第13話 嵐の前触れ
軍部と大蔵省がしのぎを削ってる官僚国家がルナティア王国です(
冬至を節目にルナティア王国は新しい一年を迎えた。
公僕たる王国の官僚たちはそれぞれに次の冬至までの一年間、どのように国家に、また大衆に尽くしていくか、よく心得て励んでいくように――女王ディアナ十四世の名でそのような訓令が発布された。王都へもたびたび直訴されたテッサリア地方での数々の不祥事がその念頭にあることは明白である。
とりわけ、王国の守護者を自負する王国正規軍では第一軍務卿メガイラを筆頭に、この訓令を自分たちへの「激励」と受け止める者が多かった。
カルディツァ郡とキエリオン郡、いわゆる北テッサリア二郡での大麻取締は平時に華々しい活躍の機会に恵まれない正規軍の実績で、隙あらば軍事費削減を迫ってくる大蔵府に対する橋頭堡を築いたに等しい。
勅命で領主が罷免された北テッサリア二郡に「竜殺し」カロルス・アントニウスが封じられて以来、ラリサ太守にして「テッサリア辺境伯」を自称して憚らない最高実力者イメルダ・マルキウスは女王の決定に異議を唱えたまま、未だ取り下げていなかった。
また、カルディツァからバルティカ街道を南へ一五マイル下ったラリサ郡の宿場町アンフィラキアはペネウス河とアーベル川が合流する地点にあるが、この近郊の半径約四マイルの範囲に四個大隊約二〇〇〇名を駐屯させ、北に隣接するカルディツァ郡に睨みを利かせてきた。
これらの事実を以って正規軍は「テッサリアは未だ穏やかならず」と南方の脅威を説いてきたが、これは「獅子身中の虫」大蔵府に対する牽制でもあった。
***
冬至が明けて一週間ほどの年始のうちに王都の軍務府庁舎に官僚が何人も集まっていた。彼女たちがぐるりと囲む大きな机の真ん中を大きな地図が占める。
一人の官僚が地図上で二つの大きな河の合流地点にあった四つの駒の三つほど手に取って移動させながらこう言った。
「間諜からの報告によればアンフィラキア付近に留まっていた四個大隊のうち、三個大隊がアーベル川を遡上していきました。一部は五〇マイル東のムザキ郡に入りましたが、さらに二〇マイル先のファルサラ郡に向かった部隊もあります」
「――これはキナ臭いな。そう思わないか、諸君」
皆の視線を集めた王族――女王の従妹、第一軍務卿メガイラは続けて口にする。
「ふた月もずっと交通の要衝に縛り付けていた駒を動かしているのだ。何もないわけがあるまい……口を挟んですまなかった。報告を続けてくれたまえ」
「はい。続けます……別の間諜からラリサ方面に輸送船が何隻も集まっている報告を得ています。先ほど申し上げた複数部隊の配置転換と併せて、大掛かりな軍事行動の兆候ではないか、と考えられます」
「狙いはまたトリカラか?」
トリカラとはテッサリアの主都ラリサからペネウス河を一二五マイルも遡った先にある都市の名前である。山岳地帯を流れてきたペネウス河の上流部が大瀑布を下ってテッサリア平原へと流入する一帯にある。
平原の東端にあたるトリカラは東方の高原で暮らしていたスキュティアと呼ばれる騎馬民族が河を下って土着化した豪族の本拠地である。
百数十年前、マルキウス氏族に嫁ぐことになっていた王国貴族がさらわれた。彼女をさらった豪族の棟梁が彼女に子を産ませ、後継ぎと定めた。
当時、隣国との戦争の危機にあった王国は、その後継ぎを「貴族の血脈を継ぐ者」と認め「トリカラ辺境伯」の称号を与えた。王国の騎馬隊の一翼を担ったその者は、獅子奮迅の働きを以って、一代限りだった称号の世襲を勝ち取った。以来、トリカラの名前は王国に帰順した騎馬民族の末裔を指し示す代名詞となっている。
農耕文化のテッサリアとスキュティアの狩猟文化が色濃く残るトリカラは歴史的に衝突を繰り返してきた。勇猛果敢な騎馬隊を擁するトリカラは豊かな穀倉地帯であるテッサリア平原を東部から侵食し、侵略への対抗上テッサリアでは領地を守るために封建化が一層進んできた。その権勢の頂点にあったのがマルキウス氏族である。
