一章 別れ道
溶岩が氷を解かし、海が大地を洗い、地上の文明を悉く滅ぼして、地球はその主導権を己が手に取り戻した。今や僅かな土地だけを残し、水の惑星に生き残った人間の総数は約千名。彼等は地上から空へ逃げ延び、通称“箱舟”と呼ばれる浮島で新たな生活を始めることとなった。
『三千年史』七十二節より抜粋
美術館はあまりにも人が混んでいて、蔓で編んだカゴを下げたモルチェは、通りの片隅にある小さな路地で小さな小さな溜め息を漏らしていた。
「エトランゼったら一体どこにいるのかしら?」
ツイッと顔を上げれば遠く澄んだ青空が広がっている。霜が降りたような薄い雲は、日の光を受けて輝いていた。
赤毛の少女は深い翠玉の瞳を細めつつ、太陽のある方向に顔を向けた。柔らかな産毛がモルチェの細めの顔を金に縁取る。
「ま、いいわ。どうせ下魚の時間(午後三時)にはあの喫茶店に行くでしょうし」
一束にたばねた癖のある髪を片手で弾き、モルチェはカラの編みカゴを物足らなさそうに肩にかついだ。
「はぁ……あの、もう一度お願いしたいんですけれど」
滑らかな栗色の髪が若い果実のような頬に落ちるのもかまわず、少女は首をかしげた。
「あ、はい。あのですね、駅はどちらでしょう?」
彼女の前に立ちはだかったのは、色素の薄い髪を三つ編みに編んだ濃紺の瞳の学者風の男だった。眉が細いせいか、軟弱そうな印象が随分強い。年の頃は十代後半ぐらいに見えるが、実際はもっと年をくっているのかもしれなかった。
「ああ、駅ですか。それでしたらこの道を真っすぐに、三つめ……いいえ、四つ目の角を左に曲がれば正面に出ると思います。駅の風貌について、説明は要りますか?」
薄い黄色の瞳を細め微笑む少女に、男は胸の前で手を小さく左右に振った。
「それには及びません。依然来たことがあったのですが、道順を度忘れしてしまいましてね」
石作りの美しいアーチを持つ建物でしょう? と、男は確認するように付け加えた。
「ありがとう。どうもこの街は路地が多く、迷いやすい」
「調査にみえたのですか?」
優しい笑みを保ち続ける少女に、男もはにかんで応えた。
「まあ、そんなところです。随分昔に生えていた杉の種子が残っていたらしく、この街の東の森にそれらしいものが見つかりましてね。中央に報告しに行くところなんですよ」
「学者の方々も大変ですね」
男は小さく肩を竦めた。
「ところがそれが、楽しくて仕方ないんです。もう一度このジェントル・ブリーズの街に来ようと思っていますが……っと、もうこんな時間か」
街の中央部から下魚の時を知らせる鐘の音が響いてきたのに気づき、男は少し焦ったように胸のポケットから丸い物を取り出した。手巻きで旧式の『懐中時計』というものだった。
「今度、お礼します。えっと、来月の三日頃には戻ってきますから、この時間にここで待っていて下さい」
一方的にそう言い置くと、男は少女に言われた通りに真っすぐと駅へ向かって駆けていった。
「あら、せっかちな人。せっかくお知り合いになれたのに……けれど、いいわ。モルチェに話すことが増えたんですもの」
おっとりと頬に手を当てて、少女エトランゼは男の走っていった方向を見つめた。
窓の外の空には、様々な配色のグライダーが思い思いの方向に飛び交っていた。
「何、物思いに沈んでいるの? エトランゼ」
ほお杖をついてぼんやりとしていたエトランゼはピクリとその声に反応し、向かいの席に着いたモルチェの方に目だけ動かした。
「モルチェ、空を飛びたいって思った事ある?」
モルチェはウェイターに野菜ジュースとハムサンドを頼むと、エトランゼの突拍子もない言葉に眉を寄せた。
「エトランゼ、どうしたの?」
「空を見ていたの。雲の形をたどるようにして。いつもの空なのに、急にもっとあそこに近づきたくなったの」
