表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

東野に炎立つ

上たるをば敬ひ、下たるをば憐み、有るをば有るとし、無きをば無きとし、有のまゝなる心持、仏意冥慮にもかなふと見えたり  

                      『早雲寺殿廿一箇条』第五条より

明応二(1493)年、細川政元らのクーデターにより、室町幕府十代将軍足利義材は失脚し、堀越公方足利政知の息子清晃が足利義遐と名乗り、新たなる将軍になった。しかし義遐は未だ幼年のため、実質的に政務をおこなっていたのは細川政元と、伊勢貞宗親子であった。

ところで、義遐は前述のとおり堀越公方足利政知の子である。この時すでに政知は亡く、堀越公方の座には

足利茶々丸

という人物が座っていた。だが、この茶々丸の堀越公方就任は少々いわくつきのものであった。足利政知には義遐含め四人の男子がいた。名を挙げると、茶々丸、潤童子、義遐、そして後年常陸の小田氏を継ぎ、小田政治と名乗る幼児の四人である。このうち潤童子、義遐、幼児の三人はいずれも円満院と呼ばれる側室の子で、茶々丸のみが正室の子であった。政知の後継者には当然正室の子である茶々丸が据えられていたが、この茶々丸、かなりのわがまま息子だったらしく、素行不良ということで政知の怒りを買い、なんと牢屋に幽閉されてしまった。代わりに後継者となったのが、義遐の実兄である潤童子である。その後延徳三(1491)年に政知が没すると潤童子が堀越公方となった。ところがその三か月後、茶々丸が脱獄し、円満院と潤童子を強襲して殺してしまうという事件が起こった。茶々丸がこのような凶行に及んだのは、単に堀越公方への野心があっただけではなく、父政知が円満院に惑わされて茶々丸を廃嫡したと考え、円満院を深く恨んでいったという説もある。確かに茶々丸の不良行為というものもいかにも暴君と呼ばれるような人物がやっていることで、後世の作り話であることも考えられ、どこまで信じていいかはっきりしない。とにかく、茶々丸は義遐の母と兄を殺し、堀越公方になった。

