5. Nacliss - Repolarsystem
5. Nacliss - Repolarsystem
5-1.
新しい光のために、先ず、闇から始めよう。
「緊張しなくていいからね」
エクシの声が響く。目を閉じている私の耳に優しく届いた。
「上手くできないのは当たり前だから。私の九番目の子なんか、七日もできなくて、最後にはいじけて泣いちゃって、慰めるのに大変だったんだから」
「そんなことを言われたら、余計に緊張する」
「シズは他人事よね。全然平気みたいだし」
「他人事じゃない。緊張もしてる」
「もう、まったく。少しは子どもらしくなったと思ったら。最近、反抗期?」
「ふつうだ」
薄い瞼の向こうで言い合いが続いた。ディズも目を閉じたままのはずだったけれど、態度はいつもと変わらない。エクシに言われている通りで、緊張している様子は全く感じられなかった。
「ほら、二人とも。ディアが困ってる」
オリオンの声。エクシととても似ていて、違う人。そんな二人を祖父母のように思っていることは、きっといつまでも秘密になる。
「もし失敗したらどうするの?」
基本的には似た者同士の母子が注意されて口を閉ざしてから、私はまだ聞いていなかったことを尋ねた。
「次の日の同じ時間にもう一度」
教えていなかったのか、と言わんばかりのディズの声。
「それも駄目だったら」
「その次の日に。その時も駄目だったら、そのまた次の日。その繰り返しだ。エクシの子どもみたいに。ああ、俺たちのことか」
私は思わず笑みを零した。
「こら」
「エクシのせいで幸先が悪くなった」
「シズを向こうに送るのは私なんだけど。あんまり怒らせると手元が狂っちゃうかもしれないわよ。一生に一度のことなのに、嫌な思い出にしたいの?」
「実質、ディアを人質にとるのは親としてどうかと思う」
「二人とも、そのくらいに」
私の胸の奥にはこの世界の複写符合が宿っている。あの場所でディズから伝わった魔法の卵が。
今思い出すならとても素晴らしい出来事。今思い出しても、絶望でも。
初めてではなくなっていたキス。ディズが私の命を望んだ最初の時。思えば、あの時こそが私という命のかたちの運命が定まった瞬間だったのかもしれない。その記憶は夢のように、悪夢のように、柔らかなかたちのように。心の中に。
彼がそのことを教えてくれた時のことを思い出す。時間は連なっている。
私が魔法使い(カルン)になりたいと打ち明けた日の夜だった。
その後、彼はまたお休みのキスをしてくれた。
それからは、毎日。
かたちを感じた。一瞬、心の居場所が見つかったのかと思った。
「わあ、もう見つけたの?」
「うん。分かるの?」
「ええ。ディアの心のかたちが伝わってる」
見つかったかたちを心の両手で包み込む。
そして、私は止まる。動けなくなる。心の多くも。
体の中のかたちを大事に持って何もできないままの時間。急に何もできなくなってしまった理由が自分でも分からなかった。何かを決めるための手掛かりも全くない不思議な感覚。
「最初はこんな感じって分かればいいからね。見つかったものをどうすればいいのかを考えることが大切だから。いきなりできちゃう方が、少し心配かな」
「子どもが上手くできなくて泣いたのは、絶対にエクシのせいだ」
また、思わず笑みを零してしまった。
「わあ」
そして、私も心全体で驚いていた。抱えていたのは卵のかたちだと分かった。この卵を割りたくなかったんだ、という本心も。それで思考が止まっていた。
止められていたのかもしれない。私が私自身に試されていた。
分かれば、簡単なこと。そして、最後に必要なものは。
「すごい」
「考えないといけないんじゃなかったのか。ディアのこと、心配するのか?」
「シズの方がずっと心配だから、あまり変わりはないわ」
新しい家族は賑やかだ、と思いながら、丁寧に私の卵を孵した。
「行ってらっしゃい、ディア。シズはちゃんとすぐに届けてあげるから安心して。クアとリアがお土産話を楽しみにしてるから、できるだけ色々なことをしてきてね。でも、仲良くし過ぎるのはまだ駄目よ」
優しく届くエクシの声。オリオンが優しく見守ってくれているのも分かっていた。
「行ってきます。お母さん、お父さん」
意識が離れていく直前に、私は初めてその言葉を口にした。英語とは発音の違うメカナの言葉。抵抗は少ないはずだった。でも、本当に必要だったのは、同じ、殻を割るという、勇気。
闇の中、一瞬後の未来を開くための意志は示された。そして、片手に持つ花の茎の光を感じながら、私は最初の魔法に身を委ねた。
(Into the light ; planet)
最初に感じたのは、肌を撫でる涼やかな風。二番目に体を包む草の匂い。三番目が、瞼の向こうの大きな明るさ。
目を開ける。
雲ひとつない青の空。見渡す限りの草原。
草の下り坂。地平まで緩やかに続く大斜面。降りていくのは白い一繋ぎの服で小さな体一つを包む子どもたち。
何百人も、何千人も。
世界中から旅立ってきたメカナの子たち。
空気の中から立ち現れてくる。皆が最初に驚いたように周りを見渡し、自分を確かめ、そして歩き出す。前へと。歩いてゆく。自信を持ち、笑顔を見せる。
たくさんの子どもたちがなだらかな草原の丘を下りてゆく。
私と同じようにこの場所を訪れた子どもたち。魔法の卵を孵した子たち。瞬きごとに現れ、草原と自分を確かめ、前へと歩き出す。希望を胸に抱いて斜面を下っていく。
帰るために。やっと雛になるために。無事に帰れても巣立ちはまだ遠いけれど、そのための明るい未来が待っている。
皆、私を追い抜いて進んでいく。
私は、歩き出せない。
ああ、駄目だ。
耐えられない。きっと、私はこれだけは耐えられない。この場所を歩き続けるなんてできない。私は甘い考えをしていた。辿り着いてしまった場所は、希望の坩堝。
清らかで満ち足りた世界が私を殺す。きっと耐えられない。こんな世界を歩き続けたら私の心は消えてしまう。私はそれを抑え切れない。それが分かる。
私は洗われてしまう。洗礼を受ける。
光。
広がっていたのは、絶望するしかないほどに輝く風景。
私は。
「ディア」
私はここで死んでいた。心が死んで消えていた。この場所を歩いていたとしたら。それが私の末路だった。きっと、全ての世界で。
「ここが、メカナの聖地。ナクリス」
この人がいない、全ての世界で。
「このまま丘を下って、ずっと真っ直ぐ歩いて海を目指すんだ。海まで草原が続いている。ゆっくり歩こう。ここでは食事はいらないし、天気もずっと晴れたままだから」
「うん」
「さあ、ディア」
「うん」
縫い目のない真っ白な服を上から被ったディズ。私や他の子と同じ。見た目は十二歳の男の子。私の手を握ってくる積極なところは年上の人のよう。
「思うままに、真っ直ぐ。最初に立った場所から、ただ前を目指して。少しくらい寄り道をしてもいい。必ず海にたどり着く」
私を漂白しようとする光を仰ぐ。彼との繋がりを心まで伸ばす。新しい家族を拠り所にする。
子どもたちに混ざって丘を降りていく。一緒に歩いていく。真っ白な流れの一員になる。
一つの地平線分の緩やかな大斜面。最初に立った場所から、ただ前を目指し、思うままに、真っ直ぐと。
この美しい光を、ずっと憶えているだろう。
二つ目の地平。やがて丘を下り終え、平らな大草原に至った。
一輪の白い花の献花。
夜空のようなあの人から贈られた花。もう片方の手に持ち続けていた。草の絨毯に横たわる小さな白い石を見つけ、その足元にそっと置いた。こうするのが一番いいと思った。この草原と繋がった故郷に捧げた。
この草原に辿り着いた人のことを思い遣る。生き残った人たちの未来に思いを馳せる。犠牲になった全ての人たちに祈りを捧げる。
胸に手を置き、遥かな故郷へと祈りを捧げた。
そうして、私は初めて故郷の災害と母の死を受け止めた。
顔を上げる。地平まで続く青と緑の風景。光景。散らばって進む子どもたち。こんなにも綺麗な場所が現実にあることの不思議。
「私、もう大丈夫だから」
静めていた心を起こし、後ろで見てくれていた彼に言った。
「ほんとう」
精一杯の笑顔を送った。他の子たちにも聞こえるくらいに大きく声を張り上げた。
ディズが驚きの表情をした。誇らしい気持ちが湧き上がる。
「行こう、ディズ」
私の方から手を取った。彼は神妙な顔をして頷いて私の手を握り返してきた。
かすかな笑み。だから私も笑う。笑おう。
再び、前進。勢いよく。地平の向こうの海を目指す。
家路は長い。二人で夜も迎える。どうしよう。
子どもたちが散らばり始めるそよ風の中。
「魔法系のこと、教えて」
私は聞いた。まずは、この世界の文明の基盤を成すエネルギー体系から。
彼の声を聞きながらこの世のかたちを確かめよう。経験と知識から築き上げていた自分なりの仮説と比較し、検証をしてみよう。
「内積、外積、彩色、無色、元素、数位。魔法系は六種類の体系に区分されている。
内積と外積はベクトル(ファクス)、元素と数位は物質、彩色と無色は空間。直線樹からの、それぞれ二極に分かれる三界のエネルギー抽出、加工と放出。それが魔法系。そして、魔法系を一定の規則で稼動させるための組成式や方程式を、魔法系式という。対して、数多くの魔法系式や情報を保存、処理するための回路は、集積経路という。
最初の魔法系式は複写符合を中心としてほぼ無意識の内に作られる。最も相性のいいエネルギーが魔法系として使えるようになる。ディアの最初の魔法系は何だろうな」
「うん」
「そして、人の魔法系や電動の機械の他に、メカナでは恒体という特殊な人工物が使われている。恒体は人工の集積経路と魔法系式を鉱石の量子領域に組み込んだものだ。あの家にある照明や機器の全てがその石と電力で動いている。
特殊な調整をされた電子が恒体の中で各種エネルギーに変換され、魔法系式の元で一定の働きをみせる。そのエネルギー変換の負荷で集積経路が壊れるまで、石の機能が失われることはない。それに、ほとんどの恒体は電力を蓄える機能も持っている」
「あの、明かりの石だね」
「ああ。大なり小なり、今では魔法使い(カルン)も恒体に頼って生きている。石の宇宙は美しく、力強い。ただ、それでも人の手で魔法系が使われることは無くならない。なぜなら、それが魔法使い(カルン)の美徳とされていて、何より、魔法系の力そのものが人の心を満たすからだ」
「心を満たす」
「好奇心や達成感を。大きくて精緻な力を使うことは、ただそれだけで、楽しい。きっとそれが、全ての力の源泉だ」
「うん。私も、楽しみ」
ディズは頷き、私が見るべきものを教えるように前を指差した。
「丁度、子どもたちが試している。見ていこう」
子どもたちの姿。何十人も集まっているのが見えた。
草原に転がった大きな石を取り囲んで何かをしている。
そして、その傍の斜め上の空中に、とても綺麗な人型のもの。静かに浮かんでいた。ロボット、という言葉を私はすぐに思い浮かべる。何もせずに空中に停まっていて、まるで子どもたちを見守っているように見えた。
見守っているのだろう、実際に。
「あれは?」
話の続きと子どもの様子も気になったけれど、私は初めて見る綺麗なものがどうしても気になって仕方がなかった。
あのロボットはなに?
