乱世の幕開け
是則時なるべし、我今いふ所おそれおほしといへども、又併後世にわれより憎悪のものもなきにはあるべからず、其時の躰によらば其者にも過分のこびをなさるゝにてあるべし
『塵塚物語』より下剋上について語った山名宗全入道の言
「戦国」
いったいこの時代は何だったのだろうか。結果から言えば、十五世紀後半から十七世紀前半までのおよそ百年、人々は欲望のため、そして安寧のため、血で血を洗う抗争を繰り返した。そしてその果てに二百五十年に及ぶ泰平の世を迎える。しかしそんな簡単にはこの怒涛の時代を語ることなどとてもできない。
まず、何故人々は抗争を始めたのか。一つの理由として、足利家の支配体制の瓦解があげられる。京都の将軍が名目上の支配者ではあるものの、実際には日本各地に散らばった足利家より与えられた領国を治める守護大名が割拠していた。さらに守護大名達は将軍の命令を無視して、自国の勢力を強めるため、他の領土へ侵攻した。当然相手も領土と民を守るため、応戦する。そしてまた多くの血が流れる。そうして双方の国力は弱まり、さらなる領土を求めて侵攻する。その繰り返しである。そうした悪循環が日本全国で勃発した。当然将軍にそれを止める力などない。
だが、もっと根本に単純明快な理由がある。十五世紀のある時期から、日本は「小氷河期」に襲われた。気温の低下が著しく、稲作を中心としていた農業は大打撃を被った。そして徐々に餓死するものが出てくる。人々は食べ物を求めて、移動する。作物を作る者がいなくなると、当然農業の上に支えられていた支配者たちはその基盤に綻びが生じる。支配者たちも食料を求める。しかし支配者たちはただ移動するだけでは収まらない。他からそれを奪おうとする。そして前述のとおり、戦に発展する。
つまり、端的に言えば、人々は皆「生きるために」戦ったのである。
人々は生きるために必死になる。そうなると、多少の秩序や道徳などもはや関係なくなる。そしてよりよく生きるために、知恵を絞る。時としてその知恵の結末は人道を外れたものになることもある。だが、そうまでしないと、この時代を生き抜くことができなかったのである。
そんな時代であるから時として英雄が誕生する。そしてドラマが生まれる。後世の人々は英雄の所業を語り継ぐ。感動する。だからこの時代は面白い。
この時代を代表する言葉に、「下克上」というものがある。要するに、身分の低いものが、高いものに反抗することである。戦国時代においては、どこにでも見られた光景であったが、この「下克上」があまりにも大々的に行われた出来事がある。そのあたりからこの物語を始めていきたい。
時代は室町幕府十代将軍、足利義材の治世である。だが、この義材、そう易々と将軍になれたわけではない。彼の父親は足利義視という。銀閣寺で有名な八代将軍足利義政の弟にあたる人物である。ある時、義視は兄義政から
「私の跡を継いで、将軍になってくれないか。」
と頼まれた。義視はこの時相当迷ったという。それもそのはず、義視はこの時僧籍に入っており、義尋と名乗っていた。自分が将軍に就こうとすれば、まず還俗して武士に戻り、それから将軍就任のための段取りを済ませなければいけない。嫡流ではない義視の将軍就任には反発も多いだろう。自分が将軍として政治を始めるまでには、数多の困難が待ち受けているに違いない。そして、義視にはもう一つ懸念があった。
「もしも兄上に男子が誕生なさったら、一体どうなるのです。」
義政は一瞬考えたが、笑ってこう答えた。
「なに、その心配はいらぬ。今さら、男子誕生など到底考えられぬ。それに、万が一生まれても、禍とならぬようすぐに出家させてしまおう。」
義視も将軍になって権勢をふるいたいという野心はある。兄がこう言っている以上、無理に断る理由もなかった。義尋こと義視は還俗し、兄の猶子となって、次期将軍の地位を手に入れたのである。
