カシケン!
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「おーい、いちねん」
ゆさゆさと身体を揺さぶられて目を覚ます。
「いちねん、ちょっと手貸して」
鼻にかかったような妙に甘ったるい声に目を開くと、目の前に知らない人の顔があった。覗き込んだ黒目の色がとても薄い茶色だ。けど、さらさらで真っ直ぐな髪の毛の色は真っ黒なので、変に違和感がある。整った顔立ちのその人は、「起きろ起きろ」と言い、にこっと笑って俺の頬をぺちぺちと軽く叩いた。その笑顔に、一瞬見惚れてしまう。
ぼんやりとした頭のまま身体を起こす。徐々に五感が働き始めて気がついた。調理実習室は、なんだかほの甘いかおりが漂っている。
「一年、こっちこっち」
こちらもまた知らない人が作業テーブルのところで手招きをしている。こちらはもっと低く落ち着いた声のトーンだ。ふわっとした猫っ毛を三角巾できっちり包んでいる。
金曜日。放課後の調理実習室なんて、こんなふうにちゃんと使う人がいるとは思わなかった。誰もこないと思ったから昼寝の場所に選んだのに。
俺を起こした人、手招きをした人、交互に見る。ふたりとも学生服の上を脱ぎ、腕まくりをした制服のシャツの上からエプロンをしている。ごちゃっとしたエプロンの柄をよくよく見ると、ウォーリーをさがせ柄だったので、懐かしい気持ちになった。視線を下に落とす。上履きの色は青。二年生だ。だからというわけではないけれど、俺は今まで寝転がっていた窓の下、作り付けの棚から下りて素直に作業テーブルのほうへ移動した。
「でかっ」
床に下りた俺を見て、ふたりが声をそろえて言った。身長だけは高いので、その反応には慣れている。
「これ混ぜて」
手招きをした先輩が言った。エプロンはやはり、ウォーリーをさがせ柄だ。目の前に置かれたボウルの中には白い液体が入っている。落ちくぼんだような眠たそうな目で無表情に「はい、これ」と泡だて器を手渡され、
「はあ……」
俺は間抜けな声を発してしまう。
「ぼさっとしない。さっさとまぜる」
有無を言わさぬ口調で言われ、「はあ」俺はまた間抜けな返事をし、ボウルの中の液体を泡だて器でガシガシと混ぜる。
「なんすか、これ。牛乳?」
「生クリーム」
俺を起こしたほうの先輩が言った。やっぱり声にもったりとした妙な甘さがある。それこそ生クリームのような。彼は彼で、ボウルから何かを鍋に流し入れ、それを火にかけている。
「もっとガシガシやって。力強く」
手招きしたほうの先輩が淡々と言う。わけがわからないまま、俺は腕を動かす。程なくして、泡だて器がだんだんと重くなり、二の腕が悲鳴を上げ始めた。なんの苦行だ、これ。
「あの。腕、痛いんですけど」
そう訴えると、
「だろうね」
俺を起こしたほうの先輩が言った。
「その作業が、いちばんきついからね」
なぜ俺は、そのいちばんきつい作業をやらされているのだろう。疑問が浮かんだのだけど、
「がんばれ、一年。もうちょっとだ」
手招きしたほうの先輩が淡々と言うものだから、言われた通りがんばってしまう。
「こっちはできた。見て見て、いちねん。カスタードクリーム」
俺を起こしたほうの先輩が鍋の中の黄色いクリームを見せてきた。コンロから鍋を下ろし、
「そっちも、もういいんじゃない?」
俺の手元を覗き込む。言われて、泡だて器をクリームから持ち上げてみた。
「おー、いいね。ツノ立った」
甘ったるい声で言われ、ほっとする。やっとこの苦行から解放される。
「おい、誉。シューが膨らんでないよ」
手招きしたほうの先輩がオーブンの中を覗き込んで言う。俺を起こしたほうの先輩は、ほまれさんというらしい。そして、この人たちは、どうやらシュークリームをつくっていたようだ。
「それは、あれだよ。森一がせっかちなんだって。オーブン止めてからちょっと待てば膨らむんだって」
わかんないけどたぶん、と言い添えられた言葉を俺は聞き逃さなかった。そして、手招きしたほうの先輩は、シンイチさんというらしい。
「一向に膨らまないけど」
シンイチ先輩が言った。
「まじで。じゃあ、それ失敗だ」
ほまれ先輩が言う。シンイチ先輩がオーブンからシューを取り出し、手に取る。