政治にはあまり口出しない義遐であったが、

「堀越公方をどうにかせよ。我が母と兄の仇ぞ。」

と政元らに迫った。いくら政元といえども将軍たっての願いを無下にするわけにもいかないので、伊豆の堀越公方討伐の計画を練り始めた。

「一人心当たりがある。」

そう言ったのは伊勢貞宗である。

「私の親類で、駿河興国寺城主の者じゃ。駿河の今川氏親殿の伯父にあたり、文武に優れた中々の男じゃ。それになにより、大志を抱いておる。その者ならあるいは…。」

「その者の名は。」

政元が尋ねる。

「伊勢宗瑞。」




伊勢宗瑞。すなわち北条早雲の伊豆討ち入りを以て関東の戦国時代は始まると言われるが、その前に複雑怪奇なこの時の関東の情勢に触れておかなければならない。




室町幕府の関東支配体制は将軍の直接支配ではなかった。「鎌倉公方」と呼ばれる将軍より関東支配を任された足利一門の者を介した間接的支配である。初代鎌倉公方は室町幕府の創始者足利尊氏の息子で二代将軍義詮の弟である足利基氏である。だがこの時基氏は幼く、当然補佐役がつけられることになった。この補佐役こそ関東管領で、代々上杉氏が世襲していく。鎌倉公方は基氏の家系が世襲していくが、基氏の息子氏満の時には京都の将軍との関係は悪化しており、氏満が将軍に謀反を起こそうと企んだこともあった。氏満の息子満兼は応永の乱の際に実際に鎌倉から出陣して京都を目指したが、途中で引き返し、将軍へ謝罪してどうにか事なきを得た。そんな調子だから、鎌倉公方は将軍への反抗心が培われ、その支配下の関東武士たちも関東を独立した地域として考えるようになる。そしてとうとう満兼の息子持氏の時、戦火が起こる。時の将軍足利義教と持氏はことのほか仲が悪く、持氏は驕って、義教のことを無視するようになる。それを危惧した関東管領上杉憲実の諫言も聞かず、持氏は憲実とも対立するようになる。足利義教はついに兵を起こし、一挙に鎌倉を襲った。上杉憲実も北から鎌倉を挟撃し、たまらず持氏とその嫡男義久は自害した。世に言う「永享の乱」である。持氏の他の息子たちは鎌倉を逃れ、下総へ赴き、現地の有力大名結城氏朝を頼って抵抗を続けた。関東の諸勢力はこぞって下総へ向かい、続々と結城軍に加わった。幕府軍はこの反乱をどうにか鎮圧し、持氏の息子たちを捕え処刑した。これにより一旦鎌倉公方は滅亡し、関東は上杉氏らが共同で統治するようになった。


やがて義教は暗殺され、八代将軍足利義政の時代になる。この時、足利持氏の遺児が義政のもとを訪ねる。この遺児こそ足利成氏である。成氏は義政に拝謁して自身を新たな鎌倉公方にすることを承認させ、文安四(1447)年関東へ下向した。先の関東管領上杉憲実は出家してしまっていたため、関東管領は憲実の長男憲忠が就任した。だが、成氏にとって憲忠ら上杉氏は父の仇でもあるため、これを嫌って遠ざけ、逆に支援してくれた結城氏、里見氏らを政治の中心に据えた。これに反発した上杉方は筆頭家臣の長尾景仲を中心に成氏を攻め、江ノ島で戦った。この時は和睦が成立したが、その四年後の享徳三(1454)年についに成氏は憲忠を殺し、一気に上杉方への攻撃を開始する。当時上杉家は憲忠らの本家山内上杉氏と、分家扇谷上杉氏に分かれていたが、この時は成氏に対抗するため手を組み、北関東に逃れて成氏に抵抗した。


長尾景仲ら上杉方は京都の将軍に憲忠殺害の旨を訴え、成氏討伐を要請した。成氏は父祖代々の反骨をもろに受け継いでおり、将軍に対して謝罪ではなく完全に開き直ってしまった。

「おのれ、忘恩の徒め。」

怒った将軍義政は駿河守護今川範忠らに命じて鎌倉を攻撃させた。成氏は下野に出陣していたため鎌倉は手薄で、あっけなく占領されてしまった。成氏の周囲はすぐに鎌倉奪還を唱えたが、

「もうよい、鎌倉は捨てだ。」

成氏は鎌倉に未練がなかったのだろうか。下野から鎌倉へ向かわず、東関東の中心である下総の古河へ移動した。成氏はここに落ち着き、新たに政庁を開いた。以来、成氏は鎌倉公方改め「古河公方」と呼ばれる。


長禄二(1458)年、京都は動いた。足利義政は関東の騒乱を鎮めるために、新しい関東の支配者として一人の人物を下向させた。足利政知である。政知は補佐役渋川義鏡の讒言を信じて上杉氏と対立したため、成氏はそこにつけこみ、政知の関東入府をことごとく妨害した。そのため政知は鎌倉にすら入れず、やむなく伊豆に移った。政知は伊豆国衆をなんとか支配下に置き、伊豆一国を支配した。政知は兵力を増強して東に攻め込もうとしたが、世の中では応仁の乱が始まり、とても思うように兵力が集まるはずがなかった。政知は歯噛みして焦ったが、どうすることもできない。

文明年間に入ると、今度は上杉氏の中で内乱が勃発した。本家山内上杉氏と分家扇谷上杉氏との対立が深まったのである。従来は本家山内上杉氏の勢力が強かったが、長尾氏ら家臣の反乱に力を削がれ、後退していった。それに反して扇谷上杉氏に一人の英傑が現れる。扇谷上杉氏の家宰を務めるこの人物は関東の諸豪族を次々に下し家の力を大きく伸長させた。名を太田道灌という。江戸城築城や山吹の里の伝説で有名だが、彼の人生はまさしく波乱に満ちたものであり、数々の伝説が生まれたのもうなずける。

