待ち人は、翡翠色の泡に弾けた。
「……今どこ? ……うん、うん、じゃあもう少ししたら、店出て私がそっち行くよ。うん、はいはーい」
混雑のピークを過ぎた、昼下がりのカフェ。少し離れた席では、二十歳くらいの若い女の子が、スマホで誰かとそんな会話をしている。
画面をタップすると、彼女はそれを傍らに置き、すぐにストローに口を付けた。白い靄がユラユラと溶け出す、翡翠色の液体。忙しなくカラカラとかき混ぜられるうちに、澄んだ色は忽ち透明感を失ってしまった。
……懐かしい。あれを最後に飲んだのはもう随分と昔のことだ。
「今はいいわね。スマホ一つで、簡単に連絡が取れるんだもの」
吐息みたいな私の呟きに、正面でアイスティの氷をつついていた孫娘が反応する。
「そうだね。てか、昔はどうやって待ち合わせしてたの? 遅れる時とか、外だと連絡取れないじゃない」
「そうね。だからなるべく遅れないようにするのよ。あとは、こういうカフェとか……昔でいう喫茶店かしら。そういう所で待ち合わせる時には、お店に電話を掛けて、取り次いでもらったり伝言してもらうこともあったわ」
「へえ……大変だね。でもその分、昔の人は約束を大切にしていたんだろうな」
…………約束…………
「ええ……そうね。きっと、とっても」
何とかそれだけ答えると、ストローでグラスの底をくるりと回す。セピア色のアイスコーヒーに、ゆらりと立ち昇る陽炎のようなシロップ。こんなに歳を取ったというのに、ずっと変わらぬ幼い舌に苦笑する。味わうべきだった苦味や香りなど全くない、甘く切ないだけの哀れな残滓が、ストローから喉へと通った。
ふと顔を上げれば、爽香が心配そうにこちらを見ている。あの日の自分と同じ歳になった、目映く愛らしい娘が。
その姿に想い出を重ねてしまったのか……はたまた共有したくなったのか。喉に張り付くものをこくんと飲み込み、冷えた唇を開いていた。
「……昔ね、私もよく、喫茶店で待ち合わせしたの。初めて出来た『恋人』と」
◇◇◇
あれは短大を卒業してすぐ、とある企業の受付嬢として働き始めた頃だった。まだ右も左も分からず、社会人としての重圧を感じていた私は、ある男性に救われていた。
週に二~三回は来社する、取引先の営業職の彼。濃い眉毛と高い背、そして一際大きく明るい声が、印象的な人だった。掃除のおばさんにも、「こんにちは!」と笑顔で挨拶する姿を見るたびに、疲れた心がふっと楽になっていったのだ。
挨拶や案内以上の会話など交わしたことはなかったが、ある日突然、いつもとは少し違う表情で、一枚の名刺を渡された。その隅には……
『本日、PM6時まで。駅前の喫茶店『辻堂』で待っています』
とだけ書かれていた。
PM5時。終業時間を迎えた私は、急いで制服を脱ぎ捨て、ほどいた髪を櫛で梳かす。もっと綺麗なスカートを履いてくればよかったかしらと、後悔しながら向かった喫茶店。その一番奥の席に、煙草の火を燻らせながら、窓硝子をじっと見つめる彼の姿があった。会社で見る時よりも渋く、大人っぽい姿に、私の胸はぞわりとときめく。
「あの……お待たせいたしました」
私の呼び掛けに、彼は勢いよく立ち上がり、見慣れた笑みを顔中に浮かべた。
「安田さん……! 来てくださったんですね」
「はい……あの……」
そうだ、何故来てしまったのだろう。名前と会社以外は何も知らない人だというのに。あんなメモ書き一つで、こんな簡単に来てはいけなかったのではないだろうか。……世間知らずの、軽い女だと思われただろうか。
ショルダーバッグの紐を握り締めたまま言い淀んでいると、彼は慌てて煙草の火を消し、どうぞと椅子を引いてくれた。とりあえず浅く腰掛ける私に、にこにことメニュー表を開きながら、お好きなものをと勧めてくれる。
……座ってしまったのだから、何も注文しない訳にはいかない。一杯だけ飲んだら帰ろう、その一杯を何にしようかと視線を彷徨わせていると、ふと、鮮やかなイラストが目に止まった。
柔らかな曲線を描くグラスの中には、大きな氷が浮かぶ翡翠色の液体。その上に鎮座するのは、ホイップクリームの帽子を被った丸いバニラアイス。天辺には真っ赤なチェリー。
クリームソーダ……
喉がごくりと鳴る。
水も飲まず、急いで来たから喉はカラカラだ。仕事で疲れているので糖分も欲している。ここに炭酸の爽快感が加われば、気分は更に晴れやかになるだろう。
自分一人なら、迷わずこれを選ぶが……
彼の前に置かれているコーヒーを見て、私はつい「同じものを」と言ってしまった。
甘党のくせに。コーヒーなんて苦手なのに。
子供っぽいと思われたくなかったのかもしれない。
「お待たせ致しました」
目の前で湯気を立てる黒い水面。一匙だけ砂糖を入れると、くるりとかき混ぜ口に含んだ。
……苦い。
もっと砂糖を入れれば良かった……でも今さら……と、後悔しながらカップをソーサーに置く。そのタイミングで、普段とは少し違う、柔らかな声が耳に響いた。
