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Radiancia  作者: n.s.
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4. A nameless room - The words world - Realion’s home






4. A nameless room - The words world - Realion’s home







4-1.




 目を覚ました。意識は不鮮明だった。自分が横たわっていることはかろうじて把握できた。


「ディズ」


 横からあの子の声が聞こえてきた。


「ディズ」


 もう一度聞こえた。それは自分の名だった。

 ディアの顔を見ることができた。彼女はこちらへと身を乗り出してきた。レイディア。レイディアンシア。地球の少女。


「ディア」


 呼びかけに答え、反応を返そうとして、体が動かないことを認知した。両腕がないことも。次第に意識が鮮明になってきた。苦痛はなかった。


「よかった」


 ディアに頭を抱きかかえられた。優しく。とても優しく。涼やかで柔らかな感触がした。

 白い天井。清潔で簡素な白い部屋。地球にもありふれているようでいて、地球ではありえない、恒常的な漂白。

 きっと、病室ですらない一室。窓も機器も照明器具も一切なく、そして、二人きりだった。


「すまない」


 自然とそのような言葉が出た。出せた。本心だった。


「ここは」


 言いながら、無意識の内に数位(フェノ)集積経路(ソルタ)集積情報網(アルグスタ)に接続しようとし、そのための魔法系式(カロン)の一つも動かせないことを認識した。一瞬で全て思い出した。あの戦争と、生まれようとしていた太陽について。


「そうか」


 認識の遅れを認める、そんな言葉を口にした。過去と現在について把握した。戦闘中に意識を失い、ほとんど全ての機能を失い、こうして負傷兵として臥床している。あれから一体何日が経過したのか、その判断もできなかった。

 無理に起き上がろうとした。それは衝動的な動作だった。突然のことに驚いたディアが押しとどめようとしてきた。


「大丈夫」


 そう言った。優しく言えた。


「起こしてほしい」


 力を借り、半身を起こした。

 簡素な白衣を身につけていた。外傷の跡も包帯もなく、治療は完了していた。ただ、肘と上腕部を失っていた。

 ディアはこの小さな背中を支え、この小さな肩に額を乗せるように、自分と同じ角度で体を傾けていた。

 一緒にいたいと思った。


「ディア」


 子どものように呼んだ。優しく言えた。

 呼ばれ、ディアは顔を上げた。涙の跡が見えた。

 少し体をずらし、そっと彼女にキスをした。


「生きて帰ってこられた」


 唇を離し、恥ずかしさをごまかすように笑った。


「生きて帰れない覚悟をしていた。本当に、すまない」


 彼女にもたれるような姿勢のまま、心から謝った。


「ううん。いいの。もう」


 賢い彼女は察してくれた。勝手な行いのどちらについても。

 問いただされても怒られてもよかった。しかし彼女は無償で許してくれた。許された。許されて、しまった。


「ディアのことを軽く考えているわけじゃない」


 だからこそ、彼女に甘えなかった。そうでなければ、死地から生きて帰ってきた意味はないと思った。


「君が教えてくれたこと、願ってくれたことをずっと考えていた。それと、俺ができることも」




             ◆




「本心を言うなら、俺の気持ちはとても簡単だ。君を好きにしたい」

「私はそれでいいの」


 それは心からの本心だった。


「ありがとう。それが確かにディアの本心なんだろう。でも、それだけじゃないはずだ。そのことについて話し合いたいんだ」

「私はあなたに命を投げ出したの。あの時の私を、私はなかったことにできない。私もずっと考えてた。私は途切れることなく続いていて、あの時の私と今の私は同じ私だから。私はあなたに助けられて、ここにいるから。いい、悪いじゃないことだから」

「でも、それだけじゃない。ディアは自分を抑え込んでいる」


 諭すようにディズは告げた。


「普通なら、あの街でのことを思い出さないように心安らかに暮らすのがいいんだろう。ここを出て行くまでは、ディアをあの家に預けようとしていた時までは、そう思っていた。でも、見て見ない振りをすることはもう、できない。

 このままだと、ディアはそれを心の奥底に隠して、捨てられずに育ててしまう。今は忘れているのかもしれない。言葉にできていないのかもしれない。このまま忘れられるのかもしれない。このまま言葉にならずに消え去るのかもしれない。でもどうしても、このままそっとしておけない。ディアを傷つけることになっても」


「どうして」

「気付いたから。自分もそうだったと分かったから。ディアを冒涜するとしても、分かったと言わないといけない」

「私は」

「死を、願うこと。それは、誰も殺せなかった絶望から」


 それは、どこまでも優しく、どこまでも温かな言葉だった。


「俺のせいだ。俺が余りに簡単に人を殺したから。異常なやり方で殺し続けて、見ていたディアの心を壊してしまった」


 目を閉じ、祈るように顔を伏せた。

 ああ、そうか、と理解した。

 そうだ、と認知した。自分の記憶と感情を。

 それは、壊れる、壊れろ、という叫びだった。

 死ぬ、死ね、という絶叫だった。私の場合は、しかし、初めから誰かを殺そうとも思わなかった優しさによるものではなく、自分で殺したくても殺せなかった無念さによるものだった。

 あまりにもあっけなく殺されていく大人たちを見続けた。彼らを殺す彼の隣で。

 彼らは一瞬で背中に穴を開けられていた。心臓を潰されていた。即死。どうやって殺されたのかも分からず絶命しただろう。私にも分からない。分かっているのは、彼が引き金を引いた、という原因と、彼らが背中に穴を開けて死んだ、という結果だけ。

 非人間的な方法で殺された彼ら。その死体は非人間的なもののように感じられた。彼らは壊れた、と思った。

 そう、決定的だったのは、あの地下での出来事。

 死体の他に、ビルの地下には生きた男たちもいた。食べ物のあるところから離れられないようだった。向こうから突然襲い掛かってきた。彼はその一人を殺した。その結果を見て他の男たちはすぐに逃げ出した。ひ、という声。それから私が自由に動いた。暗闇も男たちも怖がらず歩き回った。彼は私の後を付いてきてくれていた。 自分はそのことについて言葉にできる状態ではなかった。

