第十六話 レナ・キクチ
真帆義心桜あるある
コイツ視点になると途端に執筆スピードがバカ遅くなる
……それは普通に作者の中でキャラが固まりきってないからでは? ボブは訝しんだ
菊池玲奈が戦場を大きく移動したことに、論理的な理由はない。
ただ、あの場で戦うということは、金崎先生の近くで戦うということ。それは避けようと思った。
異世界人たった一人の大人であり、彼女たちの教師であり、何の因果か大盾を武器として扱うことに長けている金崎先生は、恐らく菊池が劣勢になれば守ろうとしてしまう。
フラメリとの戦いを任された者として、そんな手間をかけるわけにはいかない。大きく動いた理由は、それだけだ。
菊池玲奈には、カリスマがある。少し格好よく表現し過ぎかもしれないが、ともかく彼女は幼少の頃から、集団の中心人物になるのが上手かった。これは、彼女自身が自覚している。
それは、他人を助けずにはいられない性分によるもの。そして、他人に気を使わせない性格が、彼女を人気者にしていた。
そうして構成されていったコミュニティで過ごしている故に、彼女は『自分が助けられる』側になるという意識が欠如していた。これは、彼女自身は自覚していない。
――――なぜ自覚がなかったのかといえば、近くに鈴木有吾がいたからに他ならないが。
ともかく、彼女は無意識下で、誰かに迷惑をかける、誰かの手を煩わせるといった選択肢を排除する。
それが彼女の美点であり――――悪癖でもあった。
「『ウル・ネクト・メラル・シャーベット・トレジア』!」
水魔法と火魔法を複合させる詠唱により、宙の魔方陣からを氷雪が飛び出す。その魔法はフラメリの火魔法と衝突し、魔力へと戻って霧散した。
「うぜー」
翼を翻し、地に降り立ったフラメリが吐き捨てる。
それは、冷静に菊池を観察し、分析したが故の暴言。
今しがた菊池が使った氷の魔法は、火属性と水属性。そして、菊池自身が纏っている空気の鎧は、風属性。加えて魔撃も使っていた。
即ち、菊池は少なくとも三属性の魔法が使える魔法使いだということ。同じ魔法使いの中ですら、そうそうお目にかかれない才能だ。こと火属性にしか適性を持たないフラメリには、劣等感すら植えつけさせられる。
続けざまにフラメリが右腕を差し出すと、全身に纏った紫雷のオーラが右腕に沿って発射される。
それは、本物の電撃ではない。悪魔の能力により可視化された『呪術』そのものである。
呪術は、魔物の強い感情によって発生する状態異常たる『呪い』を自在に扱う技術。そして、呪術を自在に扱うことにおいて、感情を弄ぶ悪魔の右に出る種族はない。
だが、菊池玲奈には届かない。
「『八魔変革』」
それは、空気の鎧で阻んだわけでも、氷の魔法で相殺したわけでもない。
菊池が詠唱とは思えない短い言葉で振るった杖から魔方陣が展開され、桃色の物体が発射される。
その温かい色のそれは、よく見るとシャボン玉だった。そのシャボン玉は杖の狙い通りに浮遊し、紫雷と衝突し、紫雷と共に弾ける。
「何だよそれは……!」
魔方陣が展開されている以上は魔法なのだが、詠唱があまりにもルールに則っていない。おそらくは固有スキル由来のものだろうと、フラメリは理解した。だが、それ以上に至るには情報が足らない。
どのような仕様かは知らないが、ともかく菊池の泡はフラメリの呪術を無効化できるということだけは把握していた。
そして何よりも最悪なのは、これらのいずれでもない。
判明したのは、今のようにフラメリが近接戦へと持ち込もうとした時だった。
「ん、しょ……」
初めにフラメリがその光景を見たとき、杖が分裂したのかと幻視した。こうして見るのは3度目であるから今更驚きはしないが、なんとも難儀な武器を使うものだとは思う。
それは、仕込み杖。杖の先端を鞘として現れた刃が、菊池の手により振るわれる。
その刃はフラメリの翼を掠め、再び鞘の中に納まり、杖の形を成した。フラメリの想像よりも、菊池の振るう剣速が速い。
