狂乱、襲来の春2
アドリエンヌが俺の予想の斜め上を疾走していることは、もうすっかり諦めている。彼女は存在自体が奇跡のようなものだから、凡人の俺には理解できないことがあるのだと。
だから彼女が何をしようとも、もう驚くことはないだろう。そう思っていた時期が俺にもありました。
久しぶりにアドリエンヌは俺の心臓が止まるようなことをやってくれた。
竜は仕留めたのではなくて生け捕りになったことだ。
繰り返す。
竜は仕留めたのではなく、生け捕りになった。
「兄上! 竜を生け捕りにしたというのは本当ですか!?」
嬉々として、そして爽やかに弟のエクトルが執務室に走ってきた。輝くエフェクトがいい感じにエクトルの周囲を漂っている。直視できないから、少し控えてほしい。
視界の端でローランが王弟に礼をした。俺の斜め後ろに下がり、会話の邪魔にならない位置に控えている。
ここにくる前から、エクトルが城に来ていることは分かっていた。なんせ奴が通ったであろう場所から、メイドの黄色い歓声が聞こえてくるのだ。メイドが仕事を忘れて騒ぐほどの人物は、この国に一人しかいない。
俺に向けられるのは、おっさんの野太い歓声ばかりなのだが。兄弟間でこうも差があるものなのか。
たまにはエクトル並みにきゃあきゃあ言われてみたいものだ。
フリでもいいから。誰か、可憐な歓声を。
「城に竜が飛来したと聞いた時は、本当に心配しました。兄上に怪我がなくて何よりです」
俺が己の悲劇に浸っている間に、エクトルは俺の無事を喜んでくれた。
これだから俺はエクトルを嫌いになれない。俺を兄と慕ってくれて、支えてくれる可愛い弟だ。
研究に没頭して恐ろしい兵器を作り出したところは、まあ、欠点と言えなくもないが。
「興味があるなら見に行ってみるといい。今はアドリエンヌが躾けてる最中だから」
野生の竜なんて手懐けられるのだろうか。全く前例がないから、不可能とも言いきれない。武闘派王妃が公務よりもやる気を出して取り組んでいるから、俺は『やるな』とは言えなかった。
珍しくお願いされたから、断らなかったというのが正しいけれど。ローランに呆れた目で見られたのは言うまでもない。
「しかし、竜なんて躾けられるのでしょうか」
「大丈夫じゃないかな」
俺もアドリエンヌが怪我をするんじゃないかと心配したけど、それは全くの杞憂だった。
騎士団も一致団結して制御しているのもある。でも主力はやはりアドリエンヌだ。
ブレスを吐こうとすればアドリエンヌが素手で押さえ込み、尻尾を振ろうとすれば素手で根元を殴られる。飛び立とうとすれば、翼を掴んで「めっ」と叱られる。
素手だよ、素手。
ほーら怖くないとか言って、顎を両手で開かないようにしてるの。怖いよ。あの小さな体のどこに、そんな力が眠っているんだろう。
アドリエンヌにかかれば、竜ですら子供のワニと同じ扱いになるらしい。
俺、彼女の夫でいいのかな。ちょっと自信ない。
エクトルは残念そうに、しかし納得した顔でうなずいた。
「躾の最中なら、解剖はできませんね」
解剖ってお前。いつからそんなマッドな生物学者になったのか。カエルとはわけが違うんだぞ。
「ブレスの仕組みを知りたかったんですが、それは別の竜が捕獲された時の楽しみにしておきます。竜は訓練場ですか? 入り口から見学させてもらいましょう」
エクトルは来た時と同じように、爽やかに微笑んで帰っていった。もちろん奴が通ったであろう場所からは、メイドの歓声が聞こえてくる。
君たち、そこにいるのは竜を解剖したくてウズウズしている変人だぞ。悪いことは言わないから、見た目で判断するのは止めておけ。
あと、俺が頼んだ紅茶はまだかな?
「……あの竜、捕まったのがアドリエンヌで良かったのかもな」
「そもそも捕まったのが運の尽きでは?」
万年遠慮欠乏症のローランは、今日も冷静だった。
*
その夜、父親に女性の歓声が少ないことを喋ってしまった。俺としては自虐風世間話でしかなかったのだが、偉大なる先王陛下は生温かい目で仰ってくれた。
「お前、男としての魅力が無いんじゃね?」
いたく傷ついた俺は、父親が愛している秘蔵の酒を開けた。小遣いをためて買ったそうだが、劣化していないか点検してあげるのが子供の務めだろう。未開封に見えるだけで、毒が仕込まれていないとも限らない。
この酒、父親が愛飲するだけあって、なかなか質がいい。北の大地で育まれた酒は、香りが上品でいくらでも杯が進む。
日頃のストレスが頭から消えて、ふわふわと気持ちが楽しくなってきた。
どうして俺が王なんだとか、部下の癖が強すぎるとか、もうどうでもよくなって。
おさけ、おいひい。




