プロローグ
その昔、と言っても10年も前じゃない。そんなマセた子供がよく使う昔の話。
おばあちゃんはいつも私に言っていた。別に私はそれを右手の人差指を立てながらカッコよく言うつもりはない。ただ、まわりのみんなより少しおばあちゃんと仲がいいだけの私におばあちゃんはいつも言っていた。
「困っている子がいたら助けてあげなさい」
って。
だから私は。
今この瞬間。
どうしなければいけないのかすぐわかった。
「あ、あの……」
冬のある夜。とても寒い日だ。こんな寒い日に人が倒れている。目下広がる景色は一面雪。さらに空からも雪がちらちらと降り注ぐそんな夜。
買い物帰りの私は膨らんだ袋を片手に帰路につくところだった。日はもうとっくに沈み、雪の日という理由もあってか周りに人は見かけない。
さて。前述の通り人が倒れている。それは確かに人で息をしている。おばあちゃんの言い付けを守っているいつもの私はすぐにでも助けてあげるだろう。
じゃあなぜ助けないのか。
別に今の私がいつもの私と違う、なんていうよくある複雑な事情なんてない。
ただ、その、なんていうか……。
「あのー……」
先程からその人は私に助けを求めている。声で訴えかけてくる。
でも。
助け方がわからないのだ。
一面の銀世界が広がる視野の真ん中。その丸い人がいた。
丸いというのは比喩ではなく。
比喩だったとしても。
その人の姿は常軌を逸していた。
寒い日だからという理由なのか、その丸い人は恐ろしいくらいに重ね着に重ね着を重ねている。
体型が丸いのでなく。いや、体型なんてわからない程に重ね着をして倒れている。
長いこと冬になれば雪を見てきた私でもこんな人は初めてだ。
ねぇ。
おばあちゃん。
私は一体どうすればいいの。
でもまぁ。とりあえず挨拶を。
「こんばんわ」
「あ、こんばんわ」
なるほど常識はある人のようだ。
「どうしたんですか?」
「あはは、恥ずかしい話、動けなくなってしまいまして。お手をお借りさせて頂きたく……」
「今日ってそんなに寒いですか?」
雪の上に仰向けで倒れているその丸い人に向かって手を差し出す。
「あは、いえいえ、これにはちょっとした事情があってですね」
そう言った丸い人は私の手を受け取ろうとするが。
うん。
知ってた。
雪の上に倒れている身体から伸びる四肢も重ね着の影響で膨らみ、とても宙に差し出した私の手など受け取れるはずがなく。
身体を左右にころころとさせて私の手を取ろうとするが、周りの雪が沈んでいくだけの逆効果だ。
「あはは。沈みますー」
「特別な事情って、なんなんですか」
左腕といっていいものか、膨らませたゴムボールのような腕を掴み立ち上がらせる。思ったより軽かった。
「ありがとうございます!その事情は言えません……ごめんなさい。あっ、でもかわりに私の名前を教えます!」
「あ、はい」
「私の名前はヒミツです!」
おい。
「おい」
おい。
寒さで頭が機能していない人なのかな?この後病院までついてった方がいいのかな?ていうかなんなのかな?
「おい、って言われても……。私の名前はヒミツなんですよ!」
「いつからここに倒れてたんですか?大丈夫ですか?病院ならすぐ近くにありますし連れていけますよ?」
「え、えと、あなたが来る3分前くらいですかね……?ものすごいタイミングで来てくれてありがとうございます!」
本当に大丈夫なのだろうか。
冗談のような体型をしているが冗談でなく心配になってくる。そもそもこんな重ね着するのがおかしい。もしかしたら本当に病気かなにかを患っているんじゃないだろうか。
そう考える間も雪はちらちらという擬音に合うように一定の間隔で私たちの間に落ちていく。
この真っ白な世界には私たちしかいない。そう感じさせるほど幻想的で、しかし寂寥も含んでいる。
その世界の片割れ、私の目の前の人を見る。
性別は女。判断理由は2つ。
1つは振り散る雪を溶かすような暖かそうな優しい橙色の長髪を持っていること。
2つ目は髪の色と対照的に今度は雪に溶け込んでしまいそうな純白の肌から放たれる汚れの無さそうな純白の声。
身なりは、いや主に顔から下は醜悪極まるものだが、それを打ち消しさらに上品に見せるかの如く整った顔立ちだ。
正直羨ましいと思った。
重ね着の中はどうなっているんだろう?
