四章 道の始まり
日影にシダ植物が茂り、古い木々の樹幹には半円形のサルノコシカケが寄生して群れを成していた。空は遥か遠くにあり、孔雀石のような緑色の天蓋は陽光の帯を幾つも大地に落としている。木漏れ日は様々な形の模様を描き、それはモルチェの体にも斑模様を映し出した。春の銀色の太陽は優しい光の飛沫を木の葉の合間から投げかけている。
「影が青い。煙っているみたい」
溜め息と一緒に感想を漏らし、モルチェは上を仰いだ。太陽は衰えを知らないかのように輝いている。燃焼し尽くせばなくなってしまうことなど嘘みたいだ。
「葉が他の色を吸収しているんです。さ、こちらへ」
額に汗を浮かべ、デボーテは振り向いて見せた。その顔に疲れはない。
いらえを返しながらも、モルチェは空を見つめ続けた。
(もし私が森の奥深くに住んでいたら、空が恋しくてしかたがなくなるかもしれない)
土と水と木々の匂いは風が吹くたびに体の中を空っぽにする。体内に清涼感が満たされてゆくのがモルチェには分かった。
本当に大切なものは目に見えて触れるものだ、とモルチェは感じた。目に見えない個人個人の感情など、自然はいとも簡単に陵駕してしまう。
前を行く青年に目を向けて、モルチェはその体の線をたどった。
(すごく痩せているみたい……)
森の調査をしていると言っていたわりに、デボーテはだぶついた動きにくそうな服装をしている。サイズの問題だけでは無さそうだった。
「エトランゼさんは何故ここに僕を呼ぼうとしたんでしょうね?」
無言になったモルチェに、デボーテはそう切り出した。
「わからない……あの子、一週間くらい前から行方不明なの。森に行く約束をした日から」
モルチェは今までのことを要略しつつ話した。約束の日の朝から彼女の姿が消えたこと。三年前にいなくなったときは四、五日で発見されたこと。そして、エトランゼから届いたあの手紙のこと。
「すぐに見つかると思ったわ。でも、手紙が来たことでデボーテさんが来るまでは彼女と連絡が取りようがないことがわかって……昨日、夢をみたんです。エトランゼが去っていく夢。私、あの子を失いたくない……」
立ち止まって、木綿の服の胸元をギュッと握り締める。今日あったばかりの人に何故こんなことを言っているのだろうと思うと、モルチェは苦笑した。それは、青年の持つ雰囲気がなせる技かも知れなかった。
「一緒に生きたいんだね」
再び振り返った青年に、モルチェは大きく頷いた。
「どこまでも一緒に行けたらいいのにね」
デボーテはそれから口をつぐみ、再度行軍を開始した。モルチェも足元の木の根につまずかないように気をつけながら、彼の後に黙々とついていった。
何をしているの? と口にしたモルチェに、エトランゼは川面から目を外さずにこう答えた。
「下の大地が見えないかなと思って」
水面には二人の幼顔の少女が写っている。エトランゼはしゃがんで真剣に河を覗き込んでいたが、モルチェは立ったまま、チラリと目をやっただけだった。
「何時間見つめたってそんなの見えないわよ。このうきしまにはむぎだっておりいぶだって実をつけるわ。土があるのに下を見るなんてできっこないもん」
けれど、澄んだ珪砂の川底を見つめたまま、エトランゼは動こうとはしなかった。
「この土もこの川の水も昔は下の大地にあったものよ。私は土や川の夢を見たいの」
藻が河の流れに沿って揺れている。岩にぶつかって金粉を吹き上げる川面を、モルチェはエトランゼの隣で眺めた。
時間がゆっくりと流れてゆく。ついにモルチェはたまらなくなってあくびした。目尻に浮かんだ涙を拭い、エトランゼに視線を戻す。と、彼女はまだじっと川面を見つめていた。
