第8話 二重生活のはじまり(3)
夕暮れから二時間が過ぎたシャルルの寄宿先で、家政婦長ヘレナ・トラキアは彼を待っていた。食事の準備が整っているのに主人の帰りが遅い。寄宿の扉の前で主人を待ち始めて三十分ほどになる。
(どうしたのでしょう。何もないとよいのですが)
使用人の食事の時間は主人の食事の後と決まっている。それを枉げる覚悟を決めて踵を返した彼女の元に馬車の蹄音が聞こえた。
「ごめんな、エレーヌ……遅くなった」
「お待ちしておりました、シャルル様」
走り去る王城の馬車を尻目に家政婦長ヘレナは厨房に戻る。冷めた鍋を火にかけ、硬くなったライ麦パンをもう一度蒸し、彼らの他に誰もいない共用の食堂に明かりを灯す。温め直した食事を厨房から運び込み、彼の給仕を務めた。
「ずっと魔術の実習だったけど、まったく何も使えなくて困ったもんだ。剣の鍛錬の何十倍も疲れた」
「それは大変でございました」
「もう少し早めに切り上げたかったが、指南役が厳しくて居残りになった」
「そうですか」
彼は気づいた。心なしか銀髪の家政婦長の口調が重たい。
「エレーヌさ、もしかして……怒ってる?」
「いいえ……一言だけ申し上げたいことが」
彼が促すと銀髪の家政婦長は背筋を伸ばしてこう言った。
「こちらは私たちだけの厨房や食堂ではありませんので、あまり遅くなると他の皆様方にご迷惑を掛けてしまいます。このようなことが続くとあなた様の面目まで損ないかねません」
「……本当に、申し訳ない」
美味しいはずの料理が味気なく感じる。気まずい空気が流れているせいだろうか。心臓の鼓動が騒めく。血を抜かれたせいか……それとも衝撃的な話を耳にした動揺がまだ収まらないせいだろうか。
「美味しかったよ、ごちそうさま」
食事の後に作った笑顔で礼を言うと、彼女の表情が曇る。
「ご気分が優れないのですか?」
「いや、なんでもないさ」
「あの……先ほどは、私も……少々口が過ぎました。お気を悪くされたのでしたら、謝ります」
「君の言ったことは正しい。なに一つ間違っちゃいないよ。ありがとう」
つぶらな紫色の瞳に微笑みかけるも、彼を気にかける眼差しに変わりない。
「慣れない魔術の鍛錬にちょっと疲れただけさ。今日は早く休ませてもらうよ」
食堂を離れて自分の居室にこもる。扉を閉めると、握り締めた拳をぐっと壁に押し当てたまま、大きく息を吐き出す。彼の顔は歪んでいた。
***
話は少し前に遡る。
『魔術が一切使えねぇかもしれねぇって……どういうことだよ!』
頭痛と気だるさでままならない苛立ちを露わに詰め寄ったシャルルと机をはさんで『小さな大賢者』カリスが向かい合っていた。机の両脇にはソフィア王女とオクタウィアが腰かける。四人が囲む机の上には特殊な聖水で満たされた白い小鉢、いくつかの膿盆が置かれ、血溜まりを作っていた。
『申し上げた通りです。今の騎士殿は自発的に魔術を扱うことは一切できないでしょう』
一際大きな膿盆でジャブジャブと手を洗いながら、冷徹にカリスは告げる。
『正直に言うならば、あらゆる意味で前代未聞の出来事です。騎士殿の魔術属性は火と聖。すなわち光の属性を持っておられます』
『じゃ、あれだ……火の魔術も使えるってことだろ? そうじゃねぇのか?』
血がいくらか抜けたせいか巡りの悪くなった頭脳を無理くり回転させ、この一週間で覚えた知識を絞り出す。その問いに目をつぶった小さな大賢者は答えず、少しの間を置いて語りを続けた。
『事はそう単純ではないのです。私としてもこれまでの仮説が覆されたこともあり、この場で断言しかねることも多いのですが……』
『なんでもいい、わかる範囲で教えてくれ……あぁ、畜生』
興奮の後に眩暈がやってきて床にうずくまる彼。呼吸を整えて椅子に座り直したのを見守ってから、まだ聖水で濡れる指先で眉間を抑え、唸りながら賢者は口を開く。
