4 竜の媼アヴェル
ウィルはフレアが転じた巨大な烏の背に乗っていた。風を切って滑空する。眼下には様々な種族の暮らす街や、広大な白い砂漠、青々とした湿地帯などの景色が次々に流れていく。普通の者なら心踊るような光景だが、ウィルはそれをなんとなく不服そうに見つめている。
自分の話から思わぬ展開になってしまった。ウィルは読んでいた物語に夢中になり、フレアに稽古をお願いしたのだ。それなのに実際は、こうしてフレアに連れられて竜の媼の元へ向かっている。自分の思い通りに事が運ばなかったという不満もあるし、それと同時に不安も抱えていた。
ウィルは極度の人見知りだった。そもそも普段フレアとリーフという限られた者としか接触しないというのもあるが、例えば城に来客がある時も自室に籠ってしまい、出てこない。このこともフレアの頭を痛める問題だった。今はまだ子どもだが、これからウィルにはなるべく早く魔族として成長してもらわなければならない。なぜなら今現在、世界を統べる者はいないからだ。先代だったウィルの父は既に亡くなっている。
どれほどの時間飛行しただろうか。どこまで行くのだろう、とウィルがソワソワしだした頃にフレアは下降を始めた。眼下には真っ青に輝く湖が広がっている。その畔に着地した。人の姿に変わったフレアは羽織っている薄い外套を軽く払った。その表情は明るい。
「さぁ、ここから少し歩きます……おや、どうしました」
フレアはそこで初めてウィルが不機嫌らしいことに気づいた。ウィルは口をとがらせて小声で文句を言う。
「僕は別にお出かけがしたかったわけじゃないよ」
いじけるウィルをフレアはやれやれといった風に見下ろす。それからしゃがみこんでウィルと目線を合わせると、言い含めるように優しい声で語りかける。
「ウィルは強くなることを望んだのではないのですか」
「え?うん……そう、だけど」
「強さというのは、一面的なものではありません。ただ力を求めるだけでは駄目なのです。ウィルはこれからの世界を担う方なのですから、本当の強さを知って頂きたいのです」
ウィルはわかったようなわからないような複雑な顔をした。今のウィルにはまだ難しいかもしれない。
「力をつけることなら、これからいくらでもできますよ。帰ったら稽古をつけて差し上げます」
「本当?」
沈んでいた顔がぱっと輝く。現金なものだとフレアは内心苦笑した。
湖の畔は低く柔らかい草が生える開けた土地だった。奥に小さな森があり、その先は丘になっている。風が吹く度にさらさらと音を立てて湖面に細かい波紋が浮く。とてもきれいで過ごしやすい場所だ。先程フレアに言われたことで機嫌を直したウィルはようやくそのことに思い至り、美しい景色を楽しんだ。フレアが先導して丘の方へと歩いていく。
「ねぇ、竜の媼って、どんな人?」
道すがら尋ねると、フレアは困ったように笑う。
「説明するより、お会いいただくのが早いと思ってお連れしたのですよ」
そう言っているうちに丘の麓に着いた。
ウィルは思わず目を丸くした。
はじめ、それは奇妙な形をした岩かなにかに見えた。白に近い灰色の肌に、ところどころ茶色っぽい斑点がある。しかしそれはよく見れば固く大きな鱗に覆われた背中であった。その者の呼吸に合わせてかすかに動いている。
「アヴェル殿」
フレアが声をかけると、その岩に見えていたものからぬるりと首が伸びてきた。ひゃあっとウィルが情けない声をあげると、ブルーグレーの大きな瞳が二つ、こちらを覗き見る。
「はて、客人とは珍しい。私を呼んだのはフレアだね。ではこちらの小さき者は」
しわがれてはいるもののはっきりした話し声だった。言葉をなくしているウィルをちらと見てフレアは説明する。
「こちらはウィル。最後の純血魔族の子です」
「ほう、それは」
アヴェルと呼ばれた老年の竜は改めて向き直ると、長い首を折るようにして頭を垂れた。
「よくぞ来られた。運命の子」
彼女こそが、この静かな湖の畔に住む、竜の媼アヴェルである。