ところが、皮肉なことにこの翌年に義政と正室日野富子の間に男子が生まれたのである。義政は男子誕生の場合出家させる、という約束をしていたが、やはり人の親、どうしても我が子が可愛くなってしまった。さらに、義政の正室日野富子という女性は、かなり気の強い人物であったらしい。何が何でも息子を将軍にさせようと、一歩も引かない。不憫なのは義視である。わざわざ約束までして還俗したのに、今さらになって引き下がるわけにはいかない。義視は兄との約束を掲げて自分の将軍職継承を正当化しようとした。そして忘れてはならないのが、義視の強力な後見人の存在である。この後見人こそ、細川勝元である。実際のところ、義視を支持した者は、義視というより、幕府の有力実力者である勝元の陣営についておきたい、というのが本音であった。
しかし、日野富子も黙ってはいない。勝元に対抗しうる後見人を息子にもつけようとした。そうして白羽の矢が立ったのが、山名宗全である。宗全は本名を持豊といい、数々の武功を挙げた、老獪な人物であった。宗全としても、幕閣内での勝元の伸長を抑えておきたい、という狙いがあった。ちなみに、この勝元と宗全、決して犬猿の仲というわけではない。それどころか、勝元の正室は宗全の娘、つまり義理の親子であった。
かくして、勝元と宗全の二人の対立になるかと思われたが、事態はさらに複雑になっていく。有力守護大名、畠山家と斯波家にも同じような家督争いが勃発した。そして畠山、斯波両家とも跡継ぎ候補が後見人として勝元と宗全を頼ったのである。ここまでことが大きくなると、収拾がつかなくなってしまった。日本中の守護大名のほとんどがこの争いに便乗して自家の勢力を拡大しようと、細川、山名のいずれかの陣営に付いたのである。
これこそ、世に言う「応仁・文明の乱」である。
乱そのものは泥沼化し、十一年にわたって抗争が続いた。戦場となった京は焼け野原となり、公卿たちは皆地方に難を避けていった。ところが、宗全、勝元がほぼ同時に没すると、もはや戦につかれた武士たちは一刻も早い和睦を望み、実現した。ところで、肝心の次期将軍の座は、義政と富子の間に生まれた男子、すなわち足利義尚が獲得した。勝元が死に、兄夫婦と気まずくなった義視は、幼き義材を伴って美濃へ出奔した。
しかし、九代将軍となった義尚ではあったが、寺社領の横領を続ける南近江の六角高頼を討伐しようとするも、高頼の巧みな攪乱戦術に悩まされ、なんと二十五歳の若さで病没してしまったのである。これを知るや義視は再び上洛し、息子に先立たれ失意のどん底にいる義政に、息子の義材を将軍の跡継ぎとして推薦したのである。義政は間もなくして亡くなり、義材は十代将軍に正式に就任した。だが、実権は父の義視に握られており、当初はお飾りに過ぎなかった。だが、翌年とうとう義視が亡くなり、名実ともに将軍となった。
大分話が長くなったが、義材の将軍就任に関してはこのような複雑ないきさつがある。義材にしてみればいよいよ、という気持ちが強かっただろう。ところが、不幸なことに陰謀の渦がすでに義材に迫っていたのである。
この男、奇人の類である。いや、もしかしたらそのふりをしていただけなのか。ともかく、おかしな男だった。細川勝元の長男として生まれた彼は、わずか八歳で父を亡くし、名門細川家の当主という重責を背負わされた。十代前半で管領に任じられ、幕政に参加した。その異色の経歴が噂好きの上方の庶民の注目の的となったのか。
この男について面白い逸話がある。彼の父、細川勝元は長年男子に恵まれなかったため、愛宕権現に祈りをささげた。するとその後、勝元の妻の枕元に聖徳太子が立ち、「我は聖徳太子である。」と名乗り、妻の口の中に飛び込んだ。そしてその七日後に腹の中に彼を授かったのだという。
また、同時代の一向宗の指導者として高名な蓮如上人も、彼を聖徳太子の生まれ変わりである、というようなことを言っていたという。