 しかし、今なら言葉にできる。

 彼はこんなにもあっけなく人を殺せるのだと。そして、そんな彼の隣にいる私は絶対に安全だと。男たちは死ねばいい、と。危険なものは無くなれ、と。

 私は彼であるようなものだ、と。

 そして、彼に命を投げ出したあの時に繋がる。生きてきた世界を失い、身をも投げ出したあの夜に繋がる。連続している。

 つまり、今の私も。

 なんという、傲慢。


「私は、あなたを利用するために? それも足りなくて、体を捨てて、あなたになりたいと? 私の代わりに、あなたに人を殺してもらうために」

「同一化を望むのは原始的な欲求だ。罪じゃない」

「でも、許されることじゃない。私は人殺しになりたいと思ったの。最後には、自分を殺してでも」

「殺人を否定しないことも原始的なあり方だ。極限の状況では、許される」

「私が、子どもだから?」

「そう。君は十二歳の子どもだ」


 言われ、自分の体を見下ろした。男でも女でもない、子どもの姿をしていた。性別は関係がなかった。そのことを改めて知った。


「俺が子どもの姿をしているのも悪かった。子どもが簡単に大人を殺すという光景がディアの世界を歪めた。俺は大人の姿で君を助けるべきだった」


 裸で雨に打たれた時のことを思い出した。

 おかしくなるのは仕方がなかった。誰も彼もが。どうしようもなかった。誰も彼もが。泣きたくなった。泣こう、と思った。泣けなかった。その心は失われていた。そうだった、と思い出した。

 そうだった、と思い出した。

 おかしくなったのは私だった。どうしようもなかったのも私だった。


「私は、何もできなかった。大人たちを殺したくても、その力がなかった」


 心は失われたのではなく、自分で捨てていた。何度も響いた銃弾のない銃声へと、死と一緒に投げ捨てていた。

 しかも、それは初めから、そうだった。




 初め、肥満の男に連れ込まれ、女性たちがレイプされている光景を見た。

 もうすぐ、私もこの中の一人になるのだと、理解した。




 それが、最初からあった、真実だった。


「私たちを苦しめた男たちを殺すには、あなたについて行くしかなかった」

「それを非難しない。結果として、正当な判断だった。生き残るための」

「でも、生きるためじゃなく、殺すためだった。あなたに助けられた時からずっと。私はあなたに殺されてもいいと思ってた。そうでないとあなたについて行くことはできなかった。生き残りたいだけなら、恐怖があるなら、女の人たちと一緒に逃げてた。命を預けたのに、最後にはあなたに殺されてあなたになりたいなんて、ひどいことを思わなかった」

「ディアは悪くない。その選択と意志に罪はない。俺は、尊重する。あの時の覚悟も」


 彼の声が強く響いた。


「俺が最も歪な存在だ。こんな人間は本来ありえない。俺が最悪なんだ。ディアも犠牲者だ。俺に殺されたようなものだ」

「それは」


 応えるように、強く声を響かせた。


「うん。私はあなたに殺された」


 それが新しい真実だった。認知した。この記憶と感情を。


「でも、あなたが、生き返らせてくれた」


 だから一瞬で肯定できた。瞬く間に認識が裏返るのを強く感じた。


「私は、力があれば、大人だったら、あの男たちを殺していたことを、認めます」


 彼はその言葉を聞いた。そして頷いた。その認識を受け入れる、というように、はっきりと。

 私は救われた。

 救われていた。今までに、何度も。何度も。


「大人だったら、むしろそういう言い方はしない。あくまで正当防衛を主張して、明確な殺意は否定する」


 でも、最後に、彼は現実に苦笑いを見せた。


「暴力を否定するのに殺人は否定しないというのは子どもの考え方だ。生きるために殺す、動物の世界に近い」

「うん。私は暴力はいや」

「俺も、暴力を否定する」

「ディズも、子どもなんだね」


 だから、私も笑って言った。


「そう。見ての通りの子どもだ。大人じゃない。年を取った子どもが、俺だ。でも、ディアが考えていることとは違うことが、一つある」

「なに?」

「俺は殺人の正当性も否定している。暴力も殺人も悪だ。少なくとも、その罪悪を認知した上で、人を殺してきた」

「それは、どうして?」

「理由は、守るために。立場は、大人として」

「それができるのは、強いから?」

「強さは必要だ。でも、それだけじゃない」

「それは、なに?」

「矛盾を抱えられる心を持っていること。それが、人を殺して人を守るための条件だと思っている」

「矛盾」

「善悪の矛盾。その彼岸にあるものをあえて目指そうとせず、ここで、苦しみながら生き続けること。生かし続けること。それは、そのまま、大人の条件でもあるかもしれない」


 考えた。矛盾と、彼が大人であることと、死の希求と、自分のその衝動について。ここで話されていることを振り返り、彼に応えられる言葉を探した。


「私は、これから、どうすればいいの?」


 結局、それが、始めから発せられている、どうしようもない問いであるかのようだった。


「ディアは意志を示してくれている。後は、俺の問題だ。君の態度と認識に応えないといけない」


 けれど、申し訳なさそうな顔をしたのも彼だった。


「悪いのは俺だ」


 小さな吐息。俯いて言った。


「すまない」

「ううん。迷惑をかけているのは、私だから」


 口から出た、その言葉の真実性を、その時その瞬間に認識した。私は彼にどうしようもないほどの迷惑をかけていた。

 どうして今まで気にもしなかったんだろう。愕然とした。

 次いで、恥ずかしさで顔が熱くなった。なんという厚顔無恥。無知。私は自分を何だと思っていた?