かつてイメルダ・マルキウスはトリカラとの境界線を東へと押し戻して「猛将」と恐れられていた。この十年ではイメルダ自身が最前線に赴く機会がなくなって、再びトリカラが勢力を盛り返してテッサリア東部を支配下に収める勢いであった。
「トリカラの実効支配下にある東テッサリアの各地で一揆が多発しているようです。どれもトリカラ軍に鎮圧されていますが、テッサリア軍が黙って見過ごせばイメルダの体面にかかわります。領有権を主張して何らかの軍事行動を起こした例は今までもありました」
「わかった。引き続き調査を進めるように」
その官僚が報告を終えると、メガイラは辺りを見渡す。
居並ぶうちの一人が手を挙げたので、彼女を指名した。
「今の報告に関連して申し上げたいことがございます」
「ではアントーニア、貴殿の見解を述べてもらえるか」
「かしこまりました。先に結論から申し上げますと、郡伯カロルス・アントニウスはイメルダ・マルキウスと何らかの形で折り合ったのでは、と考えております」
皆がざわついた。カロルス・アントニウスとイメルダ・マルキウスは北テッサリア二郡の支配権をめぐって対立関係にあった間柄である。
異邦からの流れ者カロルスは強欲なイメルダに黄金――極めて貴重だが王国で忌み嫌われる貴金属――を譲渡して黙らせたと聞き及んだが、その後の関係が劇的に改善したとは誰も耳にしていない。
「冬至祭りの折、パラマスにラリサ太守イメルダから使者が来て、アントニウス卿と挨拶を交わしたとの報告があります。喉元に突き付けていた四個大隊に動きがあったのはそれから間もなくのことです。果たして偶然の一致でしょうか」
「そこで何かしらの取引があったのでは……それが貴殿の見解か?」
メガイラが目を見て問うとその武官は確かに頷いた。
「この日は馬車を使わず従者もつけず、たまたまカルディツァに滞在していたオクタウィア・クラウディア嬢と一緒にパラマスまで単騎で向かったとのこと。それ以上の詳細はわかりませんが、何かしらの密約があるかもしれません」
(オクタウィア……よりによって、あの小娘か)
士官候補生の分際で「資格者」を名乗る伯爵令嬢の名を耳にしたメガイラは思わず奥歯を噛みしめていた。それを尻目に他の武官が挙手する。
「今のオクタウィア殿はアルス・マグナ付の武官で軍の指揮命令系統にありません。軍の内部だけで聞き取りを実施するのは難しくありませんか?」
「ええ、承知しております。なのでこの件についてオクタウィア・クラウディア嬢に何らかの聞き取りを行うつもりはありません。密約の有無それ自体はあまりこの会の目的にとって重要じゃないですから」
「大蔵府との予算折衝の根拠となる事実があれば真偽は問わない……そういうことですか、ぺレッツ卿」
見解を述べたアントーニア・ぺレッツという女性は、その武官のとげのある言葉に沈黙したまま、ほのかに笑みを漏らしていた。
「アーベル川沿いにずっと展開していたイメルダの旗本が川を遡上して東に向かっているんです。これは近々何かあると考えるのが自然かと。そのような状況下で軍備にかかる経費を削減するなど愚の骨頂だと、ケチな大蔵府の連中に言えるだけの事実があればよいのですよ」
「それはそれとして、郡伯カロルス・アントニウスは最近民兵を蓄えているそうではありませんか。田舎領主のくせに、直轄領で軍馬を何頭も買い付けてカルディツァに送ったと聞きます」
「そのカネはいったいどこから出ていると思います? 全部大蔵府から長期の借款を引き出してるって話です」
「そのカネで我々正規軍よりも質の悪い軍隊もどきを作ろうとしているなんて、それこそ削ったほうがいいんじゃないですか。順序が逆なんですよ、大蔵府の莫迦どもがやってることは!」
議論が当初の方向とずれて紛糾しつつあったその時、メガイラが無言ですっと立ち上がって皆を黙らせた。
「まあまあ。関所の向こうに直轄領を守る盾が一つ増えるのだと思えば、決して悪いことではあるまい。盾があちら側を向いている限り、我々も得をするのだから」
