六歳の二人 2
瞬間、全身より血の気が引くのが分かった。
見知らぬ男に支えられながら玄関へと転がり込んで来た先生は、両手両足と腹に包帯をぐるぐると巻かれており、どこもかしこも血が滲んでしまっていた。
顔色も悪く、脂汗だろう水滴を顔いっぱいに浮かべている。
は、は、と息も短く荒い。
金縛りにあったかの様に身体は固まり、目が先生より離れない。
そのままに、徐々に先生との距離が離れて行く。
錯覚だ。
しかし、先生が俺たちより離れて遠くに行ってしまうのではないか――何て、不安に膝がすくむ。
何で先生がこんな目に遭っているんだ。
お前は何で無事なんだ。
お前が先生の代わりに――。
不安をごまかす様に、先生を支える見知らぬ男を睨めつけた。
「先生!」
兄貴が先生へと駆けだす。
は、として、俺とエリスも続く。
兄貴が駆けた事で、俺の金縛りが解けてくれたのだ。
「兄様に助けられましたわね」
ぽつり、エリスが呟く。
エリスも俺と同様、身体を固めてしまっていたのだろう。
「先生、どうしたの! 何で!」
兄貴が先生に抱き着いた。
先生は苦しそうにしながらも兄貴に笑みを見せ、俺とエリスにも微笑んでくれた。
「貴様らがダンリズが面倒を見ているガキどもか」
ぬ、と男が兄貴へ手を伸ばし――先生が男の手を掴んだ。
「子供たちに触るな。殺すよ、ダメィジア」
これまでに見た事の無い先生の鋭い視線。
闇夜を切り裂く狼がごとき視線に思わず息を呑む。
「……ふん」
男は先生の手を振り払うと、そのまま踵を返し玄関より出て行った。
男の支えが無くなった事で、床に膝をついてしまう先生。
「ちょっとドジ踏んじゃってね。治療はしてもらったから大丈夫、後は寝ていれば治る……さ……」
そう言うと、先生は意識を失ってしまった。
その後、先生はろくに意識が戻らないまま三日三晩高熱に苦しんだ。
期間中、昼に近くなると医者がやってきて、先生の包帯を取り替えながら傷口に薬を塗りこんでいた。
その度に響く先生の悲鳴。
俺とエリスと兄貴はそれを部屋の外で聞いていた。
子供が見る物では無い、と中にいる事が許されなかったのだ。
俺たちは交代で先生の世話を請け負った。
先生に食べてもらう為のお粥を作った記憶はあるが、自分たちが食べる分の何かを作った記憶は無い。
何時に寝て何時に起きたのかも覚えが無い。
起きている間はずっと先生の傍にいたし、眠くなったからって先生より離れたりもしなかった。
いつの間にか眠っていて、目が覚めたら布団の中にいた。
先生の傍で寝転んでしまったのを、起きている誰かに布団まで運ばれたのだろう。
俺にしろ、エリスにしろ、そんな調子だった。
俺はエリスを布団まで連れて行ったし、きっと、エリスも俺を布団まで連れて行ってくれたのだろう。
しかし、俺は兄貴を布団に連れて行った覚えは無い。
エリスに聞いても同様だった。
それどころか、兄貴が眠っている姿を見ていない。
そうして、四日目。
先生は身体を起こせる程度には回復を果たしていた。
「子供たちに世話をさせるなんて、先生として失格だね、まったく」
先生は俺とエリスに苦笑いを見せた。
苦笑いとは言え、ようやく見られた先生の笑顔に、俺とエリスは胸をなでおろした。
ちなみに、兄貴は布団の中だ。
先生が目を覚ましたのと入れ替わる様に、風邪を引いて倒れてしまったのだ。
無理も無いとは思う、先生が大怪我をしてから今日までほとんど休んでいなかったのだから。
先生は目を覚ましてくれたのだから、今度は兄貴が休む番である。
「先生の仕事って、冒険者なの?」
「……そうだね、こんなザマで秘密にしておく訳にはいかないね」
尋ねると、先生は静かに頷いてくれた。
「お金……足りませんの?」
エリスが正座した膝の上で、拳を、きゅっ、と握る。