「……土が泣いてる……」
河の音にかき消されてしまうほどの大きさの声で、エトランゼは呟いた。
「かわいそう。どうして泣いているの?」
本物の涙がエトランゼの瞳にはあった。
「つかれたの?いっぱい、むぎやおりいぶを作ったから。それでも休ませてもらえないから」
大粒の涙を見せるエトランゼ。モルチェはその様にアッケに取られた。しかし、幼いモルチェはエトランゼを放っておくことができなかった。
「ねえ、家どこ? 送ってあげるから泣かないでよ、ね? 」
問いかけたモルチェに、エトランゼは涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔のまま微笑んで見せた。モルチェも笑った。それから河の水で彼女の顔をすすいでやり、ついでにこう付け加えた。
「だいじょうぶ。お父さんが前に言っていたもん。この島はいつかは下の大地におりるって。そうしたらいっぱいいっぱい休ませてあげられるわ」
水草が水にくゆるように、西の丘の上に生えたまばらな木々が、季節外れのモンスーンに大きく大きくその身を揺らしていた。
水音が聞こえてきて、モルチェは白昼夢のように昔のことを思い出していた。もう、十年以上も昔のことだ。
「もうすぐですよ」
空は段々と青くなってきていた。菫青石の青色をしている。透明で、奥深い青色。寄り添ってくるようなしっとりとした色だ。日光は木の幹に遮られてわずかに糸ほどの線を引くに止まっている。
随分森の深いところまで来た。木々についたヒカリゴケが緑白の光を放ち、小さな羽虫達がふうわりと漂い始めている。土笛の音のようなアオバズクの鳴き声が、森のどこかから聞こえて来る。
「木々の様相が変わったのがわかりますか?」
デボーテの実に楽しそうな言葉は、しかしモルチェの心にはあまり響かなかった。
(夢は夢よ)
水のわき出る音がこぽりごぽりと大きくなってきた。
「ここがマディエス河の源流です」
デボーテの指した所に小さな泉が湧いていた。
「これのお陰でここのヒカリゴケは非常に発育が良いんですよ。湿気が好きですからね、苔は」
モルチェは血の気が引く思いがした。エトランゼの言うとおりに、マディエス河の源流はこの森にあったのだ。しかも、
「……杉の木」
大昔の人が神と崇め奉った理由がわかるような巨木の群れが、そこにはあった。
「そうです。この先に種子が見つかった場所があるのですよ」
デボーテの説明を最早モルチェは聞いてなかった。夢の中でエトランゼのいた場所がすぐそばにあることは、揺るぎない現実として横たわっていた。
(エトランゼはいる。ここに)
足が勝手に動き出す。
「モルチェさん? どうしたんですか?」
走りだしたモルチェをデボーテは引き留めようとして叫んだが、その声に反応したのは森の動物達ばかりだった。複数の鳥が飛び立って行く音が断続的に繰り返され、やがて森はにぎやかな静寂を取り戻した。
少女の走り去った方向に向かって、すぐさまデボーテも足を速めた。
何度も木の根につまずきながら、モルチェはさらに奥へと進んでいった。ヒカリゴケが夢に見たように、ある一方向に向かって燐光を発している。まるで一体の生き物のようだ、とモルチェは思った。燐光は鼓動しているような動きを見せていた。連鎖的に瞬いては消えるヒカリゴケの群れ。
いつの間にか帳を降ろした空に、星が瞬いていた。モルチェは自分がどこをどう走っているのかわからなかった。
(私は今、地面を走っているの?それとも夜空を走っているの?)
