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海雀王

「あなた様しかおられません」

礼衣に身を包んだ紅顔の若者が、こうべを垂れて、彼よりも若いおさな顔の少年に懇願している。

少年は頑なに拒んだ。

錫藍シャクラン殿は何か勘違いをしておられる。私のような非才の身、そのような大役を果たせるはずもない」

「いいえ、燕雀様をおいてほかに誰が居りましょう。民も皆、それを望んでおります」

「私は華民。吐民トミンを統べられるとお思いか。まして私の名は燕雀。小鳥です」

錫藍は強い眼差しでかぶりを振った。

「華民、吐民などくだらぬと、おっしゃったのはあなたではありませぬか。名が小鳥ならば、変えられるがよろしい。そう海を征く渡り鳥のごとく、海燕にと」

錫藍の言葉に、燕雀が眉根を詰める。しかし、それも一瞬のこと。

「これは手厳しい。父の名をかたれと」

「継がれるのです。御父上の意志を」

燕雀は遠くを見る。そして一人言のようにつぶやく。

「果たして偽王起ちなん、か」

戦乱の兆し、かすかに見える春のこと。


『華民、ことごとく四海を統べる。

しかして北山、梁湖のほとりに吐民の国あり。大地は荒涼として緑無く、実りなし。

吐民、性は愚、実は暗。ただ日々の糧を求めて相争うのみ。華民、この地を最果ての僻地として、興ずることなし。』


「華民の記した史書に御座います」

錫藍がそらんじた。燕雀は表情を変えない。

「華民はことごとく国を治めるが、わずか北の辺境の僻地に吐民の国があると。荒涼たる土地ゆえに実りもなく、華民にとって興味もない。そこに暮らす吐民は愚か者ばかりであると。

悔しくは御座いませぬか、ここまで馬鹿にされて。華民とて唐玉歌仙に従う身。我々と何ら変わることはないというに」

錫藍が唇を噛んだ。

「華民の私にそれを聞くのか」

冷たく、燕雀が言い放った。

しかし錫藍はひるまない。

「建て前はもう結構。燕雀殿のお心をお聞かせ願いたい。あなたは華民か吐民か、いずれと共にあられるや?」

激して詰め寄る。

燕雀は静かに目を閉じる。

私は、とおもむろにつぶやいた。

「私は、いずれでもない」

しずかな、しかし痛烈な決意の言葉。その言葉に錫藍が唸った。

「い、いかなる意味か?」

「全ての元凶は何か。国に線を引き、民を分かち、争わせる全ての根源は何か?」

「華民が、我らを支配し、」

「違う!断じて違う。その元凶こそは歌仙である。華民と吐民を分かち、これを争わせ、泰山にあって神の如く振る舞う歌仙こそ全ての元凶である」

言い切って燕雀が錫藍を見据えた。錫藍はあまりの言葉に身を震わせている。

「なんと、恐れ多い」

「私を王に頂くとは、歌仙に反旗をひるがえすこと。それでも貴公は、私を王にと仰るか?」

それこそが、燕雀の真意であった。華民の支配を覆す、燕雀はそれを超え、さらに先を見ていた。

その心ゆえ、錫藍の、吐民の王にという願いを固辞し続けたのだ。

錫藍は慄いた。唐玉歌仙を敬うは華民も吐民も同じ。神に弓引く燕雀の言葉は、あまりに恐れ多い。

しかし、錫藍はその言葉にこそ吐民を憂う燕雀の本心を見た気がした。

「それでも、いや、それでこそ、燕雀殿には我々の王となっていただきたい。これは我々吐民の総意にございます」

火花散るように、二人の視線が交わった。

「ならば、私も名を変えよう」

「御父上の名を継がれるのですか?」

「否。私は小鳥。あなた方がいなければ飛べはしない。しかし大海往く志はある。これからは海往く小鳥、海雀と名乗ろう」





「で、そのあとどうなったんだよ」

ヤヒロ・神野が問いかけた。浅黒い肌は日焼けのためで、人種分類としてはモンゴロイドである。

しかしこの時代の火星において人種分類は意味をなさない。火星に人が住み着いて一世紀、それほど混血が進んでいる。

後年の歴史家は語る『地球というくびきから解き放たれて、人はイデオロギーや民族のアイデンティティから解放された。彼らの体に流れるのは、開拓者としてのフロンティアスピリッツであった』と。