「あっつ。てか、これ、かたいんだけど、すごく」
「かたい? なんでだよ」
「知らないよ」
ふたりで言い合って、ほまれ先輩も、ぺしゃんこのシューをふつふつと指で押すようにつついている。
「これじゃ、中にクリームが入れられないじゃん」
シンイチ先輩が言った。
「仕方ない。クリームは上に乗っけて食べよう」
そう言って、ほまれ先輩は俺のほうを見た。
「いちねんも食べてって。手伝ってもらったお礼だよ」
その、あからさまに失敗作なシュークリームが果たしてお礼として成立するのだろうか。一瞬思ったが、二の腕の悲鳴を聞きながらつくったクリームがどんな味なのか、一応確かめておこうと俺は頷いた。
「どう、いちねん。かたい?」
ほまれ先輩が言う。おいしい? ではなく、かたい? という問いかけがシュールだ。シューを冷ましたあと、生クリームとカスタードクリームを贅沢に上に乗せたシュークリームになりそこなったなにかを、俺たちはサクサクと食べている。
「かたいです」
サクサクとシュークリームを食べながら、落ちそうになったカスタードクリームを舐め取る。甘い。クリームのほうは成功しているようだ。生クリームよりも、カスタードクリームかもしれない、と思う。ほまれ先輩の声も顔も、カスタードクリームみたいに甘くて、もったりとしている。
「でも、いちねん。味はまあまあじゃない?」
ほまれ先輩が言った。
「おれの作ったカスタードが、特に」
「いちねんじゃないです」
俺の言葉に、
「うそー。上履きが緑色だから、てっきり一年かと思ってた」
ほまれ先輩はのんびりと返す。
「一年は一年なんすけど、原です。原清志郎」
「はらきよしろう、ね」
ほまれ先輩が言った。そして、なにやらシンイチ先輩に、チラリと目で合図を送る。持っていたシュークリームを自分の口に押し込んだシンイチ先輩が、口をもぐもぐさせながら、窓の下の作り置きの棚からノートを一冊取り出し、こちらに持ってきた。目の前の作業台の上で、シンイチ先輩はノートの最初のページを開き、「さあ、キヨちゃん。ここに名前を書こうか、漢字でね」と言う。キヨちゃんと呼ばれたことが若干気になったが、どんな字か知りたいのかな、と俺は渡されたボールペンで名前を書く。同じページの一番上の行には、「早坂誉」と書かれてあり、そのすぐ下の行には「友利森一」と書かれてあった。先輩たちの名前は、こういう字を書くのか、と思いながら、俺は先輩たちの名前のすぐ下に、自分の名前を書き込んだ。原清志郎。
そのノートをほまれ先輩が奪うように抜き取り、なにかを書き足した。見ると、ページの一番上の空白に、《お菓子研究会 会員名簿》と書かれている。
《お菓子研究会 会員名簿》
早坂誉
友利森一
原清志郎
「え」
思わず小さな声が漏れた。
「キヨちゃんは、生クリームを作った。そしてシュークリームを食べた。もう立派な会員だ」
シンイチ先輩が淡々とした口調で言う。
「え」
俺はもう一度言う。
「来週の金曜日も、同じくらいの時間だから」
ほまれ先輩が言う。
「なんなら教室まで迎えに行くし。キヨちゃん一年何組?」
もったりとした甘ったるい声と笑顔でそう言って、ほまれ先輩はノートを閉じた。表紙には太字の黒マジックで、『お菓子研究会活動記録』と書かれていた。
*
「おーい、キヨちゃん。部活行くぞー」
次の週の金曜日、ほまれ先輩は本当に教室まで迎えにきた。
「これ入部届。記入して職員室に出しに行くよ」
「ああ、はい」
俺は荷物をまとめ、素直にほまれ先輩の後について職員室へと向かう。
「あら、いいの? もっと抵抗するかと思ってたんだけど」
前を歩くほまれ先輩が、振り返って言った。きれいな顔で見つめられ、一瞬どきっとしてしまう。
「なにがですか?」
「いやあ、だってほとんど無理矢理な感じで会員にしちゃったからさ」
「まあ、金曜なんで、いいかなと思って」
俺の言葉に、ほまれ先輩は、「ええ?」と間延びした疑問の声を発した。
「金曜ならいいの? なんで?」
金曜日は家に帰りたくないので。そんなことを言うほどには親しくはないので、俺は黙っていた。「まあ、いいけど」と、ほまれ先輩は軽く言い、「今日はキヨちゃんの歓迎会だから、実習じゃなくてパーティーだよ」と笑った。