『断言できる範囲として、騎士殿の魔術回路は想像以上に複雑怪奇な状態です』
『……魔術回路ってあれか? エールセルジーが確かマナサーキットなんとかって』
『はい、その通りです。マナサーキットとは古代語で魔術回路を意味します。機動甲冑には搭乗者の魔術回路を読み取り、自身との接続を最適化する機構があります』
『それで……複雑怪奇って、一体……』
『魔術回路は個人個人で異なるものの、ある程度その構造や構成、密度などの傾向の共通項は見つかります。しかし、騎士殿のそれはこれまで見知った一切の物と異なった状態です』
『それは、俺が男だからか?』
『それに関して明言はしかねます。しかし、仮にそれが理由だとしても説明がつかない部位があまりにも多い』
同席するソフィア王女、オクタウィアともに困惑の色合いを強める。
『ねぇ、カリス。わかる範囲でシャルルに教えてあげて。いくらなんでも「わかりません」「説明できません」だけでは……』
『…………』
怒りなのか、あるいは困惑なのか。目元が鋭く険しい表情で見つめてくる資格者に対し、小さな賢者は重たい口を開く。
『これはあくまでも推測ですが、騎士殿の体内に張り巡らされた魔術回路は、騎士殿本来の物ではないのではないか、と』
『――ちょっとまて、そいつぁどういうことだ』
『そうですね――』
カリスは一度そこで言葉を区切り、呆然と見守るソフィアとオクタウィアに視線を向ける。
片やこの国の王権に連なる存在。片やこの国での絶対的な自由行動を認められた資格者である騎士。
そして目の前には古代帝国の生きた末裔ともいえる唯一無二の戦士。
『もし、魔術回路を譲り渡されたと仮定した場合、もともとご自身のものではなく、扱い方を知らずに持っていると言えます。火の恐ろしさを知らず、火遊びができるに等しい、極めて危険な状態です』
『ちょっと待て。それは魔術回路とやらが俺が生まれもって身につけたものじゃねぇと決めつけて言ってるよな。そう言えるだけの根拠はあンのか?』
『あります。その鍵剣を譲り受け、機動甲冑を動かしたこと。これが根拠です』
絶句する彼。微塵も迷いのない答えには続きがあった。
『鍵剣は本来その持ち主でなければ使えません。魔術回路は人によって異なり、親子といえども例外ではないからです。だからこそ機動甲冑は搭乗者を魔術回路の違いで区別できます。つまり、その子である騎士殿はアルテュール殿の鍵剣を使えない――こうなるはずなんですよ、本来は』
そこまで言い切ると賢者は腕を組んで首を横に一振り。
『しかし、そうであってもなお疑問があるのです。機動甲冑の操縦にあたって、搭乗者の属性と鍵剣の属性が一致するのはあり得ないのですから』
『――あっ』
オクタウィアが小さく声を上げる。
『そういうことでしたのね』
ソフィア王女もどこか納得したように頷く。
『お二人はお気付きになられましたか』
『どういうことだ……?』
『これはまだ講義などでお伝えしていない内容なのですが……』
かまわねぇよという調子でシャルルは首を縦に振った。
『相性が良すぎるのですよ、象徴石を触媒とする魔術は』
『そら……相性がいい方が魔力を込めやすくなって都合がいいんじゃねぇのか?』
『逆です。小規模な魔術であれば確かに都合がいいでしょうが、機動甲冑ほどの物を扱うともなれば術者――搭乗者の持つ属性とはむしろ一致していない方が都合が良いのです』
『そりゃ、なんでまた……』
『魔術回路が触媒とする象徴石自体も体の一部である、そう錯覚してしまうとされるのが一般です。象徴石はあくまでも増幅のための物。むしろ完全に一致してしまった場合、かえって魔力の流出が止められなくなる危険性を孕んでいるのです』