「メカナの機兵。ここの警備をしている。仕事のほとんどは子どものお守りだ」
私の内心を聞いてくれたように彼は言った。
「自動的に動くの?」
「ナクリスの外から遠隔操作されている。最低限の定型通りの反応や動作はできるが、メカナの機械に人工知能は載せられていない。最終的な操作は魔法使い(カルン)がすることになっているんだ」
「あんな機械を作ったり動かしたりできるのも、魔法系の力?」
「そう」
そのまま話をしながら、石の近くへ。
休憩も兼ねて様子を眺めている子も多いようだった。
私たちもその輪に交ざって腰を下ろすことにした。言葉通りの見学。見物。
輪の中心。ロボットの方も気にしながらそちらを見る。一人の子どもが顔を真っ赤にして大きな石に寄りかかっていた。
違う。石に両手を当てて両足を踏ん張っている。力を振り絞って石を動かそうとしているのだと分かった。丸い石の高さはその背丈の三倍以上もあった。
「動くの?」
「動くかもしれない」
よく見ると石の回りだけ僅かに地面が露出していた。今までに動かせた子がいたということの証拠。
子どもと石の様子を注視することにした。他の子たちも固唾を呑んで見守っている。
色々な子どもたち。地球と同じ。微笑ましく思う。
微笑ましく? それは同じ子どもの私が使っていい言葉ではない。
では、嬉しい、と思うことはいいのだろうか。
魔法を使うことは楽しい。それが源泉。
ディズの言葉が反響し、私の言葉と一致する。素直にそう思う。
無垢な子どもたちと共有される。
楽園の寄る辺。
「あの子が試していたのが、内積」
子どもが手を膝についた時、彼は言った。大勢の溜息と同情の中で私の耳に小さく届いた。
「ベクトル(ファクス)の一方で、生物として生み出すものとしては最も自然な力。自分の体中の量子領域に運動エネルギーを巡らせる。原始的で単純な分、力を制御しやすい。力を上げるのは勿論、筋肉や骨の組織を硬く丈夫にすることもできる。
星を投げた騎士もいる。あの子は少し足りなかったみたいだ。惜しかった」
私を軽々と背負ってくれていた時だ、と思い出して頷いた時、ざわめきが起きた。見ると、私と同じくらいの背格好の女の子が皆の前に進み出てきていた。石の方を目指して。
次の挑戦者の登場。
自信満々の表情。背中を曲げて前とは違う意味で顔を赤くしている男の子の脇を悠々と通り過ぎる。この晴れ舞台を待っていたかのように胸を張っている。本当に待っていたのかもしれない。
「自信があるみたいだ」
彼は苦笑気味の表情。
ところが、女の子は石に手が届くところまでは歩かず、距離を取って立ち止まった。軽いざわめき。若干、周りの好奇の視線が強くなる。
「次は外積。もう一方のベクトル(ファクス)。自分の外側に運動エネルギーを流し、反作用を受けずに物を間接的に動かす力。直接動かせない分の手順が必要になる」
ディズも子どもたちも女の子が何をしようとしているのか分かっているようだった。私はあの螺旋階段を直感的に思い出していた。
「最初に、量子領域から半直線の延長線を伸ばさないといけない。ここに来てすぐにそこまでしようとするなら、きっとあの子は有力な外積の家系だ。失敗はしないと思う」
その言葉通り、彼女の実力は明確に見せ付けられた。
両腕から数本の青い光の線が真っ直ぐ伸びてゆく。そしてすぐに立ちはだかる石へと届いた。子どもたちのささめきも輪の中で伝わってゆく。
「延長線は量子化された粒子でできていて、本当は目に見えないくらいに細い。外積を使っていることを周りに分かるようにする場合は、ああやって線を光らせる」
そして、女の子が一歩も動かないまま、石が少しずつ動き出す。地面の上を滑っていく。
わあ、という歓声。憧れの声。子どもの輪から湧き上がる。
「最後に、延長線の先端に運動エネルギーを実際に作用させるための界面を作る。いくつかの界面を組み合わせて手のようにものを掴み、延長線を腕のように動かしてものを動かす。それが、外積が魔法系である所以であり、真髄だ。
だから、この非科学的で単純な遠隔作用の力が、メカナの文明基盤の骨子になっている。他の魔法系ではなくて、質量を持つもの全てと、エネルギーすら自在に動かせる、この力だ。もし地球人がこの力とその恒体を使えるようになるなら、すぐにメカナと遜色のない都市を建造できると思う」
露出した地面の端まで石を動かして女の子は力の線を消した。満足そうな笑顔。腕を下ろし、走って輪の中に戻ってくる。
二人の女の子が満面の笑顔で彼女を出迎えた。周りの視線を気にせずとても嬉しそうに抱き合っていた。
「他の魔法は?」
「空間は、地球科学がまだ発見していない空間のエネルギーを扱っている。いつか辿り着くかもしれない宇宙の力。彩りと象りの力。
簡単に言うと、真空を空間エネルギーで満たして、空間を物のように操る力だ。独特の力学を持っていて扱いが難しいが、固体や液体のように強靭で、その空間内の物質や光も自由に動かすことができるようになる。
彩色は空間を彩り、彩色圏を造る。無色は空間を象り、無色圏を造る。彩色圏と無色圏は相反し合う。色の違う複数の彩色圏は干渉し合う。一つの色だけが一ところの空間を占めることができる。
ここまではいいか?」
「うん」
思い出すべきは青い蝶。あの人の魔法。
「彩色の特徴は、同色の彩色圏圏内での光速の空間転移、高効率での電気や光へのエネルギー変換。そして、特に電力のエネルギー源として使われる、光体という固体のエネルギー体を作り出すこともできる。並列宇宙層を束ねる広大な勢力圏やネットワークを支えるのもこの力だ。
しかし、独自の物理法則上、運動エネルギーとは違って拡散しやすいという難点がある。継続してエネルギーの場を支えないと実用はできない」
「無色は、透明な力?」
「透明な界面で、空間を無色のまま象る。無色圏は透明な界面の積層になる。利点は彩色よりもさらに強靭なエネルギーと、拡散しにくい性質。
難点は消費されるエネルギー量が他の魔法系よりも遥かに多いことと、理論上の超光速空間転移が実現できていないことだ。彩色とは相反する一方で、相補的に空間の場を支える力として利用されている」
おそらくは、彗星の翼。あの浮力。彼は多くを語らないけれど、彼には透明な力が満ちているようだった。
そして、無色の弾丸。しかし、どうしてもその法則が分からなかった。地面を向いたままの銃口。弾ける背中。銃声のような破裂音。
あれは、魔法系ですらない、未知の奇跡なのかもしれない。
ふと、甲高い声が聞こえた。
力を試す丸い石の方を見た。違う髪の色をした子どもたちが三人がかりで力を合わせて頑張っていた。
周りにはそれを見守る子どもの輪と、人型のロボット。そして私たち。
ディズの方を窺うと、子どもたちの方を見て微かな笑みを漏らしていた。
「どうしたの?」
「こうしていたら、今話している色々なことが、何か他愛のないことに思える」
涼やかな風。光が柔らかく降り注いでいる。
「ディアには悪いが」
私も口元を綻ばせた。
「いいよ。私も、こうしているだけでも楽しいけど、あなたに教えてもらうのも楽しいから」
二人で輪の中心へと意識を向ける。
しばらくの間、そうして静かに過ごしていた。風に乗って緩やかに、元気な掛け声が響いていた。
「あの機兵の体を作れる魔法系が、元素」
穏やかな光景の中、私は耳を傾けた。
「物質の結合エネルギーとエネルギー準位、それに素粒子の相互作用を操る力。それらを利用した化学反応やエネルギー変換の技術体系。
地球の科学技術に一番近い、最も魔法らしい魔法かもしれない。火を起こしたり、光を生み出したり、金属を精製したりする力だ。恒体の種類も一番多い。効率は悪いが、宇宙空間の水素や素粒子だけでもあらゆる物質を作ることもできる」
「面白そう。でも、難しそうだね」
「もちろん、そうだ。科学と同じような専門的な知識を持つ必要がある。物質の根源に関わるエネルギーを直線樹から取り出す技術も並大抵に身につくものじゃない。
その代わり、応用力はそれこそ科学と同等だ。医学にも応用されていて、その技術で助かる人間も多い」
ディズの両腕。私はほとんど無意識の内に彼の腕に触れていた。
「あと一つは?」
触れたまま尋ねる。気恥ずかしい気持ちより穏やかな幸福感が勝っていた。
「数位の魔法系は地球の電子技術に酷似している。機械の正確な操作や大量の情報の処理のために使われている。人のその集積経路は脳内の量子領域に作られることが多い」
「脳に?」
「頭の中に個人的な量子コンピュータを作るようなものだから、年齢ごとに厳しい制限がある。もちろん、メカナの人間でもその忌避感は少なくない。だから最近ではその代わりに数位の恒体が大量に作られて地球のコンピュータと同じように使われている」
「数位は、物質なの?」
両親やディズが持っているカードのような恒体を思い出しながら私は聞いた。あの時の、あの黒く薄い板もそうだったのだろう。
「そう、数位はフンクトにも地球宇宙にも存在しているもう一種類の物質だ。
数位物質。質量のない、数的で量子的な、零と一の間の数直線を持つ数的素粒子を、メカナでは数位と呼んでいる。それは確かにこの元素宇宙の開闢から宇宙空間の裏側に密かに偏在していて、いまも俺たちの周りに満ちている。
