3 自覚の芽生え
「稽古、をですか?」
城の二階、多くの部屋をつなぐ長い回廊で、フレアはウィルに呼び止められた。なぜかその場では用件を言わず、ウィルの居室までフレアの手を引いていく。扉を閉めて曰く、フレアに武術の稽古をつけて欲しいというのだ。
かつては多くの魔族が住み、栄華を誇った城にはたくさんの部屋がある。一階部分には大広間やダイニングルームがあり、エントランスは大階段に囲まれるような形の吹き抜けになっている。そこから二階にあがると長い回廊があり、各々に一部屋ずつあてがわれる居住スペースになっている。さらに三階には客人に応じた様々な広さの応接間がある。それより上は尖塔で、フレアたち使者の執務室や物見の櫓の役目を果たしている。それらのほとんどの部屋が、今は使われることなく埃に沈んでいる。
ウィルの居室はその城の二階奥にあった。白灰色の石の床には毛足の長いふかふかした絨毯が敷かれている。回りを森に囲まれ、山の中腹に建つ石造りの城はいつもひんやりと肌寒い。それで使用する部屋にはおおむね絨毯が敷かれ、窓にも分厚い生地でできたカーテンがかかっていて、部屋を冷やさない工夫がされている。中でもここに使われている絨毯やカーテンは豪奢なもので、城の中ではどこよりも暖かく快適な環境をつくっている。それらの品々は、「楽族」と呼ばれる特殊な種族が造るものだ。おそろしく手先が器用で、知恵のはたらく者たち。それでいて他の種族からはなぜかその血は邪険にされていた。混血がすすみ、純血の楽族自体存在しない今でも、そういった差別は根強く残っている。
魔族の存在への畏れと同じように。
ウィルは古くて分厚い本をフレアの前に広げる。フレアは少し呆れたようにその本とウィルを見比べる。そんな本はこの部屋にはなかったはずで、城のどこかから持ち出してきたものと思われる。
「また城内を探検なさったんですか」
ため息混じりに指摘すると、ウィルはうっ、と息を詰まらせた。
「いいじゃないか別に」
「構いませんよ。ご自分がどこにいるのかわからなくなって情けなく助けを呼ぶことがないのでしたら」
「うぅ……それはもう謝ったじゃないか」
ウィルは少し前、城にたくさんある尖塔のひとつに迷いこみ、出られなくなったことがあるのだ。いつの時代かに増築されたとみられる城の内部は見た目以上に入りくんでいる。挙げ句にフレアに上空から捜索され、無事救出されたものの、その後長々と説教された。
そんなフレアの指摘にもめげず、ウィルは話を戻す。
「この物語の主人公がすごいんだ」
それは遠い昔に書かれた冒険小説だった。何代か前に世界を統べた魔族の者が比類の文学好きで、このような作者不詳の小説を多く収集していたのだ。それらの本は今も城の奥にしまわれている。
物語の主人公はいわゆる勇者で、人々を苦しめていた悪い竜を退治して世界を救う、といった類の話だった。
「僕もこんな風に強くなりたいよ。それでちゃんと世界を見るんだ。一人前の、魔族の子として」
おや、とフレアは思った。こんなことを自ら言い出すとは。
ウィルは、フレアとリーフが心配になるほど、優しい子どもだった。魔族としての自覚も薄く、世界を統べるなどとてもじゃないが無理だと思っていた。しかもそれが最後の純血魔族。否応なく変化を求められる厳しい時代の担い手だという。
そんなウィルに少しでも魔族としての自覚が芽生えたのであれば、自分が振り回された城内探検も無駄ではなかったのかもしれない。
「そういうことでしたら」
本から顔をあげたウィルはきょとんと目を丸めた。フレアが今まで見せたことのないような、穏やかでいながら、威厳のこもった眼差しでウィルを見ていたからだ。そしてフレアは意外なことを言った。
「稽古よりも、ウィルをお連れしたいところがあります。正しく言えば、お会いいただきたい方がいます」
「会う……僕が?」
「そうです。ウィルを鎮守の泉、竜の媼の元へお連れしたい」