第2章 十年前の涙 ―家族写真の記憶―
小さな風鈴の音が、どこか遠くで鳴った気がした。
開け放たれた窓の向こうでは、蝉の声すら届かないほど、午後の空気は静まり返っている。
図書館の中だけ、ゆるやかに時間が止まっていた。
「こんにちは……」
扉を押して入ってきたのは、白いブラウスにスラックスを合わせた若い女性だった。
声も、表情も丁寧に整えられている。けれどその奥に、張り詰めた何かを抱えているのがわかる。
淡い空気の中に、彼女だけが違う緊張感をまとっていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
受付の奥で、鍵宮千尋がいつものようにやわらかく微笑む。
その声に導かれるように、女性はほんの少し戸惑いながらも、静かに歩を進めた。
榎本理は、少し離れた席に腰を下ろしたまま、二人のやりとりを見つめていた。
理がこの図書館に通うようになってから、まだ日も浅い。
けれど、理由を聞かれたとしても──彼自身、明確には答えられなかった。
最初は、誰かの言葉に導かれたような気がしていた。
けれど“誰に勧められたのか”が、もう思い出せない。
それでも、扉を開けたときに感じた、あの奇妙な静けさと安堵だけは、今もはっきり残っている。
この場所に来ると、なぜか落ち着く。
けれど、その“理由のなさ”が、逆に彼の中にひとつの疑問を残していた。
──もしかして、自分はすでに、何かを忘れているのではないか。
そんな感覚が、ここ最近、静かに胸の底で膨らみ続けていた。
千尋が誰かと話すのを見るのは、これで三度目。
けれど、不思議と、どの来訪者もすぐに“本題”へと入っていく。
世間話も天気の話もない。
この図書館には、みんな何かを抱えたまま、まっすぐにやってくる。
「何か、お困りのことが?」
千尋がやさしく問いかけると、女性はわずかに目を伏せた。
「……困ってるというより……どうしたらいいのか、分からなくなってしまって」
そう言って、両手を重ねる。肩は細く、声も少しかすれていた。
けれどその奥には、わずかな“決意”の色が見えた。
「母と……うまくいってないんです」
理がわずかに目を細めたのが、千尋の視界の隅に映る。
けれど彼女は何も言わず、静かに相手の言葉を待った。
「昔は仲が良かったんです。でも、進学して離れて暮らすようになってから……何を話しても噛み合わなくて」
「寂しさ、のようなものでしょうか?」
「……それもあるかもしれません。でも……」
「どこかで“私の方が成長した”って、勝手に思っていたのかもって。
それに気づいたときにはもう、まともに話すこともできなくなってて……」
千尋はそっと首をかしげる。
「それでも、“戻りたい”と思っているんですね?」
「……はい。たぶん、ちゃんと話せるようになりたいんです。あの人と……もう一度だけでも」
その声には、言い損ねた言葉たちが、幾重にも折り重なっていた。
千尋は静かにうなずき、席を立つ。
「少々お待ちください。……あなたに近い記憶を、お持ちします」
女性──柚月は、目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
その横顔を見ながら、理はふと思い出していた。
──昨日、千尋から借りた“父との記憶”。
まだ、その余韻がどこか身体に残っている。
記憶を借りるという行為は、想像以上に深く染み込む。
それは“読む”ものではなく、“感じてしまう”ものだった。
自分ではないはずの悲しみが、自分の中に痛みとして残る。
だからこそ、少しだけ、前に進めるのかもしれない。
「お待たせしました」
千尋が戻ってきた。手には、またしても文字のない革張りの本。
けれどそれは、ただの物ではなく──すでに何かの温度を帯びているように見えた。
「こちらの記憶を、お貸しします」
そう言って、千尋は本をそっと差し出す。
「ある少女が、祖母と過ごした日々の記憶です。
家族というものに、少し違う角度から向き合った時間。
きっと、あなたにとっても何かを思い出すきっかけになると思います」
「……触れるだけ、で?」
「はい。言葉はいりません。
記憶は、あなたの中で自然に流れはじめます。
まるで、誰かの夢を見るように」
柚月は小さく息をのみ──
その本を、そっと抱きしめるように受け取った。
そして、ほんの一瞬。まばたきのあいだに、空気が変わった。
──畳の匂いがした。
陽の光が差し込む縁側。
風鈴の音が、ゆっくりと揺れている。