ちなみに、集積経路や外積の延長線は人体の元素と複写符合由来の数位の複合物質でできている。恒体の製造は今でも最先端の技術だ」
その時、今までで一番元気な歓声が聞こえた。石と戦う子どもの数は十人まで増えていた。空中から見下ろしているロボットが困った様子に見えるのは気のせいだろうか。
「この宇宙は、元素の宇宙? それって」
「いい質問だ。ただ、それを説明するにはこの宇宙の構造と魔法系の成り立ちから話さないといけない。
魔法系の起源が球面四次元の空間を渡った先の数位宇宙層から伝わってきたということも説明する必要がある。魔法使い(カルン)がどのような宇宙の星々を行き来しているのかも」
「球面三次元宇宙。球面四次元空間」
「そう、前に少しだけ話したこと」
私は思わず息をついた。魔法から宇宙へ、彼との話は果てしなく広がっていくようだった。
「魔法系については、とりあえず、ここまでだ」
「うん。それじゃあ、私、手伝ってくるね」
立ち上がりながら、私は言った。唐突だっただろうか、と少し心配になったけれど、彼は驚かずに理解の笑顔を見せてくれた。
「俺も行く。もう子ども同然になっているが、その代わり、思い切り加勢できる」
ああ、大丈夫だ。私は理解し、安堵した。
こうして、大事なことは少しずつ果たされていく。
もうすぐ意味を変えてしまうとしても。意味を変えるだけで、大事なことは、どんな時でも。
「うん。じゃあ、一緒に」
手を差し出し、彼をこちらへと引き上げる。体の距離がとても近くなる。
素敵なことは、突然生まれる色彩のように。いつでも、鮮明に。
最後はほとんど体力勝負になっていたけれど、結果よければ全てよし。皆が笑えてよかった。大歓声と笑顔が弾けた。結局何もせずに浮かんでいただけのロボットに手を振る子どももいた。
一緒に頑張った子たちと健闘を讃え合った。短い間の出来事だったのに別れが寂しく感じるほどだった。
頑張った、と体を思い切り伸ばしたのをディズに見られたのは恥ずかしかったけれど。
「宇宙の話の続き、聞かせて」
前進を再開してから、私は聞いた。
「最小単位の宇宙は四次元球の球面のかたちをしていて、三次元の球じゃない。空間の閉じた、果てのない空間だ。歪みの少ない宇宙地図を作ろうと思ったら、三次元の透明な球二つか楕円球が必要になる。
そして、地球宇宙もフンクトの無数の宇宙も、一つの同じ球面状の四次元空間の層にある。つまり、五次元球の球面を成す空間上に。
正確に言うと、同じ物理法則を共有する球面三次元宇宙が実無限の数だけ存在していて、それらが一まとまりになってさらに五次元球の球面のかたちに並んでいる。球面一次元の輪が何枚も積み重なって三次元球である地球の表面の形を作るように。
地球宇宙もフンクトの宇宙も本質的には違いのない、一つの層と法則にまとめられている世界。ただ、その中の文明の発祥地が地球のある宇宙だったというだけだ。だからこうして他の宇宙を渡ることができる。
そういう、一群の球面層を形成する、物理法則を共有する無数の球面三次元宇宙の集まりを、並列宇宙層と言う」
「球面状の四次元の空間を渡れるのが、魔法系の力?」
「正確には、この並列宇宙層、フンクトを渡る力。
球の内部を無視して乱暴に言えば、フンクトは四次元球面三次元宇宙が積み重なる五次元球面四次元世界。球面三次元宇宙の層である並列宇宙層の膨張方向は、五次元球の中心点から球状に、外側の五次元の球面空間へと。
数位は一つの宇宙だけでなく球面四次元空間を自由に行き来している。フンクトの宇宙を渡れるのは彩色だけでなく数位の魔法系も使っているからだ。
ただ、使うと言っても、聖地へのこの転移を除いて、宇宙層の渡航は現代でも極めて難しい技術になる。人が住める惑星を別の宇宙に見つけるには未だに天文学的な確率の下での観測が必要だ」
「もう、なんだか、本当に魔法みたいな話だね」
「さらに、無数の並列宇宙層が球面状の十次元空間に分布している。宇宙層がもう一段階上の球面五次元空間の層のまとまりを作っているか、あるいはそれぞれの層が別個に球面十次元の空間に直接並んでいる。
そして、仮想するしかない直線樹が、全ての宇宙層を越えてその空間を貫いている。
初め、魔法系の卵である複写符合は球面五次元以上の空間を渡り、数位物質の優位な物理法則を持つ異なる並列宇宙層から地球にやって来た、と言われている。その宇宙層にいた原始的な情報生命だったという仮説もある。
つまり、それが人間に宿ったんだ。原始的な生命にDNAが宿ったように」
「それは、どうやって?」
「それは、神話の世界。不規則に、今までに何度も新しい神話が生まれている。最古のものだと一万五千年前まで遡らないといけない。全く未知の現象が起きているとしか考えられない。五次元以上の球面空間を渡る方法は、今の数位の魔法系では解明不可能だ。
最も新しい始原の複写符合の発生が起きたのは、今からおよそ二千三百年前。選ばれたのは、地球の辺境からこのナクリスに辿り着いた、メカナの始祖。それが一番新しい神話だ。地球の暦の始まりより少し前の頃」
「ここに」
「ああ。ここが始まりの場所。運命の分岐点。始祖の二人はここで女神とユグライグノに出会った。四人は協力して多くの文明とその複写符合や魔法系を取り込み、地獄のようなフンクトで地球を守るための新しい文明を興した。それが、メカナ。
唯一、フンクトで地球宇宙を守る、百億の機兵の国」
「二人?」
「オリオンとエクシ」
いい質問、と心の中で言ってくれたような表情で。
「あの二人がアダムとイヴだ」
それから、草原の日が暮れるまで、私はディズに何も聞けないまま歩き続けた。色々な気持ちが混ざり合ってしまい、静かに歩き続けるしかなかった。言葉が出なかった。彼の方は彼の方で、大事なことはもう全部話し終えたと言わんばかりの穏やかな表情で私の手を握っていた。私の方も握ったり握り返したりを繰り返したから似たようなものだったけれど。
周りの子どもたちも静かに歩いていた。一生懸命に前を向いて草原の果てを目指していた。各々が、清々しく、粛々と、海へ。この前進が本来の目的だと思い出して気を取り直した。独りで元気に進み続けている子たちへの後ろめたさもあった。
暗くなるまで歩き続け、日が暗くなってからも言葉は少なかった。
「おやすみ」
一日に一度のキスの後、どちらからともなく草の上に横たわった。他の子どもたちも静かに横になっていた。夜空の青い月と、その淡い光を受けてゆっくりと横切る綺麗なロボットがとても印象的だった。空腹と疲労を感じないまま目を閉じた。
眠りはすぐに訪れた。
夢も見ず、間も無く目を覚ました。気が付くと爽やかな早朝だった。
「おはよう」
肌寒さはほんの少しだけで、とても不思議な感覚だった。昨日の夜は気温という知識も忘れていた、と思い至った。
つまり、私の光は変容し続けている。
その中に、私がいる。
日中、空を飛んでいる子どもたちを見つけた。
「わあ」
朝から言葉少なく歩いていたから、その幻想的な出来事は新鮮だった。
花のような翼が上空で舞う四人の子たちの背中から広がっていた。橙赤、橙黄、黄緑、青緑。綺麗な花が青い空で舞っている。
「あれが花翼。きっと、風の都の子どもたちだ」
ディズは小さな声で言った。
昨日と同じような穏やかな表情で見上げていた。私はそんな彼に何も言えなかった。彼を真似て私も静かに空を見上げた。
とても楽しそうに飛んでいる妖精たち。それと、やはり無口なロボットを近くに見つけた。四つの無軌道な跳ね回りと衝突しないように少し離れた空中に停まっていた。
「本当に見てるだけなんだね」
「基本的には。危なくなったら、ちゃんと助けるはずだ」
途端、緑の翼の二人が正面から衝突した。思わず息を呑む瞬間にも、錐揉みしながら落下を始める。赤い翼の子が気付いてすぐに追いかける。けれど二人は翼を失い見る見るうちに落ちていく。
間に合わない、と思った時には滑るようにやって来ていたロボットが二人を掌に掬った。そしてそのまま何も言わずに地面を目指す。静かに着地。あと二人もロボットを追って降りてくる。
私は息を飲んでその様子を見ていた。なんでもないことのようにすぐに終わってしまった光景だったけれど、とても、そう、素晴らしい出来事だった。
「よかった」
それが半分の気持ち。
「あのロボットも、すごいね」
それがもう半分の、実は本心。地球ではまだ幼児のような物しか実現していない、現実の人型の機械に対しての感想。昨日は意識することさえ抑えていた。私は、感動していた。
子どもの頃からの私の指向性。私の少年の中心。
「何度も戦場から生きて帰ってきた機兵だから。余りある幸運を祝福されてここで使われるんだ」
「その、名前は、何かあるの?」
「あの種類なら、スティっていう愛称で呼ばれている」
「そう」
「興味があるのか?」
「綺麗だなって、思って。うん。どういうふうに作られてるのか、気になったから」
「そうか」
ディズは笑った。
「なに?」
速まる鼓動を抑え切れないまま、私は聞いた。
「いや。いいな、と思った」
そう言われ、私は幼い心を見抜かれたような気持ちになり、動揺と恥ずかしさを隠すために視線を外した。
向こうではスティが早速子どもたちに取り囲まれていた。一連の出来事を目撃していた周りの子たちからも。もう十人以上集まっている。君たちは好奇心発生器?