細川右京大夫政元。戦国時代を始めた男である。
政元は、阿呆では決してない。むしろ非常に思慮深く、繊細な人物であった。そして、並々ならぬ野心を持っていたのも確かである。足利義視の死後、幕府内で政権を握ったのは、畠山政長という男であった。この政長、先の応仁・文明の乱の際にお家騒動を起こした畠山家の後継者候補の一人であった。彼は政元の父勝元に自身の応援を頼み、勝元もそれに応じ、政長の畠山家家督相続を積極的に支援した。乱後、畠山義就となおも家督を巡って争い、越中、紀伊の守護職を獲得した。義尚の死後、十代将軍に義材を推薦したため、義材の信頼はすこぶる篤い。
一方政元は十代将軍に義材を推薦しなかった。彼が推したのは、清晃という人物であった。この清晃、何者かというと、足利義政、義視の異母兄にあたる、政知の子供である。つまり、義材にとっては従兄弟にあたる。清晃は天龍寺香厳院の名跡を継ぎ、僧籍に入っていた。この清晃は別に政元と特別親しいというわけではない。政元が清晃を推した理由は、単純に自分が権力を握りたい一心であろう。こう見ると、どうも応仁・文明の乱の経緯に似ているようにも見える。だが、今回は事情が違った。日野富子が義材を推したのである。依然として大きな影響力を持っていた富子が義材方に付いた以上、政元は不利と判断し、これ以上無理強いすることはなかった。しかし、義材とて政元が自分の将軍就任を心から歓待していないことは分かっていたので、自然と政元を遠ざけるようになっていた。
そして、政元の心には、義材と政長の失脚への道筋が見えていた。
年が明けて延徳四(1492)年、政元はとある人物と密会をしていた。その相手とは畠山家の家督を政長と争った義就の子、基家である。義就は前年に没しており、父の跡を継いだ基家は拠点としていた河内を中心に、政長と争っていた。政長は将軍義材の信頼篤い人物であるため、それを利用して何かと義就や基家のことを義材に悪く言った。義材もそれを信じ、いつしか基家は幕府の敵、としてみなされるようになったのである。基家とて政長を恨んではいるが、義就が死んだ以上、以前より戦う方向性が見えづらくなったというのも事実である。かといってこのまま引き下がるわけにもいかず、孤立しないためにも、誰か有力な協力者を求めていた。政元はその微妙な心の揺れを衝いた。
「弾正殿(基家)は上様にあまり好かれていないようじゃ。上様に敵とみなされている以上、河内で抵抗を続けてもいつまでもつかどうか。」
政元は感情を表に出さない。あくまでも他人事のように、冷ややかに人間を見る。
「だが、わしは幕府に降るつもりは毛頭ない。あの憎き政長のもとで働くなど、死んだ父に顔向けができぬ。」
「政長のう…。」
政元は扇子を口元にあて、庭に目を向けた。基家は焦りからか、政元のほうを見ようとしない。
「では、もし政長が失脚するとしたなら。」
政元はちら、と基家を見た。基家もまた、一瞬目を上げたが、また目を伏せた。
「からかわれるな右京大夫殿。今や上様は政長を誰よりも信用しておろう。その上様に政長を罷免させるというのは到底無理な話よ。」
「確かに、上様が信頼しているのは政長じゃ。だがな、その上様が居なくなったら、果たして政長は今のままでいられるかな。」
基家は政元をいぶかしげに見た。二人の間に、不気味な沈黙が流れた。
「右京大夫殿、何が言いたい。」
たまらずに基家は言った。
「ふっ、弾正殿もお人が悪い。禁忌とされていることをわざわざ私に言わせようというのか。」
「右京大夫殿、いくら貴殿が細川家の当主とはいえ、上様を弑すなど…。」
「何もそこまでは言わぬ。それとも、基家殿はそうなることをお望みかな。」
政元がそう言うと、基家はむっ、と黙ってしまった。
「弾正殿、今すぐに事はならぬ。今日はただ、この政元の考えを知っておいてもらいたかっただけのこと。だが決して落胆なさるな、これより後、基家殿にとって決して悪いようにはなりませぬよ。」
