第4話
すぐに戻るから、と言って廊下に出たはいいものの、ジンは早速広い城の中で迷子になっていた。
元来方向感覚のいいほうではない。行けども行けども似たような白い壁。鶯張りの廊下。延々と続く豪奢な襖絵も絵心のないジンにはどれも同じものに見えた。
最初は迷ったらそこらの使用人に道を聞けばいいと軽く構えていた。だがジンの目論見はすぐに外れた。部屋を出てからというもの、先ほど部屋まで案内してくれた女中はおろか他の使用人とも一人もすれ違っていないのである。広い城の中はがらんとしていて、そもそもあまり多く使用人を雇っていないのか、よく見ると天井の梁や襖の陰に蜘蛛の巣が張っていた。
そして何より奇妙なのは、城の構造であった。幾重にも曲がりくねった細い廊下、階下へ繋がる階段は細身のジン一人が降りるのがやっとで、それも壁の仕掛けを下ろさなければ使えない梯子階段であった。
(まるで忍者屋敷じゃねぇか……)
そう結論づけたのは、何気なく凭れた壁がぐらりと揺れてジンの体ごと中へ一回転したときだ。本物の忍者屋敷になど行ったことはないが、吉原にも忍者屋敷を模した揚屋があるので、だいたいの内装やからくりは予想がつく。けれど、これほど手の込んだ忍者屋敷は初めてだ。城郭というものはいつ外敵に進入されても平気なよう、わざと迷いやすい造りにしてあるのだと聞いたことがある。けれどそれにしてもこれはやりすぎだ。
(オレは厠に行きたいだけなのに!!)
ずんどこずんどこ、とリズミカルな蠕動を繰り返し痛む下腹を騙し騙しここまでやってきたが、ジンの便意はとうに限界を迎えていた。「うぅ」とよろけながら近くの柱に掴まる。
どうして厠を探すだけでこんなに苦労をしなくてはいけないのか。
と、そのとき、ひらひらと風に舞う梅の花びらがジンの鼻先を掠めた。見ると、荒れ放題の庭の中央に古い梅の木がぽつんと生えている。その根本。ぬかるんだ地面。そこに両手を広げた大きさほどの泥沼が見えた。
――しめた。
ジンはきょろきょろと周囲を見渡し、人気がないことを確認すると、裸足のまま庭へ降りた。
緊急事態だ。山中ならまだしも他人の屋敷の庭先で野糞をするのには若干の後ろめたさもあったが、この際、恥や外聞などに構っている場合ではない。
泥沼の端に立ち、ごそごそと袴を下ろす。やっと。やっとこの苦悶から解放される。ジンは安堵のため息をついた。
尻を突き出し沼の上に屈む。沼はどれほどの深さなのか分からないが、足の裏で踏んだ感触は柔らかい。ぷにぷにと温かな、まるで人肌のような――
(人肌……!?)
ジンが違和感に視線を落とした瞬間だった。泥の中から何かが伸びてきて、素早くジンの足首に巻き付いた。
「ひっ!」
もの凄い力だ。足首ごと沼の中に引きずり込まれる。ぎょっと目を剥くと、今度は泥の中からくぐもった声が聞こえた。
「……じゃ」
「え」
「誰じゃ、わらわの上に座っておるのは……!」
続いて耳をつんざくような爆音。それが地鳴りと気づくのにしばしの時間がかかった。ゴゴゴ、と音を立てて庭の地面が揺れ始める。梅の木が倒れてジンの背後に転がった。
(な、なんだ……?)
慌てて身を捩り、足首を沼から抜く。そのまま転がるようにジンは庭へ飛び出た。地震はなおも続いている。急に天候が悪くなったのか、空には鉛色の雲がひしめき始めていた。
「この無礼者めが」
声はなおも聞こえる。沼の表面が不気味に盛り上がり、中から泥まみれの塊がジンを追ってきた。
「わらわの眠りを妨げた罪は重いぞ」
再び足首を掴まれる。
(なんかぬめっとしてる――!!)
そのなんとも言えない感触に、ジンは声にならない悲鳴をあげた。泥の塊は低い声で何かを呟きながら、なおもジンに迫ってくる。
「離せっ、この化け物が!」
ジンはとっさに背に括りつけていた脇差しを抜いた。本来なら城にあがった際、案内役の女中に預けるべきものだが、特に何も言われなかったのでそのまま持ってきてしまった。それがまさかこんな形で役に立つとは。
刀の切先を突きつけると、化け物は一瞬怯んだように大きく体を震わせた。化け物の体から次第に泥が流れ落ち、その下から淡い桜色の着物と青い髪が見えた。
(え……)
ジンは己の目を疑った。突きつけた切先の向こう。涙をいっぱいに湛えた青い瞳と視線がかち合った。
(お、女の子……?)
ジンは戸惑った。何度も瞬きをする。
「化け物と言うたな……」
目の前の少女と思しき塊がぶるりと震え、白い肌から泥がぼたぼたとこぼれていく。ジンの足を掴む手に一層力が込められる。
「わらわは化け物ではない! ナマズじゃ! 鹿島のナマズ姫じゃ!」
少女は叫び、火がついたように泣き始めた。それに呼応するように曇天に稲妻が走り、爆音とともに庭に落雷した。ちょうど先ほどジンが凭れた廊下の柱の上だ。火炎が立ち昇る。
(なんだこいつ……やべぇ……!)
少女はなおも豪快に泣き続けている。助けを呼ぼうにも近くに人はいない。
逃げようにも立っていられないほどの地震がジンの足元を掬う。
ジンは脇差しを地面に突き立て、どうにか立ち上がった。どこでもいい。早くこの場から逃げなくては。殺される。この少女に殺される!
「ナマズ……!!」
野太い声が飛んできたのは、ジンがようやく一歩を踏み出したときだった。大きな体に横薙ぎにされる。ジンは再び地面に転がった。
「何してるんだい、アンタは!」
続いて、ヒステリックなヤマジの声。ああ、ヤマジだ。彫りの深い顔立ちにこれでもかと言うように青筋を浮かべ、ジンの元へ駆け寄ってくる。
ヤマジとともに駆けつけたのは、墨染めの袈裟を着た坊主頭の男だった。泣き喚く少女の体を羽交い締めにして、必死に落ち着かせようとしている。ヤマジが耳元で「鹿島入道震斎」と教えてくれた。この城の城主だ。ということはつまり……
「おい、小僧」
だいぶ地震が鎮まり、空が晴れてきたところで、少女を腕に男は振り返った。その手にはいつの間に抜かれたのか、すらりとした直刃の大刀。ぴたりとジンの額に当てられる。
「話は聞いたぞ」
蛇も射殺さんばかりの鋭い視線がジンを正面から睨む。縦に派手な刀傷を負った隻眼だ。
話? 話って何がだ?
「我が娘の寝込みを襲うとはいい度胸だ。覚悟しやがれ。刀の錆にしてくれるわ」
「わーっ!」
問答無用で降り下ろされる刀に、ジンの便意はすっかり吹き飛んでしまった。