「あざっす」
自分の歓迎会だということなので、一応礼を言っておく。
職員室に入部届を提出し、調理実習室へと向かう。
今日も先週のようにお菓子を作るのかと思い、実はこっそりとエプロンを持ってきていた。スクールバッグの底のそれに思考を巡らせる。家にあった俺のエプロンは、小学校の家庭科実習でつくったもので、なぜか雷とドラゴン柄だった。なぜもなにもエプロンを縫うにあたり自分で布を選んだはずなので、ドラゴン柄を選んだのは俺自身のはずなのだが、過去の自分がどうしてこんな柄を選んだのか現在の俺には理解ができない。
「きたね、キヨちゃん」
調理実習室では、シンイチ先輩がくつろいだ様子で待っていた。実習用のテーブルには、大皿に盛られたドーナツとペットボトルのお茶が置いてある。
「キヨちゃんの歓迎会だから、奮発してちょっといいドーナツにしたよ。ここの店、人気でさあ、でもキヨちゃんのためだから六時間目サボって並んじゃった。なんせキヨちゃんのためだもの。僕と誉で半分ずつお金出したんだ。キヨちゃんのために」
シンイチ先輩が恩着せがましさを隠そうともせずに言う。おっとりした見た目とは裏腹に、授業をサボることに躊躇いがないらしい。
「じゃあ、キヨちゃんも座って」
さっさと座ったほまれ先輩がテーブルの周りに並べられた丸椅子を指で示す。シンイチ先輩は棚からコップを出してきてお茶を注いでいる。
「それでは、キヨちゃんの歓迎会を始めます」
お茶がそれぞれに行き渡ったのを確認し、ほまれ先輩がコップを高く掲げて言った。
「ぼくたちは、原清志郎くんを歓迎します!」
「歓迎します!」
ほまれ先輩のおかしな音頭に、シンイチ先輩の声が続く。仕方がないので、俺もコップを高く持つ。
「乾杯!」
シンイチ先輩が並んで買ってきたというドーナツは、人気だというだけあっておいしかった。
「お菓子研究会って、先週みたいにお菓子をつくる部活ですか?」
「まだ部じゃなくて、同好会だけどね」
「同好会」
「うちの学校は、部活動が盛んだからね。部に昇格できてない同好会だってたくさんあるよ」
「はあ」
「お菓子研究会はね、お菓子もつくるけど、食べるほうがメインだな。お菓子を食べながらダラダラする会をつくりたかったんだよね」
「まあ、でも最初くらいはちゃんと活動しておかないと」
「それって、放課後の教室でも普通にできるんじゃないですか」
「でもそれは部活じゃないじゃん」
「おれらはね、部活動という青春を建前にダラダラしたいんだよ」
正直、ふたりの言わんとすることはよくわからなかったが、とにかく部活動をしたいんだな、という熱意だけは伝わった。
歓迎会を終え帰宅すると、
「おかえり。昌也くんまたきたよ」
妹が言った。金曜日は、俺が帰宅を故意に遅らせているため、どうしても早く帰宅している妹に昌也の相手をさせてしまうことになる。
「いつも悪いな」
「いいけどさ。昌也くん、全然納得してくれないね。お兄ちゃん、ちゃんと説明したの?」
「したよ」
「お兄ちゃんの説明が下手なんじゃないの」
妹はそう言い、再びテレビに向き直った。
ほぼ必ずといっていいほど、昌也は金曜日に自宅を尋ねてくる。昌也は幼なじみで、中学校までは同じ学校に通っていた。さらに同じバレーボール部でチームメイトだったのだが、高校は別々のところへ進学した。俺は、高校ではバレー部に入らなかった。怪我をしたとか、そういうやむを得ない理由があったわけではない。単純に、もうバレーをしたくなかったからだ。小学校のころから続けていたことなので、やめることに躊躇いはあったが、これからまた三年間、自分はずっとこれをやり続けるのか、と思うと気が遠くなった。嫌だな、やりたくないな、と思ってしまったのだ。もっと別のことをしてみたくなった。バレー以外ならなんでもよかった。アルバイトでも、ゆるい部活動でお菓子を食べながらダラダラすることでも。しかし、昌也は俺がバレーをやめたことにとにかく納得がいかないらしく、再び俺をバレー部に入れようと、毎週金曜日に説得しにくる。金曜日は部活が早めに終わるらしいのだ。いくら説明して、もうバレーをする気はないと言っても昌也は聞かない。言葉は通じているのに、話が通じていないようで、俺はそんな昌也のことを少し疎ましく思い始めていた。そのため俺は帰宅を送らせて、昌也の訪問を避けている。もうバレーはしたくない。そんな単純な理由が、昌也には届かない。