境界線はすっかりと闇に溶け込んでいる。聞こえるのは鳥や動物の鳴き声。虫の声。羽ばたき。葉擦れの音。湧き水が流れる音……挙げれば限がない。風が種を落とす音。種が種皮を割る音。樹木が水を吸い上げる音。根を張る音。昆虫が枯れ葉を押しのける音。キノコが菌糸を伸ばす音。
「歌声?」
風の音に混じってかすかに聞こえてきたものにモルチェは耳を傾けた。不思議な音色だった。聞いたことのない曲なのに、どこか懐かしい。苔はそのメロディーに合わせるように波打っていたのだった。
(心の琴線に触れてくるみたいだわ……)
空間が開けた。辺り一面にはヒカリゴケを身に纏った木々があった。歌が止む。
「モルチェ、私はここよ」
木々の中心で、捜し求めていた少女はぼんやりと輝いていた。それは闇の中のロウソクの炎を思わせた。
「エトランゼ」
突然現実に引き戻され、呼吸を荒くしてモルチェはエトランゼに詰め寄った。あんまり息苦しくてむせてしまい、涙まで出てくる始末だ。
「ごめんなさい」
儚く微笑みかけるエトランゼ。モルチェの涙は生理的なものではないそれに変化していった。
「泣かないで。本当にごめんなさい。貴女を一人にして」
立っているエトランゼの足元にすがりつき、子供のようにモルチェは泣いた。涙が止まらない。
「どうして……何故?」
話したい内容がうまく言葉に表せず、モルチェはただ一途に問いかけた。
「三年前のことを覚えているかしら」
エトランゼはモルチェのそばに腰を落とすと、彼女の背中を霧よりも軽く撫でた。
「あんた、あのときのこと思い出したの?」
嗚咽で言葉はすんなりと出なかったが、モルチェの言いたいことがエトランゼにはわかったようだった。
「あの杉の木が教えてくれたの。私が本当は人間じゃないって」
涙を拭い鼻をすするモルチェ。エトランゼは続けた。
「杉の種子。私は木霊と呼ばれる存在。でも、私は貴女と一緒にいたかった」
貴女は特別だったのよ? とエトランゼはいたずらっぽく笑った。
「お母さんはそんな私の気持ちを察してくれた。記憶を消し、時間をくれたのよ」
「そんな……でも、まだ三年しか経ってないじゃない」
笑みは、寂しげなものに変わった。理解を求める空気を、モルチェは払拭したくてたまらなかった。
「私が『私』でありながら貴女のそばに居られる日がいつか来ると言われたわ」
モルチェはようやく気が付いた。あのデボーテという青年は、植物学者だと言っていなかっただろうか。
「あの人がそれを可能にするというの?」
エトランゼは頷いた。
「時間はかかるかもしれない。過ちを犯すかもしれない。それでも、波紋は広がってゆくものなの」
「嫌よ! 私はあんたともっと話をして、もっと一緒にいろんなことを……もっと、たくさん……」
嗚咽が言葉を詰まらせる。搾り出すようにしてモルチェは言葉をつむいだ。
「どうして」
そんなモルチェの手に、エトランゼは自分の手を重ねた。
「モルチェ、泣かないで。私まで哀しくなってしまうわ」
暖かい眼差しに覗き込まれ、モルチェは再度顔を歪めた。
「私はどうしたらいいの? 今までただ、あんたに引きずられてきた。今更一人にするなんて、酷いよ」
劣等感が心を黒々と蝕んでゆく。そこに哀しみと焦りが混ざり合い、胸がつぶれそうだ。
「貴女は大丈夫よ、モルチェ。貴女は本当に大切なことを理解しているもの」
モルチェは頭を振った。鼻の奥がツンとする。
「あんたと対等になれると自惚れていた。世界の美しさにようやく気づいて、自分の世界があまりにもちっぽけだったことに気づいて……」
「そうかもしれない。でも、貴女は気が付くことができたでしょう? 貴女も私も同じなの」
モルチェはエトランゼの顔を見上げた。彼女は相変わらず優しく微笑んでいた。その瞳はいつもと変わることなく穏やかで、高まっていた相手へのわだかまりが溶けてゆくのがわかった。
「私たちは生きるために生まれたのよ。そこに優劣はないわ。共生することでしか私たちは生きられないの」
「エトランゼ」