昨日から続き、二回目の騒ぎ。一日に一回は草原のどこかで起きるのだろうか。
「行ってみよう」
ふと我に変えると、すぐ傍でディズの声。遠慮なく私の手を引いて歩いていく。
つまり私も歩き出す。腕が伸び、足が大きく前に出る。
「ディズ?」
私は戸惑って声をかけた。でも彼は前を向いて進み続けている。
だから私も進み続ける。近づいてゆく。
「大きいね」
「あれで一番小さな種類だ。一番大きいものだと、戦艦と同じようなものも作られている」
淡い白に統一される滑らかな装甲。厚い胴体の曲線美と屈強な四肢の骨格。それでいて細く伸び上がるような全体像の輪郭線。繊細な手指。鋭い美しさを浮かばせる表情。青い瞳。
皆が大きな脚にまとわりついて色々な歓声を上げていた。何故かよじ登ろうとしている子もいた。私たちはその端の方で機体の雄姿を眺めることにした。
安寧の中のその表象を、光を、私は決して忘れない。
「ありがとう」
その言葉は心から。
「ディア?」
「もう、大丈夫だから。ディズは私に大切なことを優しいままでたくさんくれた。だから、もういいの」
献花をした時とはまた異なる気持ち。私は立ち直り、そして、ここからは。
「もう、いいのか?」
「うん」
あれから過ごした時間は長いとは言えないものかもしれない。でも、これで十分。昼も夜も朝も過ぎた。
「そうか」
それは、穏やかな笑みと共に。泣きそうな表情だと思うのは、彼に失礼だろう。
それから、ひと時の偶像が飛び去ってからも、彼が私を案内するまで、最後の清水の時代は美しく清らかに続いていた。
烈火の時代の始まり。その刻限。彼の言葉を入り口に、地獄へとこの身を躍らせよう。
「メカナ人類は機械を造ることで戦う。機兵の製造がメカナの基礎で、本当の力だ。メカナの三割以上もの人間が機兵の製造に関わっている。残りの仕事はその製造基盤を支えるためのものだと言っても過言じゃない」
初めに、人間について。
「どうして、たくさんの人間が?」
「繁栄するために。百億の機兵を作るために。そうさせたのは、もちろん、イミナミアだ。メカナの勢力を維持するために」
「皆、そのやり方は従っているの?」
「従っている。他の文明や戦争についての正しい情報が与えられていて、それを市民は分かっている。戦争に負けると異世界の人類に虐殺されると理解しているから、皆が命がけで働いている」
「どうやって?」
「魔法系によって得られる恒久的なエネルギーを使って。骨格だけを作っている都市もあれば、視覚に関する部品を作っている都市もある。金属原子を作り続けるだけの、鉱脈のような都市も。恒体の素材にする特殊な鉱石を掘り続けるだけの、鉱山の惑星も」
「騎士は?」
「百億の機兵こそが宇宙を翔る。イミナミアはその結集装置、騎士はその代表者に過ぎない。百の騎士は十億の機兵に虐殺される」
緩やかに夕空を横切るサティ。見上げ、その軌跡を辿る私たち。この草原と、惑星。
次は、社会について。
「社会からは逃げられない?」
「俺は騎士という役割を持っていた。そのように働き方が固定された。社会の一員になるというのはそういうことだ。どれほど緻密な世界が築かれていても、逆にどれほど粗野な世界でも、二人でも、人は限定的な仕組みの一つとして働くことしかできない。社会を無視することも逸脱することもできない。逸脱の果ては孤独な死だ」
「だから、皆と働くしかないの?」
「皆と働くしかない。メカナでは、主にそれが機兵の製造になる」
サティを動かしている大人たち。この草原を管理する人々。見えない歯車と素顔。
次は、生活について。
「大人は、働くだけ? 生きるために?」
「働き、生きていくためのエネルギーを得る。それが現実で、社会での規則だ。しかしそれでも、社会の在りようは、最後には市民の私生活にかかっている」
「私生活?」
「エネルギーそのものは共通基盤に過ぎないんだ。大人とその子どもの私生活の集合が社会の血肉になる。洗練された美意識も、幼稚な娯楽も、高尚で醜悪な趣味も、正当にエネルギーに変換されるなら。その文化が、二千年以上前から人を生かし続けている」
「じゃあ、皆、満ち足りている?」
「そういう意味では、機兵の製造工場という基盤も地球を守るという大儀も、結局は文化を存続させるための手段でしかないのかもしれない。市民は戦うために生きているわけではなく、あくまで自分たちの生を享受するために生きている」
伸びやかな子どもたち。希望に満ち溢れる笑顔。未来を目指す真摯な表情。
では、次は、使命について。
「でも、使命からは逃げられない?」
「社会から逃げられないように。メカナでも、常識的に、使命を持って仕事に携わるべきだと考えられている。子どもはそう教わり、期待された通りの大人になる。一生に渡って使命に縛られ、私生活を捨てる人間も多い。天上の官僚や騎士もそうだが、特に、射手と呼ばれる、機兵の操作を担う魔法使い(カルン)が特別な使命を持っている」
「射手」
「機兵を操って戦争で異人類と戦わせる。市民の命と力を預かるその地位や技術を保全するため、独自の文化を持っている。清廉であり、宗教的な側面もあり、敬意と疎外を同時に受けることが多い。彼らが敬う対象は、機兵の設計思想をもたらした、女神サフィア。過激な一派が崇拝を行っているのは、事実だ」
女神。ならば、最後は、神について。
「神さまはいる?」
「ほぼ、いない。彼方に、神々という不明瞭な集合なら存在する。この宇宙にあるものはいつか崩壊する質量かエネルギーだ」
「あの人は?」
「女神と称され、敬愛され、崇拝されている。神ではない。サフィアも質量とエネルギーに過ぎない。俺たちがそうであるように」
そしてここから見えるのは、あの人を敬うという射手の子どもたち。白いフードを目深に被る七人の子どもの縦列。性別の判別もできない後ろ姿。速くはない歩みで一歩一歩草原を踏みしめていた。
「ああ」
その光景だけは、私は最後まで言葉にすることはできなかった。
草原で二度目の、おそらくは最後の夜の訪れ。子どもの分布はさらに大きく散逸し、残されたものは私の問題と私たちの関係性だけになっていた。
性的葛藤、心的外傷、殺人衝動、従属願望。
私の問題は多く、深く、難しい。どれもが彼との関係を続けていく上で避けては通れないもの。越えるか耐え続けなければならないもの。障害、あるいは毒。
もう一つだけ彼に隠していることはあるけれど、これらに比べたらささやかで微笑ましいものだ。
「他人の命と、私の命。どうするべき?」
その日の終わりのキスをされる前に、ディズに聞いた。
私の心と体のことは聞かなかった。聞けなかった。それだけは私自身が抱えていかなくてはならない問題だから。心身が落ち着くまでに何年もかかることはもう覚悟している。
それに、毎日のキスよりもいい方法を思いつけない。つまり、そういうこと。この二つの問題については既に彼が解決してくれているも同然だった。
彼に甘え続け、彼の本心を蔑ろにし続けるなら。
「私は人の命を奪ってもいいと思った。そして、あなたに私の命を預けた。最後には死にたいと思った。そんな身勝手な私が、これからどんなことをしていいの?」
彼に甘えるという関係性を認めることが前提になっていた。私はその現実を甘んじて受け入れていた。
違う、嬉々として受け入れている。今も。
「一つ、思いついている」
だから、彼の告げた言葉は、心を揺るがす宣告だった。
「私に、返すこと?」
彼への甘えを許されないということは、私にとって、絶望。終わりを意味する。
「違う。ディアが望まない限り、それだけはありえない。安心してほしい」
彼は断言し、息をついて私を見てきた。
「ディア」
「ごめんなさい。馬鹿なこと言って」
「いい。こっちこそ、すまない。手放さないと、もっと前にはっきり教えておけばよかった」
途方も無いことをさり気なく言われた。激しい動揺を隠すため、わざとらしく胸に手を置いて安堵をする。
キスをされた。
「お詫びのキス」
不意打ちだった。
「どれだけ君が大切なのか、きちんと伝わっているだろうか」
うん、とも、今、とも思った。
「ずっと、探していた。そして、やっと今日見つけた」
「なに?」
「君の指向性。心の向き。前に言ってくれたこと。どんなところでも、どんな時でも、同じ方を向けると。したいことをする、と」
「そんなこと、言われても」
「憶えてない、は無しだ。それにもう、答えを君自身がちゃんと言ってくれている。だから、それから、俺も手掛かりを出している」
「それは、なに?」
「正当に、エネルギーに変換されるなら」
「それは」
「自分が言っていた答えの方も、思い出したか?」
「私は」
「どういうふうに造られているのか気になった、と言った。それだけじゃない。あの時のディアの表情を、憶えている。あれほど輝いていたことなんて、なかった」
「そんなの、駄目」
「駄目じゃない。それが、とても現実的な方法だ。幸せの手段。何も悪いことなんて無い。この世界は、ディアを受け入れられる器を持っている。どんなに強い衝動でも、俺もいる」
「強引だよ、ディズ。どうして?」
「こんなに綺麗に見つかった答えに飛びつかない方がおかしい」
「そういうことじゃない。私は」
「なんだ?」
「私は、お礼がしたい。そういう生き方じゃないと納得できない」
「駄目じゃないんだ。いつか、ディアがそういうふうにしてくれることは、全然、駄目じゃない。君はまだ誤解をしている。自分を殺さなくてはいけないと」
その言葉に、私は答えられなかった。
「指向性の強さの過小評価と、その自己犠牲を正せるのなら、もうどこにも問題は無い。大人になって魔法使い(カルン)になり、どこかの星で機兵に関わる仕事をして欲しい。恩返しはずっと後でいい。ずっと一緒だから、大丈夫だ」
「ずっと、一緒?」
「ああ」
「どのくらい?」
「ディアが望むなら、命が燃え尽きるまで」
「それは、誰の、命? 私たち? それとも、どちらか、一人だけ?」
なぜなら、私を殺すのは正しく私だから。燃え尽きる命を持つ私自身。だからこそ、私は自分の未来を自分で決めたい。
「ここが地球なら、ううん、魔法使いの世界でも、普通なら私はここまで拒んでなかった。あなたの言う通りの将来を目指して、真面目に働いて、幸せになれたと思う。