火星移民を新たな人種としてマルセロイドなどと分類する学者もいたが、しかしこの時代において唯一、その分類からはじかれる集団がある。地球の戒めを未だ解かれない、地球難民である。

「どうもこうも、母さんは大激怒さ。兄さんの髪を引っ張って怒鳴り散らしてた」

秋・赤槻が笑いながら答えた。

「お前の母ちゃん怖いもんな」

アキラ・甲斐が茶化して言う。

「分裂戦争じゃ、マシンガンを両手に持って戦ったらしいじゃないか」

秋が笑う。実際に聞いた話ではないが、ありえることだ。

レン・鳴海、ヤスヒト・榊原も笑っている。

秋を含めて彼らは火星軍士官学校の生徒であり、出自も等しく地球難民である。

兄と同じく難民自治区学校から軍士官学校に進んだ。進学したのはわずかに彼ら五人、狭き門である。

「ラジャンはまだか?」

ヤスヒトが口を開く。しかし、誰も答えない。

「始まっちまうよ」

「やっぱり、逃げたか?」

「まあ、俺たちと居てもあいつにとっていいことないもんな」

「そりゃあそうだ。ラジャン閥の御曹司だもんな、地球難民の俺たちとラビットボールをしなくてもなぁ」

口々に言うが、秋がそれを遮った。

「あいつは来るさ、約束したから」

ラビットボール。

六人制のラグビーを原型にした球技であり、地球より重力の軽い火星では、野球やフットボールよりメジャーなスポーツである。

ルールは六人がフロントマン、サイドバッカー、ラビットマンのポジションにつく。相手陣地の最奥にあるタッチラインを超えればタッチダウンで7点。

唯一、ラグビーと違うことは、パスを禁じられていること。ボールに触れるのはラビットマンのみ。フロントマンとサイドバッカーがラビットマンを守り、ラビットマンはひたすらタッチラインにむかい走りつづける。