道灌の活躍で古河公方成氏もうかつに手が出せなくなり、和睦を打診した。両上杉氏もこれに応じ、文明十四(1482)年、関東を三十年も揺るがせた大乱はここに完結した。だが、「狡兎死して良狗煮られる」とはまさにこのこと、道灌はその四年後、その高まりすぎた声望を恐れた主君扇谷上杉定正によって誅殺されてしまった。名将の誉れ高く主君のため忠義を全うしてきた道灌を殺したことで、扇谷上杉氏の土台は大きく揺らぎ始めた。配下の豪族たちはこぞって扇谷上杉氏から離反し、その力は一挙に弱まった。これを好機と見た山内上杉氏当主顕定は再び扇谷上杉氏を討つため兵を興した。扇谷上杉氏も頑強に抵抗し、一進一退の攻防を繰り広げていた。そんな中、堀越公方の足利政知が死去し、前述の経緯を経て茶々丸が堀越公方になる。山内上杉氏は堀越公方を強力な後ろ盾としており、扇谷上杉氏にとって伊豆一国を支配する堀越公方の存在は煙たかった。そして京都で細川政元らによる将軍廃立事件が起こる。

(新しく将軍になったのは政知の子…。)

扇谷上杉定正はこの事実に目を付けた。そして自身の関東支配の野望のため、これを利用しようと考えた。

「早馬を遣わせ。この書状を届けるのじゃ。」

「はっ、して何処に。」

「駿河興国寺城じゃ。」

定正の目がぎらり、と光った。




駿河興国寺城は駿河の国の東端にある。伊豆国とは目と鼻の距離と言ってよいところだが、騒乱の渦中にある伊豆とは違って、その領内はいたって平穏なものであった。この城の主伊勢宗瑞は駿河国主今川氏親の伯父である。宗瑞は備中の出身で、はじめ伊勢一族の端くれとして京都で足利義視に奉公した。しかし特に目立った活躍というものはなく、あまり風采の上がらない人物とみられてきた。やがて義視の所を去り、駿河へ赴いた。これは駿河守護の今川義忠に嫁いでいた姉にせがまれた故であった。というのも、義忠は文明八(1476)年に遠江で戦死し、そのあとに残されたのは、宗瑞の姉の子でわずか六歳の嫡男龍王丸であった。ところが、義忠の従弟の小鹿範満が今川家の家督継承をもくろみ、重臣たちを抱え込んだ。おまけに関東からも扇谷上杉氏がこの争いに介入し、太田道灌らは小鹿範満を支持した。こうなると範満の家督相続は成ったも同然であったが、身の危険を感じた龍王丸を擁立する面々は京都の将軍にこのことを訴えた。幕府も扇谷上杉氏が関東以外にも勢力を伸ばすのを快く思わず、龍王丸の伯父にもあたる宗瑞を駿河へ派遣したのである。

駿河に派遣された宗瑞であったが、もはや範満の家督継承を防ぐのは至難の業であった。そこで宗瑞は将軍の命を受けたということを背景に、範満と龍王丸の間を取り持った。すなわち、龍王丸が元服するまでは、小鹿範満が龍王丸の代行として政務をとり、元服したのちは龍王丸に政権を返上する、という内容の約定を定めたのである。元服は大抵十五歳ごろに行われるものであるから、あと九年ほどは範満が実権を握ることになる。

(ふん、まあ九年後にはこのわしの地盤は安定し、龍王丸など取るに足らぬ存在となっていよう。)