孤児院には教会認可の孤児院と不認可の孤児院とがある。
認可されている孤児院には教会より補助金が支払われ、その他にも便宜を図ってもらえる。
先生が代表を務めるこの孤児院は前者であり、いつか風邪を引いてしまった時は教会より医師が派遣されて来た事もあった。
とはいえ、支払われる補助金はけして潤沢とは言えない。
補助金目当てに孤児院経営なんて誰もやらない程度にしか支払われない。
「足りない事は無いよ、お陰様でね。だけど、お金はいくらあっても困らないだろう? いつ新しく子供を保護する事になるかわからないし、今後必要になる場面もあるだろうしね。だから、稼げる物は稼いでおこうと思ったんだ。もう十年以上前になるけど、先生は冒険者として生活していた事もあったんだよ。閃光のダンリズザムルドと言えば、ちょっとは名前も知れていてね。まあ、専業としては二年程度だったんだけどさ」
今、先生は二〇代半ばのはずだ。
一〇年前となると、一〇代前半と言う事になる。
一四歳で一人前とみなされるのが世間では一般的で、そのタイミングで親元を離れ独り立ちする少年少女も多い。
先生の様に、一〇代前半から冒険者として活躍する者も少なくは無い。
しかし、先生は二年程度で冒険者を専業とする事は止めたと言っている。
では、何を始めたのか。
それはわかりきっている。
では――。
「どうして、先生は孤児院の先生をしているの?」
――ずっと聞きたかった事を尋ねる。
「先生もあんたたちと同じでね、この孤児院で育ったんだ。一四歳になって独り立ちさせてもらってさ、冒険者として生活していたんだけど、しばらくして先生の先生が亡くなってしまってね。それから後任がなかなか決まらなくて、孤児院の認可を取り上げた上で取り壊しされる事になってしまったんだ。世話になった先生と孤児院に恩返ししたいと思うのは不思議じゃないだろう?」
照れ臭そうに笑う先生。
不思議じゃないだろう? なんて簡単そうに先生は言うが、一〇代半ばから孤児院経営と孤児の世話に人生を捧げるなんて尋常な覚悟では出来ない。
先生は、先生の先生に育ててもらった恩をよほど大事にしているのだろう。
「さ、私の事はいいからさ、あんたたちも少し休みな。あんまり無理をするとゴドルの様に倒れてしまうよ。風邪でも引いたら一大事だ。風邪引き三人の面倒なんて、ダンジョン探索より大変だろうから勘弁しておくれね。ほらほら、行った行った」
先生が、しっしっ、と犬や猫を追い払う様に手を振って、俺とエリスを部屋から追い出そうとする。
照れてる先生なんて珍しくまだまだ話したく思ったが、傷に障っては頂けない。
俺とエリスは先生が布団に横たわるのを確認してから、部屋を辞したのだった。
その夜、エリスと並べた布団に横たわりながら考える。
先生は先生の先生に受けた恩を返している。
同様に、俺にも何か出来ないだろうか。
俺は転生者だ。
そこらでゲジゲジ虫を追いかけている六歳児とは訳が違う。
ちなみに、エリスとはいつか二人で風邪を引き寝込んでしまった頃から同じく寝ている。
とはいえ、早く寝入ってしまうのは決まって俺で、早く目覚めるのは決まってエリスであるから、エリスの寝顔を見た事はほとんど無い。
何時に起きているのか、尋ねた事があるが、寝顔を見られるのは恥ずかしいですわ、なんて教えてくれなかった。
そういうつもりで尋ねた訳では無かったのだが、そういう返事を受けて妙に気恥ずかしくなってしまった覚えがある。
「オルフェ、起きていますの?」
「ああ、起きているよ」
エリスなら俺が起きているかどうかは寝息の具合でわかろうはずだ。
わざわざ声をかけて来たという事は何か話があるという事だ。
「転生を果たし六年が過ぎましたわね。……将来どうするか考えた事がありまして?」
「……いいや」