「うっぜぇー」
「流石に面と向かって何度も言われると傷つくんだけど!」
距離をとって地に降りたフラメリは、再び同じ言葉を、今度はより一層実感のこもった声色でこぼす。
三属性以上を使いこなす魔法使いで、近接戦闘においても隙がない。そのうえ、こちらの呪術を無効化する術まで持ち合わせている。
レベル上は格下だろうが、間違いなく強敵だと、フラメリは結論付けた。
その見立ては正しい。菊池玲奈は、異世界人の中では鈴木有吾に次ぐ実力者。
近接戦闘と、魔法による遠距離攻撃を両立させているのは彼女ら二人だけ。ステータスこそ劣るものの、異世界の体系に順応が遅れた有吾より、魔法の才は優れている。
加えて固有スキルも優秀。あまりに隙のない万能アタッカーだ。相手にしづらいことこの上ないだろう。
――――相手が魔王軍幹部でなければ。
「『メラル・トレペオ・スプリ・トレジア』」
フラメリが詠唱と共に指を鳴らし、菊池を取り囲むように宙に5つの魔方陣が浮かぶ。
「えぇっ!? 『ウル・シャーベット・トレジア』!」
突然の包囲に驚愕しつつも、菊池は同じ魔法を再展開する。かまくらのような形で、火魔法から防ぐように氷雪が取り囲んだ。
魔法が複雑であるほど、魔力を多く消費する。
フラメリが放ったような魔方陣を増やす魔法は、魔力の消費量も必然的に上がる。その代わりに魔法の威力自体を抑えることで、魔力の消費も抑えているのだ。
即ち、見た目の派手さに比べて、危険度自体はそこまで高くない技だ。菊池の氷雪ガードで十分防ぎきれる程度だろう。
だが、防御によりその場に留まるその状況を、フラメリは狙いすます。
「『メラル・トレペオ・カルヴェ・バーストアーマー・トレジア』ァァァ!」
フラメリの体を、大火が包んだ。
大火は背後で弾けながら脈動し、ロケット噴射のようにフラメリを急加速させた。そのままの勢いで氷雪のガードを殴り砕き、菊池へと突貫する。
「熱、ぁっ!?」
ガードの中でも魔力の突進を感じていた菊池は何とか回避する。だが、その熱波に気圧され、思わず後退ってしまう。
否、むしろ自らの火魔法で焼死体にならないフラメリの方が異常なのだ。
彼女の名は、【炎魔姫フラメリ】。かつては火属性の適性が強いだけのただの悪魔に過ぎなかったが、種族の進化を経て、後天的に火魔法への強い耐性を獲得している。それは、自身の魔法に対しても例外ではない。
全身を焼き焦がすような炎による無茶な加速であろうと、彼女の体ならば耐えられる。
突撃に不意を突かれながらも、菊池が仕込み杖から剣を抜いたのは素晴らしい瞬発力だと褒めるべきだろう。
だが、魔王軍幹部はその上を行く。
「ぶっ壊れろ!」
「なあっ!?」
フラメリは炎を纏った拳を振るい、仕込み杖の鞘を破壊する。
仕込み杖という暗器は、この世界にも当然存在する。しかし、魔法使いが所有する杖に、刃物を仕込むことは少ない。それは単純に、単純に杖のデザインが全く違うからだ。
シンプルなデザインのものが多い歩行補助型の杖に比べ、魔法使いが戦闘に用いる杖は装飾がかなり多い。理由を挙げるなら『魔法の補助のために必須の装飾だから』、メタ的な視点で言えば『ファンタジーゲームを基盤とした世界だから』なのだが、その理由はさして重要ではない。
ともかく、暗器として用いたい以上、魔法使いの杖は不適格なのだ。不意を打つためなのだとしたら、戦闘用の杖を携帯している時点で相手に警戒される。『魔法使いと誤認させて近距離の戦闘に持ち込む』という狙いであれば成功するだろうが、使う刃物が装飾だらけで扱いづらいとなれば本末転倒だ。
ならば菊池のように、近距離戦闘と遠距離戦闘を両立できれば、有効に扱うことができるのか。答えは是だが、そもそも両立している存在が非常に少ない。