 悲劇のヒロインか、お姫様?


「ごめんなさい」


 消え入るような声で言った。顔を見せることができなくなった。認識するべきことが多すぎる、という言い訳と、どうしてこんな時に気付いたのか、という思いが溢れてきた。溢れ、関連し、彼との触れ合いの記憶が津波のように押し寄せてきた。

 私は、今まで、何を?


「ディア?」

「ごめんなさい」


 言葉を繰り返した後に、彼はそっと顔を寄せてきた。様子を深刻に受け取ってしまったのか、とても優しくて丁寧な動作だった。勘違いではなかったけれど、そのせいで余計に恥ずかしくなった。


「正直、ディアをどうしようか、まだ迷っている。いろいろな選択肢がある。そして、どれもがディアの将来を決定的に左右する。それぞれの選択の先にある未来図は不可換で、取り返しは付かない。本心は単純だが、その通りに出来るわけがない」


 まだ言葉を返せない状態だった。顔を伏せ、彼の言葉に聞いていた。本心の通りにしてくれても構わない、と本心が囁いた。それは確かに幼い覚悟だった。薄く目を閉じて認めた。


「ディアの衝動を受け止めたい」


 ああ、そうか、と理解した。ここに至る、と。

 それが、ディズの願うことだった。きっと初めから、彼はここを目指していた。

 なら、私は。


「私も」


 それはきっと素敵なこと。そう思った時には顔を上げて言い放っていた。強く言えた。驚く彼の顔を見られた。恥ずかしさの余熱を持ったまま、次は丁寧に言えた。


「受け止めたい。あなたの気持ちを教えて」




             ◆




 問われ、ああ、そうか、と理解した。元気さを取り戻したディアがこう応えてくるのは自然なことだと。

 自分自身の気持ちを顧みた。

 とてつもなく大きな衝動があった。自明なことだった。それを持っているから彼女の衝動を理解できたと言ってもよかった。

 言いたかった。伝えたかった。

 ディアは気付いているだろうか、俺の気持ちを。予想しているだろうか、信じられないようなことを言われる事態を。立場の弱い自分を縛る、呪いにも似た言葉を。


「ディズ」


 彼女の言葉、彼女の声。柔らかさ、温かさ。軽さと細さ。そして、優しさと強さ。体と心のかたち。その全て。総体以上のもの。


「言えない」


 言えるわけがなかった。


「取り返しの付かないことになる。ディアの可能性の多くを奪う。未来図は不可換で、取り返しは付かない」

「いいの」

「どうして、そんなことが言えるんだ」

「子どもだから。子どもは、元々そういうものなの。家族も住む場所も決まっていて、取り返しが付かなくて、最初から可能性が奪われてる。学校も友達も全然思う通りにならない。それでも、私たちは、選ばされても、きっと未来を選べる。そういうものなの」

「それでも」

「それでも。選ぶの。可能性が無限にないってことくらい、私くらいの子どもならみんな知ってる。無理やり決められた可能性の中から、それでも、自分のしたいことを選んでる。

 うん。したいことをするの。それはどんなに不自由でも変わらない。できることは違うかもしれないけど、どんなところでも私は私のしたいことをするから。

 だから、信じて。私はどんなところでも、どんな時でも、同じように頑張るから」


 宝石のような美しさを見た。


 その美しさを信じたいと思った。信じた。だから、自分もしたいことをすることにした。少し彼女に寄りかかった。


「好きだ」


 心から告げた。


「君に会えて、よかった」




 抱きしめられた。腕がないから何もできなかった。


「私も、あなたに会えて、よかった」


 耳元で告げられた。この世の驚きが溶けているようだった。


「ありがとう」

「ディア? 泣いているのか?」

「うん」


 泣いていた。そして小さく体を震わせていた。何故か彼女の方が感情を溢れさせていた。


「どうして、ディアが泣くんだ」

「教えてくれて、ありがとう」


 動けないままだった。一本でも腕があれば抱き返せるのに、と残念に思った。


「ここまで分かって、どうして気付けなかったんだろう。私が子どもだから? 今まで、言葉にすることもできなかった。悔しいなあ」

「どうしたんだ」


 優しく聞いた。そうすることしかできなかった。


「私は今まで何をしていたんだろう。新しく分かることばかり。本当に、どうして」


 そこまで言葉を零し、ディアは腕を解いて見つめてきた。ぽろぽろと涙を零していた。

 彼女が落ち着くまで待つことにした。彼女は少し乱暴に袖で目じりを拭った。それでもしばらくの間は零れ続けていた。


「私も、あなたが好き」


 ディアは謙虚な微笑みを見せた。あの街での彼女の笑顔を思い出した。


「本当。これが、嘘偽りのない、私の気持ち」


 否定や疑いの言葉が口にされるのを防ぐように、彼女は言った。


「私を助けてくれて、ありがとう」


 そして抱きついてきた。精一杯の力で抱きしめてきた。

 そこまでされて、やっと、顔を赤くした。赤くなるのを感じた。

 ここまでされるとは思っていなかった。激しい感情と熱が彼女の中から伝わってきた。

 間近で見つめられた。もう、何もできないでいた。腕があれば、とは思ったが、腕があっても何かができるとは思えなかった。

 顔にそっと触れてきた。

 何かを確かめているような所作。心のかたちを見られているような感じすらした。全く不快ではなかった。心地のよい感触だった。

 静かな時間が流れた。多くの言葉を忘れ、無言と瞳で彼女を呼んだ。

 多くの言葉を無くし、素直に言った。


「これからも一緒にいてほしい」

「うん」


 額を合わせた。甘い雰囲気に委ねてのキスはできなかった。本当に嬉しそうな彼女の笑顔を見ているだけで幸せだった。

 感情に任せたものはできたのに、と内心で独白した。




「後は、腕のことだけだ」


 幸せなひと時を過ごした後、静かに伝えた。


「本当は、すぐに治せるんだ。このままにしているのは、むしろ慈悲だ」

「うん。少しだけ聞いてる。ディズが決めることだって」

「そう。失ったままなら、もう戦争には行けない。子どもとして生きていくことになる」


 集積経路(ソルタ)は肉体と共にあり、肉体と共に失われる。しかし、両腕のセイレンの集積経路(ソルタ)だけは特別だった。腕が細胞から修復されるなら、その量子領域(ソラ)が再びあの宇宙と繋がる。死が再生する。