柚月は、少女の記憶の中にいた。
それが“借りたもの”だとは、不思議なほど感じられなかった。
その世界は、あまりにも自然だった。
目の前にいるのは、年配の女性──祖母。
しわの刻まれた手で、湯飲みにお茶を注いでくれる。
その動きひとつひとつが、なぜか安心をくれた。
少女──この記憶の持ち主は、祖母の隣に座りながら、少しずつ言葉を探すように語っていた。
「……おばあちゃんは、昔から変わらないね」
「そうかい?」
「うん。怒るときも、褒めるときも、泣くときも、全部“私のため”って感じがする。だから、嫌いになれなかった」
祖母は、くすっと笑った。
「人ってね、変わらないように見せかけて、ちゃんと変わっていくんだよ」
「え……?」
「昔と違うのは、私が“それを見せないようにしてる”だけ。あんたが、心配すると思って」
「……そんなの、ずるいよ」
「でも、優しいことでしょ?」
少女はふと視線を落とす。
指先には、少し色褪せた家族写真。祖母、両親、そして自分──みんなが笑っている。
けれど、その中に、いない人がいた。
──弟。数年前に亡くなった、小さな命。
柚月は、その“喪失”に気づく。
写真には写らなかった。でも、確かにそこにあった時間。
「おばあちゃんは、あの子のこと、ちゃんと話せるのがすごいと思う。
私、まだ……ちゃんと受け止められてないのに」
「話せるのは、きっと、“話し続けたい”って思ってるからだよ。
覚えているってことは、失ってないってこと──そう思ってる」
その言葉が、胸の奥にそっと刺さる。
優しさは、ときに痛い。
けれど、だからこそ、温かい。
──やがて、記憶は静かに薄れていく。
陽の色が褪せ、風鈴の音が遠のき、畳の匂いが消えていく。
でも柚月の中には、確かに“何か”が残っていた。
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* * *
「……ありがとうございました」
本を返しながら、柚月は深く頭を下げた。
目は少し赤くなっていたが、その声には、もう迷いがなかった。
「どうでしたか?」
千尋の問いに、柚月は少し笑って答えた。
「……誰かの記憶のはずなのに、自分の昔を思い出すみたいでした。
気づいたら、母のことを考えていて──“一緒に写ってる写真、撮ってなかったな”って」
「大切なものは、写っていない場所にあることもあります」
「……そうですね。今日、帰ったらちゃんと話そうと思います。
もう一度、あの人と写真を撮ってもいいかなって……初めて思えたんです」
千尋は、静かに微笑んだ。
「その気持ちが、きっと、いちばんの記憶になりますよ」
柚月は小さくうなずき、図書館をあとにした。
夕暮れの光に照らされる背中が、ほんの少しだけ軽く見えた。
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* * *
再び、静寂が戻った館内。
理は席を立ち、カウンターへと歩いた。
「……あれって、毎回、選んでるのか?」
「はい。記憶はたくさんあります。でも、“誰に貸すか”は、ちゃんと選ばなければなりません」
「じゃあさ……今のも、“祖母と過ごした記憶”ってだけじゃなくて──
本当は、もっと違う形で終わってたかもしれない記憶だったんじゃないのか?」
千尋は一瞬だけ目を伏せてから、うなずいた。
「ええ。もしかしたら、“話さなかった方がよかった記憶”だったかもしれません」
「でも、貸したんだな」
「それでも、必要だと思ったからです」
千尋の声は、変わらず穏やかだった。
けれどその中に、どこか“覚悟”のような響きが混じっていた。
理は、少し黙った後、ふと口にした。
「お前さ、そうやって毎日、誰かの記憶を貸してるけど……
お前自身のこと、ちゃんと覚えてんのか?」
自分でも意外だった。けれど、それは自然に出た問いだった。
千尋は、少しだけ間を置いて──静かに答えた。
「……覚えていることと、覚えていたいことは、違いますから」
「……そっか」
それ以上、理は何も言えなかった。
でも、その言葉の奥にある何かが、心の中に静かに残っていた。
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* * *
その夜。
柚月は、母と向かい合って食卓に座った。
久しぶりに撮った一枚の写真。
表情はぎこちなく、言葉もぎこちなかった。
けれど──それでもきっと、
いつか見返したとき、それもまた、大切な“記憶”になるのだろう。