「私もありませんわ。だって、今がとても楽しいんですもの」
先生や兄貴のおかげで何の不自由も無いし、全てを楽しく過ごせている。
将来を考える隙間が無い程に今が充実している。
それはエリスも同様であった模様。
でも――。
「俺な、強くなろうと思っている」
――それだけじゃあ駄目だ。
「奇遇ですわね、私も同じ事を考えていましたわ」
どうやら、エリスも俺と同じ結論を出した様子。
「エリスは八歳であらゆる魔法を習熟した、賢者、と呼ばれた転生者がいたのを知っているか?」
「オルフェこそ八歳であらゆる剣技を修め、剣聖、と称された転生者の存在をご存じですか?」
「エリスには賢者を超えてもらいたい」
「オルフェにも剣聖を超えて頂きたく思います」
「出来るか?」
「出来ますか?」
布団に横たわったまま、二人で顔を見合わせた。
どちらともなく、に、と口角を上げる。
「俺が前世でなんて呼ばれていたか忘れてしまったか?」
猛々しく清々しく。
「私が前世でなんと称されていたのかをお忘れで?」
エリスは妖艶揺蕩わせ。
勇者と魔王が相討って二〇年。
俺とエリスは再び勇者と魔王足る力を身に着けようと決めたのだった。
さっそく、翌日から私とオルフェはトレーニングを始めました。
まずは身体作りからです。
技術を身に着けたとて同レベルの技術であるなら、軍配は身体が勝る者に上がります。
技術が劣ったとて、劣る以上に身体が優っていれば勝る事も出来ます。
今の私とオルフェは、強くなる為に身体能力の向上を何よりも優先させる必要があると考えました。
筋力や体力、敏捷性など、身体能力を向上させる為のトレーニングは基本的に地味です。
腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット……などなど。
妙な姿勢を保つ類のトレーニングや特殊な器具を用いる類のトレーニングも知識にはありますが、今の私とオルフェにそんな類のトレーニングは必要無いでしょう。
今はまだ単純で簡単なトレーニングを丁寧に数多くこなす段階と思われます。
それに、妙な姿勢を保つ類のトレーニングはともかく、特殊な器具を用いる類のトレーニングは孤児院では出来ませんし。
トレーニングの為に孤児院から出るつもりもありません。
身体能力の向上に努めた後に行う予定の、武や魔に対するトレーニングも同様です。
また、外部に教えを乞うつもりもありません。
武にしても魔にしても、互いが最高の講師足り得るからです。
私たちはあくる日もあくる日もトレーニングに励みました。
八歳にして、剣聖、や、賢者、と称された者々を超える。
それは、八歳までに前世での魔王や勇者に追いつく事と同義です。
転生者とはいえ、前世が魔王や勇者だったとはいえ、決して楽な事ではありません。
ゲジゲジ虫を追いかけている場合ではありません。
砂場でお城や要塞を作っている暇もありません。
小さなバケツや先の丸いスコップは物置の中に厳重に封印しました。
裏庭は狭く、効率的なトレーニングが求められます。
心肺機能を高めようにも、裏庭ではジョギングやランニングをする事はかないません。
それに、そんな悠長に時間を費やしてもいられません。
腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット……などなどをローテーションし、心拍数の高い状態を維持、心肺機能への負荷を意識しながら、筋力トレーニングにも臨みます。
とはいえ、無理をして怪我をしては何にもなりませんから、ある程度の所で休憩は挟みます。
また、寝る間を惜しむ真似もしません。
負荷をかけ消耗させた身体は回復させなければなりません。
消耗と回復の繰り返しによって、限界値が引き上げられるのですから。
ましてや、まだまだ成長著しい六歳の身体です。