ディフェンスにタックルされたら3フィート後退して再開。三度ラビットマンが止められればプレー終了で攻守が交代する。

ボールを持ったウサギを守ることから、ラビットボールと呼ばれている。

今日は士官学校の対抗戦であった。

ラビットボールは六人制。地球難民の彼らだけではチームが組めない。

しかし、士官学校の学生で彼らのチームに加わろうという物好きは居ない。軍閥の子弟と移民の子等にとって、地球難民と関わりを持つことは、ある種タブーとされている。

士官学校の学生たちは等しくそのルールを守っていた。ただ一人を除いて。

それがラジャンである。マルセル・ラジャン、火星を分割統治する七軍閥のひとつ、ラジャン閥の御曹司。

たとえ学友であろうと本来、秋たちとは視線も交わさぬ超エリートである。

エリートと説明しても実感がわかぬかもしれないので、現在の火星のヒエラルキーを復習しよう。

アレックス・グーリンベイトの暗殺後、火星は混乱の極にあった。

元凶は火星の地形にある。

火星初期移民は、荘厳なネストリウス山脈を背にして、南半球にある広大なコルネリアス平原に都市を建設した。第一都市マルセリアである。

火星人口のほぼ五分の一がマルセリアに集中し、『8月の雨』でも戦力の大半がここに割かれた。

カナリア太洋を挟んで、第二都市サクスボルグと、その衛星都市群。

北半球には第四都市エンセン。第五都市パレルモ。第六都市サーチェンパークシティ。第七都市アンジェロアと、ビリオンクラスの都市国家が林立する。

都市番号は建設順であるが、移民は火星全土に広がり、軍閥の母体となった占領軍もまた、火星全土に散らばったのである。

アレックス・グーリンベイト暗殺後、軍閥が割拠した理由に、占領軍どうしの距離の遠さが挙げられる。

占領軍には根拠地となりえる都市国家がある。

指揮系統はアレックス・グーリンベイトに集中し、後継は定められていない。

通常軍部が従属すべき政府はマルケス・アンドレッティ以後の『血の連鎖』によって瓦解している。

これらの事由が軍閥の形成の要因となった。

極論すれば、指揮系統の確立していない軍隊など無法者の集団と遜色ない。

軍隊の本質は暴力であり、従属するものがない軍隊は自立のために暴力を行使する。

まったく馬鹿馬鹿しいが、暴力は純粋である。より強い暴力が弱い暴力を屈服させ、従属させる。これは有史以前の未だ猿と人が未分化な時期から変わらない法則である。

昨日の将軍も路端の屍となり、佐官が全軍を将帥する。戦国時代さながらの下克上が日常の光景となり、火星は血で血を洗う内戦を繰り広げた。

結果、残った七つの軍閥を羅列する。


南部マルセリアを根拠地とするサンフーロン閥。

北部マルセリアのラジャン閥。

中央マルセリアのキサラギ閥。

サクスボルグのエイトアップ閥

エンセンのマクスロード閥。

パレルモのヴァスタ閥

サーチェンパークシティとアンジェロアを統治するチェザリス閥。


火星内戦の終結点はこれら軍閥の停戦交渉となる。

七頭会談と呼ばれる停戦協議のあと、共同で臨時政府を樹立。第二次火星議会を発足させ火星の分割、共同統治を宣言した。

無論、この議会が軍閥間の利害調整の場であることは、疑いない。

移民からすれば、統治する占領軍が名を変え、形を変えただけのことである。

マルセル・ラジャンは、このラジャン閥の四男。七頭会談に参加したアンリ・サンペルベルス・ラジャン中将の子である。

七頭会談は三十数年前。当時サンペルベルス・ラジャンは五十代半ば、長男と次男、最初の妻は火星内戦で亡くしている。

年の離れた三番目の兄とともにマルセル・ラジャンはサンペルベルスが老境にさしかかってからの子だった。

火星を治める王の子と最下層の難民の子。ラジャンと秋にはそれだけ身分に開きがある。

「待たせたな、」

ラジャンはそう言って現れた。銀髪に縁のない眼鏡。細い顎に白い肌。軍人の子と言うには軟弱のきらいがあるが、目に強い意志の光がある。

ラジャン閥の偉功に群がる者どもを遠ざけ、難民の秋たちと行動をともにする、変わり者と評判の男である。

「ラビットマンは秋。フロントマンにヤヒロとヤスヒト。サイドバッカーは右がレン、左がアキラ。俺がラインバックだ。ラインは矢印型で、センターフィールドを越えたらラビットマンはフリースタイル。以上」