強靭な肉体と魔力の才は相反する、とまで言われるほど、両者を獲得している存在は稀だ。身体能力のステータスに恵まれた者は、魔力が見える程度の才しか持たず、魔力の才に恵まれた者は、身体能力が育ちにくい。
即ち、普段使いの武器としても、搦め手としても有効に働かないのだ。
だからこそ、フラメリは警戒する。観察する。分析する。
そして、結論から至った行動こそが、鞘の破壊。
「やばやばやばぁ……」
それが的確であったことの表れか、菊池は如実に焦り始める。
その仕込み杖の名は『覆杖』。非常に珍しい、装備した者に2パターンの補正が与えられる武器である。
刃が鞘に納められた杖の状態では魔法の補助に関するステータス上昇補正が、刃を抜いた状態では直接戦闘におけるステータス上昇補正が与えられる。そして、その2つは両立できない。フラメリはこの仕様を完璧に読んでいた。
魔法使いが杖を装備するのは、あくまで魔法に関する上昇補正が与えられる武器だからに他ならない。
魔法は、杖がなくとも撃てる。現にフラメリをはじめとする魔王シュカの配下は全員魔法を使うが、誰一人として杖を使っていない。
もし2種の上昇補正が同時に得られるのならば、初めて刃を見せた一撃目の不意打ち以降は、抜き身のまま魔法を撃った方が効率は良かったはずなのだ。
しかし、菊池はそれをしなかった。ならば答えは一つ。
「鞘が失くなれば、杖の働きってのはどうなるんだ、えぇ?」
「くっ……! 」
菊池は歯噛みするが、すぐに切り替えて応戦する。
鞘の消失は、菊池にとっては確かに痛手だ。しかし、それは魔法が使いづらくなる程度の痛手に過ぎない。明確に隙を突いたあの場面で、鞘の破壊よりも致命傷を与えられる攻撃はいくつもあったはずだ。
菊池はそれを、ひとまず『幸運』と結論付けたが、その実態は――――フラメリは、致命傷を与えることを目的としていない。
それが、両者の認識の決定的な差だった。
「そらそらそらァ!」
「うーん、マジで飛べるの羨ましーなあ……」
空中から降り注ぐ幾多もの豪速の火球が、菊池の氷雪の魔法によりかき消える。
逆に言おう、フラメリは氷雪でかき消える程度の攻撃しか仕掛けていない。
ここへ来て、ようやく菊池もフラメリの意図に気付く。
「魔法使えなくなるの、待ってない?」
菊池は既に、2つの魔法を使っている。
1つは、火魔法の迎撃のための氷雪の魔法『シャーベット』。そして、もう1つはもしものための保険として常に展開している風の鎧『マシュマロ』。
無論、魔法の同時使用は魔力の消費が激しい。媒介となる杖がなければ猶更である。
わざわざ空中から絶妙に魔力を温存された魔法が飛んでくることからも、菊池は確信した。
なるほど、魔力が切れて魔法が使えなくなったら、圧倒的に状況は不利になる。
フラメリは知る由もないことだが、菊池の固有スキル――――『八魔変革』は、独自の魔法属性、『無効化』魔法を創造するという破格のスキル。
対象につき一種類の攻撃を消滅させる、泡を模った八属性目の魔法。今回はフラメリの対し、氷雪でしのげる火属性魔法ではなく、安定した防御の術がない呪術に絞った。
フラメリの呪術は菊池の固有スキルで対処し、その対象外である火魔法は菊池の氷雪の魔法で凌いで均衡を保っていた。しかし魔力が切れた時、火魔法を防ぐ術はなくなり、均衡が崩れる――――それだけではない。
繰り返すが『八魔変革』は、相手の攻撃を消滅させる魔法属性を創り出す固有スキルだ。つまり、基本的に対価を必要としない固有スキルには珍しく、使用時に魔力を消費する。
魔力を枯らした菊池が防げないのは、火魔法だけではない。呪術も同様である。
フラメリはここまで計算していたわけではない。しかし、今のフラメリの行動が、菊池にとって最悪の状態へと導いていることは確かだ。
ならば。
「『エアル・トレペオ・カルヴェ……』」
フラメリが長期戦を望むならば、菊池は短期の決着を目指すのが最善だ。
「『ネクト・ウル・トレペオ・カルヴェ・シェイクソーダ』」
