第3話
鹿島の国は江戸から北東へ約二十里、日光街道から分岐し鹿島神宮へ続く門前町として古くから栄えた港町である。下総国の犬吠崎から大洗岬へと続く海岸線は鹿島灘と呼ばれ、長い年月をかけ荒ぶる磯波に浸食された岩肌が複雑な造形美を見せる。
鹿島神宮の裏手、高台に築かれた城の天守から眺める景色は勇壮の一言で、多少路銀がかかっても帰りは船旅にしようとジンは一人心を弾ませた。
「しばしこちらでお待ちください」
城門から部屋まで案内をしてくれた使用人が恭しく一礼をし、下がっていく。ヤマジが「ありがとう」と、羽扇を手に微笑んだ。こういうときのヤマジの外面の良さは折り紙つきである。ジンは小さく頭を下げ、再び窓枠から身を乗り出した。城下の景色をつぶさに眺める。
眼下を大きく東西に分断し、海へ悠々と流れ込むのは鰐川。西端に北浦。ともに利根川の支流にして霞ヶ浦を形成する湖である。川の両岸には集落が軒を並べ、刈り入れを間近に控えた黄金色の田圃が周囲に延々と続く。遠くに望む筑波山の尾根にはまだ雪が残っていた。
(それにしても)
ジンは思った。川の上流、城郭に程近い白壁で囲われた一角は市場になっていて、物売りの行き交う街道沿いには先ほどジンが長時間格闘した忌々しき厠が見える。
(それにしてもさっきの髭面野郎は運が悪かったよな。今頃、どうにか自力で気がついてくれてりゃいいけどよ)
厠でヤマジに眠らされた哀れな侍のことを思い出し、ジンは重いため息をついた。
目が覚めたら厠で長い時間伸びていました、だなんていいお笑い草だ。あの様子では、きっとしばらくは糞のにおいが袴からとれないであろう。ご愁傷様なこった。
そこまで思って、ジンはふと気になって己の袂を引き寄せ嗅いでみた。いや、これぐらいならまだセーフ。……のはず。異様に鼻が利きすぎるため、たまに臭さの一般基準がわからなくなるのが、ジンの悩みの一つであった。
「何やってんだい、ジン。さっきからそんなところをふらふらして」
名を呼ばれ顔をあげると、ヤマジが座敷の中央で盆に出された茶菓子を美味しそうに頬張っていた。
「食べないなら、これ、アンタの分も貰うよ」
言うより早く、ジンの茶饅頭はあっと言う間にヤマジの口の中へ消えていった。
行儀よく正座はしているものの、使用人が消えた途端、ヤマジはすっかり普段の調子に戻ってしまった。抹茶を片手で豪快に飲み干し、「かーっ、うまいねぇ!」と満面の笑みを浮かべる。手に持った品のいい有田焼きの茶碗がまるで酒のお猪口のようだ。
「さすが鹿島の殿様だねぇ。用意する菓子の質も段違いだ。これは報酬もうんと期待できそうだね。いくらふっかけてやろうか。ヒヒヒ」
「なぁ、ヤマジ」
ヤマジが頭の中で楽しそうに算盤を弾き始めたところで、ジンはずっと気になっていたことを訊いた。
「今日の客ってのは? まさか、鹿島入道震斎本人じゃねぇよな?」
「当たり前だろう。誰がジジイの縁談をまとめて喜ぶもんか。アタシが依頼を受けたのはもっと可愛い子だよ」
「可愛い子? けど、震斎には子供はいなかったはずだ。養子を取ったという話も聞かねぇけどな」
「それがいたのさ。まぁ、今まで震斎のジジイがひた隠しにしてきたからあまり世間に知られちゃいないが、それはもう城の中で大事に大事に育ててきたという深窓の姫君がね」
「深窓の姫君……ね」
そこまで聞いて、ジンは首を傾げた。これまで縁師に仕事を依頼してくる客と言えば、女郎上がりや博徒や札付き者ばかりで、要は花街に巣食う「ワケあり」な男女ばかりであった。しかも皆揃って醜女・醜男揃い。真剣に客の身の上を聞くヤマジの隣で、「こりゃひどい」とジンがこっそり涙したのは数知れない。
「だけどおかしなもんだな。これほど大きな藩の姫なら、縁師を雇うまでもなく勝手に縁談が降って沸いてきそうなもんだ。なんでオレらなんかにわざわざ」
ジンが訝しげに振り返ると、ヤマジは「まぁ、事情は人それぞれって話さ」と言って苦笑した。
「御一新後は家格や石高だけで縁談がまとまるほど簡単な世の中じゃなくなっちまったからねぇ。我々庶民と違って、お大尽様方にも色々あるってところさ」
珍しく歯切れの悪いヤマジの物言いに、ジンはピンとくるものがあった。「ははぁ」と顎を掻く。
「さてはその姫君、相当のブ……」
言いかけたときだった。
「ぐ、お……!」
「滅多なことを言うんじゃないよ! アンタは瓢屋を潰したいのかい!?」
ヤマジの右拳が目にも止まらぬ速さで、ジンの下腹に決まる。
「アタシらはもう敵の陣中に来てるんだ。どこで見張りが聞き耳を立てているか分かったもんじゃない」
怖い顔でまくしたてるヤマジにジンは己の迂闊な発言を後悔する……より先に耐えがたい震えが再び全身を襲い始めた。
よりにもよって、古伊万里よりも繊細な今のオレの下腹を殴るやつがいるか!
「く、そ……ヤマジ、てめぇ……」
「……って、ジン! お待ち、どこ行くんだい」
畳の上に四つん這いに崩れたジンは呪詛の言葉を吐きながら、のろのろと廊下へ向かい犬歩きを始めた。
ヤマジが慌ててジンの後ろ髪を引っ掴む。ジンはすぐにその手を振り払った。
「うるせぇ」
ジンは低い声で唸る。額にはすでに脂汗が浮かび、ひくつく尻の穴はもう一刻の猶予も許してくれない。そのあまりの剣幕にヤマジが押し黙る。ここぞとばかりにジンは叫んだ。
「いいからオレを厠に行かせろ!」