すると、その女は口を開いた。
「ところで、親切なあなたの名前は?」
んっ?
この人は自分は秘密とか言っといて私には名乗らせようと言うのだろうか。
考え込んで話題がつきたことも気がつかなかった私が悪かったのでしょうか。
てか本当にこの人は大丈夫なんでしょうか。
そんな美少女を前に私の頭はぐるぐるして。
なんとなく。
なんとなく私は素直に名前を答えるのが癪に思えて。
「私の名前は内緒です」
「不思議な名前ですねぇ」
おい。今日四度目のおいだぞおい。
なんだこいつ。
その美貌には確かに羨望したが、この人の内面までは好きになれそうもない。
先程から歯車が合わない感じがどうも気に入らない。
折角立たせてやったがやっぱり胸糞が悪い。そのまま蹴り飛ばしてやろうか。
「いいからあなたの本名教えてよ」
何でこんな人と関わっているんだろう。そんな気持ちから少しぶっきらぼうな口調で聞いてしまう。
「だから私の名前はヒミツなんですって。姫に蜜って書いて姫蜜。それが私の名前です」
「だからさ……え?」
えっ?
本名、だったの?
あれ……。
私、内緒とか言って超恥ずかしい子じゃん……?
私には桃井梨々って名前があるのに。
このタイミングで言い出せなくない?
「ところでナイショさん」
「ちょ、あの」
「どうしました?ナイショさん?」
「いや、あのですね?」
「はい。聞きますよ?」
この眼前の女は完全に私をナイショという名前だと信じている。そんな顔をしている。やめてそんな目で私を見ないで。やだ。恥ずかしい。
落ち着け、落ち着くのよ桃井梨々。
本当のことを言うべきか。
否、こんな変な人とは二度と会わないだろう。これっきりの付き合いだ。このままナイショという名前でいこう。
瞬間そう考えて。
「も、もう倒れない方が、っていうか重ね着やめた方がいいですよ!っじゃ!」
これが最善だ!
そう言い返事も待たずに私は雪の上を走る。
転びそうになりながら姫蜜の横を通り抜け3歩足を進めたその時。
ズルッ
バン!
「わぷ!」
転んだ。
前に倒れた。
顔が雪まみれになる。冷たい。なに。やだ。しかも変な声出た。
えっ。超恥ずかしいパートツーじゃん。えっ、おかしいでしょ。
降ったばかりの細かい雪の粒は床にばらまいたパチンコ玉のように滑りやすくなっていることを忘れていた。
脳が転んだことを意識して3秒後、何事もなかったかの様に私は立ち上がる。
私はあなたと違って一人で立てるのよ。舐めないでよ、フン。
勿論口には出さず、姫蜜とは目も合わせず逃げ帰ろうとしたその時。
転ばなかった。
今度は転ばなかった。やった。
買い物袋を持った左手ではない方の手が小さくガッツポーズを取る。
今の一部始終を姫蜜がどんな顔をして見てたかは分からないがそんなことどうでもよかった。
右手でコートの雪を払いながら今度こそ転ばないように細心の注意を払いながら。しかし最高速の速さで暖かいおうちまで帰った。
「……の……は…………ず……」
そう言えば姫蜜は私に何を言おうとしたのだろう。
そう思ったら、途中姫蜜らしい声がしたが雪を踏む音だと思って私はそれ以上特に気にしなかった。