空中のフラメリが菊池を見下ろし、目を見開く。
当然のように2属性が混ぜ込まれた魔法の、その規格外の内包魔力の多さに。
旋風が菊池の体を纏い、水流が剣身を纏う。更に水が風により圧縮され、渦を描きながら鋭さを増し、槍の穂先のような形を形成する。
草木が触れ、土が舞い、フラメリが警戒し、菊池が強く見据える。
短期決戦、即ち一撃必殺。菊池は魔力のほとんどを一撃の魔法に注ぎ込んだ。仮にこの一撃を回避されたり、命中したとしてもフラメリを倒し切れなかったりした場合、まさに魔力を枯らしたかったフラメリの思う壺となる。
だが、菊池は知っている。本番に強くなるコツは唯一つ、怯えないこと。彼女が十数年間生きて得た、彼女の哲学。
下手に保険を残そうとしたとき、そう予防線を張ったとき。逃げの心理が芽生えたが最後、二度とチャンスは廻らない。
今も戦っているかもしれない、大切な友達がいる。
この世界にきた自分たちに良くしてくれた、新しい友達がいる。
裏切りとも呼べる行為を許してくれただけでなく、信頼を寄せてくれた友達がいる。
その人たちを、助けたいのだ。
この一撃が、その人たちを助けることに繋がるのならば、その決断に一切の曇りもいらない。
人は助けるものだから、菊池玲奈は戦っている。
「マジかよ」
「『トレジア』ぁ!」
フラメリが回避行動に移るより早く詠唱が締まり、魔方陣を透過して、菊池が弾丸のような速度で飛翔する。
体が空を切り、想定外だと顔に滲ませるフラメリの表情が迫る。
「やぁぁぁぁぁぁあーっ!」
少し可愛く聞こえる気合と共にフラメリが寸前に迫り――――貫いた。
空中でバランスを崩したフラメリが、落下する。そしてそれは、魔力をほとんど使い果たした菊池も同じ。仲良く重力に従い、地面へと落ちていく。
空中で僅かな余力を行使し、着陸の姿勢を整える。
そして地面に降り立った菊池の目の前で、
「っ痛―な……」
フラメリは未だ、健在であった。片翼を貫かれたこと以外は、目立った外傷も見えない。
「うー、やらかした……」
「んじゃ、次はあたしからな。『メラル・トレジア』」
「うわっ!」
容赦なく浴びせられる火魔法に、思わず菊池は飛び退く。
これでも有吾に次ぐ実力者。魔法がなくなろうと、身体能力は損なわれない。必死に回避すれば、魔法を躱すことくらいはできる。
だが、その必死さは取り繕えない。
「ハッ、やっぱり魔力がないと魔法に対抗できねーのか」
無様に転がった先に、フラメリが回り込む。片翼が機能しなくても、有り余る火魔法の才で強引に飛ぶことは可能らしい。
先程と変わらず目線の下にいる少女の腕を、フラメリは蹴り飛ばした。
「きゃっ!?」
仕込み杖が菊池の手元を離れ、遠くへと転がる。
菊池の魔法だけでなく、武器まで奪われた。いよいよ僅かな魔力と肉弾戦でしか対抗手段がなくなったと言える。
それでも反撃の糸口を探るべくフラメリを見据え、
「そろそろ、お前に刻み込んでやるよ」
顔に、触れられた。
そっと頬を撫でるように、フラメリの指が伝う。
敵対した相手にそっと触れられているという戦場のイメージからかけ離れた事実に、菊池の思考は一瞬動きを止める。
意味が分からない。触れられたということは、攻撃を受けるリスクが最大になっているということだ。何が起こる、しかし詠唱はしていないから魔法は使っていない。ならば、この感覚は。視界の隅で、紫雷が弾けて。感覚が、感覚が、感覚が熱、熱、熱熱、熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱――――
「刻み込んでやるよ、あたしの怒りを」
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――っ!!!?」
絶叫。
そう呼ぶのが相応しいほどに痛ましい叫びが、木々の隙間を響き渡った。
圧倒的な高温で頬を焼く炎の感覚に、菊池は顔を押さえ、何も出来ずにのたうち回る。