*
金曜日、調理実習室に顔を出すと、
「キヨちゃんのエプロン、激ダサ!」
「ドラゴン! 雷とドラゴン!」
案の定、先輩ふたりにエプロンの柄を笑われてしまった。笑われるのは覚悟していたが、やはり少し拗ねたい気持ちにもなる。
「ウォーリー柄もどうかと思いますけど」
「はあ? いいだろ、これ。いつでもウォーリーを探せるんだぞ」
俺の言葉に、ほまれ先輩が速攻で反撃してきた。
「見つけたらおしまいでしょ。てか、まさか、気に入ってるんですか」
「気に入ってるよ! いまとなってはちょっと見ない珍しい柄じゃんか」
「いや、確かにそうですけど」
そんなふうに言い合いをしながら、今日はパンをつくった。パンは、なんとも形容しがたい、不気味な形に焼き上がってしまった。まるいパンを狭い間隔で並べて焼いてしまったことが原因で、もりもりと膨らんだパンがくっついて、まるで芋虫みたいになっていた。俺たちは不気味な芋虫を数匹つくり出してしまったのだ。
「なにこれ、気持ちわる」
シンイチ先輩が顔をしかめて言った。
「芋虫みたいなパンつくりやがってよ」
ほまれ先輩はそう言い捨てた。
「ひどい」
パン生地を並べたのは俺なので、集中攻撃を受けている。
「あ、でも味はいいよ。うまい」
芋虫パンを一匹手に取って、ちぎって口に入れたほまれ先輩が言う。
「本当だ、うまい」
「焼きたてうまい」
てのひらを返して先輩たちは、焼きたてのパンを絶賛し始めた。俺もパンを食べて、「うまい」と呟く。三人で黙々とパンを頬張っていると、ズボンの尻ポケットでスマホが震えた。見ると、妹からメッセージが届いていた。
『昌也くん、お兄ちゃんが帰ってくるまで家の前で待つって言ってる。落ち着かないから早く帰ってきてよ』
まじか、と思う。とうとう昌也が強行に出てしまった。
「すみません。俺、帰らないと」
「なんで? 急用?」
俺は事情を簡単に話す。
「なにそれ、おもしろそう。おれも行っていい?」
ほまれ先輩がわくわく顔でそう言い、
「物好きだなあ。僕は行かないよ」
シンイチ先輩はあきれたように言う。
「ていうか、キヨちゃんてバレー部だったんだ」
「はい」
ほまれ先輩の言葉に俺はただ頷く。
「バレーやってたから背が高いの? 背が高いからバレーやってたの?」
「わかりません」
シンイチ先輩の問いに、俺は首を捻る。バレーを始めたころから、同年代の男子たちと比べると身長は高いほうだった。
「急いで片づけて、残ったパンは妹ちゃんに持って帰ってあげよう」
ほまれ先輩は、手をつけてないパンをトングでビニール袋に押し込んでいる。シンイチ先輩は無言で使用した道具をてきぱきと洗っている。俺も慌てて手伝う。
校門でシンイチ先輩とは別れ、俺はほまれ先輩と駅へ向かう。
「おれと森一も幼なじみだよ」
電車の中で、ほまれ先輩が言った。
「志が同じでいいですね」
「志って。大げさだね」
俺の言葉にほまれ先輩は笑う。その顔を見て、かわいいな、と一瞬思ってしまった。そういえば、この人はきれいな顔立ちをしていた。改めて気づいて、車窓に映るほまれ先輩と並んで立つ、凡庸な顔立ちの自分に少し引け目を感じてしまい、視線を泳がせる。
「うわ、おれら身長差こんなにあるんだ」
同じように車窓を見ていたらしいほまれ先輩の声で我に返り、「こうしてみると、おれって小さいんだな」という言葉に、「小さくなんてないですよ」とおもしろくもなんともない言葉を返してしまった。
「まあね。キヨちゃんがでかいだけだったわ」
ほまれ先輩はあっさりと言い、「別々の人間なんだから、比べてもしょうがないもんね」と続けた。なんとも思ってなさそうなほまれ先輩のその言葉に、
「そうですよね」
俺は憑き物が落ちたように呟く。
