二章 道しるべ
週二日の休みを終え、学校は生徒の声で沸き返っていた。教壇には休み足りなさそうな顔をした教師が立ち、誰が持ってきたのか、花瓶の花も新しいものに代えられていた。綺麗に整頓されていた机は様々な方向へ向きを変え、休みの間の出来事を子供らは口々に言い合った。
けれど、そんな喧噪の中にいながら、モルチェは誰とも話さず、ぼんやりと窓の外ばかり見ていた。始業のベルが鳴っても姿を見せなかった幼なじみのことを考えていたのだ。
(どこに行っちゃったの? エトランゼったら……)
昨日、結局エトランゼに会うことはなかった。彼女の家にも寄ってみたのだが、朝に出たきりだという。
(先生が聞いても誰も知らないみたいだったし、どうすればいいんだろう)
森を捜索した大人達は、皆、首を横に振っていた。今日もまた森の調査グループとは別の捜索隊がエトランゼを捜しているはずだ。
「モルチェ、エトランゼのことなんて心配しなくてもいいのよ」
隣の席の少女が、ソバカスだらけの顔をほころばせてモルチェに話しかけてきた。
「フェスの言うとおりよ。また、どこかに行っちゃったんだわ」
前の席の少女もそれに同意して低い鼻をスンッと鳴らせた。モルチェはわざと聞こえない振りをし、教壇の方へ顔を向けた。
(マディエスの河下まで一人で行ってしまったときのように? 私をおいて? ……そうかもしれない)
四、五日行方不明になっていた三年前のことを思い出して、モルチェは彼女達に気づかれないよう、小さく溜め息を吐いた。
(あの時わたしはどうしてたんだっけ……)
存在意義を失った生きた死人と化していたことを思い出す。
(エトランゼがホントに消えてしまったら、わたしはただの人形になるんだわ)
ネジを巻く主人のないブリキの玩具のように、時の中で朽ちてゆくだけになる……恐ろしい想像に、モルチェは身震いした。
授業が始まり、静かになった教室に一匹の蜂が飛び込んできた。再び騒がしくなった室内で、クラス長の男子が丸めたノートで異邦者を勢いよく殴りつけた。羽を休ませるために窓のサンに止まろうとしていた昆虫は、ポトリとモルチェの机の上に落ち、二、三度体を震わせてから息絶えた。
「何するのよ!」
普段なら気持ち悪いと思う虫の亡骸を手にし、モルチェは叫んだ。隣の席のフェスはとっくの昔に避難していて、モルチェの席の周りには彼女とクラス長のジョンしかいなかった。
「不可抗力だよ。仕方ないだろう?」
モルチェの迫力に押されて、ジョンは少し後じさった。
「窓に近づいてきたなら開ければ済むことじゃない」
そう言って席を立つと、モルチェは教壇の方へ歩いていった。
「先生、少し席を外します」
返事も聞かずにモルチェは廊下へ出た。
掌が汗をかいていた。蜂の骸は軽く、羽の付け根に生えた繊毛の感触などは、あまり気持ちのよいものではなかった。
(エトランゼも死んだらこの蜂みたいに、ただのモノになっちゃうんだわ)
そう思うと急に胸が締め付けられて、モルチェは唇を噛んだ。
「さ、あんたはこの土の中でよおくお眠り」
昇降口のすぐ近く、校庭の片隅に靴で穴を掘り、モルチェは蜂を埋めた。
「迷い込むなら、他のクラスにすればよかったのにね」
弔いの言葉を唱え、教室に戻ることなく校門の方へ歩き始める。一歩一歩踏み締めるこの土の下には、一体どれだけの命が埋まっているのだろうか?
