ルル
ルルは平凡な家庭に生まれた。両親はどこにでもいる農民で、収入も平均。どこからどう見ても一般的な、物語のモブと呼ばれるような家庭。
そんな家に対して、ルルは不満は持っていなかった。朝から晩まで何かしら働いていたけれど、畑の草むしりも内職の蝋燭作りも嫌いではない。ご飯は食べられるし、冬に凍傷になることもない。
平凡だけど人間らしい暮らしをさせてくれるのだから、ルルは幸せだったのだろう。
そんな日々が消えたのは、ルルが暮らす国で戦争が始まったのが原因だった。ルルたち平民を守ってくれると思っていた国が、侵略者に負けたのだ。敵軍の通り道だったルルの村は焼かれ、家族とはぐれてしまった。
迷子になったルルを見つけたのは侵略者だ。首に縄を繋いで、戦利品として連れ去られた。
ルルはまだ、まともな扱いだったのだろう。男たちの夜の相手をすることは避けられたのだから。
連れ去られた先では色々なことを教わった。
メイドとしての心得。毒の扱い。接近戦での立ち回り方。そして潜入する国の言葉。
覚えがいいと沢山ご飯をくれる。
飢えることは悲しいことだと知ったのは、この時。
ルルは自分が使い捨ての駒だと知っていた。それでも抵抗しなかったのは、生きていることがどうでも良かったから。
教育が終わると、外国に潜入して与えられた役割をこなすよう命令された。信用を築いて王子に近づき、始末するための駒だ。
途中までは上手くいっていた。いよいよ王子を毒殺するという段階で、王子が紅茶を拒んで失敗したけれど。証拠も残らないように毒入りの紅茶を処分したはずなのに、騎士に拘束されて何処かの屋敷へと連れてこられた。
いよいよ殺されるのかと思っていたのに。
「どうして、始末しなかったんですか?」
見上げた先には、天使のような令嬢が立っている。王太子の婚約者、アドリエンヌだ。
彼女はルルの手を取り、優しく微笑む。
「どうして? 殺す理由なんてないわ」
「でも、ルルは」
アドリエンヌの指先がルルの唇に触れた。
「あなたは新しく採用されたメイドよ。私がクリストフ様にお願いをして、うちに来てもらったの。いいわね?」
優しいけれど、有無を言わさない口調だった。ルルは困惑して口を閉ざす。
「これからはクリストフ様のために働かない?」
どうでも良かった。外国人のルルに忠誠心なんてない。ただ死なないためにしていただけで、誰を殺そうが関係ない。
――何を考えているの?
暗殺者のルルを採用するなんて、この令嬢は狂っているのだろうか。ルルが少し動けば、彼女の細い首を切り落とせるのに。
ルルがアドリエンヌの手を離すと、背中に衝撃が走った。いつの間にか視界が天井を向いている。投げられたのだと理解する頃には、アドリエンヌの手がルルの髪を撫でていた。
「私はクリストフ様のために生きると決めたの。だからあなたに殺されるわけにはいかないわ」
「あ、はい」
殺気は出ていなかったはずだ。この令嬢は何者なのだろうか。細い腕でルルを軽々と投げ飛ばしたかと思えば、慈愛に満ちた顔でルルを愛しんでいる。
――よく分かんないけど、怖いなあ。
クリストフを傷つけたら、きっと一瞬で殺されるに違いない。
「あの」
「なあに?」
「ルルは、あなたの下で働く、ということでいいのでしょうか?」
「そうね。そうしてくれると嬉しいわ」
「ご飯は食べられますか?」
「ご飯?」
ルルは起き上がった。
「飢えるのは悲しいです。暗殺の先生が出した目標を達成できなくて、ルルは何度もご飯を抜きにされました。ナイフの手入れが不十分だと、肉を減らされます」
「あら。それは良くないわね」
アドリエンヌはルルにクッキーを渡してきた。真ん中に赤い木苺が乗っている。
「ちゃんと食べないと、いざという時に力が出ないわ」
毒餌だろうか。ルルは受け取ったクッキーを齧った。毒の耐性なら、ある程度は身についている。ここで死んだら、それまでの命だっただけだ。
「……甘い」
初めて食べたクッキーは甘かった。変な味がしない。ガラスの欠片も髪の毛も入っていない。この人について行けば、もう空腹で泣かなくていいのだと悟る。
「あなたの力を貸して。クリストフ様を守るために必要なの」
こんなに強いのに、ルルのような捨て駒を必要としている。それだけ敵が強いのだとルルは思った。どうせ生きる目標なんて持っていなかったのだ。美味しいご飯をくれる主人に仕えてもいいのではないだろうか。
「分かりました。今から、アドリエンヌ様がルルの主人です」
美しい令嬢は微笑んでいる。
「手始めに、ルルを中心にメイドだけの部隊を作りましょう。貴婦人の警護だけにとどまらず、国内に情報網を構築しなければ」
「ルルは戦うことしか出来ません」
「それでもいいのよ。それぞれが得意なことを活かせばいいの」
「そうですか」
ルルは安心した。
きっとアドリエンヌはルルを上手く使ってくれる。
――主人の婚約者という王子は、もっと凄い人なんだろうな。
主人が心酔するほどだ。主人よりも強い人格者に違いない。まずはお披露目を目指すというアドリエンヌに頷きながら、ルルはより一層、訓練に励もうと誓った。