ラジャンが作戦を指示した。いつもと同じ作戦である。もともと細かい戦術などできるチームではないからしかたがない。

指示を終えたあと、ラジャンは視線をフィールドの反対側を見た。

対戦相手がそこにいた。パイロット科のヤングガンチーム。士官学校のエリートたちである。

褐色の肌、青い目のマックス・ドアドア、長身のメーロン・カッシーニ。そして、黒髪の少女がヘルメットを小脇に抱えて立っていた。

「オトメ嬢は、やっぱり出るのか、」

ラジャンがため息をついた。

黒は、その色を深めると輝きを内包する。光をすべて集める性質がそうさせる。

少女の黒髪は輝き含み、眼差しは泉の清らかさをたたえ、眉が気の強さを伺わせる。

いずれは火星一の美女、と噂される、綺佐羅木・乙女である。中央マルセリアを根拠地とする、キサラギ閥の息女。

マルセル・ラジャンと同じ、王の子ども。

女だてらに士官学校に通い、アクタカーキのパイロット訓練を受け、挙げ句男に混じってラビットボールをする。

キサラギ閥のお転婆はマルセリアでも有名である。

ちなみにアクタカーキとは、ペルマやナグロン等の新世代型戦闘機の総称である。

「ご機嫌よう、キサラギ嬢。お転婆が過ぎるとせっかく綺麗な顔に傷がつきますよ」

ラジャンがつたつたと歩み寄って、言葉をかけた。

乙女は冷ややかな視線を投げつける。

「うっさい、ボケェ」

護衛のような立場のドアドアがため息を吐く。

お転婆の他にもう一つ、天使の顔をした悪魔。キサラギ嬢の別名である。

恐ろしく口が悪い。

「お嬢さん、言葉が、」

ドアドアがたしなめる、がキサラギ嬢は気にもとめない。

「ボッコボコにしてやる。かかってこい間抜け!」

白い歯を見せて乙女は笑った。

「お嬢さん!言葉が汚いと何度も言っているでしょう」

ドアドアが口吻を飛ばして注意する。

「いいのよ、このくらい。舐められるでしょう」

「しかし、ラジャン様はお嬢様の婚約者ではありませんか。失礼でしょう」

「今は敵!家が勝手に決めた縁談なんて知るもんですか。

それに婚約者なんて候補者が1ダースも居るの。いちいち気にしてられないわ」

ラジャンがニヤリと笑う。半分は苦笑いだ。

「それじゃあ、お嬢さん、賭けをしませんか?」

「なに、婚約者候補No.12?」

乙女が即答する。いつの間にかラジャンは候補者の最下位になっている。

しかしラジャンはめげるない。

「この試合で僕が勝ったら、その候補順位を上げてもらえませか」

「いいわよ。思い切って四番手にしてあげる」

「いやぁ、一番手じゃ駄目ですか?」

「あいにく、そこはいつも空けとくの。いつどこで良い男に会うかわからないでしょう」

「じゃあ、せめて二番手」

不毛な妥協案に乙女が笑った。

「いいわよ。負けるわけないもの」

自信満々に答える。

センターフィールドを境に、両軍が対峙する。レフリーは歩兵学のナブラ教官、2メートルを超える巨漢である。

ナブラらが試合開始の笛を鳴らそうとしたとき、眠たいような目をした男が割って入った。

「兄さん、」

秋がそう叫ぶ。眠い目の男は春彦であった。

「秋、忘れもんだ。母ちゃんの弁当を忘れるなんて、死にたいのか?」

そう言って左手の包みを上げてみせた。

はじめこの陳入者に懐疑の視線を向けていた禿頭のナブラも、春彦であると気づいて相好を崩した。

春彦が、背筋を伸ばして敬礼する。

「お久しぶりであります、ナブラ教官」

「貴様、相変わらずだな。部外者は立ち入り禁止だというに」

「セキュリティに旧知の者がおりまして、特別に入れてもらいました」

「軍の英雄には警備も甘くなるか、けしからんが仕方ない。弟の試合でも見ていけ」

「恐縮であります」

「ドアドア、あれは誰?」

滅多に笑顔など見せないナブラ教官と親しく話し合う、締まりのない男。

乙女はドアドアに春彦の正体を尋ねた。

「軍の英雄です。

ヘルジュラック戦域でアンジェロアのアクタカーキを18機撃墜した赤槻小佐であります。

ただ、」

「ただ?」

「今は軍籍を解かれて、民間人になったとか」

「どうしてそんな英雄が軍をクビになるのよ」

「おそらく、彼の出自が地球難民でありますからでしょう」

それを聞いて、乙女が眉を詰めた。

「くだらないわ」

ヘルジュラック戦域とはマルセリアの三軍閥連合とサーチェンパークシティ、アンジェロアのチェザリス閥との間で起こった小競り合いである。

カナリア大洋沿岸のヘルジュラック諸島領有を巡り、戦端が開かれ、痛みわけという形で終結した内紛。

このような軍閥同士の小競り合いは別段珍しいことではない。

「さあ、はじめましょう。フロントマンはドアドア。最低でも二人を相手にして。フォーメーションはライン。ラビットマンはあたしが仕留める」

ラインフォーメーションとは六人が縦一列となり、一人一殺の形で相手のフォーメーションを切り崩し、ラビットマンを裸にする戦術である。