重ねられた手に視線を落とす。エトランゼの手の下に、自分の手の甲が透けて見えた。
モルチェは理解せざるを得なかった。これが彼女との最後の邂逅になることを。
「モルチェ、一つだけ頼みを聞いてくれるかしら」
もうほとんどエトランゼの姿は消えかかっていた。輪郭が空気に交じり、楕円形の金色をした発光体になろうとしている。
「この浮島はいずれ下に落ちるわ。大地に降りたら私たちをそこへ植えてね」
微笑む気配がした。陽光よりも暖かい……全身が温かかった。そのどこよりも目蓋の奥が熱かった。
「……また会いましょう……」
空気に溶けてゆく光の塊。それは引き伸ばされて薄れ、やがて消えた。
モルチェは双眸に涙を浮かべたまま空を仰いだ。涙がこぼれるごとに心は軽くなっていくようだった。
「モルチェさん、聞こえますか? モルチェ?」
遠くから声が聞こえてきて、モルチェは眉を寄せた。この心地よい微睡みを妨げる声が一体誰のものなのか、そんなことを考えることすらまどろっこしい。
「こんな所で寝ていては風邪をひきますよ」
困惑の色合いが濃いその言葉に、モルチェは仕方がなしに起き上がった。辺りは明るく、樹木の匂いが白く漂う霧に乗って森のすみずみに満ちていた。
「……デボーテさん? エトランゼは……」
言いかけて、モルチェは口をつぐんだ。
「彼女に会ったんですか? 僕は見かけませんでしたが」
デボーテの言葉にモルチェは「やっぱり」と思った。金輪際、エトランゼは人としての姿を他者に見せることはないだろう。
「そうですか」
複雑な気持ちが絡み合っていた。最早、エトランゼと意志の疎通はできない。彼女は彼女自身に還っただけであるのに、喪失感が拭い切れなかった。
「エトランゼは消えたんです」
一度は納得した彼女との別れに、モルチェは後悔し始めていた。話をして、笑って、怒って……一緒に生きていきたいと思ったのは、モルチェの中で一番大切な願いだったのだ。
「彼女は木霊だったの」
モルチェは放心したまま続けた。泥水に浸かったような疲れが心を満たしている。デボーテは彼女の姿に同情の眼差しを向けながら語りかけた。
「モルチェさん、彼女が木霊だったというなら、エトランゼさんたちが消えるときは私たちが滅ぶときでもあります」
モルチェの傍らに腰をかがめ、デボーテは落ち葉に埋もれた地面を指差した。青年の指先にある地面を、モルチェは落ち込んだ気分のまま眺めた。
「これ……」
しかし、少女はすぐに眼を見開いた。地面には様々な形の木の実が落ちていた。その木の実に混じっていたあるものがモルチェの眼を引いた。落ち葉ごとそれをすくい取った彼女の掌には杉の種子があった。
「なめらかな卵形の球果ですね。こんな完全なものは初めて見ました」
数十の鱗片で構成されている薄茶色の球果は、松ぼっくりとは比べ物にならないくらい上品だった。美しく整った形の種子は、エトランゼの瞳や髪の色と同じ色をしている。
「エトランゼ……」
力を込めれば崩れ落ちてしまいそうに繊細で熟した球果。モルチェはそれを大事に大事に両掌を包み込んだ。
「……私、彼女を育てるわ」
決意が固まってゆく。
「デボーテさん、教えてください。エトランゼたちを下の大地一杯に育ててあげたい。この子たちが世界中に枝を広げる様を私は見たいんです」
そうすればまた彼女と会えるだろうか? いや、会えなくともいい。エトランゼの願いを叶えてあげられるなら。それだけで彼女には自分の思いが伝わるはずだとモルチェには分かっていた。
「無理でしょうか?」
不安そうに問いかけるモルチェ。デボーテはゆっくり首を振った。
「貴女がそう望むのであれば世界は変えられますよ」
少女を立ち上がらせながら、青年は静かに微笑む。
「私たちはそういう生き物なのですから」
青々と色づいた翡翠の天蓋は霧が薄れるにつれて明確になっていった。様々なわだかまりがほどけてゆく。
―― また会いましょう ――
葉擦れの音に混ざって、エトランゼの声が聞こえたような気がした。
(END)