政元はそう言うと、では、と席を立った。
「殿、弾正殿はいかがでしたか。」
政元が帰宅するや、真っ先に駆けつけたのは、細川家の家宰を務める、安富元家である。
「ああ、悪くはない、とだけ言っておこうか。」
それは祝着、と元家は賛辞を言った。
「ところで、甲賀はどうなった。」
と政元は短く尋ねた。
「はい。つい先ほど、使いの者が戻りましてございます。これに手紙を…。」
元家はそう言って懐から取り出したものをうやうやしくささげた。
政元はそれを一読すると、珍しく微笑をたたえた。
「さすがは陰謀好きの六角大膳よ。まんまと乗ってきおった。」
六角大膳とは、寺社領の横領を続けて、将軍の追討を受けた六角高頼のことである。高頼は九代将軍義尚の追討を退けたが、義材が将軍になると、またもや六角征伐の兵をおこしたため、高頼は居城の観音寺城を捨て、かねてより関係の深かった南の甲賀へ逃れた。義材も山深い甲賀には攻め込めず、京都に帰陣した。そして高頼の旧領南近江を実質的に支配した者こそ、安富元家であった。高頼は当然のごとく近江奪還をもくろみ、その機会をうかがっていた。政元もこの動きを察知していたから、自分の陰謀の計画の誘いをそれとなく高頼に向けてみたのである。
「元々近江は大膳のもの。そなたさえよければ、大膳を味方に付ける格好の餌よ。」
「私めはかの土地に執着はございません。寺社の力が中々に強くて、治め辛くてかないません。根強い人気を持つ大膳殿を味方につけられると思えば安いものでございましょう。」
元家は勝元の時代から仕えていた重臣中の重臣で、政元が幼少の時から見守ってきた人物である。
夜、政元は必ず自邸にある一間にこもって、修験道の修行をする。白装束を着て香を炊き、炎の前で一心不乱に呪文を唱えるのである。
(何卒、我に愛宕権現のご加護を。オンアビラウンケンソワカ、オンアビラウンケンソワカ…)
そして湯浴みを済ませると、たった独りで寝床に入る。一筋の灯りを頼りに政元は書院の中から一枚の紙を取り出した。そこには幾人かの名前が書かれていた。政元は筆を執ると、そこに新たに
畠山弾正少弼基家
六角大膳大夫高頼
という名前を書き足した。政元はじっくりと紙を広げて炯々と目を光らせる。そして一番右に書かれた人物の名前に目をあてた。
伊勢兵庫頭貞宗
「ほう、あの大膳殿も乗ってこられましたか。」
数日後、政元は伊勢貞宗の屋敷にいた。この伊勢貞宗という男、父親は将軍に取り入って数々の守護大名の政治に介入したことで応仁・文明の乱の原因となった伊勢貞親である。貞親に恨みを持った大名は多く、政元の父勝元や山名宗全もその一人であった。だが、貞宗は父のそうした行いに疑問を持っていたようで、父と同じ政所執事となると、奉行同士の揉め事を円く収めたりするなど、実績を積んでいった。将軍の信頼も厚く、足利義尚の養育係も任された。しかし、その義尚と義政が死ぬと子の貞陸に政所執事の職を譲って自身は隠居した。政元は隠居したとはいえ貞宗の影響力はまだまだ強いと睨み、早くから親交を結んでいた。貞宗も今の政治体制には腹を据えかねるものがあったため、政元と共にこの陰謀の構想を描いてきた。
「意外と早く事が起こりそうですな。」
政元もこの好々爺の前ではいささか形を崩す。
「ですが、あともうひと押し欲しい。なにか決定的となるあと一手が。」
政元は出された菓子を食べてから言った。
「ふむ…やはり、将軍家御一門の方に味方に付いていただければ心強いのですが。」
貞宗もふう、とため息をついた。
「前から言っていた通り、やはり妙善院(日野富子)様を動かすことはできませぬか。」