バレーボールを始めたのは、小学生のときだ。昌也に誘われて地域のバレーボールチームに入ったのだ。それ以来、中学卒業までバレーを続けた。誘われてなんとなくバレーを始めた俺とはちがい、昌也は最初から熱心だった。俺も練習や試合は手を抜かずちゃんとやっていたが、昌也のようにバレーを好きにはなれなかった。ただなんとなく続けていたバレーを、中学卒業を機にやめたのは、俺にとっては当然の流れだったのだが、昌也にとっては寝耳に水だったようで、俺にもう一度バレーをやらせようと、毎週金曜日に自宅に説得にくる。だから、金曜日は家に帰りたくなかった。そういうことを、俺はほまれ先輩にぽつぽつと話す。
「キヨちゃんは、本当にもうバレーをやるつもりはないの?」
「はい。もうやらないつもりです」
「口ではそう言ってても、実は心の奥底では、バレーをやりたいですってことない?」
「全くないです」
確認するような問いに答えると、
「キヨちゃんは、ちゃんと自分の気持ちが決まってるんだね」
ほまれ先輩はそう言って、「じゃあ、その気持ちをちゃんと尊重してもらおう」と言う。
「尊重」
繰り返すと、
「そう、尊重。昌也くんは、自分の気持ちを押しつけてくるだけで、キヨちゃんの気持ちを軽んじてる」
ほまれ先輩は真顔でそう言った。いつも軽くふざけているような調子のほまれ先輩なので、そんな真剣な表情を見るのは初めてだ。
「キヨちゃんの気持ちは、大事にされるべきだよ」
ほまれ先輩は俺の胸の真ん中をぽんと軽く叩いてそんなことを言った。
「俺の気持ちを無視して、強引にお菓子研究会に入れたのは誰ですか」
言い返すと、
「でも、入ることを決めたのはキヨちゃんでしょ。断られたら、ちゃんと受け入れるつもりだったよ」
そう言い返されて、俺は黙ってしまう。
「ねえ、不思議なんだけど、なにかをやりたいときの気持ちよりも、なにかをやりたくないときの気持ちのほうが強い気がしない? おれだけかな」
ほまれ先輩の纏う空気が、いつもの気安いものに戻って少しほっとする。
「いや、俺も、そうかもしれません」
「じゃあ、キヨちゃんのその、やりたくないっていう強い気持ちをわかってもらおうね」
にこっと笑うほまれ先輩に、俺は初めて会ったときのように見惚れてしまった。
*
妹のメッセージにあったとおり、自宅の前に昌也がいた。
「誰?」
昌也がほまれ先輩を見て言う。
「部活の先輩」
「はあ?」
俺の言葉に昌也が非難するような声を上げた。
「バレー部以外になんの部活入ったっていうんだよ!」
「お菓子研究会」
「なんでバレーやめてそんなくだらない部活やってんだ!」
昌也の物言いがあんまりなので、言い返そうと口を開いた瞬間に、
「くだらなくはない」
ほまれ先輩の淡々とした声に遮られた。
「きみにとってはそうかもしれないけど、おれたちにとってはくだらなくなんてない。好きでやってることだから」
そう続けて、ほまれ先輩は昌也を押し退けて玄関のインターホンを押した。出てきた妹に、
「こんにちは。清志郎くんといっしょにお菓子研究会で活動している、早坂誉です。遅くにお邪魔してすみません。これ、清志郎くんと焼いたパンです。よかったらどうぞ」
猫をかぶってにこっと笑い、芋虫パンの入ったビニール袋を差し出している。
「え、あわ、こ、こんにちは。あの、ありがとうございます……」
妹は頬の血色をよくし、慌てたように前髪を直してパンを受け取っていた。気持ちはわかる。
「ほまれ先輩、上がってください。昌也もほら」
俺は、ほまれ先輩と昌也を自分の部屋に通す。妹が人数分の座布団を持ってきてくれた。なぜか居座るつもりらしく、自分の分も用意している。
高校でもお互いバレー部に入って、試合をしたかった、インターハイの予選で対戦するのが目標だった、と昌也は言う。だから、俺に高校でもバレー部に入ってほしい、と。もう何十回も聞いた。俺はそれに対し、逐一、もうバレーはやらない、やりたいくない、と訴えていたのだが、俺のこの言葉を昌也はまともに取り合ってくれない。きっと、昌也は自分の気持ちと俺の気持ちを同一視しているのだ。しかし、今日は俺のとなりにほまれ先輩がいる。幼なじみという気安さからか、俺と昌也だけではつい冷静さを欠いた言い合いをしてしまっていたのだが、冷静な第三者が間に入ってくれることで、今度こそ、ちゃんと言葉が通じるかもしれない。
「それは、きみのやりたいことで、きみの目標でしょ。キヨちゃんにはキヨちゃんのやりたいこととやりたくないことがあるんだから、押しつけちゃだめだよ」
