遊戯、密偵の冬
コルヴィエ王国に冬が到来した。
比較的、温暖な我が国でも冬は雪に覆われ、湖には分厚い氷が張る。この氷を利用した遊戯スケートは、貴族だけでなく庶民の間でも人気だ。俺も普通に滑るだけなら面白いと思う。普通に滑るだけなら。
「国境を越えて進軍してきた敵兵を、湖へ誘き寄せて沈めてしまう方法は有効でしょうか」
「どうかな。敵もこの国の大まかな地形は知っているだろうし、ジョレット湖のような有名な場所は避けると思うよ」
「では川の水を堰き止めて、一時的に湖を造る……いいえ、それでは民衆の水を奪うことになりますわね」
「大規模工事は目立つしね」
「大軍を罠にかけることはロマンですが、実行するのは難しいですわ」
「敵も馬鹿じゃないからなぁ」
色気の欠片もない会話だ。ここが作戦室で、将軍を相手にした戦術論争ならば俺も諦めよう。
だがしかし。
ここは冬のジョレット湖で、俺とアドリエンヌは釣りに来ているのだ。
想像してみてほしい。見渡す限りの冬景色。純白の雪と影が織りなす、幻想的な風景。温かな冬の装いのアドリエンヌは、煌めく粉雪の中で頰を薔薇色に染めている。俺が贈った毛皮の帽子を被り、女神すら嫉妬しそうな形の唇から溢れる――血生臭い作戦。
イジメか。
いや、薄々分かっていたけれど。
俺は手にした釣竿を引き上げた。小さな釣り針の先には小魚がついている。
「まあ。素晴らしい釣果ですわね、クリストフ様」
「幸運の女神が隣にいるからね」
お察しの通り、俺たちはスケートではなく釣りに来ている。放っておいたら雪中行軍を始めそうなお嬢様とスケートをしたら、とんでもない速度で置いていかれそうだからだ。
比喩ではない。遠目に滑るアドリエンヌを目撃した時は、未確認生物かと思って二度見した。それぐらい速かった。
釣りなら非常食を探しに行こうという名目で誘えるし、アドリエンヌの身体能力に振り回されることもないだろう。そんな打算で、俺は冬の釣りを満喫しに来たのだが。
「最近は吹雪く日が多かったけど、アドリエンヌは何をしていたの?」
「使用人たちと携行食を改良しておりました」
もちろん騎士団が遠征する時に持っていく食料だ。多くの国では現地調達するのが基本だが、我が国では食料を持参できないかと試行錯誤している。村や町に対して、いきなり大人数の食料を要求すると負担が大きいのだ。
国民を飢えさせて反乱を起こされるのは困るからね。
「研究熱心だね。美味しいものが出来たら、普及させようか」
もし外国が侵略してきたとき、俺は王の代理として前線部隊の指揮を執ることになっている。もちろん素人だから現場に丸投げするしかないが。俺に出来ることといえば、王太子の特権を使って前線部隊の待遇を良くすることぐらいだ。食事もその一つと言える。
「よろしいのですか? その、今はまだ試作の段階ですの」
「美味しいものを食べると元気になるからね」
俺がそう言うと、後ろに控えていた例のアサシンメイドが呆気に取られた顔をした。けっこう距離が離れているんだけど。あの娘、耳が良すぎないかな。
周辺には俺達の他にも釣り人が糸を垂らしている。警備の都合というよりも釣り人の暗黙の了解――近付きすぎると釣糸が絡まるから、かなり距離が開いていた。俺とアドリエンヌの会話も、後ろのアサシンメイド以外は聞こえていないようだ。
釣りならアドリエンヌも無茶なことはしないとにらんで、ジョレット湖への立ち入りを制限していない。王族の都合で庶民の行動を縛りたくないのもあるが、王太子という身分を忘れて遊びに興じてみたかった。
警備をしてくれている護衛には、後で果実酒を贈っておこう。我が国で新しく開発したばかりの酒で、噂によると女性に人気の銘柄らしい。俺にもいくつか献上されたのだが、甘い酒は苦手だから執務室の端で埃を被っている。