八代将軍足利義政の正妻日野富子は、夫の死後出家し妙善院と名乗っていた。以前ほどに表には出てこないものの、実家日野家のつてで皇室にも顔が利き、政変を企てる以上どうしても無視できない存在であった。妙善院は足利義視とあまり仲が良くなかったため、その子である現将軍義材とも折り合いが良くなかった。元々政治感覚に優れ、洞察眼もある人物であるから、陰謀に加担する見込みは大きかった。だが、かつて妙善院のせいで天下が荒れたこともあり、ぎりぎりのところまで陰謀を告げたくない、という気持ちもあった。
「そういえば、そろそろ改元の祝いに妙善院様とお会いする機会があります。その時それとなく私から話してみましょう。もちろん、お気に触らぬようそっと、ですが。何かと隠居者同士のほうが話しやすいことでしょう。」
貞宗はそう言って目を細めた。
「おお、それではお願いいたします。妙善院様さえこちらに付けば、憂いなく清晃様を擁せますゆえ。」
政元は深々と頭を下げた。
七月に「明応」と改元されてから程なくして伊勢貞宗から吉報が届いた。妙善院も義材、政長の政治体制に好印象は持っていなかったようだ。天龍寺の清晃にも話は届き、後は好機が来るのを待つのみとなった。政元は讃岐、阿波などの軍勢も上洛させ、軍備を整えていた。無論義材はまさか征夷大将軍である自分が狙われているとは露程にも思わない。
「では、政長と上様が京を出て河内に入ったところを、背後より我らが襲う、と。」
政元の前には安富元家をはじめとした上原、薬師寺、香西など守護代を務める「内衆」と呼ばれる重臣たちが集まり、陰謀の最終計画を練っていた。
「すでに河内の弾正様は我らの意を受け積極的に政長を挑発しております。政長が出陣するのも時間の問題でしょう。」
そう言ったのは丹波守護代を務める上原元秀である。豊富な財力を持ち、幕閣にも顔が利くことから、河内の畠山基家との交渉を任されていた。
「ところで殿。堺に駐屯している赤松兵部殿の軍勢が横槍を入れますると多少難儀かと思われますが…」
智将として名高い香西元長が言った。赤松兵部とは赤松政則のことである。嘉吉の乱で没落した赤松家を、わずか十三歳で応仁・文明の乱に東軍として出陣し、武功を立て再興した人物である。今や播磨、備前、美作などの守護を務める大大名であった。政則はかねてより畠山政長と懇意にしており、政元と政長が戦になった場合、政長に味方すると考えられていた。
「兵部のことはわしもよく存じておる。彼の者は確かに文武に優れた名将だが、赤松家は兵部だけの力では成り立たぬ。家臣筆頭の浦上美作守に負うところが多いのよ。そして美作守は我が細川家と関係が深い。美作守の養子には新兵衛尉、そなたの息子が入っておるしな。」
新兵衛尉こと安富元家が力強く頷いた。浦上美作守は、本名を浦上則宗という。赤松家の没落時から知っている老臣で、応仁・文明の乱の際には幼少の政則に代わってほとんどの実戦指揮を執った。その後も政則を常に補佐したが、政則と山名家が戦い、政則の失策のせいで惨敗した時には、一時的に政則を追い出して自分が領国の経営をしたりした。このように、一筋縄ではいかない癖のある人物であった。ちなみに、この浦上家と細川家はこの後も密接な関係を持ち続け、天下の趨勢に大きな影響を与えることとなる。
「美作守を動かせば兵部とて軽々しき振る舞いはできぬ。それに、兵部の件に関してはわしに考えがある。」
政元は静かに言った。
明応元年も残りわずかとなったある日、政元は僅かな供廻りのみを連れて衣笠山にある龍安寺を訪れた。龍安寺は政元の父勝元が宝徳二(1450)年に創建した寺で、応仁・文明の乱の戦渦に巻き込まれて焼失していたものを、長享二(1488)年に政元が再興したものである。政元はこの寺に来たのはこの陰謀の鍵を握るとある人物に会うためであった。
政元は寺の一室に通され、独りで相手を待った。庭には雪がうっすらと積もり、自慢の池も表面が凍っていた。
(なんなのだろう、この気分は。ここへくるといつも厳粛だが、どこか心地よい空気に包まれる…)