狂乱に沈む菊池は気付かない。押さえている頬には炎どころか、目立った外傷すらないことも。痛みはあれども、自身のステータスのHP――――即ち命は、少しも減少していないことも。
これこそが、フラメリの呪術。相手に、炎で炙られる感覚だけを与える効果を持つ。ただ、それだけの呪術だ。
「あぁぁあっ……フーッ、フーッ…………!」
やがて呪術の効果時間も切れ、痛みも徐々に引いていく。それにつれて、菊池も僅かに落ち着きを取り戻し、荒い息をするだけまでに留まった。
フラメリの呪術は、とても実践には向かない。わざわざ炙る感覚を与えるだけの呪術を使うよりも、直接火魔法で燃やしてしまった方が早いし、何より使い勝手がいい。
そのうえ、効果時間も短い。長い間ユズの首に痕を残し続けたフォールンセイントの呪いと比べれば、その違いは明らかだ。
だが、呪いとは、その魔物の感情により生み出されるもの。
だから、その効果で十分――――否、それこそが最上なのである。
倒れ伏したままの菊池にゆっくりとフラメリが歩み寄り、耳に口を近付ける。
「どうだ、痛いか? 苦しいか? 辛いか? 泣きたいか? 楽になりたいか?」
その言葉に、びくん、と反応した菊池がフラメリと目を合わせるのと同時に、フラメリが菊池の足に指を這わせた。
そして、フラメリの腕でまた紫雷が弾け、地獄が覗く。
「熱あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――ッ!!!?」
今度は足を抱えて悶絶し、痛みに泣き叫ぶ。
フラメリは嗤う。地獄のような痛みと苦しみに、狂う姿を見て嗤う。
フラメリの呪術ではHPが減じないのも、効果時間が短いのも、全てはこの愉悦のため。
じっくりとゆっくりと甚振るために、痛み以外は与えない。
痛みで脳を支配するだけでは恐怖が刻まれないから、あえて効果を切らすことで状況を理解させる。
そう、炎魔姫フラメリの呪いは、彼女の愛する妹――――呪魔姫サティスを害した存在を、徹底的に破壊するためだけにあるのだから。
呪術の効果が切れ、再び菊池が僅かに落ち着きを取り戻す。しかし、それすらも悪意。
人間の心は、そう簡単に恐怖に慣れるようにできていない。知らぬ地獄が待ち構えているよりも、一度知った地獄が再び迫っている方が、恐怖は増大する。
「次はどこに触れるかなァ」
「――――ひ、嫌ぁっ!」
その言葉に、菊池の顔が青く染まる。
残り僅かの魔力をかき集め、前方の広範囲に向けて魔撃を放つ。まるで、眼前の光景を否定するかのように。
根源的な恐怖から逃げるように、使命感も何もかもかなぐり捨てて、菊池玲奈は敗走した。
息が切れ、魔力不足による倦怠感が体を襲う。焼かれる痛みを覚えた体が、恐怖に震える。それでも菊池は走った。後ろを振り返れば、恐怖とまた目が合ってしまうかもしれない。ただ前だけを見て、木々の間を抜け、ひた走る。
時間にして数十秒。菊池にとって、永遠とも感じられるほどの僅かな時間。彼女は走り続けた。
――――そう。本人にとって、永遠とも感じられるほどの時間だったのだ。それほどの時間走り続け、あれから一切のダメージを受けていない。
そうすると、思ってしまうのだ。『自分は、逃げ切れたのではないか』と。
安堵してしまうのだ。あの恐怖から、逃れられたのではないかと。
心に僅かな余裕が生まれた菊池は後方を振り返り――――フラメリの掌が、菊池の顔面を包んだ。
「え」
「逃げられたとでも、思ったのかよ?」
フラメリは、みすみす菊池の敗走を許したわけではない。
絶望を深める方法とは、僅かな希望をちらつかせることである。光が強くなるほど影が濃くなるように、希望を幻視した後の絶望は深みを増す。
逃げられるはずもない。文字通り目の前で紫雷が光り、逃れた地獄は何度でも這い寄る。
「嫌ぁぁあああぁあああぁあぁあああぁ――――っ!!」