決して在庫処分ではない。酒だって、美味いと言ってくれる人に飲んでもらいたいだろう。
俺は針の先に練り団子をつけ、氷に開けた穴から糸を垂らした。
持参した釣竿は二種類ある。一つは先ほどまで使っていた小魚用で、複数の釣り針がついているもの。この針は羽虫に似せた飾りがついているので、餌がなくても釣ることができる。水の中で上下に揺らして魚を誘き寄せる。
もう一つは俺が今、持っているもの。こっちは餌をつけなければいけないが、少し大きな魚を釣ることができる。冬のジョレット湖ではこの二本を使い分ける釣りが流行っていた。
俺が糸を垂らしてしばらく待っていると、竿に小さな振動が伝わってきた。魚が食いついた動きだ。
「今日はなかなか運がいいらしいな」
魚の動きを感じながら、糸をリールで巻いていく。無理に引き上げると糸が切れ、魚を逃してしまう。
上機嫌で糸を巻く俺の隣で、アドリエンヌも魚を釣り上げていた。長さは彼女の前腕と同じ、体に赤い筋が入っている。脂が乗っているので、塩焼きにするのがいいらしい。
脳裏に焚き火で丸焼きにした魚に齧りつくご令嬢の姿が浮かんだことは秘密だ。
「クリストフ様、釣れましたわ!」
「おめでとう。いい魚だね」
アドリエンヌの幻を頭から追い出していると、急に竿が引っ張られた。俺の手から逃れようとするかのように暴れ、水面へと引きずられる。
「うわっ」
慌てて釣り糸に強化の魔法をかけ、穴の縁に踏みとどまった。
「クリストフ様!」
釣った魚をメイドに託したアドリエンヌが、俺の釣竿に手をかけて引く。釣竿の動きは幾分ましになった。
「まさかこれは……伝説のヌシ!?」
「伝……え?」
この湖にそんなご大層なもの、いたっけ?
アドリエンヌがすぐ側にいるという緊張が、一気に吹き飛んで冷静になれた。
「公爵家に伝わる話によると、冬の一定期間にのみ水面近くを回遊するという魚ですわ。黒く光る鱗に金色の目、極彩色の尾鰭を持つトラウトの亜種! かのエマニュエル三世が一週間にわたる格闘の末に取り逃したという、伝説の巨大魚!」
「どうしよう。エマニュエル三世って俺のご先祖様なのに、全く知らないんだけど」
力説してくれるのはありがたいけれど、肝心の王家にその逸話が残っていない。そもそもご先祖様が釣りをしていたことすら知らないのだが。
「クリストフ様。エマニュエル三世が成しえなかった偉業を、どうか」
「偉業」
ただの釣りじゃん、とは言えない空気だった。いつの間にか周囲の釣り人たちも注目している。止めて、見せ物じゃないから。集まるな、散れ。
釣竿が大きくたわんでいる。
異変を察した護衛の一人が、呪文を唱えて釣竿の強度を向上させた。本来なら武具に使う、一時的な強化魔法だ。
更に氷の魔法を扱える護衛が足場の氷を分厚く、穴の淵を隆起させた。足を載せると釣竿を引っ張る時に力が入りやすい。氷が割れて湖へ落ちる心配もなさそうだ。
「軍神の加護を」
隣でアドリエンヌが身体強化をかけてくれる。腕の疲労が消え、釣竿が軽く感じられた。
水面近くに黒い影が見えた。アサシンメイドが唱えた魔法が魚に当たり、動きが鈍くなる。相手を弱体化させる魔法だろうか。逃げる魚の周囲に氷の矢が降り注ぎ、少しずつ魚は岸へと追い詰められていく。
魚を釣るためだけに、大型魔獣の討伐並みの魔法が注ぎ込まれている。見守っている釣り人の間からは、いつしか俺への応援がとぶようになり、諦めようなどとは言えなくなっていた。
俺、釣りに来たはずなのに。どうして前線で奮闘する騎士のような扱いをされているんだろう。
否。
遊びとはいえ、何事にも真剣に取り組むべきではないのか。釣った魚にも命がある。アドリエンヌや護衛が使った魔法だって、皆が努力をして習得したものだ。命令せずとも助けてくれているのに、俺の気まぐれで台無しにしていいものではない。
「アドリエンヌ」