政元はうっすらと目を閉じた。毎日籠る修験道の読経堂の不気味でありながら激しい趣とは違ったこの場所が、政元は好きであった。そうして政元は二十年も前に亡くなった父の顔を思い出していた。
「どうされました、政元殿。瞑想などされて。」
布の擦れる音とともに一人の尼が部屋へ入ってきた。
「瞑想ではありません。少し父上のことを思い出しておりました。」
政元は珍しく明るい声で答えた。
「父上のことを覚えておいでですか。あなたが生まれたときは一番忙しかったときゆえ、大した思い出もないでしょうに。」
「確かに大した思い出はありませぬが、独り息子だったせいでしょうか、えらく私を可愛がってくれました。」
そういうと尼は温かな笑みを浮かべた。
「あなたが生まれたときは大変でしたのよ。聖徳太子の生まれ変わりだ、などとえらくお喜びになって。あの時のことは忘れられません。」
「何べんも聞かされた話です。父上と私のことと言えば姉上はそればかり話される。」
そう、この尼、政元の実の姉である。めし、という名前で、政元とは六つほど離れている。勝元の娘として大切に育てられてきたが、とある理由で出家し、洞松院と名乗った。当然未婚である。この洞松院は、醜女であったという。尼になったのもそのことが関係している。だが、心の中にしっかりとした芯を持った女性で、戦乱の世に生を受けた女性らしく、教養もあり、文にも明るい賢女であった。政元が唯一血を分けた姉弟であるため、心を開いて話のできる、数少ない存在であった。
「して、今日はどうされたというのです。政元殿とてお忙しい身、用もなく此処へ来たわけじゃないでしょう。」
洞松院は優しく問いかけた。
「実は姉上に頼みがあるのです。」
政元は背を正して言った。
「率直に申します。この政元、これより我が命運を賭して大事をなそうとしております。」
洞松院の顔から笑みが消え、真剣な表情になった。
「この事は、私だけではなく、細川家、さらには天下の情勢をも賭けた大事なのです。そして、それを成すために、姉上のご協力が何としても必要なのです。」
「大事を成すというのはわかりました。では、私に何をしろと。」
「姉上、もう一度細川家の女として俗世にお戻りいただけませぬか。」
洞松院はじっ、と政元を見つめた。政元も決して目をそらさなかった。
「…つまり、私を何処かの家に嫁がせたいというわけですね。」
さすがに洞松院は物わかりが早かった。
「勝手なことを申しているのは重々承知しております。しかし、今細川家は大きな、とても大きな転機を迎えようとしているのです。この機を逃さば、私は例えどのような最期を迎えようとも一生悔恨の苦しみにさいなまれ続けることでしょう。短い人生の中に与えられた数少ない機会、捉えた以上、私はこの機に賭けてみたいのです。」
政元は感情を全面に出して懇々と説いた。政元自身も驚くことに、身体の中から熱い衝動がこみあげてきて、わなわなと身体を震わしていた。
沈黙が流れた。
洞松院も細かく唇を震わせた。
「あなたが機を得た時、あなたもこのような心持がしたのでしょうか。」
洞松院の声もどこか強張っていた。
「髪をおろしたとはいえ、私とて武家の女子。覚悟はできております。しかし、まさかこのような形でこの時を迎えることになろうとは…。」
洞松院はまた微笑を浮かべた。
「私も今、数少ない機会を与えられたようです。細川家のお役にたてるのなら、断る理由はありません。その申し出謹んでお受けいたします。どうぞ、その大事とやらの詳しい話をこの姉にお話しください。」
政元は自分でも興奮していることを感じていた。
「姉上、かたじけない。」
政元は絞り出すように言った。
それから政元は姉に陰謀のこと、嫁ぎ先の赤松政則のことなどすべてを語った。洞松院は時に驚き、時に神妙な顔になって、自身の結婚の重要性を悟った。そして政元は住職に洞松院の還俗の許可を得た。