通常、よほどの実力差がない限り選択しない。

ナブラが開始のホイッスルに唇をあてる。こうして、マルセリア軍士官学校史上に残る、世紀の泥仕合の幕が切って落とされた。

先攻は秋のチーム。自軍フィールド最終ラインからスタートして間もなく、フロントマンのヤヒロにドアドアが猛タックルをかける。

ヤヒロが態勢を低くして迎え撃とうするが、牡牛のようなドアドアの勢いに吹き飛ばされた。まるで交通事故である。

ドアドアはカバーに入ったレフトバックのレンにそのまま飛びかかり、地面に押し倒した。

「左に切れるぞ」

ドアドアの突進を受けてラジャンがフォーメーションを組み立て直す。

ヤヒロとレンが脱落したまま、チームはフィールドの左翼へ進路を変更する。

二番手のカッシーニが残りのフロントマン、ヤスヒトにタックルをする。カッシーニの長い腕に巻き取られて、ヤスヒトも脱落。

まだセンターラインのはるか手前である。

カッシーニにヤスヒトが引きずられて、あっという間に味方は三人。ラジャンが舌打ちする。

しかし、敵のラインの一番うしろに乙女がいることを確認するとつぶやいた。

「はじめからお嬢さんはディフェンスする気がないようだ」

やはり男同士のぶつかり合いに女が加わるはずもない。

ドアドアが二人を引き受けることで、数的優位を作ったように見えるが、乙女を除けば実質3対3。

ラジャンがアキラに指示する。

「こっちから仕掛ける。ラインに飛び込むぞ」

アキラはうなずくと相手のラインフォーメーションの先頭に突撃した。

ラジャンがそれに続く。

アキラがディフェンスの先頭の男を倒し、ついでラジャンが二人目にタックルする。オフェンス側がディフェンスを襲うことなどラビットボールでは珍しい。

機先を制された格好になってディフェンスが慌てる。

「行け、一人くらい何とかしろ」

ラジャンが叫んだ。残る相手ディフェンスは二人、しかしラジャンは乙女を勘定にいれていない。

ボールを持った秋が加速する。フロントマンに守られて、温存していた脚力を爆発させる。

「俺が、前線を退いてここで教鞭を取るようになって15年になる、」

ナブラかまるで独り言のように語りだした。

「その間、何百試合もラビッドボールの審判をしたが、お前の弟ほど足の速い奴は見たことがない」

ニヤリと、ナブラが笑った。

秋を抑え込もうと迫るディフェンスを、右に左のステップワークで幻惑する。

ディフェンスがこらえきれずにやみくもにタックルに出ると、牡牛をさばくマタドールのように軽やかにすり抜ける。

「確かに、昔から逃げ足の速い奴でしたよ」

春彦が満足そうに笑った。

ナブラも笑う。

「しかし、」

「何です?」

「キサラギのお嬢さんほどのお転婆も見たことがない」

センターラインに差し掛かり、さらに加速する秋が止まった。

タックルではない、乙女の見事なドロップキックが顔面を捉えたのだ。

「フフン、女と見くびったわね」

乙女が勝ち誇って笑う。秋がうめく。

「は、反則だ、」

「なら審判に訴えなさい。女に蹴られて立ち上がれないので、反則にしていただけないでしょうかって哀れっぽく泣けばいいのよ」

ナブラが笛を吹く。

「ファール!」

「なんですって!」

乙女が烈火の勢いでナブラに詰め寄った。ドアドアが慌てて止めに入る。

まったく気が強い。春彦が苦笑いをする。それも一瞬、シリアスな表情を作ると、彼の背後へと声を掛けた。

「で、こんなところまで呼び出した要件はなんだ?」

「さすが、ヘルジュラックの英雄。お気づきでいらっしゃいましたか」

春彦の背後の男がそう答える。

「あいにくパイロットの性分でね、背中には人一倍気を使うんだ」

振り返らずに春彦は軽口をたたいた。

「軍籍を解かれたと聞きましたもので、」

「耳が早いな」

「是が非でも、我々と行動を共にしていただけないかと」

「どこのどいつかもわからない奴とデートができるかよ」

「これは失礼。しかしおおかた察しはついているのでは」

「さあね、」

「我々は、火星解放戦線のものです」

「テロリストか、」

春彦が毒づいた。

火星解放戦線。火星最古の独立ゲリラである。

火星解放戦線。

その結成は約一世紀前に遡る。地球専横に対し、秘密裏に組織された火星移民の独立過激派。

『八月の雨』で粛清されたパトリック・エリコの政治基盤とも言われた組織である。

「相手を間違えてないか。軍をクビになったとはいえ俺は元々体制側の人間だ。それにあんたらの嫌う地球難民の出身だ」

「火星遺伝子」

ぽつりと洩らすように背後の男が言った。

「公然の秘密とでも申しましょうか、火星出身者にしか発現しない特殊遺伝子です。グリーングリーンが作り出した自然環境がそうさせるのか、本来ならジャンクと切り捨てられる遺伝子情報が何故か火星出身者にだけ発現する。一部の神秘主義者は『遺伝子の聖痕ジーン・クゥエイサー』などと呼んだりもしています」

