愛が溢れる
田所の深夜二時という遅い時間の訪問にも関わらず、彼女の如月は快く出迎えてくれた。
「こんな時間に何の用なの?」
「ああ、バイトが終わってね。話がしたくてちょっと寄ったんだ」
如月は冷たい麦茶を氷たっぷりのグラスに注いでくれ、眠い目を擦りながらも薄くメイクをする。鏡の前で、ふくよかな胸にくまのぬいぐるみを抱き、ピンクのリップを塗る。
田所は、戸棚を勝手に開けると袋のラーメンを取り出してお湯を沸かした。
「もう、勝手に食べないでよね」
「わるいわるい、腹減っちゃってさ」
「ま、別にいいけど」
田所は彼女から丼を受け取ると、ラーメンをよそってテーブルで食べ始めた。如月は隣に座ると、体を預けてもたれかかる。
「話って、なあに?もしかして、プロポーズとか?」
「プロポーズ?」
ラーメンをすすりながら相槌をうつ。
「うん……。もう、付き合い始めて九年になるし、あたしも三十半ば。友達もほとんど結婚しちゃってさ」
「胡椒」
如月は台所から胡椒を取って渡すと、更に言葉を続ける。
「子供を作るのもそろそろ大変になってくると思うのよね。あ、お金は心配しなくていいのよ?私がこのまま稼ぐからさ」
長い髪を誘うようにかきあげる如月に気づかずに、田所は炊飯器からご飯をよそい、ラーメンの汁と絡める。
「好きな人が出来たんだ。別れてくれ」
そう言うと、田所はずずっと汁をすすった。
「は?え?」
戸惑う如月は体を離し、田所の顔を覗き込む。
「聞こえなかった?別れてくれって言ったんだ」
「どういうことよ、好きな人って誰よ!」
如月は立ちあがり、強い口調で詰めよる。目には困惑の色を浮かべながらも、手はわなわなと震えていた。
「ちょっと、人が大事な話をしている時に食べないでよ!」
抱えていたくまのぬいぐるみを田所に投げつけると腕に当たって、田所は丼をカーペットの上にひっくり返した。
「何しやがるんだ!俺のラーメンに!」
「私のよ!そのラーメン、限定品で食べるの楽しみにしてたのに!」
「けちんなよ、うざいなあ」
田所はひっくり返ったラーメンご飯を諦め、彼女の部屋に置いていた私物を鞄に入れ始めた。
「ちょっと、本気?」
「嘘でこんなことしねえよ」
CD、歯ブラシ、パンツと、田所は無造作に鞄に詰めていく。
「ねえ、私、なんか悪いところあった?直すから、行かないでよ!」
戸棚のガラスが震えるほどに如月は声を荒げる。鼻は赤く、時々すすっている。田所は丼を指差して言った。
「こういうことをするところと、そういう風に言うところ。あとさ、重いんだよね、結婚とかすぐ口にするの。俺、そういう奴、無理だからさ」
如月がドンッと机を叩く音がして、そのすぐ後にグラスが割れる音がした。麦茶が白いカーペットに染み込む。如月のすすり泣きは今や号泣に変わり、先程薄くした化粧も流れている。溜息をつく田所の腕に縋りつくも、強い力で振り払われた。
「どうすれば、思い直してくれる?」
田所は少し手を止めて考えた後、如月に向き直る。
「三十万」
それだけ言って、元彼女を見下ろす。
「そのくらいだったら、口座にあるわ。コンビニで下ろしてくる」
「毎月だぞ。男は金がかかるんだ」
「そ、それは無理よぉ。私の一月分の給料まるまるじゃない」
「新しい彼女はくれるってさ、毎月」
田所は鞄に私物を詰め終えると玄関へ向かった。立ち塞がる如月を肘で押して倒す。靴を履き終えると、後ろから金切り声がした。
「止まりなさい!行かないで!このまま帰ったら死ぬわよ、私!」
台所から持ち出したのか、如月は手に包丁を握っている。
「だからさ、そういうところが無理なんだよね」
「無理って言わないで!」
「どうせ、死ねない癖に」
「死んでやるわよ!」
薄い笑みを浮かべて如月を見つめていると、突然彼女は喉に包丁をつき立てた。
「あっ!」
田所が動揺した時にはもう遅かった。しまった。まさか本当に死ぬとは。と思うと同時に頭の片隅で、面倒なことしやがって。俺にこんな迷惑をかけるなんて、こいつ、俺を愛してなかったんだなという憎悪にも似た感情が湧き出る。
声の出せない如月は口を大きく開けて、
「呪ってやる」
と形作るとそのまま床に倒れ込んだ。
カーペットの上を、吸い込めずに溢れた鮮血が流れて溜まっていく。
俺は関係ないんだと自分に言い聞かせ、田所は震える手でドアノブを回した。
七月の生ぬるい風が田所の頬を舐める。住宅街は電信柱につく蛍光灯の光をところどころに散らしていて、先程までいた繁華街の賑やかさを思い出すと家までの道が少し不気味に感じた。
いい年してなに夜にびびってんだ。そんな風に夜を恐ろしく思うのは、如月の死に際が脳裏に焼き付いてしまったからだろうか。
「……公園を抜けて、繁華街を通って帰るか」