「せっかくいらしたのだから、父上にお会いしていきなされ。長らく会いに行って差し上げてないでしょう。」
庭まで見送りに来た洞松院が言った。政元はそうしますか、と言って礼をすると、黄昏に染まる雪の道を歩いて行った。
年が明けた。
明応二(1493)年。激動の時代の幕開けとなる、運命の年である。この頃、京都の町に謎の妖怪が現れたとする記録がいくつかある。京都の庶民はこれを何かが起こる予兆として、噂したという。
「河内の基家の動きはもはや無視できぬものになっております。これを討ち、将軍家の勢威を世に示されることこそ肝要と存じます。なにとぞ上様御自ら出陣のお下知を賜りたく…。」
室町御所で行われた評定で畠山政長は真っ先に発言した。その意見に同調するような声がちらほらと挙がる。
「うむ。わしも尾張守(政長)の申すこと最もであると思う。基家の行いを放っておくとますます図に乗り、それに便乗して兵を挙げる者も出てこよう。ついては、二月中にも出陣しようと思うが。」
きらびやかな装束に身を包んだ将軍義材が言った。
「恐れながら申し上げます。上様御自らご出陣になると、都の留守を守るものが必要にございます。何でも山城の国人衆や甲賀に逃げた六角高頼も不穏な動きを見せておるようです。それ相応の力量のものが適任と存じますが。」
そう声を上げたのは政所執事の伊勢貞陸である。前述のとおり貞宗の子で、当然政元の陰謀の協力者である。
「ふむ。しからば、誰が良いと申すのか。」
「この大任、右京大夫殿にしか勤まりますまい。」
義材は政元を好く思っていない。むしろ邪魔に思っている節さえある。
「おお、右京大夫、そなたが引き受けてくれるか。」
義材は政元を遠ざける格好の理由を見つけて政元に声をかけた。
「かしこまりました。都のことは万事この政元にお任せください。」
政元は心中喜びながら深々と頭を下げた。その後討伐軍の編成などが定められ、京都出陣は二月十五日と決まった。
明応二(1493)年二月十五日。足利義材は大軍を率いて河内に出陣した。畠山、斯波、若狭武田など守護大名の重鎮が揃い踏みしたこの軍勢はさながら凱旋軍のような華々しいものであった。
一方、河内誉田城に籠った基家の軍勢は僅か二千ほどであったという。だが、政元との密約の存在がその士気を否応なく高め、いつでもこい、というような余裕があった。基家にしても二か月持ちこたえれば必ずや形勢はひっくり返る、という目算がある。一万を超える大軍が迫ってきていると知っても、眉一つ動かさず、手をこまねいていた。
政元は伊勢貞宗、貞陸親子と共に花の御所に昇り妙善院と打ち合わせをした。その結果、河内の戦況の経過を見て、頃合いを計って政元の姉めしを堺の赤松政則のもとに嫁がせ、横槍の心配を無くしてから、援軍と称した細川家の軍勢を河内に入れ、基家の軍と挟み撃ちにして政長の軍を壊滅させるという段取りとなった。さらに、念には念を入れて伊勢貞宗が、大義名分がこちらにあること、今すぐ義材から離れること、などを勧告する内容の密書を遠征軍に付き従っている武将たちに送る、ということも決まった。新たに征夷大将軍に擁する清晃とも打ち合わせ、ひたすらその機会をうかがっていた。
義材ら遠征軍は三月に河内に侵攻すると大軍に物を言わせて基家方の城を次々に抜き、基家本人が拠る誉田城を包囲した。だが、もう一息で河内制圧も完成するというのに、この誉田城は頑強に抵抗し、寄せ手を中々城に近づけなかった。最も遠征に意欲を燃やしている畠山政長は地団駄を踏んで悔しがったが、彼も歴戦の武人である。力押しすると大損害を被るとみて、四月に入ると持久戦の構えに出た。すなわち、城を包囲させて補給路を断ったまま、本陣を野外から近くの正覚寺城という小城においた。
「ああ、我が事成れり。」
その様子を誉田城内から眺めた基家は手を打って喜んだ。
「何、それでは政長は持久戦に備え始めたのか。」