リビングのソファ、俺のとなりにすわったほまれ先輩が、向かいに座った昌也にやわらかい口調で言った。
「清志郎だって、同じ気持ちのはずだ」
「決めつけるのもよくない。キヨちゃんがそう言ったの? 同じ気持ちかどうかはキヨちゃんにしかわからないし、仮にそうだとしても、キヨちゃんだって自分の意思で動いてるんだから、きみが横から口を出すことじゃないよ」
いままさに横から口を出してくれているほまれ先輩の加勢は、心強かった。俺では、昌也に対してそんなふうに冷静に的確に自己主張できなかった。
「ちゃんと、キヨちゃんの話を聞いて、キヨちゃんの気持ちを尊重しなよ。キヨちゃんの言葉が自分の望んだものじゃないからって、否定するのはよくない」
ほまれ先輩の言葉に昌也はしぶしぶ頷いた。俺は、昌也に正直な気持ちを話す。何度も話したことなのだが、昌也には伝わらなかった。なので、いままでよりもストレートな言葉で伝える。
「もうバレーはやらない。やりたくないんだ」
「なんでだよ。ずっといっしょにやってきたじゃんか。おまえだってバレー好きだろ?」
「好きじゃない。おまえに誘われて小学校のころからバレーを続けてたけど、なんとなく続けてただけで、別にバレーが好きだったわけじゃない」
「え、うそ、まじで?」
初めて聞いた言葉かのように言葉を発した昌也に、やっと話が通じた、と思う。やっと届いた。
「まじで。いつやめようかって、心のどこかでずっと思ってた」
「……うそだろ」
「うそじゃない。本当」
「バレー好きじゃないのに、あんなに練習してたのか」
「うん。手を抜いたら怒られるじゃん。怒られるの嫌だったから、練習も試合もちゃんとがんばってた」
「そんなことある?」
「うん、ごめん」
俺の言葉に、ほまれ先輩は小さな笑い声をもらした。
「薄々気づいてたけど、キヨちゃんて変なやつだよね」
あなたに言われたくない、と思ったが口には出さない。
「俺、自分がバレー好きだから、清志郎もそうだと思い込んでた。清志郎、バレー好きじゃなかったんだな」
「うん」
「で、もうやめたいのか」
「うん、ごめん」
「いや、謝らなくていい。とりあえず、おまえの話は理解したから」
ほうけたように昌也は言い、ふらふらと立ち上がって、「今日のところは帰るな。お邪魔しました……」と部屋を出て行った。少しして玄関のドアが閉まる音が聞こえる。
「ショック受けてたね」
黙って話を聞きながら芋虫パンを食べていた妹が言う。
「でも、やっとわかってもらえてよかったじゃん」
「うん」
俺は肩の力を抜いて息を吐く。
「先輩、ありがとうございました」
「おれは、おもしろそうだからついてきただけだよ」
ほまれ先輩がけろっとして言う。
「わたしも、おもしろそうだから見てたよ」
妹もそんなことを言い出した。
「いや、それはさすがにわかったわ。おもしろがってるなって」
「お兄ちゃんたちのつくったパン、おいしかったよ」
呆れている俺に、妹が言った。
「芋虫みたいだったけど」
*
ほまれ先輩を駅まで送る道中、ポケットのスマホが震えた。立ち止まって確認すると、昌也から、『今まで悪かった』とメッセージが入っていた。昌也にやっとわかってもらえてほっとしたからか、駅に到着したところで俺は泣いてしまった。無性になにかにすがりつきたいような気持ちになり、
「先輩、ほまれ先輩」
ほまれ先輩を抱きしめて泣いてしまう
「おい、どうしたの。今生の別れのつもりかよ。遠距離恋愛のカップルみたいなことしてんじゃないよ。恥ずかしいだろ」
そう言いながらも、俺からの拘束を解くことはせず、されるがままになってくれているほまれ先輩のことを、好きだと思った。
「泣くなよ、もう。面倒くさいな」
構内のベンチに座らされ、ほまれ先輩もとなりに座る。
「先輩は、どうして俺をお菓子研究会に入れようと思ったんですか」
「会員が三人いないと同好会認定されないからだよ」
「そうじゃなくて。俺を選んだ理由を教えてください」
「キヨちゃんが偶然そこにいたから、ちょうどいいなと思って」
「俺じゃなくてもよかったってことですか」
「まあ、それはそうよ」
「ひどい」
