天下無双の権威なり
細川右京大夫源朝臣政元四十二歳、天下無双権威、丹波、摂津、大和、河内、山城、讃岐、土佐等守護也
『宜胤卿記』
この日の雨は、特別に強かった。水は容赦なく屋根に叩き付け、すさまじい音を立てている。それに混じって時折雷の音が聞こえた。部屋の中に、一人男がいる。男は雨音に悩まされて寝付けず、闇ばかりの虚空を見つめていた。
と、その時縁に面した襖が音もなく開いた。突如として現れた外の景色に男は目を見張り、身を起こした。
「誰ぞおるのか。」
男は叫んだ。すると風雨に混じって縁の下から黒い人影が現れた。男は驚き、思わずたじろいだ。
「お静かになさりませ。決してあなた様に害をなそうとは思っていません。」
人影はゆっくりと答えた。顔は布に覆われていて隠されている。
「私は主の命を受け、あなた様を迎えに参ったのです。」
「迎えるだと。」
男はおうむ返しに人影に尋ねた。
「いかにも。あなた様のことを首を長くして待ちわびておる者がたくさんおります。」
男は黙って聞いていたが、ふっ、と首を振った。
「今や島流しになるこの身を待ちわびる者などあろうものか。」
「今の公方は所詮政元らの傀儡。そのようなものを誰も認めてはおりません。あなたさまこそ真の将軍ではありませぬか。今一度志を持たれませ。」
男は人影の言葉に押し黙った。
「本当に…本当にもう一度なれるのか、将軍に。」
男はつぶやくように尋ねた。人影は黙っていたが、
「見張りはこの雨に気を取られて気づいておりません。表に駕籠を用意しております。我らが主の元まで送り届けます。」
「そなたの主とは何者ぞ。」
「畠山尾張守様の重臣で越中守護代の神保越中守様です。」
男は目を見開いた。
「…行こう、越中へ。」
男は人影に導かれて梯子を伝って塀の外へ出た。この梯子こそ、新たなる時代の一幕へ繋がる梯子であったといってもよい。
明応二(1493)年六月二十九日夜、室町幕府元将軍足利義材は闇にまぎれて都を脱出した。
細川政元に擁立された新将軍義遐は六月に改名し、義高と名乗り始めた。この義高のもとに政変で功のあった畠山基家や赤松政則、そして密かに政元と結託していた大和国の国人越智家栄と古市澄胤などが集結し、新体制の幕府が成立した。一方前将軍足利義材ははじめ龍安寺に幽閉されて、その後細川家重臣の上原元秀の屋敷に移されていた。新幕府は義材を近いうちに讃岐国の小豆島に流すことを決めていた。二十九日の脱出劇はその矢先のことであり、新幕府に大きな衝撃を与えた。
新体制のもとで実質的な最高権力者になった政元であったが、彼にも悩みがあった。それは
「自身の家臣の権力増大」
ということであった。元来細川京兆家は原則として衆議で物事を決めていた。その衆議には内衆と呼ばれる重臣が参加し、当主とはいえども内衆の決定を無視することはできなかったのである。今までは広く意見を聞くという衆議の利点を生かして政治を執り行ってきた政元だったが、近頃は内衆の驕りが見え始めたのである。主君の政元が権力の座に就いたことで、細川家内衆の存在感も飛躍的に高まった。特に政変において足利義材を捕縛した上原元秀の功は抜群であった。政元もそれを認め、元秀に褒美として細川の名字を授けようとした。ところがこれに猛反発したのが他の内衆である。結局政元は内衆の決定に従わざるを得なかった。だが元秀は自身の功を鼻にかけて、ますます驕るようになり、それを憎んだほかの内衆との溝が深まっていく一方だった。さらには自身で勝手に他家と盟約を結んで所領を得たり、政元の目に余る振る舞いも目立った。