何の不安も無く目指せたって確信できる。でも、駄目。あなただから。私がお礼をしたいのは、あなただから。だから、お願い。当たり前の幸せで誤魔化さないで。
本当のことを教えて。あなたのこと。どうしようもない、あなた自身のこと。本当の本当の、本当のこと。あの時あなたが見せてくれたこと。魔法を使えない子どもみたいになった理由。だから、お願い、教えて。あなたのこと」
殺すのは、可能性。許されている私。私が得たい未来のために。
「あなたは、あと、何年、生きるの?」
地獄のただ中へ。その覚悟は、できている。
「その手掛かりは、一度も出していなかった。どうしてだ?」
「根拠なんてない。いつまで一緒にいられるのか分からなかったから、弱気になっただけ。後はもう、嫌な想像ばかり。ここに来てからは、無理に考えないようにしてた」
「ああ、そうか。言っていなかったことが根拠になったのか。さっきと同じだ。いや、単なる不注意じゃなくて、ディアのことすら言えなかったことだから、違うか」
「ディズ」
彼の名をそっと口にし、私は彼を信じ、身と心を彼に委ねた。
「一億年」
時の果てで、彼は言った。
「これから、あと一億年生きる」
「一億年?」
「ああ」
「ディズ」
「ディアは、逆だと思っていたか? 自分に合わせて、寿命を短くしたと。大丈夫だ、いくら俺でもそんなことはしない。それに、ディアも何百年も生きられる。強い心と力を持てるなら、何千年でも」
「ディズ!」
私は叫んだ。初めてのことだった。必死になって運命と言葉を止めた。
「私はね、逆には考えてなかったよ。ただ私は、私が先に死んで、あなたに何もしてあげられなくなるのが嫌だった。あなたよりずっと早く死ぬことが嫌だった。私が向いているのはあなたがいる方だから。あなたと私の命が分からなかったから、当たり前に生きることがどうしても嫌だった。
でも」
ディズの肩に手を置き、力を失い、頭を垂れた。彼の温かい体温が伝わってくる。でも。
「そんなの、駄目だよ。私のことなんか、もう、どうでもいい」
「星の寿命のたった百分の一だ」
「どうして? なんのため?」
「年月の大小に関係なく、命はただ命だ。自分で得た命だから、正しく使い果たしたいんだ」
「本当に、神さまになったんだね」
「そんなものじゃない。本当に、極めて即物的な結果でしかない。自分の力を試した結果が、これだ。それだけのことだ」
「向こうの宇宙で?」
「ああ。けれど、正確には、真球宇宙という、この世の果てを越えたところにある世界で。すまない、今まではほとんど嘘に近いごまかしをしていた。数位宇宙に行ったのは本当でも、その宇宙もすぐに飛び越えたんだ。通り過ぎただけだ。
そして、球面十一次元の時空も超えて、最後に辿り着いたのは、あらゆる球面宇宙を乗せる一つの天球の、その中心に広がる世界だった。そこで千八百一年を過ごしている間、もう一つの複写符合とセイレン宇宙を創った。
自分の力の実がわざと半分にされていると気付いて、精神を保つためにももう片方の螺旋を創ろうとした時には、もう後戻りができなくなっていた。その結果できたのは、星や宇宙には普遍的なものでも、人には長過ぎる、恒久性だった。一億年でも未熟なんだ。力の実は生命の実の半分だった」
「私にはもう、なにがなんだか、分からないよ」
「あそこは、ディア、どうしようもないところだった。天球世界で唯一つの真球宇宙。果てのある世界。永遠に治らない閉塞感に罹った神々が球面の存在を妬み続ける天国。それでも、一つの星と星の間には、千の千乗光年以上の隔たりがあったんだ」
「もう、すごい世界だね」
「すごい世界だった」
「ディズ」
「ああ」
「馬鹿。馬鹿」
「ああ」
「どれだけあなたが大切なのか、伝わってる?」
初めての私からのキスは、同じように、いつまでも終わりたくないキスで応えられた。
私は何度絶望の朝を迎えればいいのだろう。
これが最後であって欲しい。
「おはよう」
という死と絶望。彼は聞いてくれた。
「おはよう」
「ディズは、このことで謝らないんだね」
「そうでないといけないと、思っている」
「もうほとんど神さまなのに、ずっと否定するの?」
「そうでないといけないと、思っている」
新たな道程はあまりにも遠く、険しい。
私たちとはほとんど因果関係のない清々しい朝の空気。烈火の時代は続く。
「ディアを最後まで守る。それを見ていて欲しい。そして、君を残して最後の戦争に行くことを、許して欲しい」
「最後の?」
「そう。これから起こる出来事の、正真正銘の、最後の核心。予定されている終末。機械の人類との戦いが、あと千年で、始まる」
「機械の、人類」
「星の地表にこびり付くことのない、広大な宇宙へと羽ばたく新しい人類。その生命は、長い進化の歴史の中で、機械と人工知能の技術が極まった文明でいつか必ず誕生する。魔法系が生まれてから一万五千年が経ち、やっと、その赤子が遠い宇宙で誕生したんだ。
その予言は与えられたのではなく、作られていた。訪れるのは初めから予測されていた終末。機械知性を持ち金属の体に複写符合を宿す新人類との、暗黒の真空を舞台にした宇宙戦争だ。
いつか、その終末に関わり、最後まで見届けることになる。ディアがいてくれたからその決意ができた。この世界を守りたいと思った。ただ生きるだけじゃない、大きな目的ができたんだ」
「私がいなければ、あなたはそんなことはしなかった?」
「その前に、あの戦争で死んでいた」
「じゃあ、私を恨んでる?」
「まさか。心から感謝している」
それが嘘偽りのない言葉だと分かったから、私はさらに絶望した。明らかな事実の意味を理解したくないと思ってしまった。
私は死ぬべき存在となった。初めから分かっていたことが、改めて白日の下に曝された。
けれど決して死にはしない。幾度もの炎の波濤を越え、さあ、今こそ戦いの時は訪れた。
「内紛とテロリズム。経済の限界と資源の枯渇、和解不可能な宗教対立。誰にも正せない堕落と腐敗。地球に未来がないことを、私は知ってる」
「天使か悪魔が訪れる前に、地球は緩やかに、しかし確実に地獄に変貌し始めている。これから百年の間にどれほどの人間が仮想現実でしか生きられなくなるか分からない。そう、地球の現実に希望は見つかっていない」
「天災でも自滅でもなく、奇跡的な進化か緩やかな衰退で終わりを迎えた時に初めて、地球人は自分たちを認められるんだと思う」
「代わりに、こちら側で果てしない終末戦争が。何千年でも、一万年でも。それが、フンクトの人類が滅びるまでの未来になる」
「地球には終末も救済も訪れない果てしない絶望の未来。地球から人間がいなくなるまで。きっと、奇跡は起きない」
「フンクトの人類は宇宙で機械人類と殺し合い続ける。最後の破滅はメカナが担う。その頃には、地球に人間がいてもいなくても、もう無関係に、メカナは最後まで天使たちと殺し合い続けるはずだ」
「ディズは、その戦争の一万倍も生きて、どうするの」
「地上人類がわずかでも生き残れるのなら、その再生を見届けた後は、宇宙に進出した機械人類の興亡を見続けることになる」
「生きている間に機械の人類も滅んだら?」
「起源を地球に持たない、全く別の知的生物を探すのも面白いかもしれない」
「見つからなかったら?」
「数位宇宙に行くのもいいと思う。素通りしただけだが、面白い情報生命を見たんだ」
「私も行く。行きたい」
「ああ。ディアと一緒なら、どこにでも行ける」
「私は本気」
「百年の壁を越えても、次に、千年の壁。そして、一万年の壁。それでも、たった一万分の一」
「千年生きたら、きっと方法が見つかる。見つけてみせる」
「自分の問題が手付かずなのに? 俺はまだ、昨日の提案を取り下げていない」
「大きな戦争が始まるのに?」
「機械人類がメカナに辿り着くまで、まだ千年以上はかかる。恒惑星では、戦争の末期まで十分に安全が保たれているはずだ」
「私はもう知ったから平穏じゃいられない。地球もこの世界も駄目になるって分かって、普通に大人になるなんて、できない。最後まで生きていたい」
「普通に大人になっていいんだ。長生きをする義務はない。皆が普通に命を全うして社会が正しく動くように、社会はできている。ディアが思っているほどこの世界は小さくない。千億の人間が暮らす惑星が七つもある。どこかにきっと、満足できる場所がある」
「できないよ。私の望みは、限りのある未来で、できる限りあなたの役に立つことだから」
「それは幼稚な独断だ」
「うん。私はまだ子どもだよ、ディズ。それに、子どもの頃の愛が、きっと、いつまでも本当のことだって、信じてる」
「そんなことを言うのなら、もう子どもじゃない」
「うん。そうかもしれない。今の私は子どもだけど、子どもじゃなくなってる。だって、もう、私は」
「それは、俺も同じだ」
「じゃあ、どうして? ディズ、子どもみたいに意固地になって、反対ばかりしてる」
「ああ、そうだな。俺は当たり前の正しいことしか言えてない。当たり前の幸せをどうしても諦められない。だが、もうそれは理屈じゃないんだ。俺は、ディアが多くの人間と実りのある繋がりを持つことを、望んでいる。たとえ、滅亡が迫っていても」
「それが、あなたの望み?」
「そうだ。今ならはっきりと言える。後ろ暗いところのない、心からの願いだ」
「ううん。それは、違うよ、ディズ」
「違わない。本当のことだ」
「本当でも。嘘じゃなくても、嘘みたいなごまかし。だって、ディズは望むだけで、今までに私の未来を一度だって決め付けたことがないから。最後のところで残酷になれないから。それが、あなただから」
「俺は残酷で、人殺しだ。未来も決め付ける。死だ。その力を取り戻したら、それからずっと殺し続ける。戦争でも新しい人間たちを殺し続けることになる。俺は、決して傍観者じゃないんだ」
「そんなことじゃないよ。あなたが殺すための暴力を振るっても、どれだけ人を殺しても、もう私の心は揺らがないから」
「揺らがないなんて、そんなこと」
「簡単だよ。ただ望まれるだけで、私は私の未来の居場所を一度だってあなたに決め付けられたことがないから。だから、私はあなたを心から好きになれるの。
ねえ、私は、どこにいていいの?」
「それは」
「あなたから遠く離れたところ? あなたの近く? それとも、あなたの隣?
