表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/148

第15話 果樹園と牧場(2)

「チーズとは羊など家畜の乳から作られる保存食でございます。屠畜(とちく)した仔羊(こひつじ)の胃に乳を入れておくと、乳が水分と固まりに分離するのです」

 興味深そうに話を聞いているソフィアを見て、シャルルは話を続けた。

「それから水分を取り除いたものに塩を加えることで保存がきくようにします。生乳とは違って固形物なので持ち運びが容易で、遠征に行くときに重宝しました」

「そんなものがあるのですね、シャルルの国には」

「この国でも作ろうと思えばできると思いますよ」

 曲がりなりにも貴族であるシャルルの平時の食卓に上るものではない、庶民が口にするような食品だ。だが、他国との戦争で平時の食卓それ自体が縁遠かった彼には、遠征先で口にする機会が多かった保存食である。

 彼の故国にはロックフォールと呼ばれるアオカビで熟成されるチーズがあったし、遠征先の一つであったギリシアにはフェタと呼ばれる塩辛いチーズがあった。いずれも羊乳を原材料として作られるものだと彼は知っている。

 だが、この場に居合わせた彼以外の誰もがチーズというものを知らない――そんな反応に彼は訝しく思った。

(本当に、ルナティアにはチーズというものがないのか? そんなバカな……)

 乳を飲むという文化があるのなら、乳を加工する食品があってもおかしくはない。しかし、チーズに加えて、バターさえも彼女たちは知らないという。

(生乳を加工する技術がないのか? あるいは何らかの理由で失われたのか?)

 機動甲冑というとんでもない鉄の化け物を作り出し、それを運用するための街道を整備したという古代帝国の時代に、戦場での保存食として手軽に食べられるチーズのような乳製品がなかったとは考えにくい。

(きっと昔はあったのだろう。長い年月を経て(すた)れてしまったのかもしれない)

 だが、彼にはそれがとても惜しく思われてならなかった。

 質の良いチーズを作ることができれば、村の外へ売り出すことができる。それだけではない。新たな保存食が確保できれば、彼の目指している軍隊の運用にも寄与するはずだ――そう考えていた。


 一行がメネライダ村の牧場とオリーブ畑の視察を終えた頃、日没が近づいてきた。村長(むらおさ)から「あまり大したものはお出しできませんが」と饗応への招待があった。

「よろしいのでしょうか? 冬を越すための貴重な食材なのでしょう?」

 当初、ソフィアは辞退しようと考えていた。

「こんな辺境の村が姫様をお迎えするなど、そうそうない機会でございますから」

 村長らにとってはまたとない名誉であるという。王女はその提案を受け入れた。

「ありがとうございます。わたくしと郡伯の使用人をどうぞお使いくださいまし」

 村長の家族に加わってソフィアの侍女イリニ・リディアとシャルルの侍女クロエ・トラキアが晩餐の準備をすることになった。

 晩餐では仔羊の肉と野菜、香草を羊乳で煮込んだシチューが供された。ソフィアが持ち込んだリンゴ酒とシャルルが持ち込んだ塩田の塩も合わせて食卓に上る。一同はささやかな晩餐に舌鼓を打った。

「美味しい……王都でもなかなか口にできない美味なシチューですこと」

「光栄に存じます。ご領主様がお持ちになった塩も使わせていただきましたが、おかげさまでいつもより味が濃く感じます」

「それはよかった! アルデギアの塩田で作っていた塩を買い求めたものだが、なかなか良いものだろう?」

「はい。この村で塩は大変貴重なのでひさしぶりに口にいたしました」

 そんな村長たちとのやり取りを通じて、彼ははっと思い至った。

(塩がほとんどない。だから、チーズを作るという発想もなかったのだろうな)

 塩の流通を増やしたい――そう考えていたシャルルの脳裏にある閃きが生まれた。

 国家に統制された塩の価格をその枠外で決める方法がある。加工された食品の原材料として使われる塩の価格は生産者間で自由に決められるそうだ。それならば、塩を使う加工食品を新たに作り出してしまえばよいのだ。

 ここにはそれに必要な材料がある程度揃っている――シャルルの腹は決まった。

「村長殿、このシチューに使った仔羊の胃はまだ残っているか?」

「はい、ございますけれども」

「もしよければそれを売ってほしい。あとは羊乳をいくらか。羊乳を仔羊の胃の中に詰めて、それでチーズが作れるかやってみたいんだ」

「は、はぁ……」

 仔羊の胃を売ってくれ、なんてことを言い出した領主に「何とも風変わりなお方もいらっしゃるもんだ」と言いたげな顔をしたのであった。


 晩餐の中心料理の後で、ソフィアが持ち込んだリンゴを使った食後の菓子が二人の侍女によって提供された。甘酸っぱいリンゴの風味に顔をほころばせた村長はとっておきのワインの封を開けることにした。

「わたくしはワインを口にしないので、シャルルに飲んでもらいましょう」

「畏れ入ります」

 酒を振舞われて饒舌になったシャルルはその隣に座っていた官僚にこう尋ねた。

「そういえば、湊町で王国軍の兵士たちが鉄を細く伸ばして編み物のように加工していたよな。あれに似たことはできんのか?」

「……っ!? あの、何のお話でしょうか?」

 唐突に話題を向けられてユーティミアは戸惑いを隠さなかった。

「すまん、羊乳を運ぶ瓶のことさ。全部粘土で作ると高くつくんだろ?」

「……ああ、そのお話でしたか」

「直轄領には食糧と交換するくらい鉱物がありふれていると言ったよな。じゃあいっそのこと細くした軟鉄で骨組みを作ってから、隙間を粘土で埋めていけば使う粘土の量は減らせるんじゃないのか、と思ってな」