事件は起こるべくして起こったといっていい。政変から半年余りたった十月、上原元秀は同じ内衆の長塩弥六と喧嘩になり、切り合って弥六を殺してしまった。ところが元秀も重傷を負い、翌月に死亡した。口論から発展したものであったが、その原因は元秀の半年間の素行だろう。
その後政元は政務を実際に執るにあたって新たな人材を登用した。まず、内衆の一人で政元の父勝元の代から仕えている老臣薬師寺元長の嫡男元一を昇進させて衆議に加えるようにした。さらに国人古市澄胤を山城国相楽・綴喜二郡の守護代に任命した。九月にはこの澄胤の活躍で、山城国の一揆を鎮圧している。そしてこの後畿内にその名を轟かす一人の男を抜擢した。名を、赤沢朝経という。この男、並みの人物ではない。その経歴からして異常である。朝経は信濃国善光寺平辺りの小領主であったが、壮年になって家督を息子に譲って上洛し、赤沢家が代々受け継いできた小笠原流の弓道や鷹狩などの作法を伝授することを売りに渡り歩いた。やがてその名が広まると、丁度元服を終えた頃の政元に召し出された。朝経は政元に弓法を指南し、政元も大いにその指導力を認め、時の将軍足利義政に仕えることになり、後に政元に請われて正式にその家臣となった。政元は朝経が指南する鷹狩に兵法に近いものを見出し、その軍事的才能を試すため抜擢したのである。一方の朝経はかなりの野心家であった。領地と家族を捨ててまで上洛した行動にも表れるように、己の名を高めることに大きな執着を持っていた。そしてそのためには権力者政元の力が不可欠であったのである。朝経はすでに出家しており、澤蔵軒宗益という法名も持っていた。信濃を出た時点で壮年であったから、もはや老齢と言っていい。だが、その精気はまだまだ盛んで、隙あらばもう一旗揚げようという意気を持ち合わせていた。
そのような新参者は当初周りから懐疑の目を浴びせられるのが世の常である。人を疑うとどうしても雰囲気が悪くなってしまう。おまけに内衆のほとんどが何処かの国の守護代に任じられており、その地盤は侮れないものであった。
(自分だってその気になれば…。)
内衆たちはそういった野心をちらつかせているのである。日本の中心で実権を握る名門細川京兆家にも暗い影が忍び寄ってきていた。
一方、京都を脱出した足利義材は、神保長誠の本拠地越中国放生津へ入っていた。長誠は義材を迎えるにあたって城下の正光寺という寺を大改装して御所に仕立てた。義材の周辺には近臣たちが徐々に集まり、次第に賑やかになっていった。
「細川政元を憎む者は少なくありません。御所様の御威光を以てその者たちに激を飛ばされませ。さすれば数年のうちに奪還の機会も巡ってくることでしょう。」
神保長誠はそうそそのかした。義材は長誠に抜群の信頼を置いていたから、長誠に言われるままに大名に使いを出した。
これより先の天下を語るうえで、この神保長誠という男について少し説明しなければならない。神保氏は畠山家で一、二を争う重臣中の重臣であった。長誠も畠山政長のもとで、越中と紀伊の一部の守護代を務めるなど、その権勢を誇った。ところが政長と畠山義就の後継者争いが起こり、長誠は軍勢を率いて上洛した。長誠は政長に先手を打つことを進言し、それを容れた政長は上御霊神社で挙兵する。つまり、この長誠こそが、応仁・文明の乱の戦闘の火ぶたを切った張本人である。大乱の最中、長誠ら神保軍は政長の主力を担って活躍し、長誠はその武勇で大いに名を広めた。乱後も政長に献身的に仕え続けたのだが、ある時中風を患ってしまう。やむなく長誠は越中へ帰国し、養生に努めた。ところがその間に明応の政変が起こり、政長は自害してしまう。長誠は非常に義理堅い人物で、いてもたってもいられず義材を迎え入れる手段を講じたのである。長誠は中風の影響で足が不自由になっており、病身であった。しかし、その政略、戦略の手腕は衰えを見せず、加賀守護富樫泰高や越前守護朝倉貞景を味方に付け、両人は放生津へ参じ義材に拝謁した。北陸に大きな基盤を得た義材は「越中公方」としてその勢力を拡大し、京都の足利義高や政元等にとって大きな脅威となりつつあった。