「ひどくないよ。実際、そこにいたのはキヨちゃんなんだから自分の幸運をよろこびなよ」
ほまれ先輩の言葉を聞きながら、はたして本当に幸運だったのだろうか、と自問する。
「偶然と運命って、結局同じことなんだから。気の持ちようだよ。キヨちゃんだって、おれら以外のやつに別の部活に誘われてたら、そのまま入ってたかもしれないでしょ?」
確かにそうかもしれない。
「で、どうする?」
「え、どうするって」
「キヨちゃん、もう金曜日に帰りを遅らせるために部活をする必要なくなったでしょ? お菓子研究会、やめちゃう?」
「やめないです」
「そう」
ほまれ先輩は短く言って、にこっと笑う。
「キヨちゃん、なにか食べたいものある?」
「食べたいもの?」
「泣いてる後輩には親切にしなきゃね。来週の活動で、特別にリクエストに応えてあげるよ」
「ほまれ先輩」
「ん?」
「ほまれ先輩を食べたいです」
「……なにそれ。口説いてんの?」
「そのつもりです」
「高校生の口説きかたじゃないよ。おっさんくさいな」
ほまれ先輩はあきれたように言う。俺は急に恥ずかしくなった。
「あ、もう時間だ」
電光掲示板を見て、ほまれ先輩が言う。
「じゃあ、帰るからね。キヨちゃんも泣くのやめて帰りなよ」
「もう泣いてないし」
「送ってくれて、ありがとね」
ベンチから立ち上がり、ひらひらと手を振って、ほまれ先輩はあっさりと行ってしまった。
俺は、口説きかたがおっさんくさいと言われてことに、地味にショックを受けていた。それとは反対に、昨日までのもやもやした気持ちはすっきりしている。それから、ほまれ先輩のことが好きだな、と思った。
*
ほまれ先輩の髪の毛の根元が、だんだん茶色くなってきている。
「今年度から新しく赴任してきた先生に、茶髪なの怒られちゃって、黒く染めたんだよね」
木曜日の放課後、調理実習室で、焼き上がったクッキーが冷めるのを待ちながら理由を尋ねたら、そんな答えが返ってきた。俺は、相変わらずお菓子研究会に在籍している。ほまれ先輩のことを好きだからというのも少しあるが、だんだんお菓子づくり自体が楽しくなってきたのだ。
「でも、茶色いほうが地毛なんですよね」
俺は、初めてほまれ先輩に会ったとき、瞳の色と髪の毛の色に違和感を覚えたことを思い出していた。ほまれ先輩は肌も白く色素が薄そうなのに、髪の毛だけが不自然なくらいに真っ黒だったのだ。
「そうよ」
「なら染める必要なくないですか。ちゃんと説明したんですか。地毛だって」
「いや、地毛かどうかの確認もなく、頭ごなしに怒ってきてムカついたから素直に染めちゃった」
「ムカついたのに、素直に言うこと聞くんですか?」
「根元から茶色い毛がはえてきてたら、さすがにそっちが地毛だって察するじゃん。察して、勝手に気まずい思いしてくれないかなと思って」
「底意地が悪いんだよ、誉は」
シンイチ先輩がそう言った。俺は納得して、シンイチ先輩と頷き合った。
「わかったよ。今度、髪のこと言われたらちゃんと地毛だって言うよ」
ほまれ先輩は底意地悪そうな笑顔でそんなことを言っている。
ところで、木曜日なのになぜ部活動をしているのかと言うと、アイシングクッキーをつくるからだ。今日は冷ましたクッキーにアイシングをするまでの作業をする。アイシングが乾燥するまでに時間がかかるので、食べるのは明日だ。
「みんなのクッキーをつくっちゃおうね」
ほまれ先輩がなにか作業を始めた。似顔絵でも描くのか、すごいな、と思っていたら、単純に平仮名や片仮名で三人の名前を書いていただけだった。シンイチ先輩は、器用にお洒落な模様を描いている。俺もスマホでアイシングのやり方を検索して、見よう見まねでやってみた。
「なにそれ。芋虫?」
レース模様を描いていたつもりの俺は、ほまれ先輩の言葉に、「そんなわけないでしょ。レースですよ」と言い返す。
「レースには見えないって」
確かにレースには見えない。どちらかといえば芋虫みたいだ。
「俺って、不器用だったんだ……」
部活動を通してそんな気づきを得ながら、俺は少し大人になる。
翌日、金曜日の放課後、調理実習室へ向かう途中の廊下の曲がり角で、
「なんだその髪。染めてるだろ」