するとオクタウィアが鮮やかな青の短剣を鞘ごと机の上に置いてこう言った。
『私の持つ鍵剣はサイフィリオンと同じ空を司る瑠璃があしらわれていますが、私自身の氷の属性とは異なります。属性が一致しない私の体から魔力が過剰に使われることもなく、機動甲冑の操縦を可能としています』
『火か、あるいは聖。どちらかの属性を持たれているのであろうことは、鍵剣のこともあり想定しておりました。しかしぴったり一致していたとは想定外です。ですが、これにより説明がつくこともあります』
『……氷嵐竜とやり合った時のことか』
カリスは首肯する。
光の剣を放った後、シャルルは死んだかのように機動甲冑の中で気を失っていたと聞かされていた。
それは幾度も機動甲冑の操縦席の中で揺さぶられ、激突し失血を起こしたからだとシャルルのみならず誰もが思っていたが、同時に魔力枯渇を起こしていたとこの場の全員が知っている。
エールセルジーの放った一撃で大量の魔力を使ったからだと皆が予想していたが、その真の理由が彼と彼の持つ鍵剣の属性の一致による過剰放出であろうとは、ここに至るまで誰一人として考え及ばなかった。
『あくまでも推論に推論を重ねて、これまで起こった数々の事例をもとにした仮説ですが、エールセルジーが皇帝陛下の名を出したことだけは覆りません』
『わかった。だが、それだけじゃあ魔術を使えない根拠と言うには薄い。譲り受けた魔術回路じゃあダメなのか?』
『仮にアルテュール殿がご自身の魔術回路を騎士殿に譲り渡したとしましょう。騎士殿はアルテュール殿が行使できた魔術のほとんどすべてをそのまま行使できるはず。実際、鍵剣は特に認証などの手続きをした覚えもなく機動甲冑エールセルジーは受け入れた』
『そうだな。言われてみれば、俺はオクタウィアみたいに親父の形見の剣に血を垂らしたことはない。なのにエールセルジーは動いた』
『にもかかわらず、簡単な魔術ですら扱えないのが不可解です……要因と考えられる一つは魔術回路のかなりの部分に意図的な改竄が見られることですが』
『――私と、同じですね』
じっと黙って聞いていたオクタウィアの発言に、皆が彼女を凝視した。
『わがクラウディア家は代々土と風の魔術属性、つまり氷の複合属性をもった氏族として命脈を保ってまいりました。相反する魔術属性の取り扱いはとても難しく、私も氷の魔術を行使することに制約を受けています』
『氷の禁呪――それを使わないよう、自ら制約を課しているのよね、オクタウィア』
『その通りです、殿下。当主であるわが母ユスティティアは私が幼子の頃に魔術回路に手を加えて制約を課しているのです』
『軍務卿閣下が……なんでそんなことを』
『氷の魔術は極めて強力な武器となります。相反する魔術属性の反発力を用いるからです。強力すぎる故に蓋をしました。私は思うのです――きっと師範の親御様はその強すぎるお力を子である師範に譲り渡すにあたって、蓋をなさったのでは』
『そうだとしても……まったく蓋をされちゃ習熟もできねぇじゃねぇか』
シャルルの反応には三者三様に唸る。
『なにより、魔術を扱う人間からすればそいつぁ命と同じくらいの商売道具だよな。剣士が利き腕をぶった切ってくれてやるようなもんだ。そこまでして譲った物を使えなくする理由が無い』
『騎士殿の疑問ももっともです。詳細に調べないことにははっきりと言えませんが、元あった回路に強引に接続・移植が行われた痕跡がはっきりと見て取れました』
『手が込み入りすぎていることはわたくしにもわかるわ。そしてわざわざ譲り渡しておいて、使えないようにするなんて……どうしてかしら』
もう何度目か首を傾げた賢者がこうつぶやく。