明けて明応三(1494)年、九州の大名にまで援助を申し入れ始めた越中公方に対して政元は義材に協力することを禁止する旨を寺社勢力に対して発した。当時の寺社勢力の力は侮れないもので、敵に回すと大きな障害となる恐れがあったのである。
そしてこの年、将軍足利義高は十五歳になった。次第に将軍の近辺から元服の話が持ち上がってくるのも自然なことであった。
「…というわけで、先例通り加冠役は是非とも右京大夫殿に努めていただきたい。」
秋になると将軍の使者が細川邸を訪れた。加冠役というのは元服の際烏帽子を着ける重大な役職であった。そして先例というのは、三代将軍足利義満の元服の時、政元の先祖細川武蔵守頼之が加冠役を務めたことに由来する。加冠役は言わば烏帽子親であり、務めるのは大変名誉なこととされていた。将軍義高も政元に気を使って指名したのである。政元は表情を浮かべず黙っていたが、ふと手をついて言った。
「上様の仰せは身に余る栄誉でございますが、あいにくこの政元、常日頃より烏帽子を身に着けませぬ。そのような者が加冠役など務めるわけには参りませぬ。申し訳ござりませぬが、上様にそうお伝えいただきたい。」
使者は驚いて政元を説いたが、政元は頑なに応ぜず、断るばかりであった。使者は義高に全てを語った。
「何、そのような事を申したのか。何故じゃ、わしは右京大夫に嫌われてしまったのか。」
義高は全く予想していなかった答えに動揺し、傍らの伊勢定陸に問いかけた。
「おそらく、嫌われたわけではございません。右京大夫殿は一度頼んだだけでは応じない積りでいたのでしょう。上様に二度も頼ませることで、その威勢を高めようとしているのでありましょう。」
「なんと、ではわしは右京大夫のために利用されているだけではないか。」
「確かに、右京大夫殿はそういう腹積もりでしょう。しかし、同時に右京大夫殿は上様を粗略には扱わないということになります。今むやみに右京大夫殿との仲をこじれさせては自らの地位を危うくしていると同じです。ここは忍んで右京大夫殿にもう一度使者を立てられませ。」
義高はしばらく黙りこくっていたが、
「わかった。そちの申す通りにしよう。思えば、今のわしがあるのも、右京大夫の力じゃ。多少の事は我慢せねばなるまい。」
とかぶりを振った。
果たして数日後もう一度使者を立てると、政元は
「上様がそこまで仰せならば…。」
と、加冠役をついに受諾した。そして十二月二十七日、足利義高の元服の式が催され、ここに正式に室町幕府第十一代将軍として任じられたのである。この儀式と同時に政元の加冠役とその経緯も広まった。政元の勢威はさらに強まり、巷では政元のことを
「半将軍」
とまで呼ぶようになっていた。
明応五(1496)年四月、播磨国置塩城は深い悲しみに包まれていた。
赤松政則が四十二歳という若さで急死したのである。没落していた赤松家を再興し、その栄華を一代で築き上げたまさに英主というべき人物であった。ちょうど三年前に嫁いだばかりの細川政元の姉、めしはその墓前で悲しみに打ちひしがれていた。お互い三十を超えてからの結婚で、その裏には大きな政治的意味合いを含んでいた。しかし、政則はめしに多くの愛情を注いだ。たった三年という短い生活であったが、めしにとってはかけがえのない存在であった。
「奥方様、重臣どもが首を長くして待っております。何卒、広間にお出で下さい。」