再び視線を遠くにやったエトランゼの横顔を見つつ、モルチェは運ばれてきたハムサンドを一切れ、口に運んだ。
「あんたって分からない奴ね」
つまらなさそうにそう言った友人に、エトランゼはようやく顔を向けた。モルチェとは対照的な癖のない前髪が、優しげに揺れる。
「雲が綺麗だとか、星が綺麗だとか……そんなこと言ったって雲や星はお礼なんかしてくれないわよ?」
モルチェは早口でそう言ってしまってから、少し調子を落として続けた。
「今日だってあんたがどうしても絵が見たいって言うからこうして下射手(正午)からアートパレスの前で待ってたのに」
「ごめんなさい。時間に遅れてしまって、もう貴女はいないだろうと思ったの。怒ってる?」
テーブルの上のティーカップを手に取り、モルチェは温かさを確認するようにそれを両掌で包んだ。
「……まったく、もう。怒っちゃいないわよ。一体何年付き合ってると思ってるの? あんたのマイペースにはもう慣れ切ってるわ」
疲れたとでも言いたげに、モルチェは肩を落とした。
「で、今日は何が囁きかけてきたのよ」
常ならばここで花が、とか草が……といったような答えが返ってくる。が、モルチェの予想は珍しく外れた。
「男の人が。東の森を調査されにみえたらしいの」
実に楽しそうに話すエトランゼの様子に、モルチェは嫌な予感がした。
「私達もそこに行こう、とか言わないわよね?」
「モルチェ、ついてきてくれないの?」
自分がついてくることを前提にしていたらしい少女の様子に、モルチェは大きく溜め息を吐いた。
「で、その男の人は? 名前とか、何か聞いてないの?」
言われて初めて、エトランゼは相手の名前を聞いていなかったことに気が付いた。
「名前は伺っていませんけれど、来月の3日頃にまた会いましょうって言われました」
「ふーん……で、その人、格好よかった?」
モルチェの瞳は少し輝きを増したようだったが、エトランゼは特に意識していないようだった。
「土の匂いがしました。少し痩せ気味で……結構かわいい方でした」
にこやかに告げるエトランゼ。
「かわいいって……」
モルチェは「やっぱり変わってる」と思いつつ、普段と調子の変わらないエトランゼを眺めた。
「今度その人に会ったら言ってあげれば? きっと喜ぶわ」
投げやりにそう言うと、モルチェは席を立った。
「そうね」
やはり同じように席を立ちつつ、エトランゼは嬉しそうにモルチェに同意した。
「で、どうするの?」
皮肉はエトランゼに対して何の役にも立たない。それを知りつつ口にしてしまった自分自身に、モルチェは呆れていた。
「どうしたらいいんでしょう?」
逆に問い返され、赤毛の少女は勘定を払いながら頭を働かせた。
「あんたってホント手がかかるわ」
モルチェは自分がこの少女の魅力に取り付かれていることを知っていた。結果、愚痴はいつも独り言になってしまう。
「前に森の空気は朝が一番だとか何だとかって言ってたのはあんたでしょう? 明日、上牡牛(午前五時)の刻に街の外門のところで待ってること。分かった?」
喫茶店の扉を開けると、設置されている鐘がカランカランと良い音を上げた。
「見て、モルチェ。空が綺麗……向こうの方なんて赤いギヤマンを何層も重ねてあるみたい。東の果てはもうあんなに深い紺色をしているのに」
頬をうっすらと染めて、エトランゼは空に見入っていた。人にはあまり興味を示そうとしない彼女だが、普段の何でもない景色や石畳の透き間から生え伸びてくる草花にはひどく心動かされるようだった。
「あんた今日は早目に寝なさいよ? またずっと屋根の上にいて星ばっかり見ていたら、朝、起きられないんだから」
「モルチェったらお義母さんみたいね」