範満の腹の内にはそのような考えがあったに違いない。ともかく安全を保障された龍王丸は駿府を離れ小川城に移った。使命を果たした宗瑞はひとまず駿河を離れた。

 しかし、龍王丸が十五歳になっても範満は政権を返上しようとはしなかった。宗瑞はこれを聞いて再び駿河へ赴き、小鹿範満から政権を奪え返すべく準備を始めた。実はここ九年間の範満の政治というものは決して善政と言えるものではなく、範満の目論み通りに基盤は安定していなかった。今川家の家臣たちはそんな範満よりも、かつて彗星のごとく現れて、瞬く間に争いを調停していった宗瑞に抜群の期待と信頼を寄せていた。そして今その宗瑞が範満を討つべく兵を集めている。今川家臣たちはこぞって宗瑞と龍王丸のもとに馳せ参じた。宗瑞はその勢いのままに駿府へ押し寄せ、小鹿範満を討ちとった。龍王丸は元服して氏親と名乗り、駿府へ入って今川家の家督を継承した。氏親はこの伯父をことさらに頼もしく思い、駿河にとどまるように言った。宗瑞はそれに応えて、氏親より与えられた興国寺城に入り、その周辺の領土を治めた。やがて氏親は立派な君主に成長し、民を慈しみ安定した政治を行っている。宗瑞も自身の領内に民の生活を第一に考えた善政を敷いていた。




 「奇特なこともあるものじゃ。都と関東、遠く離れた場所から同じ内容の文が同時に届くとは。」

宗瑞は二枚の紙を手にしながら言った。

「それほどに堀越公方の政治が悪いのでございましょうか。」

重臣の大道寺重時が怪訝そうに尋ねる。

「まあいいとは言えまい。毎月のごとく我が領内に伊豆より民が流れ出ておるというからな。」

「それは伊豆の居心地が悪いというよりも、殿の政治を慕ってきておるのでございましょう。」

宗瑞はうっすらと微笑んだ。

「そういうことなら、わしもこの世に生を受けた意味があるというものじゃ。」

「今時殿のような御仁は日の本におりますまい。四公六民などこの重時、聞き及んだことがありませぬ。」

四公六民とは税収のことである。つまり収穫された米のうちの四割を年貢として納めさせ、残りの六割は民のもの、というわけである。興国寺城下の民が歓喜したのは言うまでもない。

「おいらの殿様は日本一じゃ。」

噂は当然隣国にまで広がった。悪政に苦しむ伊豆の民が駿河へ逃げ込むのは自然であろう。

「この興国寺はわしの理想郷よ。」

宗瑞は穏やかに目を細めた。

 「わしは一度地獄を見てきた。あの地獄を見たからこそ、いまのわしがあるのじゃ。」

宗瑞は常々こう語ってきた。彼が若いころにいた京の町は応仁・文明の乱により荒れ果てていた。諸国の軍勢と野盗が居座り、民は困窮して誰一人として田を耕す余裕のあるものなどいなかった。宗瑞は都にいる間にも己の理想を捨てなかった。いつの日か自分の国を持って平穏無事に民がくらせるようにしたい。

「取るか。伊豆を…。」

宗瑞はぽつり、とつぶやいた。

「それがようございます。こうも事が運ぶということは、正に天意と思われます。」

重時は急き立てるように言ったが、宗瑞は表情一つ変えない。

「天意…天意ならいざ知らず、伊豆の民がこれを望むのであれば、兵を興そう。」

宗瑞はそう言うと席を立った。




 宗瑞は至って質素な出で立ちで興国寺城を出て西へ向かった。宗瑞は普段から何に対しても倹約を第一としていた。低い税収の自らの理想郷を維持するためには領主自らも生活を削っていかぬととても成り立たないのである。重時をはじめ宗瑞に仕える家臣も世間一般の武士から見れば随分みすぼらしい成りをしていた。しかし、家臣たちは宗瑞の理想郷に仕える武士であり、例え質素な生活であっても興国寺城に仕える武士、という自負と誇りを持っていた。宗瑞は傘の下から新緑の季節の田を覗き見た。