皮膚を焼き、肉は燃え、骨を焦がす激痛が、菊池の顔を襲う。
またも倒れ伏し、のたうち回りながら涙を滂沱と流す。
痛みが引いた時、既に菊池には逃げる勇気も残っていなかった。
あるのは、ただひたすらの恐怖のみ。足が震える。背を向けて逃げることすら恐ろしい。
怯えたような目で、菊池はフラメリを見上げた。
フラメリの腕を紫雷が、呪術が纏う度、菊池の体が恐怖に竦み、表情が強張る。紫雷と痛みが、記憶にトラウマとなって根付いている。
フラメリはその様を見下ろし、満足気に笑う。
「いい恐怖だ。それじゃ、『呪庫』」
フラメリが初めて、固有スキルの宣誓を告げる。腕の紫雷が勢いを強め、空気を揺るがして轟いた。
「嫌、嫌、嫌だ……」
光る視界が、涙で潤む。
菊池玲奈のアイデンティティが、崩壊していく。
菊池玲奈は、他人は助けるものだと思っていた。そのために、自分を顧みることは一切なかった。
それは何故か。たとえ自分を顧みずとも大きな被害を受けることはない範囲でしか、他人を助けたことがなかったからだ。
元の世界であったとしても、菊池玲奈は困っている人を見かけたら、迷わず手を伸ばせただろう。しかし、助けた時に自身の命も危険に冒されると知ってしまった場合、恐らく彼女は手を伸ばせない。
無意識下で我が身可愛さを優先し、打算的に他人を助ける。誰かが聞けば、『当然だろう』と答えることであっても、今ここには菊池玲奈と、その命を脅かす張本人しか存在しない。
人知れず、菊池玲奈の中で、菊池玲奈が崩れていく。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……!」
「恐怖に狂っちまえ」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!」
フラメリが掌を菊池へと向け、轟く音が激しさを増す。一層眩く視界が光に包まれ、トラウマを抉る。
そして、紫雷は放たれた。
「あばよ」
彼女は恐怖から目を背けるように瞼を強く閉じて、声を震わせる。
魔力も、気力も、勇気も、自身の在り方すらも恐怖で擦り切れて。
もう彼女は、今までの彼女ではいられない。
「――――た」
即ち。
「――――たすけて」
「いいぞ」
――――この日、菊池玲奈は初めて、真の意味で『助けを求める』ということを、実行したのだ。
「いやー、マジで我ながらナイスキャッチだったと思うんだよね。ところでこれ何? なんか手の中で姉御の方にすげえ引っ張られるんだけど」
「…………え」
焼けるような痛みは、訪れない。
そして、恐る恐る目を開いた菊池の視界に飛び込んできたのは、なんの冗談か紫雷を握りしめている少年。
その異常な光景にも関わらず、
「…………ユ、ズ?」
当の本人は、いつものように自然に笑っていた。
『あたしもあたしで、ユズを頼りにしてるぜ?(頼りにしてるとは言っていない)』
悪意はない、むしろ全面的に善意とはいえガチで二章八話での無意識下はこんな感じでした。
こうして字に起こすとひでーな、姉御はもっと反省しろ。
Q. どうしてシュカの配下は杖を持っていないんですか?
A. 実は皆バラバラの理由。
・ミラ
徒手空拳大好き
・セレン
実はたまに使ってる。けど今回はフローターの操作で手が塞がるため不採用
・フラメリ
省略。少しだけ言うとすれば、【呪魔姫】を冠する妹ほど呪術が上手いわけじゃないから
・ハピア
翼じゃ杖は持てねえんだよ!!!!!
Q. どうして相手に警戒されるような珍しい武器を作っちゃったんですか?
A. 仕込み杖はロマンだから。
実際、非戦闘要員の生産職共は『趣味に没頭できるタイプ』が異世界で少しばかり思考をぶっ飛ばされた果てのパターンが多いため、割と自分のモチベーションを優先させて好き放題やっている。ロマン野郎然り、大城の自販機やサイリウム然り、野々宮のスポドリ風ポーション然り。