 彼が考えたのは湊町パラマスで実践した蛇籠(じゃかご)の応用である。

 ただし、蛇籠ほど目を粗くしては意味がない。鉄を蛇籠よりも細くして目を細かく編んでいけば、鉄だけで構造的な強度を確保しつつ瓶の骨格ができる。あとは内容物を漏らさないように隙間に粘土を詰めて固めようというのだ。

「鉄だからな、海水で錆びやすいのが難点だろうが……そこさえなんとかできれば、全部粘土から作るよりも安くて丈夫なものができそうな気がするんだが、どうだ?」

 何気ない思い付きを口にした彼だったが、ユーティミアの目つきが変わった。

「アントニウス卿はなかなか奇抜なことを考えますね……しかし、仰る意味はわかりました。より安価な方法で瓶を作ろうとのお考えですね。検討してみる価値は十分にありそうです」

 彼女は優秀な官僚だが、いささか前例に囚われやすいところが短所だ。

 しかし、下す判断それ自体はすこぶる合理的で、必要な判断材料さえ与えればその知識の引き出しに裏打ちされた実務能力を発揮できる長所を持っている。

 そんな彼女の人となりをシャルルはこの短期間で知りはじめていた。


 貴重な仔羊の肉を使った晩餐と一晩の宿を提供してくれた村長の一族が、翌日の朝メネライダ村を離れる王女と領主を見送った。道行く先々でも領主の一行を目にした村人たちが農作業を止めて手を振ってくれた。

 家畜の糞尿の匂いが時折漂ってくる街道を駿馬にまたがって進むシャルルは、沿道の村人たちに手を振りながら、あることを思いついた。

 そんな彼の馬の鞍には隙間なく縫われた中に羊乳を詰めた仔羊の胃がぶら下がって揺れていたのだった。


 ***


 キエリオン郡で最も人口の多いのが郡都となっているキエリオンの街。そこへ王女と領主の馬車が着いたのは夕方前であった。

 郡伯カロルスがもう一つの郡都であるカルディツァに居館を構えているため、前の領主が住んでいたキエリオンの屋敷は政庁として活用されていた。

 当然ながら、領主一行が滞在するための備えも整っていた。ただし、キエリオンの屋敷の使用人たちはソフィア王女の食事に毒を盛ってしまった咎により、前の領主ともども更迭されており、今は政庁に官僚とともに派遣された使用人が働いている。

 二台の馬車が屋敷に着く頃、小柄でややふっくらとした体格の女性が待っていた。しかし、その身なりは村人にしては垢抜けており、王都出身のユーティミアにどこか雰囲気が似ている。

「ユーティミア! ひさしぶりね!」

「元気そうで何よりだわ、フリッカ」

「ええ! 元気を持て余すくらい、書類とにらめっこよ」

 再会を喜ぶ二人。馬車を下りてきた客人を見て、フリッカと呼ばれた女性が跪礼を取った。

「お待ち申し上げておりました、王女殿下」

「ごきげんよう、フリッカ。キエリオンでも土いじりをしているのですか?」

「それが……政庁の仕事が忙しくて、なかなか手につかないでおりました」

「あら、もったいない……王都の狭い植物園よりずっと広い土地がありますのに」

「前の領主たちが連行されてしまったので、引継ぎも何もなくて、全部一から領内を調べ上げる必要がございました。それもようやく目途がつきそうです」

「それはよかったですわ……もう一人会わせたい者がおりますの。シャルル!」

 聞きなれない名前を耳にして怪訝そうな顔を上げた彼女の前に、馬を下りた大きな体格の人物がやってきた。

「挨拶が遅れて申し訳なかった。郡司(ぐんじ)に任命されたカロルス・アントニウスだ」

「――ッ!?」

 手を差し出した彼に、血相を変えた彼女は慌ててお辞儀をした。

「こちらこそ申し訳ございません、閣下! フリッカ・リンナエウスと申します」

 そこへユーティミアが割って入った。

「私からも紹介が遅れて申し訳ありません、アントニウス卿。フリッカは私と同じく王都から派遣された官僚の一人なのです」

「ユーティミアが大蔵府だったな。そうするとフリッカ、君は?」

 彼が問うと、少し緊張を残した面持ちで彼女が答えた。

「私は農務府から派遣されてまいりました。キエリオン郡は農村部が大部分を占めるため、農務府から人材を出すことになりました。ユーティミアと同期だった縁で私が郡司代行(ぐんじだいこう)の大任をお預かりしております」

「なるほどな!」

 しっかりと手を握ってわかった。ユーティミアよりも一回り手が大きく、ごつごつとしている。日常的に土をいじっているように彼には思われた。

「着任早々イメルダ・マルキウスの使者との折衝があってな、キエリオン郡の方まで手が回らなかったんだ。ようやくこちらに来る余裕が生まれたというわけさ。それで挨拶が遅れてしまったが、気にしないでもらえると助かる」

「はい! こちらこそよろしくお願いいたします!」

 少し丸っこい顔に笑みを浮かべ、フリッカは元気よく応えたのであった。

新キャラが増えました。フリッカ・リンナエウス。ファミリーネームの由来はカール・フォン・リンネです。


ちなみにカリス・ラグランシアのファミリーネームの由来はジョゼフ=ルイ・ラグランジュだったりします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

お読みくださり、ありがとうございました!

続きがもっと読みたい方は、どうぞ
いいね★評価ブクマを頂けますと、作者の励みになります。


いいねのやり方】
ページの下側「いいねで応援」横の【指マーク】をクリック


★評価のやり方】
ページの下側にある【☆☆☆☆☆】をクリック


いつも応援いただき、ありがとうございます!

Copyright(C)2018 - 有馬美樹

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