「私達ってちっぽけね、エトランゼ」
空を、風を、月を、星を……エトランゼが心奪われたものに引き付けられてゆく自分をモルチェは感じた。水の、木々の、土の、太陽の大きさが体の中に浸透してゆく。満たされる感覚。全ての形在るものが無意味になって行く感覚。人には求められない、魂の安らぎ。
(……探そう)
モルチェはこの感覚を純粋に彼女に伝えたかった。対等に言葉を交わせる者として。今なら通じ合うことができる――そう思えた。
太陽は中天を過ぎ、光の矢をさらに鋭く磨き始めようとしていた。
しかしその日、モルチェの気持ちに反して、エトランゼに関する情報は何一つ得られなかった。彼女自身、エトランゼの養い親に頼み込んで部屋の中をくまなく調べたのだが、手掛かりはチリほども出てこなかったのだ。
(明日、森に行ってみよう)
窓から外に出て、屋根の上で星を見ながらそう呟くと、モルチェは暗く涼やかな夜空を胸一杯に飲み込んだ。
「どうして今まであの子が言うことをもっと真剣に受け止めなかったのかしら」
それが悔やまれてならなかった。青白い燐光を放つ南の恒星郡。十字に輝くあの星座を何というのか、エトランゼならば知っているはずだ。
「覚えている名前はカシオペア座、北極星、琴座のベガ、白鳥座のアルタイルに……他は黄道十二宮」
島が北半球に浮いていたときに見た様々な星。座するのはそれぞれの生き物の魂の夢か?
「北の星座よりもここのほうがもっとはっきり見えるみたい。エトランゼも今頃どこかでこれを見ているんだわ」
白い方解石を含むラピスラズリを思わせる夜空の美しさに胸が震える。モルチェは冷えてきた膝頭を両手で抱えた。
「モルチェ、モルチェッ」
しばらくして父親の呼びかける声が聞こえてきた。その、低い響きは一階のモルチェの窓の方向と同じ向きにある、庭の辺りからする。
「ここよ、父さん」
姿勢を崩しながら答え、モルチェは手入れの行き届いている庭の方へ近づいた。
「そんなところにいたのか。あんな子の真似なんかするんじゃない」
屋根の上を見上げる髭面の男の言葉に、モルチェは唇を噛んだ。母が亡くなってから父は変わった。人としての余裕をまるで失い、モルチェに対して、厳しいというよりも寧ろ乱暴に接することが多くなっていた。
「何の用?」
四つん這いで下を見下ろし、問いかける。父親の表情は暗くてよく分からなかった。
「お前に届け物だ。今、モモイロペリカンが届けた。急ぎのものかは知らんが、非常識もはなはだしい」
「分かったわ。今行く」
立ち上がり、藍に染まっている街の家々に一旦視線を馳せ、モルチェは窓から自分の部屋に戻った。
「ほら」
一階と二階をつなぐ階段のすぐ左奥にキッチンはある。そこには庭につながる大きな窓があり、モルチェの父は彼女が到着する前に既にいた。
「……誰から?」
モルチェは白い包みを受け取った。学校で使う教科書程の大きさだ。だが、小指の長さほどの厚さがあり、それなりの重量があった。表書きはモルチェ宛となっていたが、差出人の名前はなかった。
「モモイロペリカンに聞いたが、答えかった。差出人に口止めされたとかでな。オールター・シリーズ(生物機械)の動物どもは皆、言い付けられたことにえらく忠実だ」
着古した木綿のシャツに栗色のズボンをはいた男は、忌ま忌ましそうにそう言って足早に自分の部屋に戻っていった。
「ありがとう、父さん」
モルチェはうつむいて、包みを握りしめた。
(これはエトランゼが送ったものだ)
ハッと気が付き、モルチェは息を飲んだ。確信があった。一見誰のものかは分からない美しい文字。けれど文字の語尾や記号につける装飾の仕方は間違いなくエトランゼのものだった。
モルチェは階段を駆け上がった。胸の高鳴りが外に洩れてしまいそうだった。指先が思わず震え、包みを取り落としてしまいそうだった。息が詰まり、幾度も大きな深呼吸もした。それでも苦しくて、胸を叩いてみたりもした。
(前には手紙もくれなかったっけ……でも、あのときのことはエトランゼすら何も覚えていないんだから仕方がないんだけど)
部屋の扉を開け、向かって右の壁に沿って置いてあるベッドに腰掛ける。モルチェはペーパーナイフを使う気になれず、急いでその封に手をかけた。心臓が壊れんばかりに早鐘を打つ。期待の大きさに、そのまま倒れてしまいそうだった。
「…………開いた」
呟いて、モルチェは包みの中に同封されていた手紙に目をはせた。その一心不乱な様子とは対照的に、夜空の星々は静かに静かに光を湛えていた。