睡眠もトレーニングの一貫と、十分に取る事を心がけます。
時が経ち、先生は傷が癒えるとまた冒険者としてダンジョン探索を再開させてしまいました。
体力や魔力を消耗し帰ってくる先生を目の当たりにする度に、トレーニングにも力が入りました。
同じくして、兄様が外出する機会も増えました。
聞いた所、子供会、なる集まりに顔を出しているとの事です。
ある日、トレーニングに明け暮れる私とオルフェに、兄様は木剣を二振り用意してくれました。
子供会より調達して来たとの事です。
木剣は軍でも使えそうな立派な代物でした。
兄様は現在九歳。
九歳の少年が用意するにはあまりにも不相応と思える木剣です。
それを可能とする子供会とは、一体いかなる組織なのでしょう……。
謎です。
子供会の集まりから帰ると、庭に水たまりが二つ出来ていた。
雨は降っていないはずだし、局地的に降ったとするにはあまりにも不自然だ。
よくわからないのでそのままに首を傾げながら孤児院に入る。
オルフェかエリスか、洗濯の最中に水でもこぼしたのだろう。
翌日、子供会の集まりは昨日より早くに終わり、その分早く孤児院に帰った。
塀に囲まれた裏庭に、オルフェとエリスが見えた。
幼い頃は仲が悪く、特にオルフェはエリスを無視していると言える位に距離があったのだが、いつからか仲は改善され、今ではべったりと言っても差し支えない仲になっている。
お前ら結婚しろ。
そんな二人が裏庭で何やらやっている。
ちょうど、昨日水たまりがあった辺りであり、やはりあの二人が原因であった模様。
そ、と建物の影から顔を出し、様子を伺う。
「な、何をやってんだ、あいつらは……」
二人は汗だくでスクワットをしていた。
まるで雨に打たれたかの様に衣服をビショビショに肌に貼りつかせながら。
溢れ蒸発する汗で湯気が立ち、周囲がぼやけて見えている。
二人とも目は虚ろで、いつ倒れてもおかしくない位にふらついていた。
そうして、足元を見れば、昨日発見したのと同様の水たまりがあった。
あの水たまりは二人の汗だったのか……てマジかよ。
足元は土だから、水分は染み入ってしまうはずだ。
にも関わらず水たまりが出来ているなんて。
俺は悪夢でも見ているのだろうか。
あまりにもあんまりな様子に声をかける事が出来ない。
いや、あまりにもあんまりな様子に声をかけてはいけないと思えてしまう。
「エリス、そろそろ……」
「そ、そうですわね。兄様が帰って来る頃ですわね」
二人はスクワットを止めると、幽鬼の様におぼつかない足取りで孤児院へ入って行った。
「そろそろ剣を使いたいけどな」
「洗濯棒で我慢ですわね」
二人の姿が見えなくなる。
よもや戻って来る事は無いだろう。
俺は中庭、二人が作り上げた水たまり――いや、汗だまりまで歩む。
熱気の残滓が半端ない。
一時間や二時間でこんな汗だまりが出来るはずが無い。
生半可な密度でこんな汗だまりが出来るはずが無い。
それを俺より三歳も年下でまだ六歳のあの二人が……。
寒気がする。
「剣が欲しいって言っていたな」
誰にともなく呟く。
あの二人が何を目的にこんな真似をしているのかはわからない。
わからない、が想像はつく。
約半年前、先生が大怪我をして帰って来た事があった。
おそらくはあれが関係しているはずだ。
何故そう思うか。
俺も同様だからだ。
先生が大怪我して帰って来た事で、このままではいけない、と思ってしまった。
オルフェとエリスも何か思う所があったのだろう。
なら、何かをあの二人に言うのは野暮だ。
とはいえ、せめて、必要な物を調達してやる位の手助けはしてやりたく思う。
兄貴分としてそれ位はしてやりたいしな。
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