「博学だな、それがどうした」

「火星遺伝子は重要なファクターです。次世代型戦闘機、いわゆるアクタカーキのゼロ・インターフェース『オレンジ』は、火星遺伝子にしか反応しない」

「軍の機密事項をペラペラと」

「何故、あなたは、地球難民であるのに、アクタカーキを自在に操れるのか、答えはそこにあります」

「我々は調べました、そして見つけたのです。失われた偉大なる指導者の血脈を」

「何を言っている。俺はただの甲斐性なしの地球難民だ」

「いいえ、あなたの本当の名はアーダルベルト・ダイアジノン。火星最大の英雄、アルフレッド・ダイアジノンの直系の血脈を受け継いだ方です」

「会ったこともない爺さんを出されてもな」

「我々にはシンボルが必要なのです。何より輝くシンボルが」

「悪いが、他をあたってくれないか。育ててもらった恩も返せてないんだ。そんな不忠者、爺さんだって許しはしないだろ」

「そう悠長なことも言っていられません。間もなく戦乱が起こります」

「なんだと、」

「チェザリス閥が大規模な軍事侵攻を企図しているとの情報があります」

「バカな、停戦協定からまだ一年も経っていないのに」

「確かです。我々の組織はマルセリアのみにあるわけではありません」

春彦の背後で、男が笑った。

「軍閥共など勝手に殺しあえばいい。奴らなど火星にとってはただの寄生虫にすぎません。しかし、この肥沃な大地を戦乱によって穢しては、地球の二の舞になってしまう。火星は地球のくびきから解かれた、マルセロイドによって統治されなければならないのです」

おおよそ演技めかしく、男が言った。マルセロイドは火星独立派が好んで使う自称である。

春彦が大きくため息をつく。

ピッチ上ではオトメ嬢がローリングソバットで2回目のファールを取られている。

横腹をしたたかに蹴られて倒れこんだ秋が、うんざりした気分で天を仰ぐと、視界の端に違和感を覚えた。

「何だ、アレは?」

空から降る星のようなもの。しかしここは火星である。隕石などより大きな質量をもつ木星に引き寄せられるため、地球より珍しい。

やがて周囲の人間たちもそれに気が付き、フィールドとその周辺はにわかにざわつき始める。

あれは、と春彦がつぶやいた。

「ジャンクシップ、」

星間移民船ジャンクシップ、数世紀前に建造された火星移民用の宇宙船。全長4キロにも及ぶ長大な船はつい数十年前まで、現役で使用されていた。

しかし、この時期に移民船などあり得ない。

各軍閥は地球に対し、移民受け入れ拒否の声明を発表したはずであるし、なにより定期航路からずいぶん外れている。

「は、はじまったか、」

春彦の背後で、男がおののいた。

火星の褐色の空に突如現れた、長大な船。それが何を意味するのか、春彦には俄かに判じかねる。

しかし彼の軍人としての本能が危険警報のアラームを鳴らし続けている。

「あれは、」

視界がジャンクシップに向かい飛び立つアクタカーキの編隊をとらえた。

深紅のペルマ、春彦が数週間前まで所属していたラジャン閥のマルセリア正規空軍である。

違法難民ならば、ペルマが迎撃に出ることなどあり得ない。すでにジャンクシップはマルセリア上空である。撃墜などすれば、その破片がマルセリア都市群に落下してしまう。

火星航路上でジャンクシップを捕捉できなかったとすれば、あれは地球からの船ではない。

そこまで考えて、春彦はナブラに駆け寄った。

「教官、あれはもしや、」

ナブラが目を見開いたままで頷いた。

「ああ、おそらく敵襲だ。あのジャンクシップの質量ならば、ビック・マムを越えられる。巨大質量によるバンザイアタックか。いずれにしろここは危険だ。私は生徒を避難させる。お前も退避しろ」

そう言ってナブラが駆け出した。

「ビック・マムを越える、か」

春彦がナブラを見送りながらつぶやいた。

ビック・マム。

火星特有の気候を通称してこう呼ぶ。火星の自転周期は地球時間に換算して約24.39時間。自転周期はほぼ同じであるが、重力が四分の一であるために、大気の移動速度が極端に速い。極冠に吹きすさぶ風は最大で風速400㎞/hにも及ぶ。

テラフォーミング以前は大気圧が希薄であったために、さほど問題ではなかった。

しかし、現在火星はグリーングリーンによって濃密な大気を抱えている。いまの火星の大気圧は地球の標準気圧である101325 パスカルに遜色ない。

それが、凶暴な風、ビック・マムを引き起こす。

ビック・マムとは高度2000mから2万mにある暴風圏の気流の層である。

ビック・マムのために火星では通常の、地球で使用される航空戦力は使用できない。

ビック・マムを越えることができるのは、可変の人造翼を持つ新世代型戦闘機、アクタカーキのみである。

しかし、ジャンクシップの質量をもってすれば、ビック・マムの暴風をも越えることができる。




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