俺に任せて。そう意味を込めて、彼女へ笑いかける。ここまでお膳立てされたからには、格好良いところを見せたい。
「クリストフ様……分かりました」
察しが良い婚約者は釣竿から手を離す。尊敬と慈愛に満ちた目で俺を見守ってくれるようだ。手を離してもなお、俺を支えようとしてくれる心が嬉しい。
魚はいったん深く潜り、水面へと急上昇してきた。水面に落ちる勢いで魚は深く潜るから、釣り糸を引き出して遊びを作ってやらないと切れてしまう。
黒い魚の頭が見えた。やはり跳ぶつもりだ。
大型魚は疲弊させて少しづつ引き寄せるのが定石。焦ってはいけない。
冬の湖から黒い巨体が飛び出した。金色の目に、水に浮いた油のような極彩色のヒレ。黒々とした鱗は、黒曜石を貼り付けた工芸品に似ていた。弧を描いて上昇する魚の後には、凍りついた水飛沫がきらめく。
ジョレット湖の主。今まで誰も釣り上げたことがない魚は、確かに主の名に相応しい風格を備えていた。
俺はリールのストッパーを解除して、巨大魚の潜水に備え――
「投擲!」
アドリエンヌの冷静な声が冬の湖に響いた。水面を割り、姿を現した魚に投網が絡みつく。護衛の掛け声とともに黒い巨体が引っ張られる。
魚は湖へ戻ることなく氷上へと叩きつけられた。衝撃で氷に亀裂が入り、慌てて護衛が氷を補強する。
暴れる魚の頭へ、アサシンメイドがナイフを突き立てて神経締めにするのが見えた。いつからか用意されていたソリに乗せられ、落ちないように太い縄で固定されていく。ソリの前には六本足の馬が二頭、白い息を吐いて待機している。
手際いいな。あれ、荷物を大量に運べるように品種改良した軍馬だ。連れ出すには国王の許可がいるはずなんだけど。俺は申請した記憶がない。もちろん一緒に来た覚えもない。
俺の健闘を称えて、集まっていた釣り人が小さな国旗を振っている。
ここに集まってる人たち、常にそれ持ってんのか。王子なのに持ってない奴がここにいるんだけど、いいのかな。とりあえず手を振っておくか。おっさんしかいないから、野太い歓声しか返ってこないけどな。
「お見事です、クリストフ様! クリストフ様?」
なるほど、アドリエンヌは俺の微笑みを『網で手助けしろ』という意味だと受け取ったらしい。
彼女は悪くない。ちゃんと言葉にしなかった俺の失態だ。手を添えるだけの簡単な仕事にしてくれたことを、今ここで感謝しなくては。
俺は心配そうに見上げるアドリエンヌへ、精一杯の笑顔を返す。
「皆のお陰だね」
「いいえ。手持ちの餌で魚を引っ掛け、巨大魚を誘き寄せる作戦、お見事でした」
いいえ、ただ餌をつけて適当に湖へ入れただけです。
「やはり古代の歴史書に準えたのでしょうか? ルイ三世のオ・ルレームの戦いを彷彿とさせますわね。敵の軍勢に対し、余の首を討ち取ってみよと宣言された勇姿。馬を巧みに操り、味方が待ち伏せる谷へと誘導した智略……」
俺の記憶が正しければ、その戦いは戦場で迷子になったルイ三世が敵本陣近くで見つかり、死に物狂いで味方がいる方向へと逃げ帰った戦争だ。総大将であるルイ三世を討ち取ろうと敵の陣形がのび、たまたま崖の上でサボっていた味方が気づいて攻撃、勝利したらしいが。
どちらかと言えば、我が国の黒歴史だろう。負けた国は、もっと黒歴史だが。
なお当時のルイ三世の日記には『トイレに行って帰ろうとしたら迷子になってマジ焦った。これで負けてたら後世の笑い者だったよねHAHAHA!』という内容が貴族らしい優雅な言葉で書かれている。
この戦い以降、戦場には指揮官専用のトイレが用意されるようになり、この携行トイレを管理する者は『瞑想の間の番人』なんて役職名がついている。普通にトイレ係って呼ばれるよりはいいね。
「歴史を知り、活かすなんて……クリストフ様は本当に素晴らしい方ですわね。あら、どうされました?」
「いや、あの山が眩しくてね」
斜め上の解釈に涙出そう。