 腕があった部分を見た。失われたものと失えるものについて、もはや語るべきことはなかった。


「自分の腕を取り戻したい。しかし、このままディアを置いてはいけない。だから、もう一つの方法を選ぶ。見ていてほしい」

「うん」


 腕があったところを見た。ディアも一緒に見てくれていた。二人の視線が細い腕と小さな手の平を見ていた。

 自分自身のかたちを思い描いた。損傷のない肩部の外積(カオン)集積経路(ソルタ)と腹部の元素(セミノ)集積経路(ソルタ)を稼動。人体組成の情報は全て腹部に保存されていた。10th。

 両腕部を生成。空気中の成分も取り込みながら、肉と骨と神経を形作った。

 途切れた腕の先と融和させ、腕と手を再構成。朝の花の蕾が花開くまで。ディアは息を潜めて見つめていた。


〈経路接続:真球宇宙から当該球面宇宙:再構成:L・R〉


 真球宇宙の外縁に存在するセイレン宇宙からの強制自動接続。修復された両腕にセイレン制御の集積経路(ソルタ)が自動形成された。

 セイレン宇宙はかの多次元真球で創られた透明な宇宙星。量子の揺らぎすら無い高圧真空。そして、万物の始原にもなりえるエネルギー。創世の星。

 両腕の集積経路(ソルタ)はそのエネルギーを限定的にこの球面三次元宇宙に放出するための二本の細い経路。放出されるものは、銃の引き金との因果を以って現れる無色の銃弾。

 そして、セイレン宇宙の中心に存在するもう一つの複写符合(ビアス)こそが星の光の源だった。かつてのデディゼンドが創り上げた第二の複写符合(ビアス)。球面十一次元の宇宙を俯瞰する果実の片方。もう一本の螺旋。

 セイレンは破壊のためにしか使われない燐光。彼方の螺旋こそが本体。完成されたもの。セイレン宇宙すら泡沫から生まれた光。


〈実行Ω:降下座標指定:参照:座標Α〉


 真球宇宙から自分自身の複写符合(ビアス)を降ろした。胸の奥深く、無色(ロミクァ)の中心でもあるメカナの複写符合(ビアス)を標とした。

 この意識が世界の果てに届くまで。

 ディアはここにいた。この名もない部屋が果てになった。デディゼンドの複写符合(ビアス)が胸の中の量子領域(ソラ)に入り、メカナの複写符合(ビアス)と接合した。二つの力の実が可能無限の領域で二重螺旋を描いた。

 複写符合(ビアス)と共に降りてきたセイレン宇宙は宇宙の狭間でほぼ全てが消失した。しかし、無色に光る宇宙の一抹がここまで届いて量子領域(ソラ)に溶け、新しい炉心を漂わせる海となった。海は炉心を守り、炉心の記憶を光として漂わせる不可侵の深淵となるだろう。

 その対価として、セイレンが失われた。両腕の集積経路(ソルタ)も消失した。もう、頭上に死の弾丸はない。

 デディゼンドが再び一つとなった。

 全身に生命の集積経路(ソルタ)が張り巡らされた。旧来の集積経路(ソルタ)が分解され、全く新しい経路が零から再構築されていった。水も酸素も必要としない体へと生まれ変わった。

 かつて形作られていた、一億年の命を再び手にした。

 第三の選択。力だけを再び得るのでもなく、あのまま無力でいるのでもなく。

 選べるものとして、全てを一旦失うとしても、全ての体を持って生きていくことを選んだ。

 ただ、こうして、この手で彼女を抱きしめるために。




             ◆




 それから数日が過ぎた。ディズと二人であの家に戻って黄金の家族に迎えられた後、私は体調を崩してしまい、あのまま私の部屋になった居室で横になって過ごした。その間に私の名前が正式に登録され、彼と一緒にこの家で暮らせることが認められた。

 朝早くにお見舞いに来てくれた可愛い兄妹が嬉しそうに教えてくれた。

 家族、と。




「ここで暮らそう」


 端的に言うと、ディズは私の弟になった。




 さらに数日が経ち、安らぎと共にささやかな倦怠と記憶の遡及を経た。

 まず、私は部屋の中で思考の自由を取り戻し、そこから自由な思考が始まった。




 あの時、静かに時間が流れる間、満たされていくディズを私は見ていた。あの時の彼は、まるで。

 心の中心に私という確かなものを得たと確信できる過去があるとするなら、それはそう、あの時しか有りえなかった。







4-2.