(派手でなくてもよい、強くなくてもよい、ただ、安らかなら、それで…。)

この乱世において宗瑞の思想を受け継いでいる者はほんの一握りである。宗瑞は数少ないその思想の体現者に会うべく西へ歩みを進めた。

 

 駿府の町は宗瑞が初めてこの地を訪れた時から、大分様変わりした。今川氏の本城の駿府館は十四世紀末期に今川泰範によって築かれたもので、城郭というよりも政庁として適したつくりになっていた。駿府城下は多くの商人が行きかう賑やかな町で、近頃は戦乱を避けてきた京都の公家達が多く下向し、京文化も華を開いており、全国屈指の大都市であった。宗瑞が今川館に到着するとすぐに、奥の間へ通された。今川家当主で宗瑞の甥にもあたる今川氏親は宗瑞のことを生涯の恩人として常に最高の敬意を払い続けている。

「お久しゅうございます。伯父上。」

氏親はこの時二十一歳。まさに働き盛りで精力の有り余る青年君主である。

「氏親殿もお元気そうで何よりじゃ。」

宗瑞もこの甥の前では自然と笑顔になる。

「せっかくいらしたのです。是非今宵はこの屋敷で夕餉を共にとりましょうぞ。」

氏親には子供のような純粋さがある。それも幼い時から見守ってくれた宗瑞の前だからこそ表に出る素直さである。

 夕餉には東国ではまだ珍しい京風料理が出た。

「伯父上、このような馳走を食べるのは私も久しぶりです。わたしも伯父上を見習って極力倹約に努めていますゆえ。」

氏親はそう言って宗瑞に酌をした。宗瑞は静かに笑って杯を傾けた。

「して、本日はいかがなされたのですか。」

氏親は屈託のない笑顔を宗瑞に向けた。

「実は…。」

そう言って二枚の手紙を氏親の前に広げた。

「先日、届いたばかりのものじゃ。」

氏親は食い入るように見つめていたが、

「伯父上はいかがなさるおつもりですか。」

と、顔を上げた。

「わしは…堀越公方を討とうと思う。茶々丸ではいくら待っても政道を正すことはできまい。」

「では、伯父上は茶々丸に代わって伊豆を治めようと。」

「ああ。それには今川家の当主であるそなたの許しを得ねばならぬ。それゆえ参った。」

宗瑞は氏親の目を見据えた。

「しかし、そう簡単に茶々丸を討てますか。伊豆の地侍どもは足利家の血筋ということで茶々丸に服しているということですが…。」

「その地侍共は、もうじき伊豆を留守にする。」

宗瑞の声が低くなった。

「実はな、わしは先ごろ箱根のあたりを拠点にする忍びの者たちと手を組み、諜者として関東へ送り込んだ。」

ほう、と氏親が声を上げた。

「その者たちによると、扇谷上杉定正が上野に攻め入る支度を始めているらしい。対する山内上杉顕定も兵を上野に集めているという。そして伊豆にも出陣の命が下ったというのよ。」

「扇谷上杉定正殿はそれを踏まえてこの文を伯父上へ…。」

「つまり、自分が伊豆の侍を引き付けている間に背後から伊豆を襲え、というわけよ。」

宗瑞はまた杯を傾けた。二人の間にしばしの沈黙が流れる。

「氏親殿。そなたには今川家当主としての立場もあろう。思うところを存分に聞かせてもらいたい。」

氏親は再び笑顔を浮かべた。

「伯父上、まだ十にも満たぬそれがしに言い聞かせてくださったことを覚えていますか。」

宗瑞はむっ、と押し黙った。

「人の上に立つ者は、民のことを第一と心得よ。民が安心してくらせる国を作れ。わしはいつかこの日の本がそのような国になることを願い、信じとる。」

「私はこの言葉に幼ながらにも感銘を受け、今日まで政治をしてまいりました。伯父上、是非伊豆をそのような国にしてくださいませ。伯父上の理想の国を広げていってくださいませ。そのためならこの氏親、何でも協力いたします。」