私があなたの何になるのか、それとも何にもなれないのか、あなたは一度だって言葉にして決め付けなかった。ね、嘘みたいなごまかし。今まではっきり言っていなかったこと。最後には私の心に任せていたこと。そうだよね、ディズ。自分を殺してたのはあなたも同じ。ずるいよ。いつの間にか本心をなかったことにして、私に選ばせるなんて」
「本心」
「うん。あなたが言ったこと。忘れた、は無しだからね」
「憶えている。ディアは、それでいいと」
「あなたは、ありがとう、って。それに、それが私の本心なんだろう、って。否定しなかったよ、私の気持ち。ね、ちゃんと聞いてくれてた。ほら、もうこんなにも綺麗な答えが出てたのに、飛びつかない方がおかしいよ」
「ディア」
「私はあなたの恋人になりたい。今すぐは無理でも、いつか必ず。それに、あなたに従って、あなたのために働きたい」
「それが、君の望み?」
「うん。何度でも言える。本心もなにもかも全部の、心からの願い」
「千年の命も? 戦争に巻き込まれることになっても? 俺の命令通りに動き、戦うことを望んでいるのか? 敵が天使であっても」
「うん。私はあなたの命令を待ってる。敵が天使でも。そして、いつか、星の百分の一の命も。あなたの思い出になるのは、嫌だから」
ディズは足を止めて白日を見上げ、目を閉じた。
輝く平面上の、白い散らばりの中の、静止点二つ。小さな無秩序。
「ディアの方が意固地だ」
その中で生まれたのは、彼から初めて聞くような、諦めの混じった喜びの声。
「良く言えば、何と言うか、偏見になるが、男らしい」
「今頃気付いた?」
わあ、という、これは歓喜。
「薄々。勇敢だなと、思っていた」
「可愛らしい方が好き?」
ありきたりの、でも少し本気の質問。
「そんなことは」
わあ、この答え方は、そんなことがある方だ。
こうして、一番無視できはずだった問題が突如として最難関のものとなるに至ったこの時、この瞬間。記念すべき孵化の時、私の烈火は遥かな炎を目指す鳥になった。
新たな道程はあまりにも遠く、険しい。けれど、彼がいる。母も父もいる。弟も妹も。恐れることは何もない。
愛する人を残して死にはしない。幾度もの炎の波濤を越え、今こそ戦いの時は訪れた。命を巡る戦い。命の強さを試す戦い。祈るべき神はなくとも意気揚々と果てへと進め。
さあ、終末の間際から、今こそ遥かな死を目指せ。
5-2.
もし言葉を書き連ねるのなら、ここからは終章になる。本章が終わった後の物語。必ずしも記す必要のないこと。言葉を尽くすための挿話。結語を導くもの。
それでも大切な、最後の彩りを添えるもの。最後の象りを印すもの。終局。終曲。
そして、最後の答え合わせになる。永遠に秘されるはずだったことが明らかになるだろう。
私は彼に二つのことを告げるだろう。私がまだ知らないことを誰かがどこかで語るかもしれないけれど、私は私の決意と真実を告げられるのならそれでいい。
最後の思いを、彼と実無限の宇宙に表明しよう。
「こんにちは。はじめまして」
二つの声の重なり。二人の少女。突然、声をかけられた。
「こんにちは。はじめまして」
少し驚き、急いでディズから手を離してから挨拶を返した。
「はじめまして」
ディズの方は、少しも驚いていない様子。
「ごめんなさい、急に話しかけて。邪魔だった?」
背の高い方の子。薄い褐色の髪。黒い瞳。くっきりとした目尻。はっきりとした口調。
「ううん。そんなことないよ」
嘘ではなかった。二人で静かに歩いていただけだった。残り少ない家路を隅々まで感じられるように。この風と風景をよく憶えておけるように。
「よかった。その、ええと、もう少しで終わりだから、誰かと話したいって思って」
とてもいい誘いを受けた、と分かった。嬉しく思い、少し以上に驚いた。
「私たちのところで、ここでできた友だちとはずっと仲良くできるって、言われてて」
背の低い方の子。濃い褐色の髪と瞳。少し垂れた目尻。少し恥ずかしそうに語尾を窄めて。
「そうなんだ。うん、もちろん。ありがとう。私は、レイディアンシア」
「ディズ」
家名も言おうとしたら、彼が割り込むように、しかも愛称そのままの自己紹介をした。
「ディズ?」
「秘密」
ほとんど聞き取れないような小さな声で、その一言。
「きょうだいで、ディアの方が姉さん」
さらにそんなことを言った。
「嘘じゃない」
そして小さく。
確かに嘘ではなかった。家族できょうだいなら、私の方が姉になる。けれど、嘘じゃないにしても程があると思う。ディズは嘘つき同然のごまかし屋だった。
「ええと、きょうだいなんだ。一緒に来たの? いいなあ」
女の子たちは私たちの不自然な遣り取りを見逃してくれた。それだけで、もう好きだ。
「私はカプライム。よろしく」
「ウルキネ。プルとルクでいいよ」
簡単な自己紹介が終わり、歩きながら旅の終わりまで歓談することになった。草原の果てはもうすぐだった。かすかな潮の匂いを感じ始めていた。
「どこから来たの?」
「リポラの方」
ディズ。これもとんでもないごまかしに違いなかった。
「リポラシステム? わあ、そうだったんだ。そうかもしれないって思ってたけど。いいなあ」
「そうかもしれないって?」
私。具体的な地名に反応。純粋な好奇心。私も十分に好奇心発生器だった。
「だって、そんな雰囲気だから。優雅というか、キラキラしてて。二人に話しかけようと思ったのも、その、だから。ほんとは下心ばっかり。ごめんね」
「プルとルクは?」
まるで気にしていないように、ディズ。
「ガウンニートっていう辺鄙な星。知らないよね」
「名前なら知ってる。どんなところ?」
そんなふうに彼が子どもらしさを上手く披露して楽しい交流が続いた。私は地上のことを詳しく聞けるだけでもとても楽しかった。
「ここで男の子と女の子が二人きりで一緒に寝たら、おとぎ話みたいに結ばれちゃうのに、お母さんとか、何も言わなかったの?」
興味津々の笑顔で聞かれて、どういうこと、とディズの方を見たら、そういうこと、と言ったつもりのように頷かれたのは、どうしよう。
やがてついに至った、草原の果て。船出の海辺。白い大人たちが波打ち際に並び、白い小舟が青い海原との行き帰りを繰り返している白い砂浜。
私たちは最後の最後で四人になっていた。目に見える、それが旅の成果。二人だけの関係では何も変わらないということ。
そして、見定めるべき、一組の男女。あまりに強く記憶に刻まれた、一人の男性と一人の女性。子どもたちを出迎える大人たちの列に交ざり、まるで平素に立ち並んでいた。
「ごまかそうとしてた?」
別れ際、その発見の驚きから立ち直ってから、ちょっと怒ったようにルクが言った。困ったような笑みも見えた。
「ごめん」
ディズも驚いていた。きっと知らされてなかったのだろう。
彼もこういう失敗をすると分かり、逆に不思議と安心する。完全性の綻び。子どもである私がそれを見て、自然な人間であることが大事だと分かっていく。そういう過程。わざとしてくれたと考えるのは穿ち過ぎだろう。
「確かに今はリポラシステムの上に浮いてると思うけど。もう、貸しだからね」
プルも苦笑いしながら怒ってくれた。そして、似ていない私たちのことについて、きっと何かを察してくれていた。
二人とも気を配るような口調だった。一方的に与えられた恵みだからこそ、私は正しく報いるべきだった。
「いつか遊びに来てね。待ってるから。場所、覚えた?」
プルが明るく言った。
「うん、大丈夫。憶えるのは得意になったから。遊びに行くから、待ってて」
プルとルクとの出会いと別れは瞬きのような出来事だった。鮮明な彩り。いつまでも色褪せさせたくない、とても大切な表象と光。
後は、克明な象り。私の提案が受け入れられるなら、最後にもう一度彩れるはずだけれど。
「二人の男女がここで子どもを舟に乗せて運ぶのはあの時以来の慣わしであり、イミナミアの子を帰すのは今でも私たちの役割だ。あの二人の子も、何十人とこの船に乗せてきた」
彼にユグライグノと呼ばれている長身の男性。老いた青年のような人。古木のような表情と沈み続けているような雰囲気に白い服がまるで似合っていなかった。
周りの多くの大人たちは畏れ敬うような視線を彼に送っていた。彼を知っている子どもも多いようだった。
「あの二人の子どもの頃を思い出します。男の子と女の子の二人を乗せるのもあの時以来です」
サフィアと呼ばれる女性。この世界と同じ名をもつ、女神と呼ばれる女性。髪は夜空で、瞳は満月の傍の深く澄んだ藍の色。何度見ても美しかった。
子どもの多くは無邪気に瞳を輝かせていたけれど、大人は、彼女にはもはや視線すら。
白いフードの大人たちは彼女に向かって平伏していた。傍の白いフードの子どもたちは大人と同じような姿勢をして膝と手の平に白い砂粒をつけていた。
私たちは動揺しなかった。してはいけなかった。二日間の旅路を終え、皆と同じように出迎えてくれた一組の大人に向かって真っ直ぐと歩き、彼らの言葉が終わってから小さく頭を下げた。
「ただいま帰りました」
新たな果て、水平線に向かう船出。舳先には大いなる先達者が立ち、水平線の水際には大いなる未知の人が座る。
日を円く映す凪の海の上、女神は私たちにこの世界の成り立ちを語った。メカナの二千三百年の歴史が滔々と伝えられた。それもまた、果てしない、もう一つの物語だった。
この伝承が、この旅の最後の目的。
二人の始祖と二人の使者。八つの諸文明と四つの地獄。文明の統一を果たすためのとても大きな戦いがあった。裏切りと信頼。悪と善。流血と血潮。死と生。破壊と再生。やがて遂に始まる、地獄からの侵攻。千年の果てと千億の死を越え、七星の文明が終局への抵抗の誓いの元に誕生した。そして地獄の噴出を封じる七星の機兵の国の興隆が始まった。失われたものに報いるために。そうでなければならないように。子どもたちの笑顔だけが平和の証だった。
物語の終わりで、女神は七星の名と星々の名、そして失われた一つの星の名を私たちに伝えた。その星に暮らす人々や文化の特徴を丁寧に伝えながら、連綿と連なる都市の名も。