後ろから低くしゃがれた声が聞こえた。赤松家筆頭家老浦上則宗である。
「美作守殿。」
めしは涙をこらえて凛とした声で呼んだ。
「私は所詮赤松と細川の橋渡しの道具です。それでも私は今や赤松家の女。この身が果てるまで赤松家を何としても守り続ける所存です。美作守殿、何卒赤松家のために尽くしてください。」
「お言葉、かたじけなく存じます。この則宗、老いたりとは言えども赤松家の柱石となるべく励んでまいる所存です。万事、お任せください。」
則宗がゆっくりと平伏する。
めしは頷くと傍らにいた幼い二人の子供の手を取って広間に出た。この二人の子は、政則と前妻の間の娘と、一族の七条家からその婿養子に迎えていた道祖松丸(後の義村)である。めしは二人の子を上座に座らせ、自身はその後ろから張りのある声で言った。
「御一同、此度の事での皆の働きに心より感謝します。亡き殿もきっとお喜びでございましょう。しかし、この道祖松丸もまだ幼く、これからも皆の支えが必要です。亡き殿が育んだこの赤松家を、どうぞ皆の手で守ってくだされ。」
重臣たちは神妙な面持ちで上座を見た。古来、女性がこうして重臣達の前で高らかに演説するなど実に珍しいことであった。だが、めしのひたむきな気持ちが伝わる一言一言に、皆心を打たれていた。
「ついては、道祖松丸が成長するまで、この私が後見人として補佐します。そして、美作守殿を中心に皆でよくよく合議の上赤松家の進む道を決めてください。よいですね。」
めしの宣言に重臣達は再び平伏した。この瞬間、重臣達もめしのことを主として認めたわけである。この直後、めしは再び出家して、洞松院の名に戻った。赤松家家督は道祖松丸が継承し、洞松院と重臣達の間で政務が執られることになったのである。
この年になって、畿内の情勢はまた変化してきていた。五月二十日、妙善院こと日野富子が死去した。陰の実力者として発言力を依然として持っていた富子であったが、急病で倒れてからわずか三日であっけなく没してしまった。こうなると、もはや政元に指図できる人間など皆無である。一つの目の上のたんこぶが消えて、政元は得意絶頂であった。
だが、政元には気がかりなことがあった。
「今までは目を瞑ってきたが、尚順めを討伐しようと思う。」
政元は内衆を集めて宣言した。尚順とはすなわち畠山政長の子である。政長が河内正覚寺城で自害した時、父政長の計らいで尚順はかろうじて脱出し、領国紀伊で畿内の情勢をうかがっていたが、越中の義材と神保長誠と連携して明応四(1495)年頃から和泉国を脅かし始めた。和泉国を守っていたのは、細川一族の元有と政久である。和泉国は上守護、下守護の二人が置かれ、共同統治を行っていた。畠山尚順は紀伊で培った軍事力を背景に元有と政久を自らの陣営に引き込むことに成功する。さらに父の仇である畠山義豊(基家より改名)を討つため河内へ侵攻した。義豊もこれを迎撃し、両者は河内各所で激しく争った。義豊は明応の政変の際の政元の協力者であるから、当然政元も義豊に肩入れした。
「越中公方の動きも尚順に合わせて盛んになっております。油断なりませぬ。」
内衆筆頭の安富元家が会議の進行役を担う。
「それにしても、許しがたいのは和泉の両守護です。同じ細川一族でありながら尚順が優勢と見るや真っ先に裏切り申した。この二人を成敗せねばなりますまい。」
香西元長が静かに言った。薬師寺、香川らの諸将がこれに同調する。
「殿、願わくばこの元長に和泉へ攻め込むことをお許しください。堺の和泉守護所を襲撃し、京兆家の武威を示して参ります。」
香西元長は内衆の中でもかなりの切れ者で、政元の信頼も厚く近頃その発言力が重きを成してきていた。
