狂乱、襲来の春4
私は竜だ。固有名詞はまだない。
気の向くままに山野を駆けめぐり、地を這う獣を見下して空を舞う覇者である。大陸の端までやってきたところ、矮小なる人間に捕らえられた。
まったくもって不甲斐ない。
幸いにして檻に入れられることは免れたものの、首輪をつけられている。何度か引きちぎろうとしたものの、いかなる素材で作られたものか、少しの傷もつけることが叶わなかった。
私を地上に繋ぎ止めた人間だが、小さな体に見合わぬ膂力の持ち主であった。私の攻撃をことごとく防ぎ、瞬きする間に私の背後に回っている。
解せぬ。
長く生きてきた私の理解を超える存在だ。
さて、この人間には絶対服従している相手がいるようだった。
――私を倒した人間が心から従う主とは。いかなる強者であろうか。
想像することが恐ろしくなった私の前に、普通の人間が現れた。
普通の人間である。
普通だった。
どこからどう見ても、強者ではなかった。
大切なことだから、もう一度言う。
普通だ!
私は騙されているのだろうか。疑心暗鬼にさせることで私の思考力を奪うという、搦め手の一つなのか。
否。
私を倒した人間、アドリエンヌは本気でそう思っているらしい。もしやこの娘は洗脳されているのかと疑ったが、残念ながら正気であった。
クリストフと呼ばれた人間は、疲れた顔であきらめるよう言ってきた。ここに至るまで、数々の精神的な戦いをしてきたのであろう。
私には分かる。こいつ、見た目以上の苦労人だ。
「クリストフ様。この子の名前を決めていただけますか?」
二人は私に名前をつけようとしていた。人間ごときに私を飼い慣らせると思うのか。思い上がりも甚だしい。
「そうだなぁ……じゃあポチ」
おい、それは犬の名前。極東に伝わる、由緒正しい犬畜生の名前ではないか。ふざけるな。
貴様、疲れてるからって適当に決めるなよ。
何があっても噛み殺してやろうと頭を上げた私は、クリストフの背後に影を見た。
楽しそうな含み笑いを浮かべた、我々とは別の次元に存在する何か。あらゆる場所に存在し、また存在しないという理解の範疇を超えたる者。人間はそれを神と呼んでいる。
私の人間に関する知識が正しければ、それは『悪戯と知恵の神』と呼ばれていた。ここ数百年ほど姿を見かけないと思っていたが、まさかこんな大陸の端に潜んでいたとは。
――今日からポチ。
奴は私にそう命じた。私に固有名詞が刻まれた瞬間である。
名を与えられたとたん、私は目の前にいる人間にのみ、反抗する気力が消えていった。悪戯の神の名に相応しい力をもって、私をただの愛玩動物へと変えてしまったらしい。
捕まってしまった以上、こいつらの道具になることは致し方ないと諦めていた。だがしかし、ポチはないだろう。もっとカッコイイ名前にしてほしかった。
たまには私も泣いていいだろうか。
*
その夜、私の背中にブラシをかけながら、アドリエンヌがため息をついていた。どうやら悩みがある様子であるが、私には人間社会のことは預かり知らぬことである。
それより、もう少し右側の背中を擦ってくれないだろうか。鱗の生え替わりでかゆい。
春は新しい鱗が現れる時期、かゆさに耐えられず暴れたくなる時だ。人間の建物が体を擦り付ける岩に見えてくる。岩と違い、もろく崩れるから残念である。
「クリストフ様が本気で剣の相手をして下さるのが、まさかお酒を召した時だけだったなんて……」
あの小僧は酒を飲むと性格が変わるのか。昨日は人間どもが騒がしかった。誰かを呼んでこいだの、結界が保たないだの、私の安眠を妨害してくれた。
「特に魔法との連携が素晴らしくて」
大陸の東側には酒を飲むほど強くなる人間がいるというが、その仲間だろうか。いずれにせよ私がいない場所でやってほしいものだ。
「もう一度、飲んでいただくべきでしょうか。いえ、深酒はお体に障りますし……」
人間社会のことは人間で解決すべきである。私はアドリエンヌに背を向けた。
今度は尻尾の付け根をお願いします。