 物心がついた頃から、私の考え方は女子よりも男子に近かった。体は女性のものだけれど、心は男性的だった。同級生の女子たちの価値観は理解できないことの方が多かった。小さなことや馬鹿らしいことで大騒ぎをしている男子たちの方がよく理解できた。私も、そうだったから。大声で喚いたり遊んだりはしなかったけれど、小さな頃から私は女子が好みそうにもないものに熱中していた。ファッションや異性の話題はどうでもよかった。

 初恋も、上級生の女子生徒だった。




 彼に触れられることは嫌じゃない。全く、嫌じゃない。もし私の体も男子だったら、手を繋ぐ、という触れ合いすら彼はあまり求めなかっただろう。だから私の体が女のものでよかった。触れ合いを受け入れるだけで好意と感謝を示すことができる。

 では、もし彼が女性だったとしたら、私たちはどうなっていただろう。まず、彼が女性で私の心身が両方とも男子だったとしたら。彼との性別が逆転するだけで、今とあまり変わらない関係が作られただろう。それどころか私としては一番葛藤の少ない世界になる。彼が女性で私がこの私なら、葛藤が生まれたとしても、それはそれで、幸せな関係があっただろう。

 彼が男性であり私が男子的な女子であるこの現実にしかない、運命的な意味がある。それが分かる。

 しかし、ここからが問題になる。この世界で、私は彼に対してどうすればいいのだろう。

 彼はまだ知らない。私の心が本来の男子のものに戻っていると。

 彼は、こんな私のどんなことを受け入れてくれるだろう。




 私は男性的な心と女性的な心を持っている。持っていると気付いた。今、心は男性的な方に戻っている。あの時の出来事をきっかけにして。女性的な方は再び眠りについた。私が心から落ち着き、もう大丈夫だと判断したのだろうか。私を翻弄する非現実的なことはもう起きないと。起きたとしても、男子の心で乗り越えられると。

 存在しないと思っていた私の女性的な心。女子の心。少女。今になって分かったことだが、それは無理やり暴かれていた。初めて目を覚ましていた。気持ちの悪い男にさらわれ、レイプされそうになった時に初めて。きっと、初めて殺意を抱いた時に。

 そして彼に助けられた。あまりに突然助けられ、女子の心が途方もなく驚き、眠る機会を失ってしまった。だからそれから私の心はずっと女性的なまま、年相応の少女のままだった。非現実的なことは女子の私がそのまま受け持つことになった。女性的な心を剥き出しにしたまま過ごし、男性的な心、男子の心は奥深くで横たわっていた。あるいは男子と女子の心を表裏とする心が裏返っていた。もし彼が女性だったらああまで女の子らしい振る舞いはしなかったと思う。断言できる。つまり、私の少女の部分は男性の他者に強く影響を受けている。

 受けていた。今はもうここにはいない。これは、寂しさ?




 私は母から普通の少女に見られるように生きてきた。そう求められていたから。それが母の、というより、故郷の人たちの一般的な常識だった。昔ながらの男らしさと女らしさが子どもに当てはめられていた。私はそのことに疑問を持ってはいたが、あからさまに拒んだりもしなかった。大人しい、従順な娘だった。

 新しい母や妹を参考にするなら、この家での女性的な振舞い方も故郷とあまり変わらないようだ。事実、現在のところは新しい家族に対して見た目通りの少女として振舞えている。立ち直った少年の心で順調に行動を保てている。眠りについた少女の代わりに。

 では、彼に対しては? 彼と二人きりになって何かがあった時、私の女子の心が目を覚まして男子の心と入れ替わるのだろうか。それとも、永い眠りについたまま、もう二度と目を覚まさないのだろうか。

 分からない。この数日でそのような機会はなかった。彼に触れられることは嫌じゃない、と私は思っているが、実際に問題になるような機会は、実はまだ一度も訪れていない。




 私は体調を崩してしまった。彼とこの家に帰ってきてすぐに熱を出して寝込んでしまい、それからずっとこうしている。心が入れ替わった反動かもしれない。心と体が擦れ合い、熱を出したのかもしれない。今も頭が少し朦朧としている。

 彼は毎日この部屋に来てくれている。看病は新しい母のエクシがしてくれている。自分にできることがないと彼は少し不満そうに言っていた。私は彼と話ができるだけでもよかった。母に裸を見られるのが恥ずかしいのは秘密だけれど。

 毎日の朝と昼と夜、彼と数分ずつ話をした。最初に、もう戦争には行かないと教えられた。行きたくても行けなくなった、と彼は自分の手を見ながら話した。それからは、病気中に話せることは少ないので、当たり障りのない会話をした。私の体調のこと、彼の体調のこと、食事のこと、服のこと、この家のこと。新しい家族のこと。天気のことを話題にできないのは少し困った。この家の外は大きな天井で、昼はいつも柔らかな光が満ちていたから。これからは絶対に雨の音を聞けないというのはなんだか寂しかった。もしかしたら雨や雪の降る日もあるかもしれないけれど。

 会話の間、彼はいつも私と距離を取っていた。ベッドの横の椅子に座って話をした。私に触れるとすれば、それは決まって手か額のどちらかだった。もちろん、使われたのは彼の手。それ以上の接触を彼はしなかったし、しようともしなかった。彼はそれで十分そうだった。

 私はそれを不満に思っている? 二人きりになった時、触れ合いの感じ方とその時の自分の心を確かめたいのだろうか。

 それを認める。私は彼との男女の間の触れ合いについて確かめたいと思っている。そして、あのことについてもっと話し合いたいと思っている。私が決めた私の生き方について。彼が私を好きだと言ってくれたことについて。私もあなたが好きと私が答えたことについて。これからのことについて。

 彼に触って欲しいと思っている。手と額以外の部分を。具体的に言うと、キスをして抱きしめてほしいと思っている。多くの部分で触れ合いたい。

 今、私は女性的な考えをしているだろうか。




 私がこのままの私だとして、そして彼が男性であることも不変のことだとして。

 例えば、彼が成人男性の姿をしていたとしたらどうだろう。彼の外見が十代後半くらいだったら? 二十歳位だったら? 三十歳位だったら? それ以上だったら? 