先生と思わしき厳しい声が聞こえ、俺は立ち止まる。そっと角からあちらの廊下を覗くと、ほまれ先輩の姿があった。先生もいた。さっきの言葉はこの先生から発せられたらしい。
「はい。以前先生に言われたので……黒く染めてますぅ」
ほまれ先輩は、冷静な、というよりも、キョトンとしたようなかわいこぶった口調で応じている。先生はそこで察したらしく、わかりやすく口ごもっていた。
「地毛が伸びてきてるんですがぁ、また黒く染めたほうがいいでしょうかぁ」
どうしたらいいのかわからない、という空気を醸しながら、ほまれ先輩は気弱な生徒を装って困ったように言い、
「いや、いい」
先生は不機嫌そうにそう言うと、足早に行ってしまった。
「ほまれ先輩」
「わ、びっくりした」
声をかけると、
「見てたの? おれのカマトト演技」
気まずげにほまれ先輩は言う。
「隠れて見てました」
カマトトというのがなにかわからなかったけれど、いまは重要ではないのでスルーする。
「恥ずかしー」
そう言って、先輩が歩き出そうとするので、呼び止めて、右手でほまれ先輩の左手を取り、やわらかく握る。ほまれ先輩はいやがるでもなく戸惑うでもなく、ただされるがままだ。
「俺、ほまれ先輩のこと好きです」
「いまの見てて、そんな言葉出てくる?」
ほまれ先輩はあきれたように笑っている。そして、
「でもまあ、ストレートでいいね。若者っぽくて」
自分も若者のくせに、そんなことを言った。そして、やんわりと俺の手をほどいて歩き出す。
今日は、完成したアイシングクッキーを食べる日だ。
「そういえば、キヨちゃん。前に、おれのこと食べたいって言ってたよね」
調理実習室に三人が揃い、大皿に完成したクッキーをざらっと盛って、ほまれ先輩が言う。シンイチ先輩もいる前でなんてことを暴露してくれているのだと慌てていると、
「キヨちゃん、そんなこと言ったの」
シンイチ先輩が笑いをこらえたような表情で俺を見た。でも、それ以上からかわれるようなことにはならず、少し安心する。シンイチ先輩の大人な対応に感謝しつつ、反対にほまれ先輩のデリカシーのなさに少し腹を立てていると、
「ちょっとだけなら食べてもいいよ」
ほまれ先輩が言った。ハート型に「ほまれ」と書いてあるクッキーを口に咥えて、俺のほうに差し出すようにする。あきらかにふざけているほまれ先輩が憎たらしくなり、本当にこのまま食べてやろうかと思う。
「おっさんくさい遊びしてんじゃないよ」
ふいに放たれた、のんびりしたシンイチ先輩の言葉に、ほまれ先輩は驚愕したように口を開けた。その拍子にクッキーが床に落ちてしまう。
「おれって、おっさんくさいのか……」
ほまれ先輩はショックを受けている。気持ちはわかる。俺もショックだった。
俺は落ちたクッキーを拾い上げて口に入れる。ほまれ先輩とシンイチ先輩が俺を見た。
「食べてもいいって言われたんで」
「汚いな」
「うまいですよ」
「キヨちゃんてば」
言いながら、ほまれ先輩はクッキーを一枚取り、俺のほうへ突き出して見せた。「キヨシロー」と、ほまれ先輩の字で俺の名前が書いてある。
「おれも、キヨちゃんを食べてやるから」
ほまれ先輩が言うので、「どうぞ」と答えると、ほまれ先輩は不服そうな表情をした。
「イチャイチャするんなら、ふたりきりのときにしなよ」
シンイチ先輩が言う。いまのやりとりのどこがイチャイチャだったのか、と考えていると、
「ああ、そうか」
ほまれ先輩が言い、クッキーを口に放り込んで噛み砕いて飲み込んだ。そして、
「おれも、ストレートに言わないとね。若者らしく」
そう言ったかと思うと、急に真剣な表情で、「キヨちゃん。あなたの気持ちを尊重します」と続けた。とっさに、どういう意味かわからず俺は困って、シンイチ先輩を見た。目が合ったシンイチ先輩は、半笑いのような表情で黙ってクッキーを食べている。自分で考えろってことだ。
ああ、そうか。さっきの俺の告白を受けてくれたということか。やっと意味がわかって、俺の顔は熱くなる。そんな俺を見て、
「キヨちゃん、顔赤い。うれしいの?」
ほまれ先輩がにまにましながら言った。
「ねえ、いまどんな気持ち? うれしい?」
俺は、ほまれ先輩のあまりの憎たらしさに、顔を熱くしたまま、思わず唸る。
了
ありがとうございました。