宗瑞は思わず氏親を見つめた。いくら甥とはいえ、自分の理想にここまで関心を寄せてくれているとは思ってもいなかった。

「氏親殿、そなたのような者が近くにいてくれたことを心から感謝する。」

「なんの、なんの。それより、興国寺の兵だけでは不足でしょう。我が兵を存分にお使いくだされ。」

「まことにありがたいことじゃが、此度はまともに大軍で攻めるのではなく、少数の兵で堀越を奇襲しようと思う。されば、二百ほど軍勢をお貸し願いたい。」

「伯父上がそう申されるのであれば、そのように致しましょう。心よりご武運を願っております。」

宗瑞はああ、と息をついて目を細めた。自らの理想が形となっていく。久しぶりに湧き起こる期待感に、宗瑞の胸は大きく高鳴っていた。




 興国寺城に二百人の兵と共に戻った宗瑞はすぐさま出陣の支度を整えた。伊豆の地侍は山内上杉顕定の命で上野に赴いて伊豆国内にさしたる武将はいない。古河の足利成氏と扇谷上杉氏しか敵はいないと考えている堀越の足利茶々丸とその周辺はまさか西から攻められるなど頭の片隅にもない。そのため、全くの無防備と言ってよかった。決して兵力の多くない宗瑞にとってこの機を逃す手はない。

「小川湊に舟を集めよ。付近の漁師も金を与えてかき集めよ。風の強い日を選んで一斉に出陣する。」


 天は宗瑞に味方した。数日して西から程よい風が吹いた。

「帆を上げよ。」

宗瑞が命じると船が一斉に藍色の駿河湾に滑り出した。目指すは伊豆堀越である。駿河湾を東へ少し進めば、目の前には数多の山が連なる伊豆半島がその姿を現す。宗瑞と五百人の兵は夕闇が空を覆い始めた頃に漁民の小屋だけの砂浜へひそかに上陸した。隠密を要する奇襲作戦であったが、何より驚いたのは伊豆の漁民たちであった。何しろ何の前触れもなく正体不明の侍が砂浜に上がって自分たちの家を占領したのである。

「大変だ、大変だ。」

漁民たちは転がるように山の上へと避難した。沿岸での異変は直ちに堀越御所へ伝わった。

「何者なんじゃ。そ奴らは。」

茶々丸はこの時に至っても未だ危機意識がなかった。せいぜい飢えた海賊が漁民の家へ押し入った程度のものだと思っていた。

 だが、夜が明けるころ、ついにその深刻な事態に気付いた。夕方に上陸した宗瑞は沿岸で一息入れた後夜を継いで東に進み堀越を目指した。そして日の出前に堀越御所をその視界にとらえたのである。

 堀越御所の中は天地をひっくり返したような大騒ぎになった。茶々丸に近侍する者はあわてて具足をつけ始めたが、当の茶々丸はそのありさまを見て早々に抵抗をあきらめた。近臣に言われるがままに身一つで堀越御所を脱出した。堀越御所は宗瑞の手に落ち、ここに伊豆堀越公方は滅亡した。

 宗瑞は堂々と堀越御所に入り、様々な報告を満足そうに聞いていたが、茶々丸の行方が知れないとわかると、たちまち苦虫をかみつぶしたような表情になった。

(あの者は権力に憑りつかれている。あの者を討たぬ限り伊豆に本当の安寧は無い。)

宗瑞はかねてよりそう考えており、茶々丸を討ち取ることを一つの目標にしていたが、それはすぐにはかなわぬようになってしまった。事実この後茶々丸は周辺諸国を練り歩いて伊豆奪還の機会をうかがい、宗瑞も手を焼くことになる。宗瑞は堀越御所を落としてから休む間もなく家臣に指示を与えた。