「よかろう、両名に裏切ったことを後悔させてやれ。」
元長は喜び勇んで出陣した。元長にしても競争の激しい京兆家内部における自身のさらなる地位の向上のために、戦功を立てて活躍する絶好の機会である。
和泉守護所のある堺は畿内有数の港町として賑わい、和泉守護の本拠地という政治的要所でありながら、その実態は有力商人らを中心とする住民たちによる自治都市であった。京都を出陣した香西軍は四月に堺へ到着した。進軍中はさしたる抵抗を受けず、順調に進んでいたが、この堺で思わぬ抵抗を受けた。相手は民衆である。住民たちは香西軍の逗留を良しとせず、和泉守護兵と組んで香西軍に対抗した。元長は迂闊に手が出せず、時が過ぎていったが、四月二十八日についに総攻撃を開始した。
「容赦はいらぬ、火を放て。」
元長は采配を振って将兵を叱咤しながら突入した。香西軍は至る所に火を放ち、栄華を誇った自治都市はたちまち業火に包まれた。この戦果に満足した香西元長は軍を引き払って京都に帰還した。
しかし、この堺焼き討ち事件は政元が狙ったほどの効果を生むことはなかった。九月には元有と勝信の軍勢が政元方の和泉の武将毛穴氏を攻撃している。さらに尚順自身も和泉へ出陣、毛穴氏を打ち破った勢いのまま河内へ乱入し、畠山義豊の拠る高屋城に迫った。義豊は尚順の勢いに抗すことができず、戦いらしい戦いもしないまま逃亡し、山城国へ向かった。仇敵をついに追い落とした尚順の威勢はたちまち四方に広がった。
これに敏感に反応したのがかつて畠山家の領国の一つであった大和国である。大和は畠山家のお家騒動に巻き込まれ、豪族たちも二派に分かれて激しく争った。この時は明応の政変に加担した越智家栄と古市澄胤が大和の実質的な支配権を認められていた。しかし河内での尚順の攻勢に便乗する形で、没落していた筒井順賢や十市遠治が挙兵して勢いを盛り返し、各所で越智、古市勢を破った。大和における政元方の勢力は没落し、尚順を積極的に支援していくようになる。
河内、大和での尚順の勝報は越中へ伝わった。
「この戦で政元は窮地に陥っているでしょう。この機を逃すべきではございません。早々に政元に圧力をかけ有利な形で和睦を結ぶべきです。」
さすがに老練の神保長誠の目は鋭かった。事実京都の政元は北陸と河内、大和の腹背に敵を抱えることになり、挟撃されることを恐れていた。ただ義材、尚順にも京都へすぐに攻め込む余裕は無い。だが義材と長誠にしてみれば越中に赴いて以来初めて巡ってきた優勢に乗じて、少しでも実利を得たかったのである。
双方の間で使者の往来があり、徐々にではあるが和睦交渉が始まったのである。だが政元はすぐには和睦を結ぼうとはしなかった。政元も劣勢に傾いたとはいえ京兆家の本軍自体は無傷であり、敵に余裕が無いこともわかりきっていた。しかし敵方から持ち出された和睦の話は政元にとっても悪いものではなかった。だが、そこはしたたかな政元である。
「上様とも相談せねばならぬことなので、もう少し待っていてもらいたい。その内に返事はするゆえ。」
という風にのらりくらりとかわして交渉の時間を延ばしていた。政元にしてみれば少し戦局が有利に傾いたからと言ってこれ見よがしに条件を突き付けてくる義材に素直に応じる気は毛頭無かった。それどころか明応七(1498)年の夏には
「尚順が疲弊している隙に河内を奪還されるがよい。我が軍勢も援軍として差し向けますゆえ。」
と畠山義豊をそそのかして河合へ侵攻させた。しかし、この作戦は尚順の必死の抵抗に遭って思うように進まなかった。
明応七(1498)年八月十九日、越中の足利義材は
「義尹」