「この世界の歴史の半分は戦争の記録によって埋められています。本当の文明の成立は有史の始まりと定められた時より千年も後に果たされたものです。千年の安定は千年の戦乱の上に。私たちにはその二つの歴史を語り継ぐ義務があります」
女神、サフィアは語った。
「私は、ディズと一緒に生きていきます」
私はサフィアに伝えた。
彼女は微笑んで頷き、私を見つめた。
「およそ六年前、メカナとは隣り合わない遥か彼方の宇宙で、石と電子の泉に知恵を得た新しい生命が誕生しました。彼らは自由意志の元に金属の力と魔法系を使い、故郷である母星を手に入れ、既に彼ら自身の聖地を作り終えています。
世界が新たな時代を迎えようとしています。彼らを生んだ文明の全てを取り込んで異なる宇宙へと飛び立った時、広く終末の始まりが宣言されるでしょう。けれど、何が起ころうとも、何を為そうとも、あなたはシズと幸せでいてください。どうか、末永く」
「はい」
それは儀礼の外の出来事でもあり、神秘の前の出来事でもあったのだろう。まだ無力な私は、せめて力強くありたいと思った。
舟が白い霧で包まれる頃、聖地で無くされていた常世のものが体に戻り始めていた。
目を閉じるとすぐに意識が眠りの中に落ちていった。隣のディズの体温が私を包んだ。
未来を指すベクトル(ファクス)。今の私たちの物質。過去と繋がる空間。
私の孵化の旅路はここで終わる。ここがいい。彼の隣。
まるで夢のよう。彼が愛しく、家が恋しい。
◆
細波と潮風が舟を包む。ディアの寝息が海に浮かぶ。細やかな波の連なりが果てしなく続いている。
音も光のように。波も風も音のように。
潮の匂いも、彼女の体温も、音のように、光のように。
この心の中で共鳴し合い、絶え間ない時のかたちを与えてくれる。
ここにしかない、今のかたちを。
「どうしました?」
「過去を終えて戻ってきました。主観の認知はこんなにも瑞々しいものだったのか、と驚いています」
瞼を閉じたままの返答にサフィアは無言で答えた。目を開けてその表情を確かめた。
物心が付いたばかりの子どもを見るような笑顔でもあり、不可思議な小さな生き物に好奇心を向けているような笑顔でもあった。
「原人の子孫はどうしても最初の実を取り込め切れないまま、ここまで来てしまいました。地球と七星の文明を除き、二千三百年前に放たれた予言は全て意味を成さなくなるでしょう」
「それで十分です。あなたの尽力もあり、私たちは最良の準備を終えて彼らを迎えられるのですから。
それに、この子がいます。そして、今もあなたが。知恵の実を完全に取り込んだこの子と、力の実を完全なかたちにして生命の実を得たあなた。もう片方の実を不完全に消化したままのあなたたちは互いに補い合って成長し、私たちと共に末永く宇宙の真空を満たしていくでしょう」
「彼女だけではありません。人は誰でも生きている間に本当の知恵を得られます。その実の一部が残されたまま、今も体の中に宿っているからです。
それに、絶望的な終局で知恵を得る運命があるのなら、幸福を得て終局を迎える運命もあります。終局で知恵と幸福のどちらかを得ることは最終的な目的の一つになるでしょう。真空はどちらかの果実の樹で満たされるかもしれません。生命の実はその選択とその成否を見届けられるだけです」
「そうですね。あるいは人は、幸福の実という三番目の果実を選ぶこともできるかもしれません。知恵の実か、幸福の実か。そして知恵にも幸福にも様々な在り方があるでしょう。ただ、いずれにせよ、その選択を行う未来は生命の実の助力なくしては初めからありえません。あなたがいなければ、私たちの子孫は私の予言を越えてその時に至る前に滅び去ってしまうでしょう」
「種の幸せであれ、個人の幸せであれ、幸福の実を得るべき時が来ても、彼女は、もう幸せを得られないでしょうか」
「私はそうは思いません。主観ですが、私が証明しています。絶え間ない思索と歓喜が続くだけで、人は、知恵と幸福のどちらも得られるのです。この子にも、人にも、可能性はあります。人であるとは認められなくなるとしても」
「もし、三つの実の全てを得たら?」
「人ではなくなるでしょう。私になります。知恵と生命だけなら、彼に。もっとも、私たちの命は神のそれの紛い物です。螺旋を光から創り上げたあなたには及びもしません」
「あなたたちは」
「はい。紛い物の命を得た者です。私が半分を盗み、彼がもう半分のかたちだけを整えました。ですから、果てしない戦いの果てで、私たちが物理への抵抗を終えた時、どうか私たちを殺して下さい」
その願いに頷きや言葉は返さなかった。答えられなかったわけではないが、そうであるべきだった。死にたがりのユグラならば死を避けないかもしれない、とは思った。
自分はどうだろう。およそ自ら選ぶ死でしか命を断てない自分は。いつか自らを飲み込んで消え去ることがあるだろうか。
「おまえはどうする、幼い龍よ」
心を見ていたかのように、ユグラが霧の帳の向こうから尋ねてきた。やはり無言を返した。サフィアも今はもう口を閉ざし、この膝を枕にする少女に視線を向けていた。
安らかな寝顔。俺も見入った。
やがて宇宙の船の鐘が届き、幼子の旅の終わりを告げた。受け入れるべき未来と帰るべき家を思い出させる響きだった。
家族が、雛の帰りを待っている。何もない未来はここにはない。白い霧が晴れるまで、あるいは彼女が目を覚ますまで、こうして寝顔を見ていよう。
◆
(Back to the life ; Radiancia)
◆
5-3.
「地上が地球と同じような犯罪に塗れていることだけは、まだ教えたくない。惨い目に遭っていた子どもたちが丘の反対側で保護されていたことも」
俺は語った。相手はそれを沈黙で受け止め、やがて口を開いた。
「君だった、ということも?」
「それは、永遠に」
父であるオリオンとの対話。薄い空を仰ぐ最上階層の商業区の一画で向かい合っていた。
ディアが望んだ都市観光の合間。晩餐の翌日に彼女が望み、両親と弟妹によって直ちに快諾された。行き先はリポラシステム。九百九十六億の人口を誇る、七つの恒惑星の盟主。
星を覆う立体都市が雲を越えて上下に積み重なる光の惑星。空と海、マグマと地核すらも幾何線形で囲み、都市で集積経路を造った星。恒惑星。
今、彼女は母であるエクシと一緒に秘密の買い物に行っている。男二人は待ち合わせ場所のカフェでこうして休憩をしている。兄妹は疲れて椅子の上で行儀悪く横になっている。
隣で寝られることが多い、という雑感を抱きながら、エクシと対を成す始祖の一人と話をしていた。彼とこうして向かい合うは久しぶりのことだった。今は年若い賢者の面持ち。しかし彼こそが最後の王者。真の幸せを追い求める者。
「僕は一つの仮説を持っている」
真実に対する完結された答えを受け取り、彼は言った。
「事象平行世界は異時間宇宙に等しい、という仮説。そして、人や情報が異なる時間の宇宙に移動すれば、その時点でその宇宙は異世界化する、と考えている。
過去や未来の無数の球面十次元宇宙は同じ距離を保って十一次元目の球面空間上を進んでいて、それぞれの時間を持ち続けている。宇宙の開闢の最後の時、十次元までの空間と全ての並列宇宙層が生まれた後に、全空間の時間上の量子的な幅が生まれたんだと思う。そして、球面十一次元方向への膨張が始まったんだ。
秩序が始まろうとしていた直前に宇宙が未来へと伸長していったのなら。時間移動の干渉がない限り、世界は限りなく同じ宇宙の連なりなんだ」
「そう思う。平行世界層の膨張は、十一次元の球面上にある宇宙発生点から同心円状に。つまり、一秒前後や百年前後の時間差の平行世界があるだけで、それぞれの宇宙の過去と未来はどこにもない」
「じゃあ、シズは? あの街から彼方の世界に辿り着いた、他の時間宇宙の君が一体どうなって、君がどうやって帰ってきたのか、僕にはまだ確信が持てない」
「オリオンが思っている通りだ。真球宇宙での千八百一年は、それだけの平行世界の俺が絶え間なく重なり続ける時間の長さだった。エンデという時間存在の連続を途切れさせて球面宇宙に戻ったのは、最初の俺から千八百一年後。もう半分の螺旋を創り終えた後だ。
その時、俺はエンデであってエンデではない存在になっていた。デディゼンドという別の存在として螺旋を創った。でなければ、平行世界の全てがあの時間座標を通過するまで、果てしなくあの世界に閉じ込められていた」
「それはつまり、彼女が彼女でないから、シズは」
「違う。俺が、俺でないから。この宇宙の、彼女にとっての本当のエンデは今頃向こうの宇宙にいる。その俺に神々が何を言うのか、今度は何年をかけさせるのか、もう俺にも想像がつかない。
それに、俺はニルキナを救える唯一の可能性を捨てた。決して許されない。度し難い愚者だ」
「それは仕方のないことだった。君は、知らなかったんだから」
「それでも、心から望んで試したなら、知ることのできたことだった。あの宇宙で、俺には天球の球面上に存在している無数の球面宇宙の全体の模様が分かるだけだった。この球面十一次元宇宙も無数の球面多次元宇宙の一つに過ぎないと分かるだけだった。
この球面宇宙の、一つ一つの時間宇宙の中は見られないと分かって、本当は安心したんだ。未来を知ることが怖かった。自分がいなくなった後のあの街の未来を知ることが。それでも俺は見るべきだった。その努力をするべきだった。力が欲しくて銃を作ることができたのなら、せめて、自分の宇宙だけでも、見届けるべきだったんだ」
「シズ、僕はこう思う。宇宙に相応しい新しい人類が生まれたこととは関係なく、そして戦争の行く末なんかにも関係なく、君が来てくれたこと以上の奇跡はないって。君はこの宇宙を選んでくれた。六年前にここに来てくれた。この宇宙だけなんだ。終末しかない実無限の宇宙の中の、この宇宙だけだ。君がいる世界は。だから」
「俺は」
「あの子にとっても、この世界だけなんだ。あの子が君に救われた世界は。必然ではなかったとしても、だからこそ、彼女に起こした奇跡の責任を取って欲しい。責めるつもりはない。君の絶望と希望は想像を絶している。でも、どうか耐え切って、命を懸けて、あの子を幸せにして欲しい」