京の細川屋敷では河内の詳細な情報が毎日のように入ってきている。
(この機を逃す手はない)
「至急堺に早馬を飛ばせ。赤松家との婚姻、近日に執り行いたい、と赤松兵部と浦上美作守に伝えてくるのじゃ。」
政元の決断は早かった。
「都の周辺に駐屯している我が軍勢をまとめ、編成せよ。細川家きっての精鋭を集めた最強の軍を作るのじゃ。」
指令を受けた安富元家が飛ぶようにして出ていく。
四月二十日、赤松政則と細川めしの婚姻が成立した。晴れて細川、赤松の両家は縁戚関係となり、もはや完全に後顧の憂いが消えたのである。
即時政元は安富元家と上原元秀のふたりを大将として、総勢二万の軍勢を河内へ急行させた。名目上は義材、政長への加勢であるが、無論この二人を虎視眈々と狙い続ける軍勢に他ならない。同時に伊勢貞宗は自身の発行した例の密書を携えた密使を放った。そして運命の四月二十二日夜、政元、貞宗等に厳重に守られた輿が花の御所へ到着した。中から出てきたのは、後の室町幕府十一代将軍足利義澄こと清晃である。清晃はこの時十三歳の少年で、早くに天龍寺に入れられて仏道の修行に精進していたため、政治や戦とは程遠い生涯を送ってきた。だが、この異様な雰囲気と政元らに聞かされた自身の運命の変化を悟り、緊迫した表情をしている。清晃はこの時を以て征夷大将軍を名乗り、還俗して足利義遐と名乗った。
河内正覚寺城にいた畠山政長は焦り始めていた。長い滞陣のせいか、夜逃げするものが出始めており、陣中はどこか落ち着かない。
「臆病者は逃げ去るがよい。もとより素性のしれぬ素浪人共も陣中に入り込んできておるでな。毎度毎度のことよ。」
政長はそう強がりを言っていたが、ある夜を境にさすがの彼も背筋が寒くなった。一夜にして兵の大半が逃げ出したのである。
(これは、ただことではない。さては何ぞ都であったか)
総大将である義材は右往左往しているばかりで物の役には立たない。そしてついに逃亡を企てて捕まった侍大将の懐中から、例の密書を発見したのである。
(右京大夫が謀反。新将軍に清晃じゃと。妙善院さままでもたぶらかしおって、差出人は伊勢兵庫頭…)
「おのれっ」
政長は顔を憤怒の色に染めて怒声を放った。
「申し上げます。」
その時物見が帰り片膝をついた。何じゃ、と政長は肩で息をしながら言った。
「細川右京大夫殿が家臣、安富筑後守、上原左衛門大夫に率いられた軍勢およそ二万、援軍としてこちらへ向かっております。」
(しまった。政元め)
政長は愕然とした。
「その者どもは援軍などではない。敵じゃ、敵じゃ。すぐに防戦の支度を整えよ。急げ、急げ。」
政長は怒鳴り散らして、驚いた物見を走らせた。だが、もはや手遅れである。細川軍は強行軍の勢いのまま正覚寺城に襲いかかった。畠山軍はわけのわからぬまま必死に防戦したが、多勢に無勢、勝てる戦ではなかった。畠山政長は正覚寺城より一子尚順を脱出させ、近臣たちと最期の酒を酌み交わしたのち、自害して果てた。時に四月二十五日。享年五十二歳である。
足利義材は政長が自害したと知るや抵抗をあきらめ、足利尊氏より伝わる家宝の武具を持参して、上原元秀の陣へ赴き、降伏して捕われの身となった。誉田城を囲んでいた軍勢は雪崩を打ったように崩れ、散り散りになって潰走した。
一部始終を聞いた政元は静かにうなずいたきりであった。家臣たちは大げさに喜んでいるが、政元にすれば失敗などはあり得ない、こうなるべくしてなったのだ。という思いの方が強い。凱旋した安富、上原らの功を讃え、表彰した。義材は龍安寺に閉じ込められ、追って沙汰を待つ、ということになった。
かくして、「明応の政変」と呼ばれる前代未聞の征夷大将軍廃立事件は幕を閉じた。京の都という日本の政治の中心地においてこのように大々的な下克上が行われたことは、当然日本全土に衝撃を与えた。この事件をきっかけに、世は長きにわたる戦乱の時代へと移っていく。