エトランゼの言葉にモルチェは絶句した。
「ほら、オルソニプター(鳥の翼を真似た羽ばたき飛行機)が次々と舞い降りてくるわ。私にあんなに大きな翼があったら、どこまでもどこまでも空を飛んでゆくのに」
魂が離れていってしまいそうな面影に、モルチェはギクリとした。時々、エトランゼはそのまま空気に溶け込んでゆきそうな表情を見せる。
「何言ってるのよ、免許もないくせに。じゃ、私はこっちだから」
言いつつ、向かって左側の道を指さすモルチェ。エトランゼは頷くと小さく手を振った。
「また明日」
エトランゼと別れると、モルチェは大きく背伸びして息を吐いた。
「やれやれ、ね」
まもなく赤いギヤマンの空は、剥ぎ取られてゆくように宙本来の色に戻っていった。
弓なりの月は、最早すっかりと色あせて西の空に在った。それとは対照的に、東の空では生まれたての太陽が下に広がる街の色を徐々に蘇らせながら上へ昇ろうとしている。
「森が燃えそう……」
起きたばかりの頭は、まだ十分な思考能力をモルチェに与えていなかった。ぼんやりとした意識は原始的な感覚を明確にするのか、彼女は全身で景色の変化を受け止めていた。
(エトランゼがこんな景色を見たら、どうなってしまうんだろう?)
ふとそんなことを考えて、モルチェはゆっくりと視線を横に流した。
(ルチル先生は言ったわ。この世には無駄なものなんて何一つないって。エトランゼこそがそれを一番肌で感じられるんだわ)
モルチェは昨日自分が口にしたことを思い出した。何て俗物的なものの考え方だったろう。
「あの子はきれいすぎるのよ」
言い訳じみた独り言にモルチェは無償に哀しくなった。羨望という言葉を彼女はまだ知らなかったが、いつも肺の辺りから込み上げてくる熔岩のような感情の名は知っていた。それは嫉妬というのだ。
(こんなこと考えては駄目。エトランゼだったらきっとこんなことは思わないわ)
一人でいると、この病はモルチェを苛み続ける。それでもエトランゼから離れることが彼女にはどうしてもできなかった。
(バカみたい。私は私じゃない。エトランゼとは違うもの)
そんなことをつらつらと考えているうちに石畳が途切れ、街の門にたどり着いた。モルチェは顔を上げると白亜の外壁を仰いだ。それは害獣や盗賊の被害に対処するために建てられたものではないために、ひどく繊細な造りになっていた。斧を力いっぱい振り下ろせば、モルチェの力でも壊すことが可能かもしれない。
「昔の人はとても愚かだったって学校じゃ習ったけど、だからこそ美しいものがもっと美しく見えたんじゃないかな」
鉄パイプに緩やかなカーブをつけ、それを組み合わせてある門にモルチェは寄りかかった。唐草模様のレリーフの飾りなど、細々とした装飾は朝日を浴びて一層美しく見える。門の蝶番が小さな軋み音をたてた。
「……鳥?……白くて、小さい。翼があんなに薄い……」
視界に入ってくる刺激を記号として受け流しつつ、空を見つめたままモルチェは片足をぶらつかせた。
「嘴が赤い。枸杞の実でもついばんだのかしら……」
これから行こうとしている所から飛んできた鳥は、あっと言う間に視界を横切り、やがて見えなくなった。
(エトランゼったら遅すぎる)
街の方に目を向けたが、道を歩く人影にエトランゼのものはなかった。
(忘れてるのかも)
そよ風に襟元がモルチェの頬をくすぐる。幾度こうしてエトランゼを待ったことだろう? 幾度こうした不確かな時間を過ごしただろう?
「もう、帰ろうかな……」
来たときにはパン屋や八百屋、魚屋くらいしか扉を開けていなかったのに、今ではほとんどの家が蔀戸を開けつつあった。
「いつものことよ」
自分に言い聞かせるように呟くと、モルチェは元来た道を戻っていった。