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第2話

「おっと」


 耳障りなだみ声が聞こえたのはそのときだった。ヤマジの肩の向こうに山賊のように濃い髭を生やした浪人の姿が見える。茶色く煤けた着物はひどく醜悪な臭いを放っている。男は入れ違いにヤマジにぶつかった肩を押さえ、胡乱な視線を上げる。しかし、すぐにその双眸は驚愕に見開かれた。


「おっ、女!? なんで」

「あらいやだ」


 ヤマジが口許に手を当てる。まるで、今初めて気づいたとでもいわんばかりの反応だ。


「ごめんなさいねぇ、男前なお侍さん。まさかこんなところで出会っちまうなんてねぇ」


 ヤマジはいかにも可笑しそうに笑いながら浪人の肩に手をつく。甘えるようにしなだれ男の目を覗き込むと、男は一瞬にして黙りこくった。上下する喉の動きが遠くからでもよく分かる。


「な、なんだ。ワシに何ぞ用か?」


 居丈高な言葉とは裏腹に浪人はすでにだらしなく頬を緩め始めている。ヤマジが自慢の胸をぐいぐいと押し付け、艶っぽく小首を傾げてみせたからだ。


「用って言うほどのものでもないんだけどね。これも何かの縁の尽き。どうか恨まないでおくれよ」


 とヤマジは断わったうえで、右手を添え、男の耳元に吐息を吹きかけた。


「アタシのことは、忘れてちょうだいな」


 紅を引いた唇がゆっくりと蟲惑的に動く。甘やかな囁きに魂を奪われたのか、男は次第に瞼を落とし、十数える間もなく鼻頭から派手に厠の地面に沈んだ。


「おい、ヤマジ」


 ジンはすっかり地面に伸びてしまった男の禿げ頭を見下ろしながら、呆れた声を聞かせた。


「こんなところで『力』を使うのはやめろよ」

「どうしてだい? 美女のキスを受けて倒れるんだ。幸せなもんだろう?」


 しかし、ヤマジはそう言って取り合わない。


「今頃、天国で菩薩にでも会っているだろうよ。夢見心地とはまさにこのことだね。まったく感謝してほしいぐらいさ」

「美女って、お前な……」

「アタシが男の厠に出入りしてるなんて知られたら、女の沽券に関わるからね」


 ヤマジは薄く微笑み、玉厨子色(たまずしいろ)の瞳を片方だけ瞑ってみせた。通常の男ならば一発で再起不能になると謳われたヤマジの流し目を正面から受けても、ジンは決して屈しなかった。屈しない、屈せない理由があったのだ。ジンは無言でヤマジの体を頭から爪先まで見つめた。


「なんだい? ジン」


 ヤマジが両手を払いながら訊いてくる。その顔は一仕事終えたとばかりに晴れやかなものであった。ジンは足元で転がる髭面の浪人に心底同情した。


(女、女って……)


 ジンはたまらず心の中で絶叫した。


(てめぇは男だろうが……!)


 例えば、さっき扉を蹴破ったときに緋襦袢の裾から覗いた褌の奇妙な盛り上がり。幼い頃に初めて一緒に銭湯に連れて行かれ見たヤマジのそれは、軽くジンの人生においてワーストワンのトラウマになっていた。

 しかし、目の前で上機嫌に鼻歌を歌うヤマジに今さらそれを突っ込めるほど、ジンは浅慮でも気丈でもなかった。ぐっと堪え、ヤマジの後に続き厠を後にする。途端に眩しい陽の光がジンの額を容赦なく襲った。


「で、何者なんだよ、今日の客ってのは。前金(まえきん)で二十両も出すなんて尋常じゃねぇぞ」


 気分を入れ替え、青空の下を高下駄で揚々と歩くヤマジの隣に並ぶ。


鹿島入道(かしまにゅうどう)震斎(しんさい)。前皇帝・雷舜雅(らいしゅんが)の実弟にして、ここ鹿島の国の藩主さ」

「ほぉ」


 その名前ならばジンも聞いたことがあった。十五年前の革命を成功へと導いた剣の腕の誉れ高き傑物だ。しかし今はあらゆる官職を蹴り、領地である鹿島で細々と暮らしていると聞く。

 それにしても、そんなお大尽様が自分達のようなぽっと出の縁結び屋に仕事を依頼してくるだなんて一体どんな風の吹き回しか。


「で?」


 ジンは鼻をほじりながら訊いた。縁師の仕事にも依頼主の素性にもさして興味はないが、ヤマジがどんなあくどい手を使ったのかだけは気になった。


「そんなすごいお殿様をどこで口説き落としてきた?」


 おおかた花街か本業の髪結いの仕事先での話か。多少話を誇張して客を掴むのは商売の基本であるが、この美貌の性悪オカマの場合常識というものが通用しない。今後も目立たず恨まれず至極真っ当に生きていきたいと望むジンにとって、こんなところで警邏隊(けいらたい)に捕まるのは本意でなかった。


「どうせあることないこと吹き込んできやがったんだろう。え? 今度は何て言って騙してきやがったんだ」


 眩しい日差しに目を細め、隣を振り仰ぐと、


「……内緒」


 と言って、美貌のオカマは人差し指を唇に当て、たおやかに微笑んだ。


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