 それはつまりどういう問題だろう。性別だけが問題ではないということだ。

 好ましい関係というものがあり、それは私自身の好みだ、ということ。本能にも直結している好みの傾向。傾き方と向き方。彼が二十五歳くらいなら、私は問題なく彼を好きになれるだろう。

 この場合、私の年齢の低さはあまり問題にならない。少女だった時の記憶は損なわれてない。だから分かる。私は、いつでも変容可能。今なら、同年齢の女子の会話が少しだけ理解できるかもしれない。




 とはいえ、現実的には彼は二十五歳どころではなく、体は私と同じ十二歳。彼がキスと抱擁までしかしないということが分かっていて、本当は安心している。とても安心している。それが私のもう一つの本心。私は心の奥底では年上の男性を恐れている。男の凶暴さとセックスを恐れている。きっと、とてもひどく。今は冷静に考えられているけれど、私はとてもひどく恐れている。悪夢が恐い。その理由は、言うまでもない。




 彼との出会いはとても幸運なものだった。ありえないこと、非現実的な現実。奇跡と言ってもいいはず。彼が彼でよかった。途方もない迷惑をかけていることを申し訳なく思うと同時に、彼の言動や内面を愛しく思う。

 愛しく? それは子どもの私が使っていい言葉ではない。では、好き、と思うことはいいのだろうか。あの時の私は少女で、今は少年だ。女子の記憶は持っているが、考え方は男子と変わりがない。偽りなく、今の私が彼を好きだと思うのは、どういうことだろう。




 つまり、私は連続している、と認めること。

 人の心は断続的なものだということは知っている。けれどその一般的なことを私は拠り所にしない。言い訳にしない。私は私が連続的な存在であると知っている。私は連続的な存在である。それを私の第一の事実にする。そうであるように努力する。

 だから矛盾も齟齬もない。心の変化も連続している。裏返ることはあっても途切れることはない。今までの私と今の私は連続している。

 今までの私を私は認める。私は私だった。

 私は私である。




 裏返っていた心が元に戻ったのは彼と一緒にこの家に帰った翌日のことだった。きっかけはあの時だったけれど、そうだと確信できたのは、正確には、思い出したくもない悪夢を見てこの部屋で目を覚ました時だった。私は一人で寝ていた。起きた時も一人だった。窓の外の天井の照明は夜明け前の薄い明るさになっていた。冷たい汗で体中を濡らしながら、不思議と、少年に戻った、と分かった。あれから今まで生まれて初めて少女になっていたんだ、とその時初めて気付いた。それまでは身も心も女子になっていたことに全く気付いていなかった。小さい頃、物心がついた時の、その心が男子のものであったことすら。心が性別を持っていた事実を。かつて私が少年であり、惨劇の中で少女になり、またこうして少年に戻ったという事実の全てを一度に理解した。理解しなければならなかった。違う色の涙が流れた。あの朝まで、私は自分自身を全く認識できていなかった。

 その朝は彼とどう顔を合わせていいか分からなかった。けれどその朝にはもう熱を出してしまっていた。朦朧としていたので子どもの私が女であろうと男であろうと大差はなかった。

 結局、少し調子が良くなってからも彼に対する態度は変わらなかった。長い間二人きりになれば分からないけれど、キスをされて抱きしめられたらどうなるか想像もつかないけれど、少なくとも今の数分間の日常的な触れ合いには私の性別は影響していない。




 私は今でも彼が好きだ。




 性別に関係なく。しかしやはり、女性の体を持つ子どもとして。体も男性のものだったら、私の方からもこんなに自然に手を繋ぐことはできないだろう。やはり性別の違う体が触れ合うということには特別な意味がある。今の私でも、特別な、言葉にできない意味を感じる。もちろん、同姓同士が好きになっても同じような意味を感じるかもしれない。ただ、子どもの私に分かるのは、私の初めての恋は触れ合いを求めない淡いものだった、ということくらいだ。憧れだったのかもしれない。

 とにかく、私の心は完全に男性のものではないようだ。あくまで男性的、と言えるもの。せいぜい、大人になりきれていない男子の心、と呼べるもの。体の影響を受けているのか、もう一方の心の影響を受けているのか、あるいは単に未成熟であるためか。




 けれど、別にそれほど複雑に考えなくてもいい。男性に恋をする少年もいる、ということを私は知っている。体の問題を除くなら、今の私はそのような精神構造になっているのだろう。

 体の問題を含めるなら、乱暴に言って、性同一性の葛藤に気付いてそのまま心的な同性愛を認めたショウジョ。裏の裏は表。




 ただ、私は私でよかったのだろうか。今の私でいいのだろうか。心も女性的になるべきだろうか。女子の心に戻して、ずっとそのままでいるべきだろうか。

 愚かしいことのようにも感じるけれど、私が少年であることについて、彼に告白するべきだろうか。




 そして、ニルキナのこと。

 悪夢を見ている。ニルキナの悪夢を。昨日の夜も、おとといの夜も。その前の夜も。最初の夜も。言葉にしたくないほどの悪夢。私が無力な少女であることを強いられる最悪の夢。PTSDの発症。

 そういう悪夢を毎晩見ていることをまだ彼に言えていない。彼は大丈夫かと毎日聞いてくれるけれど、私はいつも大丈夫と答えている。特に朝は吐き気がするほどに全然大丈夫じゃなくても、無理に作り笑いをしてごまかしている。顔が青ざめているのは体調がまだ良くないせいにしている。嘘というわけでもなく、毎晩悪夢を見ているせいで体調を崩しているというのが事実と言ってもよかった。眠れないせいで睡眠時間も少ない。食欲もない。

 それを隠している理由。もちろん、今の私は少年だから。やせ我慢をしている。悪夢なんかに負けたくない。見栄を張っている。恥ずかしさも大きい。せっかく助けてくれたのに、という罪悪感もある。現実には起きなかったことで心配を掛けたくない。気に病んでほしくない。安心していてほしい。馬鹿なことをしていると思う。でもどうしようもない。それが私だから。これが私だ。私は昔からこうだった。

 ただ、心的外傷についての具体的な知識を持っていないので、故郷での記憶がこれから私にどう影響してくるのかよく分からないのが不安だ。

心の傷とその不安は、決して小さくない。




 どちらの問題の解決を優先するべきだろう。私の性的葛藤と心的外傷について。それとも、どちらも容易に問題にすべきではないのだろうか。このまま幸せでいてもいいのだろうか。

