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三章 迷い道

 モルチェは不機嫌だった。

“さようなら、モルチェ……”

 エトランゼは夢の中でそう告げた。幽霊のようなほっそりと美しい面影。一挙一動は水中にいるときのようなゆっくりとしたもので、風が吹けばそのままかき消えてしまいそうだった。明け方の夢は正夢になる……どこかで聞いたこの言葉がモルチェの心をつかんで離さない。

 目の前を花屋の荷車が通り過ぎ、甘い香りが辺りに漂ったが、モルチェの心は一向に晴れなかった。

(何であんな夢、見ちゃったんだろう)

 エトランゼが手紙に指定した場所に立ち尽くしつつ、道端に落ちている石をつま先で弾いてみた。

 暗く深い森の中。大木の下にはシダ植物が生い茂り、周りは土と水の匂いが立ち込め、遠くの方で鳥の声や動物の鳴き声が聞こえる。幾種類ものヒカリゴケが、ある一方のみを指し示し、照らし出されない場所が一層暗く歪んでいるせいもあって、モルチェはそちらに進むことしかできなかった。ようやく森の広場に出た、と思うとそこにはエトランゼがいた。彼女はぼんやりと光りながら髪を梳いていて、フイッとモルチェを見た。そして、いつものように笑いかけると、やはりいつものように様々なことを話しかけてきたのだ。この先にはマディエス河の源流があるとか、そこには何千年も樹齢をへたように大きな杉の木があるとか、見たことのない形の木の実を拾ったとか……星の話題も出た。十字に光っているのが南十字星。ただの棒の集まりのようなのが時計座。昔の人が生きていた時代に発せられた光を私達が見ているかもしれないこと……それに、それぞれの星座に秘められた物語や、月の話。

「さよならってどういう意味よ、エトランゼ」

 起きる直前にエトランゼが口にした言葉。妙に生々しく耳にこびりついている。

「あの…ちょっとすみません」

 肩を叩かれ、少なからずモルチェはどきりとした。

「はい?」

 顔を上げて相手の顔を確認する。モルチェはエトランゼが会ってほしいと手紙に書いていた男がその人であるとすぐに分かった。

「君ぐらいの年の女の子を捜しているのですが……こう、さらさらの短い髪で、背は君よりも少し低い、瞳が黄水晶のように綺麗な娘なんだけれど……見かけませんでしたか?」 

 しどろもどろに説明する男に、モルチェは普段の落ち着きをすぐに取り戻した。

「エトランゼなら来ませんよ」

 今まで誰にも見せたことがないような優しい笑顔を浮かべて、モルチェは続けた。

「エトランゼ……あの娘のことですか?」

 青年がエトランゼに名前すら聞いていなかったことに驚く。

「ええ。彼女から言伝を頼まれました。森に来てほしいって」

 エトランゼの意図することが何なのか、モルチェには分からない。けれど、森に来いと記した手紙と昨日見た夢とが重なって、胸に鉛を埋め込まれたような不安は消えなかった。

「森へ?」

 安直に言葉を繰り返す男に苛立ちを感じ、モルチェは両手の拳を握り締めた。この胸中を青年が知る由もないことは十分わかっていたが、理不尽な憤りは押さえようがなかった。

(何故エトランゼはこんな男を森に呼ぼうとしているんだろう? 何故私では駄目なの? エトランゼ)

 子供っぽい独占欲に一層心が重くなる。自分なんかが彼女を独占することなどできるはずがない。頭ではきちんと分かっているのに。

「古代杉の種子が見つかったところに、だそうです」

 冷静を装って口にする言葉の一つ一つに刺を感じる。何故エトランゼは私をこんなに傷つけるのだろう……思って、モルチェは唇をかんだ。

「わかりました。そこに彼女はいるのですね?」

「ええ」

 男は礼を言うと、モルチェに優しく笑いかけた。

「親切なお嬢さん、どうもありがとう。貴女は彼女に信頼されていますね」

 信じられない言葉を残して青年はそこから立ち去ろうとした。

(いいの? このままこの人を行かせて)

 焦燥感が胸に染み渡り、モルチェは踵をかえした青年の背を凝視した。

(エトランゼとの糸も切れてしまうのかもしれないのよ?)

 心の奥底から問いかけが聞こえた。これから、もう永遠にエトランゼには会えなくなるかもしれない。それどころか、手紙の一通さえ来ないかもしれないのだ。もし、ここで声をかけなければ。

「……待って」

 男は驚くというよりも、寧ろその声を待っていたように微笑みながらモルチェの方に振り返った。

(どうしてそんなにきれいに笑うのよ。エトランゼみたいに)

 学校の男子生徒にはない、純粋な微笑みだった。それに対して自分はどうだろう……モルチェは自分の心は黒炭やカラスアゲハなんかよりもよほど真っ黒だと思った。

「一緒に来ませんか? 貴女は彼女に何か言いたいことがあるのでしょう? 」

 風が青年の髪を揺らし、こけた頬をなぞってゆく。モルチェはこれ程真剣に他人の顔を見つめたことがないくらいにじっとその顔を見つめた。鼻孔に忍び込むものがあった。陽光を一杯に吸い込んだ土の匂いだった。

(この人自身が木みたい)

 真っすぐに空に腕を伸ばして体全体で日光を浴び、水と土を生涯愛する木そのものだ。

「お見通しですね」

 安直な優しさは薄っぺらくて、すぐにメッキが剥がれてしまう。人は傷付いた分だけ優しくなれるときいたことがある。ならば、どれだけの傷をこの青年は背負っているのか?

(つまらない焼き餅なんか焼かなければよかった)

「では、行きましょう。僕はデボーテ=B=ラズリ。植物学者の端くれです」

 右手を差し出すデボーテ。モルチェはそのふしくれだった手を取ると、自分も同じように名乗った。

「私はモルチェ。モルチェ=D=オパールです」

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