過日、カロルス・アントニウスの仕官を拒絶した第一軍務卿メガイラが彼の存在を容認するような発言を聞いて、その場に居合わせた者は一様に面食らった。
「だがその盾が仮令ほんの少しであっても我々に牙を剥こうとしたならば、いつでも取り潰せるようにしておかねばな。敵は外ばかりと限らん。内外の敵に備え、国体を護持するのが我々の使命ぞ。それを忘れるな」
このメガイラの発言を最後に議論が出尽くした会議は仕舞いとなった。官僚たちはそれぞれの持ち場に向かって急ぎ足で会議室を出ていった。
ただ二人の人間を除いて――。
***
会議から一週間後、第一軍務卿メガイラの名前で王国軍の官報が発表された。
正規軍二個中隊からなる半個大隊の編成と合わせて、その大隊長に城伯アントーニア・ぺレッツの名前が記されていた。
カルディツァ郡には五〇〇余名の一個大隊がすでに駐留していたが、テッサリアの動向を警戒して郡内の各都市に小隊規模で分散配置させる。郡都の守りが手薄になるのを補うため、半個大隊の増派を決定した。
指揮命令系統を再編してカルディツァ都督府を創設し、その総指揮官となる「カルディツァ都督」を城伯ペレッツが兼任する――官報の内容はこうであった。
これが「政敵」大蔵府との予算折衝の場に持ち込まれたのは言うまでもない。
編成間もない半個大隊は早くもカルディツァ郡へ向けて進発した。軍幹部の滞在先の確保が先立って進められており、大隊が早朝にカルディツァへ発っていった当日に合わせて官報が発表されたのが実態である。
精鋭を揃えた大隊の行軍はかなり駆け足で、王都から郡都までの行程五六マイルを二日足らずで走破した。出発の翌日夕方、まだ日の沈まないうちに郡都カルディツァに到着するという驚異的な速さであった。
到着当日の午後四時過ぎ、領主の屋敷の車寄せに壮麗な馬車が滑り込んだ。紋章を付けた馬車から銀刺繡を施した立派な軍服に身につけた貴族が下りてくると、二十代前半の大きな体躯の地方貴族が進み出てお辞儀をした。
「お待ちしておりました、ペレッツ城伯。カロルス・アントニウスと申します」
城伯とは「城塞の伯爵」の意味で城塞指揮官に由来する爵位である。位階は正六位に相当し、正七位の郡伯の上位、正五位の伯爵の下位に位置付けられている。つまりカルディツァ領主よりも一つ上の階級である。
四十代前半の女性が答礼とともにシルクのグローブに包んだ右手を差し出した。
「お迎えありがとう、アントニウス卿。アントーニア・ぺレッツです。メガイラ殿下のご命令により『カルディツァ都督』の大任を拝しました。どうぞよろしく」
彼女の手を剣ダコがある素手で握り返した郡伯カロルスの右手はごつごつとして、あまりにも対照的だった。シルクの手袋をはめた城伯がこう訊ねた。
「アントニウス卿の腕は実にたくましい。どれほど多くの戦地を駆け巡ったらこんな腕になるのでしょうね」
「畏れ入ります。若輩者でございまするが、十年余りで数えるのも億劫なほど鉄火場を駆け抜けてまいりましたゆえ、このような腕になってしまいました」
若い郡伯カロルスが笑顔で惜しげもなく右腕の袖をまくった。屈強な腕に刻まれたいくつもの刀傷を見せつけられた城伯ペレッツは面食らった。
(この歳で十年も戦地を駆け巡ったってどういうこと!? 育ち盛りの年頃でもう従軍していたのかしら)
彼女の子供には十歳になる娘がいるが、そのくらいの年齢から戦場の泥にまみれていたのかと言葉を失ってしまった。
「このようなところで立ち話もなんでしょう。どうぞ応接室へおいでください」
気さくに堂々たる体躯を見せつける「竜殺し」に圧倒されたまま、「メガイラの腰巾着」は一通りの歓待を受けた。気を取り直して粗野な態度が目につけばそれとなくたしなめてやろうという魂胆で城伯ペレッツは応接室の長椅子に腰かけた。
「城伯閣下は何かお酒を嗜まれますか?」
「え、ええ……貴殿にお任せいたします」