 時間が大きな問題だとは理解している。これほど幸せな時間をこのまま過ごせるのなら、私の葛藤や悪夢は些細なことだ。いずれ時が解決する。数日や数週間では苦しみから解放されないとしても、数年の内には、きっと。少なくとも、この二つの問題については、私が成人する前にはほとんど問題はなくなっている。そう予感できる。

 なにより、彼と新しい家族がいてくれるのだから。恐れることはない。




 従って、より大きな問題は、やはり、私の衝動と、私の決意。あるいは願望。

 死を願うことと彼は言った。その通りだと私は思った。まず、私は凶暴な大人たちの死を願った。私による死を。つまり、殺したいと思った。殺人の罪の問題については置いておく。一人で答えを出していい問題ではないと思うから。今は、彼が言ったように、正当防衛で殺す、としておく。救助のための殺人については、いつか、ちゃんと彼と話し合いたい。

 あなたに命を預けますと私は言った。分かったと彼は言った。そして、今は気持ちだけで十分だと言ってくれた。私の態度と認識に応えないといけない、とも。かつて、私は彼に自分を捧げた。生きるためではなく、殺すために。そのためなら私はどうなってもよかった。最後には絶望に甘え、死を、彼への完全な譲渡をも望んだ。

 殺人衝動と従属願望。自然に消滅する気配はない。まだどちらも具体的な解決方法が決まっていない。方針も立っていない。それ以前に、彼と十分に話し合えていない。今は私の健康が優先されているから。彼と二人でいられる時間はとても少ない。

 体調を崩しているのはどうしようもない事実。微熱が引かない。悪夢を見る。負けたくない。早く元気になりたい。

 あと何日、こうして横になっていればいいのだろう。

 もどかしい。




 私はいつか人を殺すだろうか。彼のように。彼を真似て。彼に従って。ああ、それを私は望んでいる。彼に従って人を殺す未来を。衝動と願望の両方を完全に叶える未来だ。

 私を置いて戦争には行けないと彼は言っていた。聞いてもいいだろうか。ついて行ける日がいつか来るのだろうか。




 私の衝動を受け止めたいと彼は言った。

 そして、私をそっと抱きしめてくれた。その間、私は安心していた。あの時の心はまだ女子だったから素直な恥ずかしさも嬉しさもあった。心が彼に支えられている感じがした。

 確かに、人を殺すなんてことはどうでもいい、という心の状態になっていた、と言っていい。もしかしたら、あれが正解なのかもしれない。この上ない、最初に得られた答え。願望をも満たす最上のもの。抱擁こそ愛。だとしたら、どれだけ幸せだろう。

 今の状態で彼に抱きしめられたらどうなるだろう。どう感じるだろう。




 それは幼稚な諦めだ、と彼は言った。でも、尊重する、とも言ってくれた。

 人に命を預けるということ。一般的な上下関係ではなく、従う、というその現実。上手く言葉にできないけれど、それが一番大きな問題かもしれない。もしかしたら、人を殺す、ということよりもずっと。

 無理矢理従わされることとは全く違う。自分の意志で彼に従属する、という意志が私にはある、と言葉にできる。私は待っている。彼が私を従えてくれる日を。命令してほしいと思う。その願望が自然と消えて無くなる気配はない。衝動とは逆に、むしろ日に日に強まっている。

 極端なことでなくていい。極端であってもいいけれど。何かを持ってきてくれ、と言われたら喜んで。何かをしてくれ、と言われたら私のできる限り、心を込めて。キスをして抱きしめたい、と言われたら、身も心も委ねて。

 彼が男であり、私の体が女子であることが彼の中で問題を難しくしているのだろう。どうしても、性的なことが含まれるから。反道徳的な想像が私の心の中でも容易に浮かび上がってくる。

 そういうことになる。彼はきっと、一歩踏み込むのをためらっている。現実的に、体の年齢の問題も無視できない。

 では、私は? 答えは出ている。今の関係である限り、体調が良くなっても、彼がキスと抱擁までしかしないということが分かっていて、本当はとても安心している。その通りだ。でも。

 でも、と言いたい。言おう。その時が来たら必ず。大丈夫、と。

 私は大丈夫。




 今、私は女性的な考えをしているだろうか。




 家族になったことについては、時間があれば、また明日。




 でも。

 眠りにつこうとしている前に、最後に思うのは、どうしても、彼について。

 三百二十年と彼は言った。彼は、何年?

 私の命は、どれだけ彼に報いることができるのだろう。







4-3.




 翌朝。いつも通りの悪夢を見たけれど、熱はほとんど引いていた。


「もう、平気」


 ディズも一安心したようだった。




 様子を見てもう一日だけベッドで過ごすことになった。久しぶりの読書を許されたので不満はなかった。

 一日中、メカナの共通語の教科書を読んで過ごした。エクシやディズに注意されるほどに熱中した。一緒に読むの、と弟妹にせがまれるくらいに集中していた。

 瞬く間に日が暮れた。知恵熱が少し出た程度で、明日からは部屋の外に行けそうだった。

 久しぶりの入浴を済ませた。一人で落ち着いて入るのも久しぶりだった。元気な弟と妹は定期的にディズに迫っているようで、お兄ちゃん、という可愛らしい声がお風呂から聞こえてきていた。