「漁民たちは我らのことを海賊だと思い込んでいる。まずは我々の民に対する害意がないことを告げ一刻も早く落ち着かせなくてはならぬ。直ちにその旨の高札を要所に掲げよ。」

直ちに馬が各地へ飛んだ。

「何、これより伊豆を治めると。名前は伊勢宗瑞…。」

「そのお方はあの四公六民の領主様じゃないか。」

「そのようなお方が伊豆を治めてくださるのか。」

宗瑞来るの知らせは歓呼する領民たちの間に瞬く間に広まり、上野へ出陣していなかった伊豆の武士たちにもたちまち伝わった。伊豆の小領主たちにとって堀越公方は突如田舎へ舞い降りた将軍家の一族であり、必ずしも心服していたわけではなくとも強大な権威の対象として仕えてきた。同時にそれは堀越公方に背くと京都の将軍に背いたことになるという恐怖の意識の発生でもあった。しかし宗瑞がその堀越公方に堂々と刃向かい追い払ってしまった。宗瑞の興国寺での善政は伊豆国内にも知れ渡っていたから、

「あの宗瑞殿が伊豆を治めてくれるのなら。」

と、続々と宗瑞のもとへ馳せ参じた。後に後北条氏の重臣となる富永氏や笠原氏などの名前もこの中にある。堀越襲撃からわずか数か月の間に伊豆北部は完全に宗瑞の治めるところとなった。一方、堀越御所を脱出した足利茶々丸は関戸播磨守吉信の拠る伊豆半島最南部の深根城に逃げ込んだ。伊豆の南部はこれといった大勢力が存在しない、小領主が割拠している地帯であった。関戸吉信もその一人である。すでに伊豆南部の小領主も宗瑞に忠誠を誓っている者が多く、伊豆統一はこれから五年ほどで成し遂げられる。

 民心を得て、少しばかりの安寧を得た宗瑞は、堀越御所の近くにある砦へ本拠地を移した。この砦は堀越公方に仕えていた外山豊前守が築いだもので、宗瑞は此処を

「韮山」

と名付け、増改築して大規模な山城にした。腰を落ち着かせた宗瑞は正式に伊豆を治めるべく、領民に対し年貢の決まり事などを公布した。もちろん税率は「四公六民」である。

 



 秋を迎え、収穫の季節となった。この日宗瑞は七歳になる長男千代丸を伴って城下を見渡せる高台へ来た。韮山の城下は宗瑞が領主となって初めての年貢納めで賑わっていた。

「見よ、千代丸。あの者たちの姿を。」

宗瑞は荷台に俵を積んで城に向かう農民達を指差した。

「あの者たちが何をしているかはわかるな。」

「簡単じゃ。城へ米を納めておるんじゃ。」

宗瑞はうむ、と軽く頷いて、

「そなたは、あの者たちの表情を如何に見る。」

千代丸はこの不可思議な問いに戸惑っていたが、

「笑っておる。」

と、つぶやいた。

「そうだな、笑っておる。千代丸よ、あの顔をよく覚えておけ。」

「顔など覚えてどうするのじゃ。」

「この日の本の百姓であのように笑っておるのはほんのわずかじゃ。諸国の民は戦火に追われ苦しんでおる。よいか、民が笑ってくらせる国を作れ。毎年あのように民が笑っている姿を目指せ。そしてわしの理想郷を広げていってくれ。」

「それならお父がやればよいではないか。」

「もちろんわしもやる。だがな、民のくらしを守るのがそなたの役目ぞ。」

わかったか、と宗瑞は聞いた。千代丸はこくり、とうなずいた。宗瑞はあたたかい笑顔を浮かべ、天を仰いだ。

 木々を揺らした暖かい秋の風が、二人の間を通り抜けて行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