「クロエ。白ワインをお持ちするように」
「かしこまりました。ご主人様」
王都で貴重なワインは赤色で渋みのあるモノが多かった。黒い後ろ髪を団子にして結った少女が持ってきたワインはブドウの白みをそのまま残したような透き通った色をしていた。
「食前酒として白ワインをご用意いたしました。お口に合えばよいのですが」
「いただきましょう」
使用人の少女が二つの杯にワインを注ぐ。杯を交わして匂いをかぐ。芳醇な香りに誘われるまま軽く口にした。
「渋みがない、淡麗な味わい。しかし奥深い香りがする……これはどちらで?」
「冬至のみぎりに立ち寄ったパラマスで買い付けたテッサリアワインでございます。海産物に合うのではと考えて渋みの少ないモノを選んだ次第です」
テッサリア平原を東西に貫くペネウス河は内陸水運の大動脈。その河口から北方に五マイルほどしか離れていないパラマス湊は川船と外洋船がともに停泊可能な施設を擁している。テッサリアから北の王都や南の商都サロニカへ向かう中継点という重要港湾であり、正規軍の駐留部隊が置かれていた。
「正規軍にご支援を賜り、破壊された湊町の復興の目途が立ちました。道半ばですが仮復旧が冬至に間に合ったおかげで賑わいを取り戻しつつあります。足を運んで視察した中でこのワインが取引されているのを目にして思わず買い付けました」
(女王陛下に初めて目通りを許された時は言葉遣いもままならなかったとメガイラ様からは聞き及んだけれども……)
今、城伯が対面している異邦人は言葉の端々に農村の訛りは残すものの、たどたどしさのない流暢な言葉遣いをしている。それだけ見れば農家の出自の田舎者と侮ったかもしれない。だが古語に近い古めかしい言い回しを知っていて、それがごく自然に出てくるところを見るに、古典文学を嗜む教養もあるのではないか。
(王宮に初めて現れた時は敬語もロクに使えない粗忽者だと居合わせた多くの貴族が口にしていた。それがこの短期間で……古代語の語彙も持ち合わせているようだから実は魔術の腕前も侮れないのでは……)
屋敷は質素ながら清潔感のある装いが徹底されており、王族を迎えても遜色がないほど。平民が財を成した、いわゆる成金にありがちな派手さを感じない。あれほどの古傷を負うような野蛮な異邦出身者には似つかわしくない品の良い佇まいだった。
有職故実に長けたトラキア家令嬢ヘレナ・トラキアの手によって調度品から使用人に至るまで厳選されたものがここに集められたためだが、武人的な質実さと貴族的な上品さを併せ持った絶妙なさじ加減が感じられる。
(質実剛健でありながら決して粗野じゃない。かなり厳格な家庭で躾けられたのか。訛りで覆い隠しているけど、相当な知性と教養を隠し持っているかもしれない)
「いかがなさいましたか。先ほどからお顔が優れないご様子ですが」
「いえ、少し疲れているのかもしれません。お気遣い痛み入ります」
「アルデギア地方の牡蠣を使った料理をお召し上がりいただきましょうか。ハーブやその他の香草もふんだんに使った、精がつく料理でございます。コックたちも最近は調理に慣れてきたのか、得意料理になりつつありますので」
極めつけは海産物による料理だ。四〇マイル以上も離れたアルデギア地方で採れた「干物ではない」魚介類を新鮮なまま用いた料理はこれまで王都で口にした料理よりずっと美味で、つい舌鼓を打っていたほどだ。
キエリオン郡の農家では主要な農産物である小麦のほかに、最近は休耕地でハーブなどの栽培を奨励しているという。いかにも農村の出身者らしい取り組みであるが、それがこの美味な料理に結実しているところに舌を巻くしかなかった。
(王宮に招かれてもこんな食事は口にしたことがない。非の打ちどころがまるでないなんて……末恐ろしい若者だこと)
こうして所詮田舎領主と侮っていた郡伯カロルス・アントニウスに何一つの皮肉も言えず、城伯アントーニア・ぺレッツは今後滞在する宿場へと帰っていった。