「疲れていらっしゃるでしょうに……来てくださってありがとうございます」
「……いえ」
「前からずっと、貴女とお話をしたいと思っていたんです。でも、断られたらどうしようとか、人の目があるし……なんて考えたら、あんな一方的なメモしか渡すことができませんでした。ご都合も訊かず、申し訳ありません」
「……いえ。私も前から、市井さんとお話をしたいと思っていたので。だから嬉しかったんです」
スルリと出てしまった本音。彼は満面の笑みで、少しも湯気の昇らぬコーヒーを、ごくごくと飲み干した。空のカップを軽快に置くと、窓硝子を指差しながら楽しげに言う。
「ずっとここから、外を見ていたんです。なのに、貴女だとは気付きませんでした」
彼の視線に、私は「ああ」と言いながら、下ろした長い髪に触れる。
「仕事中は束ねていますから。雰囲気が変わりますよね」
「ええ。別の方みたいで、少し驚きました。でも、どちらも素敵です。お仕事中も、今も、どちらも貴女ですから」
どちらも……。
社会人の仮面を被った自分も、素の幼い私も。どちらも認めてもらえたみたいで、何だか嬉しくなる。何も言えずに前を見つめていると、彼の浅黒い頬がみるみる赤く染まっていった。
「貴女とお話ししたいと思ったのは……貴女のことをもっと知りたいと思ったからです。その……貴女の笑顔を見ると、僕も笑おうって。仕事が上手くいかなくても、辛いことがあっても頑張ろうって。そう思えたから」
いつも朗らかで、周りの空気までも明るくしてくれた彼。その彼も、自分と同じように下や後ろを向くことがあり、自分と同じように思ってくれていたことに驚く。
彼の笑顔がそうしてくれたように、私の笑顔が彼の心を楽に出来たのなら。こんなに嬉しいことはなかった。
あの時自分がどんな顔をしていたのかは分からない。ただ「ありがとうございます」と一言だけ口にする私に、彼は更に頬を赤らめ、濃い眉を優しく下げてくれた。
「今日のこの時間がもし楽しかったら、僕とお友達になっていただけませんか? そうですねえ……一時間。一時間、頑張って貴女を沢山笑わせますから」
その言葉にもう、ふふっと笑ってしまう。
互いの自己紹介から始まり、趣味の話や世間話、次の約束と連絡先の交換まで。
最初に頼んだコーヒーと、後から頼んだモンブランをゆっくり食べる私の代わりに、彼はコーヒーを何杯もお代わりしながら、二時間もの時を過ごした。
それから彼とは何回会ったのだろう。平日は仕事終わりにあの喫茶店で、休日は公園や映画館で。
毎週日曜日の朝には、彼が公衆電話から私の家へ電話を掛けて、待ち合わせの約束をしていた。実家暮らしの為、家族に気付かれる可能性もある。リンと鳴るか鳴らないかの内に、私は誰よりも早く受話器を取った。
あの日も、あの喫茶店で、PM6時に待ち合わせをしていた。四駅先の会社に勤める彼より、私の方が早く着く。彼を待つ間、冬はお砂糖たっぷりのココアを、夏はあのクリームソーダを飲むのが楽しみだった。
お盆を過ぎたばかりの、まだ暑い夏の夕暮れ。当時は今よりもずっと涼しかった気はするが、それでも早足で歩けば、肌はしっとりと汗ばんでいた。
すっかり顔馴染みになった店員さんは、「いらっしゃいませ、クリームソーダですね」と愛想良く言いながら、カウンターの奥へ消えていく。やがて、木彫りの洒落たコースターの上に置かれたのは、メニュー表のイラストと同じ、鮮やかな翡翠色のグラス。大きな氷の隙間を、しゅわしゅわパチパチと昇る小さな泡は、何度見ても私の胸をときめかせる。
まずはストローに口を付け、アイスが溶け出してしまう前の、ソーダの澄んだ味を楽しむ。次に天辺のチェリーをアイスの横に移し、生クリームと一緒にアイスを食べる。その次はスプーンを少し奥に潜らせ、アイスと氷の境目の、シャリシャリした部分を楽しむ。やっぱり、ここが一番好きだなあ。
後はストローで、スプーンで。夢中で飲み、食べ進めていく。最後に、グラスの壁と氷に挟まれたチェリーを救出し口に入れる。普通のさくらんぼとは全然違う、ふにゃふにゃした口紅みたいな味を楽しむと、種を紙ナプキンでくるみ、ほっと一息吐く。
すっかり冷えた身体。色のないグラスを片付けてもらうと、温かな紅茶を注文し、窓の外に待ち人の姿を探していた。
────6時を過ぎ、7時を過ぎても、彼は現れなかった。残業で余程遅くなる時には、必ず会社から辻堂に連絡をくれたのに。何となく胸騒ぎを覚えながら、どんどん暗くなっていく通りを見つめる。
そろそろ家にも連絡を入れなければいけない。電話を借りようと立ち上がった私は、そこで初めて、やたらと店が混んでいることに気付く。今日はどうしたのかしら……何か注文しないと追い出されてしまうわね、などと考えていた時、隣の席に座るサラリーマン達の会話に、身体が凍りついた。
「折角残業なしで帰れると思ったのに。脱線事故なんて、本当にツイてないよな」
事……故?