「オリオン」
「それに、僕にはシズがこの宇宙の君でないなんて思えない。納得できない」
「それは。それだけは」
「シズ」
「そんなことを言うのは、オリオンだけだ。自分で作った仮説が破綻する」
「うん。誰が言わなくても、僕が言うよ。僕は、君がこの世界の君でもあると信じてる。破綻もしない。希望は残されてる」
「だが」
「シズ、君がここに帰ってきてからの別宇宙の君は、世界を超えて、どこに辿り着いて、どうしたんだろう。君の知らない、君にしか分からない、この六年の間の彼方の君が、最後の希望だ」
「それは」
「さあ、どうか奇跡を信じて」
(Into the ―― )
奇跡を、信じる。
だからこそ。
だからこそ、辿り着く。球面宇宙への帰還の直前になって置き去りにされた一本の螺旋と、その創造過程で生まれた余剰の宇宙。その場所に、俺たちは辿り着く。
その螺旋と星のような宇宙を見た俺たちは、再び重なっていく俺はそう、分かったはずだ。かつて俺がそこにいて、その二つのものを創り上げ、帰って行ったと、理解した。そして。
「諦めないで。あの子のために。あの子もきっと信じてる」
辿り着く。
世界の果て。
限りある世界。
その片隅で、一本の螺旋と星のような宇宙が輝いている。
エンデ エンジェルは気付く。そして見続けるだろう。それが目的になる。何百年かが過ぎた時、もしくは神々にそそのかされた時、それを模倣しようと思い至るかも知れない
しかし、やがて。
螺旋と星は、落ちてゆく。
ああ、そうか。そうだ。俺なら、そうする。躊躇いなく、そうする。断言できる。俺は、そういう人間だ。結局、俺はそのような存在だから。
なぜ気が付かなかったのか。今頃向こう側の宇宙にいる、とどうしてそんな心にもないことを言えたのだろう。過去を終えた、と臆面もないことを言えたのだろう。どうかしている。結局、何も分かっていなかった。自分自身を見捨てていた。
「あの時、この俺に呼ばれて落ちていく螺旋と宇宙を見て、俺は、そう、一緒に」
落ちて、いった。その直前まで重なり続けながら、透明な星のような宇宙に、六年分のエンデは。
「溶けて、全ては消えずに、この中に」
(Into the self)
知恵の実をもう一口齧り、遂に理解に至ったならば。
蘇る。量子領域に溶けた千八百七分の六が見たその光景。そして一人のエンデが辿った最後。
深遠となった海の記憶。螺旋が照らし、光となる。
(Into the self ; present)
光を虚空に零しながら落ちていく星を追いかける。自分が創った星が落ちていくのなら。この自分が落ちていかない理由がない。
光を虚空に零しながら落ちていく星を追いかける。それが理由。それが希望。どこに行こうとも。どこに落ちようとも。
この身を星と同じにしよう。きっと星は呼ばれている。光を虚空に零しながら、それでも大事に螺旋を抱えて落ちていく。螺旋を虚空の向こうに届けてゆく。ならば俺も届けよう。
落ちていく。追いかける。星になろう。それが理由。それが希望。
きっと呼ばれている。
星になろう。
螺旋を抱えて落ちてゆこう。
「ディズ。どうしたの?」
「ディア」
「行こう?」
「ああ」
(Into the self ; present ; real)
未来の彼方から始まる星に連なり、遂にこの宇宙に帰ってきた。
永遠はここにある。
それは喜び。
しかし、真実を得た今、似て非なるものが再び彼方の宇宙にも存在していると知る。
何も知らない幼い者が命の中の永遠を見つけている。初めて創られた拙い螺旋が融け消え、新しい宇宙星へと生まれ変わっている。今は小さな無色の星。
〈経路接続:当該球面宇宙から真球宇宙:再構成:L・R〉
そして、真実を受け入れた今こそ宿る、星への経路。
両腕に新たなセイレンが刻まれる。核となる複写符合は既にここにある。
どれほどか細くとも、それは絶対の死の力。
死に塗れる運命は、今や太陽すら溶かせない小さな海と炉心と共に。自らに安楽の死をももたらす代わりに、あらゆる命を蔑むだろう。
星は瞬くだろう。彼方でかつて見ていたように。あの女神の願いを叶えるまで、果てしなく。
これで、構わない。自分はこの程度の存在だと、知る。
悲観はしない。全ての自分を得られたのだから。
(―― real)
自意識の海から飛び立ち、見渡される、大地の灯火。
答えを得たワタシは、あの子の幸せ以外に、何を願う?
「綺麗」
ディアと二人になり、展望台の小道を歩いてゆく。
彼女は淡い月のような髪を光の星の風になびかせ、地球のように輝く瞳で光の谷の都市を眺めていた。体には月に添う薄黄色のワンピース。
「そう言えば、どうしてみんなディズのことをシズって呼ぶの?」
「アクアが最初にそう呼ぶようになったんだ。ディアも、呼びにくかったらシズでもいい」
「ううん、このままでいい。もうずっとディズって呼んでるから」
「分かった」
「ねえ、ディズ。私、学校に行きたい。うん、もちろん、あなたと一緒に」
「ああ、行こう。丁度、この近くに学校がある」
「いいの?」
「もちろん。実は、働いていた時にこの辺りを任されていたんだ。つまり、そこに行けということだ。いいところのようだから、思惑に乗ろうと思う」
「ありがとう。楽しみ。夢みたい。ディズも、楽しみにしててね。私、もう一つ目標ができたから」
「もう一つ?」
「うん。あなたを、幸せにすること。それが、あなたと一緒に生きる、もう一つの方法。私が生きている間にあなたを満足させて、もう死んでもいいって思わせること。あなたを、死なせること。誰にも許されない、私の決意」
「ディア」
「色んなところに行こうね。プルとルクにも会いに行こう。一緒に遊ぼう。大丈夫、ちゃんと勉強もするから。長生きすることだって全然諦めてないよ。だから、楽しみにしてて」
彼女がそう言って振り向いて見せてきたのは、大事なことを秘密にし切れなかった子どものような、心からの笑顔。
「最初のきっかけはね、あなたが来てくれた理由は何だろうっていう疑問。この世界のたくさんの人たちの中から、あなただけが来てくれた本当の理由を考えないといないって、気付いたの。無関心に通り過ぎていく人たちを見て。理由がないなんてありえないって」
そして、もう一度前を向いて歩き出す。言葉を返せない。そのまま、彼女を先頭に、二人で光の回路の峰を歩いてゆく。
「そうしたら、すぐにあの人が教えてくれた。理屈はいらなかった。分かったの」
ディアは不思議な笑顔を浮かべた。分かってはいけないことだと分かっている、と伝えるように。
「あなたが私だけをあんなふうに助けてくれた理由。私があなたに連れて行かれたいと望む前。始まりの前の、本当の始まり。私のところに来てくれて、あんなふうに優しく触ってくれた理由。
あれから、あなたは誰にも触らなかった。どうして私なのか、あなたに理由がないなんて、ありえなかった。私を助けたことが偶然だったのなら、なおさら。
私のことを知ってくれていた可能性以外、私だけをあんなふうに助けてくれた理由は、考えられなかった」
「一目で心を奪われたから、とは考えなかったのか?」
その反論に、彼女は立ち止まって微笑みを浮かべた。
姿勢を傾け、小さな手と頭を預けてくる。
消え入るような声が、本当に消える前に届いた。
「私よりも綺麗な子がいたの、憶えてる」
「もう、ディアがいたから、という可能性は?」
愚かな最後の抵抗。それは諦めるために。
「私の目の前で、あんなにも平気に人を殺していたあなたが?」
泣きそうな笑み。それは彼女の地獄。死神の抵抗を払い、諦めさせるために。
「だから、考えないといけなかった。どこかで会ったことがあるかもしれない、いてくれていたのかもしれない、って」
地獄の頂に立ち、ディアは告げた。
「どんなことが起きても、私は私の心と、本当のことを信じてる。それに、青空の見えたあの夜に、私は奇跡も信じられるようになったの。どこかに私の知らない奇跡もあることを、知ったから」
それは、天上と接するところで紡がれた、真実を象る尊い意志。奇跡そのもの。
「うん。私は、憶えてる。それでも優しい、あなたの懐かしさを。助けられた時に感じた懐かしさを。私にできるのは、信じること。あなたが来てくれたこと、話してくれたこと、みんなが教えてくれたことの全てが、本当のことのところに連れて行ってくれた。分かったの。どれだけ遠く離れていたとしても、こうしてあなたに会えたから」
「向こうの街で会ったこと、あるよね。ディズ」
そっと、抱きしめられた。もう、目を閉じるしかなかった。
「ごめんね。いつかきっと、ちゃんと思い出してみせるから。約束」
ニルキナの向こう側の街を思い出す。自由の少ない市民たちを生かすための仮想世界。方舟の中の箱庭。孤児のための学校はその中にあった。
彼女が思い出せなくても無理はなかった。エンデは仮想現実の数十万の住人の一人でしかなかった。会っていた時の姿は人ですらなかった。
気まぐれで無愛想なロボット。気まぐれで人工知能の受付に成りすまして市民を観察していた時、偶然、彼女と出会った。
初めは単なる子どもとしか見ていなかった。しかしいつしか、彼女の姿をいつも探すようになっていた。
なぜか勇敢な、あの立ち姿に惹かれていた。
「もう、大丈夫」
どこまでも優しい言葉。この世の驚きが溶けているようだった。
◆
一つは、もう一つの答え。彼を一人にしないために。二つの答えを両手に持つ、その決意。
一つは、奇跡。私が私だけである理由。彼が彼だけであること。私にとっての、その真実。
伝え続けよう。彼と世界に。たとえ世界が揺らいでも、私の命と烈火と共に。
「話をしたのは一度きり。きっかけは、ほとんど偶然だった」
「それだけだったら、思い出せるまで何年かかるか、分からないよ」
「それじゃあ、一つ、願い事を聞いてくれたら、もう一つ」
「なに?」
「ディアも、自分を幸せにすること」
これから毎日、私たちは話をする。夜にはキスを。それ以上の幸せと、私自身の幸せは、ほんの少し先の未来から、末長く、いつまでも。