と改名した。これは文人として名が高い公卿東坊城和長の命名で、周囲の状況が有利になってきたことで復権が現実味を帯びてきたことに対する喜びの表れであろう。事実改名の直後に五年間滞在した越中放生津を離れ、京都により近い、朝倉貞景の本拠地である越前一乗谷に移った。義尹は一乗谷城下の含蔵寺に落ち着いて政元との和睦交渉をさらに進めた。
一方政元は畠山義豊の河内侵攻が頓挫したことに加え、河内の畠山尚順が体制を整えたことで、その備えに苦慮しなければならなくなった。さらに、足元の地盤も揺れ始めていた。十二月、香西元長が鷹狩中に土民に襲撃され捕えられるという事件が起こる。元長は前年に堺を焼き討ちにした後、政元によって山城国下郡守護代に任命された。そして嵯峨の嵐山に城を築き、統治を始めたのである。元長は内衆の中でも比較的革新的な考えの持ち主であったため、旧例を軽視することがあった。元長の管轄内にある洛東の山科は禁裏御領である。だが、禁裏御領だからといって徴税を免れるのはおかしい、と税を課そうとした。山科の住民たちはかつてない横行に腹を立て、隙を見て元長を襲ったのである。
この事件によって民衆の中での政元の評判は落ちてしまった。やむをえず政元は一乗谷の義尹の条件をある程度受け入れ、和睦を締結した。義尹は念願の復権が成った、と大いに喜び、両勢力の争いは止むと思われた。
ところが、政元は言を左右にして義尹を京へ迎え入れようとはしなかった。義尹が復権することで自身の権威が落ちるのは必定であったし、まだそこまで追い詰められてはいない、というのが本音であった。当然義尹は激怒した。そしてその同盟者である畠山尚順は政元と義豊を討伐すべく、軍を興した。果たして翌明応八(1499)年、再び河内へ出陣した尚順と義豊の両畠山軍は一月三十日、河内国北西部の伴抜庄という所で激突した。因縁浅からぬ両者のこの戦いにかける意気込みは凄まじく、双方一歩も引かなかったが、義豊側の軍の中に不協が生じ、尚順側の勝利となった。義豊は逃れようとしたが叶わず、ついに自害した。尚順の父政長が自害してから九年の月日が経っている。河内正覚寺城内で自分のことを逃がして死んだ政長と重臣たちの顔を思い浮かべ、尚順の胸には迫りくる万感の想いが湧き出ていた。
「義豊討たれる。」
この報に畿内各所は俄然緊張感が高まった。京の細川邸には主だった重臣達が集められ、緊急の軍議が開かれた。
「河内が敵の手に落ちたことで摂津の武将達にも動揺が広がっております。」
河内と接する摂津国の守護代である薬師寺元長が提言した。
「尚順が次に狙うとすれば摂津だろう。急ぎ防備を固め豪族達の鎮撫に努めよ。」
政元が手早に指令を発する。
「恐れながら、尚順もさることながら気がかりなのは越前の動向です。先の公方様はこれに乗じて上洛の軍を興すという風説が囁かれております。」
家中の長老というべき安富元家が発言した。
「都の町人共も恐れおののいています。さらに公家達は避難する用意を始めているようです。」
薬師寺元一が焦りの色を浮かべる。
「何でも僧兵どもが洛中に押しかけ越前軍に味方する動きを見せているようです。」
「何、僧兵だと。」
政元が過敏に反応する。
「はい、僧兵を大勢抱える比叡山延暦寺には越前からも盛んに調略の手が伸びているようです。敵に回ったとみて間違いないでしょう。」
政元は渋い顔をした。近江国比叡山延暦寺は越前と京都の中間地点にある。平安の昔から何か気に入らないことがあると度々下山して都に押しかけた。延暦寺は都の人々の信仰を集めていたため、僧兵たちはその民心ををかさに着ていたのである。その規模はこの時代でも健在で、京周辺の寺社勢力の中で最大の影響力を持っていた。