「タクシーも出払ってるしな。諦めて、酒でも飲みながらのんびり帰ろう」
「あのっ……事故って、電車ですか?」
思わず訊いてしまった私に、見知らぬサラリーマンは親切に答えてくれた。
「ええ、……線の上りが脱線して、……線の下りと衝突したらしいですよ。当分動かな」
その後の記憶はあまりない。ちゃんとお金を払ったのかも覚えていない。ただ店を出て、人だかりが出来ている駅へと飛び込んだ。
◇◇◇
「……彼の同僚がね、教えてくれたの。あの日彼は、急な外回りで帰社するのが少し遅れて……『恋人に会いに行くんだ』って、慌てて会社を飛び出して行ったらしいわ。もしスマホがあれば……ずっと待っているから慌てないで。次の電車でゆっくり、気を付けて来てねって言ってあげられたのに」
私はメニュー表を開き、クリームソーダの写真を指で撫でる。
「彼が私の元へと急いでくれていた時……彼が電車の中で苦しんでいたかもしれない時。私は何も知らずに、呑気にクリームソーダを味わっていたのよ。もし私と出逢わなければ……そう思ったら、二度と食べられなくなっちゃった。あんなに好きだったのにね」
そっと差し出された爽香のハンカチに、自分が泣いているのだと初めて気付いた。それを受け取り、顔を上げれば、爽香も同じように泣いてくれている。
私は手を伸ばし、ハンカチで可愛い頬を拭うと、祖母の顔でにこっと笑いながら言った。
「本当は苦いコーヒーよりも、甘いクリームソーダが好きだって。そんなことも言えないくらいの淡い関係だと思っていたのに。彼は私のことを、『恋人』だと言ってくれていたのよ。もっと……もっともっと、沢山知りたかったな。彼と一緒に、クリームソーダを飲んでみたかったな」
下を向き、写真の赤いチェリーをトントンつついていると、前からすっと手が伸び、それを取り上げられた。
「すみません、クリームソーダ一つください。あ、スプーンを二つ頂けますか? 」
店員にそう言うと、爽香は笑顔でメニュー表を畳んだ。
「爽香……」
「話を聴いてたら、食べたくなっちゃった。アイスティも飲んだからお腹冷えちゃいそうだし、二人でシェアしようよ!」
明るい声にあの人が重なり、私は「うん」と素直に頷いていた。
「お待たせしました」
キラキラ光る貝殻のコースターに置かれたのは、シャープな逆三角形のグラス。大きな氷が浮かぶ鮮やかな翡翠色は、しゅわしゅわパチパチと私の胸を切なくときめかせる。その上に鎮座するのは、ホイップクリームの帽子を被った丸いバニラアイス。天辺には真っ赤なチェリー……と、グラスの縁にはオレンジまで添えられている。
「わあ、美味しそう!」
「そうね。とっても美味しそう」
「ねえねえお祖母ちゃん、チェリー、食べてもいい?」
そう訊きながらも、爽香の指は今にもチェリーの柄をつまもうとしている。綺麗なネイルとは反対に、こんなところは幼い頃のままで。何だか可笑しくなって、つい甘やかしてしまう。
「いいけど……最初に食べたら勿体ないじゃない。 翠と、白と、赤と。折角綺麗な色なのに」
「好きな物は最初に食べたいんだもん。それに綺麗なものは、たとえなくなっちゃってもずっと忘れないから」
ずっと忘れないから……
「ふふっ……そうね、そうよね。じゃあお祖母ちゃんは、こっちのオレンジをもらおうかな。その方がアイスも食べやすくなるし」
「うん!」
オレンジをつまみ、黄色い果肉を噛ると、瑞々しい酸味が口に広がる。
……うん、これも意外と甘いソーダに合うのかもしれない。と、期待しながらストローで吸ったソーダは、甘みを抑えた爽やかな味がした。これはこれでサッパリしていて美味しい、けど……
「「もっと甘い方がいいなあ」」
同時に出た言葉に、くすくすと笑い合う。
「ねえ、今度他のカフェのクリームソーダも食べに行かない? えっと……ほら、ここね、昔ながらのスイーツが食べられるんだって」
爽香が見せてくれたスマホの画面に、わくわくと身を乗り出す。
カランカラン……
ドアベルの音に乗って、爽やかな風が流れ込む。
『翠さん!』
懐かしいあの声が、翡翠色の泡に弾けた。
ありがとうございました。