしないことこそが、この“勝利”を完成させるのだと思った