「延暦寺は、まずい。どうにかならぬか…。」
一座を沈黙が包んだ。白河法皇でさえ手が出せなかった延暦寺に対抗する術など、もはや無かったのである。
「各々方は何を恐れておられる。」
突如上がったその声に、皆末座を見た。声の主は赤沢朝経である。
「神仏の力などもはやこの乱世には通用せぬ。延暦寺など過去の産物でありましょう。図に乗らせると後々に禍根を残します。この機に攻め滅ぼしてしまいましょう。」
座がおおきくどよめいた。
「だが、かつて延暦寺を焼いた普広院様(六代将軍足利義教)はその直後凶刃に倒れた。やはり延暦寺の力は侮れません。むやみに手を出すべきではないかと…。」
「はっはっは、安富様ともあろうお方が何を申される。侮れないからこそ今叩いておくのです。それに、今の殿の御威光は普広院様のそれをゆうに凌いでおられます。何をためらわれる必要がありましょうや。」
「それがしも赤沢殿に賛成いたします。延暦寺などを恐れていてはこの乱世を統べることなどできるはずがございませぬ。」
香西元長が強く言った。軍議の席は互いに議論が交わされ騒然となった。
「赤沢、その方の申すところもっともである。直ちに兵を率いて比叡山に攻め上り、坊主どもに目に物見せてやれ。」
政元の決断は早かった。政元自身修験道は熱狂的に信仰しているものの、延暦寺の存在意義には懐疑的であった。しかも、交通の要衝である比叡山とその一帯を敵に占領されることだけは何としても避けなければならなかったのである。
赤沢朝経率いる軍勢は一気に洛東へ出ると七月十一日に比叡山を駆け上った。比叡山は正に聖地とされてきた場所であったから、まさか大々的に攻め込まれるとは思っていなかったのである。朝経の兵は僧兵を蹴散らしながら所構わず火を放った。この時の炎の勢いは凄まじく、根本中堂、大講堂、常行堂など比叡山の建造物の大半が焼失した。
「見よ、この有様を。もはやこの世は力が全てじゃ。」
業火を眺めながら朝経が呟いた。本来出家し仏法に帰依しているはずの僧形の武将が言うのだから、世も末である。
その後一週間ほどして、足利義尹は西へ進み敦賀へ移動した。
「何と、あやつめ、延暦寺を攻めおったか。もはや許せぬ。我らも都へ攻め入ろうぞ。」
義尹はそう言うとすぐさま畠山尚順に使いを出し、摂津へ出陣するよう要請した。さらに兵をかき集め、一気に北国街道を下る構えを見せた。
九月に入ると、畠山尚順は要請通り摂津へ乱入した。さらに都周辺で土一揆が蜂起し、安富元家がこれを討伐しようとした。だが、思うように進まず、結局は赤沢朝経が鎮圧した。
一方足利義尹は越前敦賀を発し南下した。だが、政元はこれに対し明応の政変での協力者であった湖南の六角高頼に出陣を要請した。高頼は義尹が勝つと自身の立場が危うくなることも重々承知だったので二つ返事で承諾し、街道筋を固めた。義尹は何とか突破しようと試みるもいずれも失敗した。高頼も老練の戦上手であるためそう甘くはなく、反撃にあって越前軍は総崩れとなった。義尹は逃げ場を失い、やむなく山中を通って河内へ逃亡した。
さらに、政元は自身に反抗する勢力を一網打尽にしてしまおうと考えた。近江での戦のおよそ一か月後の十二月中旬、赤沢朝経に兵を授けて出陣させ、大和へ向かわせた。大和の畠山尚順方筒井順盛は全く歯が立たず、逃走した。朝経はそれだけに飽き足らず順盛に味方した法華寺、西大寺を焼き払った。延暦寺という寺社勢力の大元を焼いた朝経には、怖いものはなかったのである。