髪を掻き毟って独り言を言うと、早足で歩き始めた。
思い返せば三木公園は、如月とよくデートに来た公園だった。自分に飯を奢る金が無いから仕方のないことだったが、彼女は当てつけのように卵焼きを詰めた弁当を用意し、麦茶を水筒に入れて持って来てはこまめに田所に勧めた。そうして如月はベンチに座って、いつまでも話しつづけるのだった。
待て、ベンチに誰かいる。
蛍光灯に照らされた長髪の後姿は恐らく女だろう。こんな時間に一人で何をしているんだ。……いや、なんだって良いじゃないか。何故、今日は日頃気にならない事柄にこんなに敏感なんだ。
この先を行けば繁華街だ。さっさと家に帰って、新しい彼女、キャバ嬢である千紗の柔肌を楽しもう。
さくさくさくと足元の土が鳴る。俯いた女は動かない。目の前を通った瞬間、女はすっくと立ち上がって、田所の十五歩後ろについて歩き始めた。気持ち悪いなと思いながらも、自分についてきているという確証は無い。初めはゆっくりと歩いていたのだが、早足で歩いてもぴったりついてくる。
さくさくさくという田所の足音が響く。もうすぐ公園を抜ける。後ろの女は俺の知り合いだろうか。どんな顔で俺についてきているんだろう。蛍光灯の下で振り向いて見てやれ。
田所はゆっくりと後ろを振り向くが、その時に気になったことがあった。
おかしいな、どうして俺一人分の足音しかしないんだろう。
振り向いた(←らを入れたい)女は目が落ち、骨ばって、喉にぽっかりと空いた穴から息をしていた。
「あなたが好きよ」
喉を開いて声がする。
「き、如月!うわあああ!」
咄嗟に鞄を投げつけると、全速力で駆けだした。
悪い夢を見ているのかもしれない。時々後ろを振り返ると、十五歩後を追いかけてくる。とにかく、人だ。人のいるところへ。暗い住宅街を駆け抜け、繁華街へと辿り着く。繁華街はネオンや電光掲示板でキラキラと煌めき、ほっとした。後ろを見ても何もついてきていなかった。
「はあ、はあ」
乱れた呼吸に胸が苦しくなり、非常に喉が渇く。丁度良い、一杯ひっかけていこう。
「いらっしゃいませえ」
「とりあえず、生」
田所が入った店は、健全に露出した若い女の子達がバーテンをやっている店だった。女の子たちの胸の大きさに一息つく。ビールを頼むと、お通しに厚焼きの卵焼きが出た。一口食べると、どうも食べたことのある味である。
「はい、生でーす」
「ああ」
こちらも一口飲むと、どうも引っかかる。生ぬるいとかそういった話ではない。まるで、麦茶のような……。店員に文句を言おうと、田所は顔を上げた。
「おい、このビール、変な味がするんだけど」
「あれ?好きじゃなかった?」
後ろを向いていた店員の首がくるりとこちらを向いて、くりくりとした空洞がこちらを見た。
「うわあああ!」
他の店員もお客もテレビに映る顔も、通りの犬も猫も皆、如月の顔をしている。喉をぱくぱくと開き、こちらをじっと見つめている。
田所は椅子を倒して店を飛び出し、通りをひた走る。顔がある生き物、顔が映るもの全てに如月の顔が映って、喉の穴から愛の言葉を投げかけている。
「好きよ、大好き」
「やめろ!やめてくれ!」
耳を塞いで繁華街を抜けて、再び暗闇を突き抜ける。足音は自分のもの一つだけ。しかし、後ろにはどれだけの如月が追いかけてきているのか分からない。田所は後ろを振り向かずに走った。
息も絶え絶えに足もふらつき、歩くことしか考えられなくなった矢先に、田所はようやく自分のアパートに着いた。鍵を開けて中に入り、急いで閉めるとようやく手の震えが落ち着いた。部屋は明るい。俺は如月の呪いから生き延びたんだ。
「お帰りなさい」
と、千紗の響く声がする。今すぐに千紗の姿が一目見たくなって、風呂場へと直行した。すりガラスに映る彼女のシルエットは綺麗な金髪のショートヘアーを誘うようにかきあげている。
「千紗!」
ドアを開けると、彼女は恥ずかしそうな悲鳴を上げた。
「ちょっと、何?服着て入って来ないでよ」
出しっぱなしのシャワーで濡れるのもいとわずに、田所は千紗を後ろから抱きしめた。衣服越しに伝わる、彼女の体の温かさが心地よく、また、その柔らかさに心底安心した。俺はこいつが好きだ。ずっと愛し続けよう。金をくれる限り。
「愛してるよ」
田所は耳元で囁いた。
「嬉しい。私もよ」
くるんと千紗の首が回って、喉に開いた穴からそう返事があった。如月の顔だ。二つの目の空洞が優しげにつぶられる。その途端、田所の喉に鋭い痛みが走った。見て確認できる限り、包丁だ。如月は包丁を抜いて出来た田所の首の穴に手を突っ込んで、内側から胃を掴むと、ずるんと外に引っ張り出した。それを美味しそうに頬張る。
「ずっと、一緒よ」
お風呂場の排水溝に田所の鮮血が溢れ、階下へと流れ落ちた。