24 つなげる
翌朝、不安を隠しきれないイリアを家に残し、シオンは自治府の置かれている時計塔の向かいにある建物に赴いた。
現在の居住区から出て、街の南側ーー市場のある賑わった区域に出かけるのは引っ越してからこれが初めてだった。今の仕事はスラムの中で完結しているもので、出ていく必要がない。買い物はイリアはまれに市場にも来ているようだが、シオンは専ら家の近くで済ませていた。品物は粗悪だが、シオンと同じように何らかの事情を抱えてスラムに移り住んだ者たちが食い扶持を稼ぐために細々と商いしている小さな露店がいくつかあり、生活に必要なものはだいたい賄えた。
シオンが乗り込むと、自治府の面々は気まずげな渋い表情をした。事務員の一人がおずおずと用件を伺う。
「私の娘のことです。話は聞いたが、私も妻のイリアも全く納得していない。一体こんな馬鹿げたことがいつ、誰の手で決められたのかお伺いしたい」
一気にまくしたてるシオンの言葉に、事務員はただ困った顔をするだけだった。お互いに顔を見合わせたり、目配せを交わしたり。その様子はシオンのイライラを募らせた。
「頼む。誰でもいいから応えてくれ。まずそれがわからなければ追及のしようがない」
すると応対していた事務員が気弱な声で言う。
「ごめんなさい。でも私たちにもさっぱりわからんのです」
「わからない?」
そんなはずはない。自治府での決定事項としてジルがシオンたちに伝えに来たのだから、自治府の人間がそれを知らないのはおかしい。
しばらく膠着状態が続き、しびれを切らしたシオンが動こうとしたのを老年の事務員が引き留める。
「シオン殿。我々とてこの自治府の雇われ者に過ぎぬ。上で何が決められようと、それを知るのは決定した後なのです。一介の事務員がその過程を知らぬのは常のことなのですよ」
「……そんな」
そんな説明に納得などできようはずもない。
「ならばせめて、ジル氏の居場所に案内願えるだろうか。直接確認させていただく」
「あいにくですが、ジルは今ここにはおりません。今日一日は戻らない予定です」
「……では、また明日出向きます。ジル氏にもそう言伝て願えますか」
「確約はできませんが、できることはいたしましょう」
シオンは肩を落として自治府を後にした。
そして、その明日はやって来なかった。
まだ夜が明けたばかりの、薄ぼんやりと明るい時間だった。シオンとイリアは起きてそれぞれの支度をしていたが、マリィはまだ眠りの中にいた。
ドン!という音とともに家のドアが乱暴に開けられた。何事かと思う間もなく数人の男が上がり込み、あっという間にシオンとイリアを拘束してしまった。
「っ!何をする」
必死に抵抗を試みても全く歯が立たない。この手のことに慣れた者たちと見受けられた。
「全く君たちは。抵抗しても無駄だと言った筈だが、聞いていなかったのかね」
居丈高にやって来たのは、あのジルだった。
「我々としてもあまり手荒な真似はしたくなかったのだが、君たちが納得しないというなら仕方がない。強行手段をとらせてもらうよ」
溜め息混じりにあくまで正当な職務だということを言い含めるジルにシオンは頭が沸騰するほどの怒りを覚えた。
「ふざけるな!一体誰がこんなことーー」
「あまり騒ぐな。せっかく娘がまだ寝ているだろう時間にやって来たというのに。今娘が起きてきてこの状況を目にしたら、どう思うかね?」
シオンは歯ぎしりした。マリィのことなど想ってもいないだろう目の前の男にそんな台詞を言わせておきたくはない。だが実際今マリィが起きてきたらどうなるだろう。こんな姿を見せたくはない。
「現時点をもって、この家は自治府が査収する。……連れて行け」
男たちはシオンとイリアを引きずるように出ていった。その刹那。
「シェリル、おばさん……?」
ジルの影に隠れるようにしていたその姿をイリアの目が捉えた。しかしシェリルが目をあげることはなかった。
シオンとイリアは、自治府の重要な職務を妨害したとして投獄されてしまった。もちろんそれはマリィと引き離すための方便なのだが、それを知っているのは当事者たちだけだった。
毎日の苦役は徐々に二人の身体を蝕んでいった。そして最初に倒れたのはイリアだった。
「イリア……」
もう焦点を結ばないイリアの目を、シオンは見ていることができなかった。やつれきった顔をした己の妻は、ただうわ言のように娘の名を呼び続ける。
「イリア……すまない」
その謝罪が耳に届いているかも定かではない。イリアの背を抱き、小さな手を握りしめながら、それでもただ謝ることしかできなかった。
* * *
昼間だというのに、降りしきる雨のせいで辺りは暗かった。日が差せば陽光を目一杯取り入れることができる大きな窓も、今はその真価を発揮していない。ただ冷たい雨音だけがマリィの胸の内に響いた。
この家にたった一人で閉じ込められ、何のために生きているのかもわからない。どうしようもない悲しみや寂しさが募って、マリィは追い詰められていた。これ以上生きることを拒否するほどに。
「やめなさい!」
鋭く怒鳴られて、マリィは我に返った。手がじんじんする。シェリルにはたかれたようだ。その先に転がっているのは裁縫用の鋏だった。
私は今何をしようとしたのだろう……冷静になって考えると怖くなった。無意識に、その刃を己に突きつけていた。
そんな小さな刃では致命傷にはならないだろう。だが居室にはそれ以外に凶器になるようなものはなかった。それで手近にあった鋏を手にした。
それでもマリィは不思議だった。シェリルが咄嗟に止めていなければ怪我ぐらいはしていたはずだ。まだ冴えない頭でシェリルを伺って驚いた。シェリルは、泣いていた。そして彼女の決して長くはない腕に抱き寄せられる。
「わかってたよ。あんたが追い詰められてることくらい」
だから止めることができたのか、と妙なところで納得する。でもなぜ?これまでは絶対にマリィに話しかけたりはしなかったのに……。シェリルはまるでマリィの疑問を察しているかのように、何も問うてはいないのに自ら話した。
「あんたのお母さんは昔、私の家の隣に住んでたんだ。あの子の親は忙しい人でね、よく私が世話をしたんだ。私は娘がいなかったから、まるで娘ができたみたいで嬉しかった。結婚した時も、我が子のことのように喜んだものさ。それが、あんなことになって……」
マリィの世話役を自治府が秘密裏に捜していることを知り、志願した。イリアの娘のそばに、彼女の代わりに付いていられるように。
腕を離し、シェリルはマリィと向き合った。
「……生きなさい、あんたは。でないと私はあの子に顔向けできないよ」
マリィの頬にも涙が伝った。
これからどうしていけばいいのか。何に希望を見いだせばいいのか。その答えはまだわからないけれど、今はただ前を向くしかないのだと思った。ずっと近くで見守ってくれたシェリルのためにも。本当はそばにいたかったであろう両親のためにも。