畠山尚順は義尹と歩調を合わせるように摂津へ進軍していた。だが、薬師寺元長の対応が功を奏し、九月の末頃には細川軍が徐々に押し始めていた。さらに、近江、大和での味方の敗北を知るや士気は下がった。尚順は孤軍となってしまうため、摂津から撤退しようとした。ところが、政元はこの戦を正念場ととらえていた。今まで尚順に対しては家臣を援軍として戦わせるだけで、自身は相対することはなかったが、近江、大和という二方面で勝利したことで標的は尚順のみとなり、政元自ら大軍を率いて摂津へ向かった。そして天王寺のあたりで畠山軍と交戦して、圧勝する。この戦いで尚順は大打撃を受け、摂津どころか河内、和泉も保持できなくなり、命からがら紀伊へ逃亡した。また、河内に逃れていた義尹はさらに逃れたところに神保長誠の子慶宗率いる軍と合流した。
(北陸はもうだめだ。だが、わしには西国がある。)
そう考えた義尹は神保軍に警護されて周防の大内義興のもとへ落ちて行った。
この明応八年の数々の戦で活躍したのは何と言っても赤沢朝経であった。彼の戦陣での働きはめざましく、新参者と軽んじていた他の内衆も認めざるを得なかった。今や細川京兆家の軍事面での最有力者となったのである。政元は朝経をはじめとする内衆たちの働きによって、生涯最大の危機を脱したと言ってよい。和泉の両守護細川元有、政久もすでに政元に帰属し、畿内一帯はほとんどが政元の威に服すようになっていた。
「では、これにて論功行賞を終わりとする。」
安富元家の声に内衆たちが平伏し、政元は悠然とその席を立った。自室に入った政元にたちまち近習の者たちが駆け寄り、着替えを手伝い始めた。政元は疲れた体を近習たちに任せ、ふと天井を見つめていた。
「殿、どうかなされましたか。」
近習の中でも政元に特に気に入られている竹田孫七が声をかけた。政元はその言葉が耳に入っているのかいないのか虚空を見つめていたが、着替えが済むと、急に奥の間へ入り、修験道の修行装束を身に着け出てきた。
「孫七、梯子を用意いたせ。」
「梯子でございますか。」
孫七は政元の突拍子もない言葉に驚き、戸惑った。政元はそんな孫七を顧みることもせずすたすたと庭の方へ降りて行った。蔵からようやく長梯子を見つけてきた孫七が追いつくと、政元は庭で呪文を唱え始めている。
「殿、これでようございますか。」
政元は孫七を一瞥すると
「屋根まで掛けよ。」
と命じた。わけがわからないまま孫七が言われたとおりにすると、政元はゆっくりと梯子を上って屋根の上に昇った。
庭が騒々しいことを不審に思い、安富元家ら内衆の数人が庭へ集まってきた。
「孫七、これは何としたことぞ。」
香西元長が呆気にとられて屋根を見つめる孫七に詰め寄った。
「殿、何をなさっておるのです。危ないですから降りてきてくだされ。」
元長の叫びを政元は無視し、ひたすらに手を組んで呪文を唱えている。
「安富殿、まさか殿はあの時のことを…。」
「ああ、間違いない。だが、まさか二十年経ってもまだ信じておられるとは…。」
(あの時のこと…。)
老臣薬師寺寺元長と安富元家が小声で話しているのを聞いた孫七は不審に思った。孫七がそれを訊ねようとした時、突然政元が立ち上がった。そしてつかつかと高下駄で歩むと、屋根の縁に立って手に羽扇を広げた。
政元の目には冬の曇天の下に広がる京の町が映っていた。応仁・文明の乱で一度は焼け野原になったものの、この頃になると大分復興が進み、再び賑わいを見せている。政元は一人それを見下ろし、かつて同じ場所から見た京の町を思い出して、感慨にふけった。
(あれから二十年。人も町も変わった。もはや人としてわしはこれ以上高望みはせぬ。わしは人を脱する。)
「オンアビラウンケンソワカ、オンアビラウンケンソワカ…。」
政元は呪文を唱え、白装束を翻して、屋根を蹴った。屋根の下の内衆が皆目を見開き呆然とする中、政元は空に飛び立った。