『親御様から鍵剣を譲られ、さらに遺言書を譲り受ける手筈になっていた。私の頭にこれがずっと引っかかっているのです。親御様――アルテュール殿はどうして、そのような回りくどいことをしたのかと』
『まったくだ。そもそも自分の盾になっていつ死ぬかもわからねぇ妾の子に、そこまでして何を譲ろうとしてたのか……俺には皆目見当がつかねぇ』
『師範がルナティアに来られる前って親御様の近衛騎士を務めていたんですよね?』
『あ、ああ。そうだが……』
頷く彼の反応にオクタウィアもまた二、三頷いてこう言った。
『それは親御様の立場では、常に自分の目が行き届く場所に置いていた――そうとも言えるのではないでしょうか?』
『いや、大事な息子なら何回も死にかける危険な場所に置いとくわけねぇさ。家督を継いだ兄がそうだったようにさ。第一、親父の性格的にここまで細かいことを考えるとは思えないんだが……ま、どっちにしろ魔術が使えないんじゃ意味がねぇがな』
『――違うわ、シャルル!』
『――そうか、わかりましたッ』
『カリスも気づいたみたいね』
『はい。魔術を「使えない」ではなく「使わない」環境であったことが、ここまでの状況に繋がるんです』
『……? どういうことだ?』
『あくまでも騎士殿から伝え聞いたお話がすべて事実である、という前提でのお話になるのですが……』
うつむき加減でカリスが横目にシャルルを見る。
『この期に及んでお前らに隠し事なんてもう何もねぇよ』
『――で、魔術回路はその性質上、身体の成長とある程度相互関係を持っています。これまで体内にあった魔術回路は完全に死蔵されていたと考えるのが自然でしょう』
『……まるで意味がわかんねぇんだが』
渋い顔をした師範に教え子が噛み砕いて説明してくれた。
『師範は人生の半分以上、剣とともに生きてきた。そうして師範の肉体も剣を振るうことに合わせて育ってきた。こう言えば、理解できますよね?』
『あ、ああ……そりゃそうだ。使い方が身体に染みついていると言っていい』
『同じことが魔術でも言えるんです。剣とは逆に魔術回路の使い方がまったく身体に染みついていない。そのように肉体が育っていない……と』
『つまり、騎士殿の肉体そのものが魔術を使うように成長出来なかった、ということです。そしておそらくですが、このままであれば自発的な魔力の行使、すなわち魔術を使うことは理論上不可能です』
訪れた一瞬の静寂。
『――カリス、一つ良いか?』
『なんでしょうか?』
『お前特有の持って回った言い回しだ、そういう時のお前は例外だとか抜け道の一つ二つ、きっと見当がついてるんだろ?』
輝る空色の双眸。
『――もちろんですとも』
『やっぱりな』
ただし、と続ける。
『こればかりは実際に検証してみるしかありません。騎士殿には引き続き魔術の講義と訓練自体は行ってもらいますが……同時に私が太鼓判を押すまでは機動甲冑の運用も控えて貰います』
そんな見解を口にした小さな大賢者の渋い顔には忸怩たる思いがにじみ出る。
***
そんなやり取りを寝床で反芻し、もう何度目のため息がこぼれた。
一つひとつの問題を解決に導き、やっと機動甲冑を兵器として運用する目途が立ち始めた。その矢先に新たに出くわした謎のせいで躓いてしまったのだから。
(あぁ、ホント……愚痴の一つや二つも言いたいくらいだぜ、畜生)
しかし、彼が魔術を行使できない事実が第三者に漏れてはまずい。そんな判断から誰かに打ち明けることもできなかった。
窓の外には月明かり。恋人の美しい裸身を浮かび上がらせたであろう青い光の降り注ぐ夜にたった独り、枕元で苦虫を噛み潰した。
(思ってたよりもきっついな。エレーヌにすら話せねぇのは)
どんな悩みも聞いて受け入れてくれた恋人の存在があまりにも大きかったと知る。結局その晩は恋人と枕を濡らすことなく、孤独で退屈な夜を過ごすしかなかった。