 あの子たちの積極さが少し羨ましかった。




「ディズは、これからどうするの」


 その日の夜、いつも通りの時間。会話が終わる頃に聞いた。


「当分は何もすることがない。できることも。長い休みになる」

「何も?」

「ああ。無力になった。魔法系(カル)の力を失ったから。様子を見て色々試したが、取り戻すには普通の子どもと同じように成長しないといけないみたいだ」

「そう」


 長い間一緒にいられると分かり、懸念が一つ消えた。合わせていた両手を組み直した。鼓動が高まっていくのを感じながら、絡まり合う自分の指の方へと視線を落とした。


「どうした?」


 ディズが部屋に来る前に決心していたことだったけれど、最後まで躊躇はあった。なんでもないと言い直すべきか迷った。


「少し悪い夢を見てて」


 それでも、言葉は自然に私の口から零れ出ていた。


「黙ってて、ごめんなさい。やっぱり、言った方がいいと思って。それで」


 ディズは怒らなかった。どういう夢を見るのかと問いただしてくることもなかった。


「気付かなくて、すまない」

「ううん。悪いのは私だから」

「もしよかったら、眠れるまで一緒にいようか」

「ありがとう」


 それから、横たわるまで、余分な言葉はいらなかった。

 毛布と服を擦る音を立て、互いに向かい合った。手が触れた。どちらからともなく重ね合わせた。

 

「おやすみ」


 私は目を閉じた。少年のまま眠りにつけると分かった。性別の問題は瑣末だと思った。

 お休みのキスをして、と言う勇気は、さすがにまだなかったけれど。




 その翌朝。朝早くに元気なアクアとアリアが私の様子を覗きに来たようだった。


「シズが一緒に寝てる!」


 大きな声で母親に告げ口をしながら廊下の向こうへ走っていくのを聞いた。

 その通りだった。ディズは朝まで私の横にいた。同じベッドでそのまま寝ていた。私は笑ってしまった。彼は普通の人になったのだろうかと思ってしまった。それはありえないとは分かっていても、本当に身近な人のように感じた。

 悪夢を見ていないと気付いた。ああ。憶えているのは安らぎだけだった。そして私の心は少年のままだった。

 少年の姿をした彼の寝顔を見ていた。目を覚ますまで、ずっと。




 認識の修正。これからはディズを大人の男性としてだけではなく、見た目通りの男子としても見る。きっと彼はそれを望んでいる。私も。

 好きな男の子。言葉にすると途端に恥ずかしくなるけれど。




 私の問題は焦らず長期的に考えるべきだと判断し、その日の午前は基本的な文法を覚えることにした。




 ベッドの上で昼食を終え、熱が完全に引いたことを確認し、少し外に出てみようとディズは言った。




「ニルキナのこと」


 家の庭を散策している時に私は聞いた。金木犀のような花が可愛らしかった。


「あんなことになった理由が、どうしても分からなくて。今まで、この世界が関わったことで、地球で大きな事故が起こったことはあったの?」


 ディズは驚いていた。数秒間も私を見つめた。突然すぎた、と反省した。


「一度も」


 言いにくそうだった。私の心の状態を懸念しているのかもしれないと思った。


「二千三百年近くの歴史で、ニルキナが初めてだった」


 柔らかな木々と草花。新しい緑の匂い。病み上がりの私を包んでいた。


「お姉ちゃん、シズ」


 庭の向こうでアクアとアリアが私たちを大声で呼んでいた。愛すべき子どもたち。私の弟と妹。手を振って応えた。


「ちょっと遊んでくるー」

「気をつけて」


 二人は跳ねるように階段を降りていった。天使の職場もあの子たちにとっては格好の遊び場所に変わりがないようだった。

 今度は四人で森の方に行ってみよう。


「炉心とも繋がる、あの街の巨大な情報回路網に、人間の脳神経が量子接続されていた」


 子どもたちの姿が見えなくなってから、彼は零した。


「同時に数十万人も。それが、ニルキナが建造された、事実上の、本当の理由だった。極めて多くの人間の精神が活動できる高精度な仮想現実の、実地実験。そのために新開発されたエネルギー機関も含めて、衰退していく人類を生き延びさせるための、箱舟の実験作」


 それを私は知っていた。むしろ当然のことだった。生まれた時からニルキナで暮らしていた私にとって。人々にとって。善い、悪いというものではない、単なる事実だった。


「ディアは、ニルキナが地球の他の都市と一番違っていたところは何だと思う?」


 突然聞かれ、他の都市のことをあまり知らない私は咄嗟には答えられなかった。


「自動車がほとんどないこと」


 彼は言った。そうだった、と私は思い出した。


「車の個人所有の禁止。道路を走っていたのは公営の交通機関か公的機関のものだけで、市民は行動範囲を制限されていた。ストレスなく生活するには現実で細々と体力を保ちながら自宅の端末から仮想現実に入って自由を得るしかなかった。それが、ニルキナの市民の生活だった」


 母も私も一日の多くを向こうの街で生きていた。特に母がこちら側に戻ってくるのはほとんどが食事と入浴の時だけだった。カプセル状のベッドに横たわる母と向こう側の街で自由に生きている母がいた。私もそうだった。みんなそうしていた。

 こちら側の街では労働の必要性も削減されていた。窓の少ないビルの中や秘密の多い都市の地下で高性能なロボットが市民の代わりに働いていた。

 公的機関の人間以外、人が働けるのは大体がサービス業だけで、大人の半数以上は原子世界での労働の義務と権利を失い、日々を意欲的に生きるために電子世界での商業活動を行っていた。物質現実で横たわり情報現実で働いていた。それがニルキナという街の法則だった。

 ただ、私のような子どもはこちら側の学校への登校が義務付けられていた。心身の成長への配慮という理由は聞いていたが、向こう側の学校に行っている子どももたくさんいることを私は知っていた。あらゆることが実験の一環だったのだろう。


「イミナミアの解析では、百年間その生活を続けても市民への肉体的、精神的な負担は地球上の今の都市生活と大差はないという結果が得られた。実際、ニルキナが建造されてから十二年間、現実と仮想現実の二つの世界は見事に共存していた」

「じゃあ、どうして」

「ある実験を受けた市民の一人が、メカナの複写符合(ビアス)を保有していた」


 とても小さな声で、ディズは言った。


「脳神経を電子炉と直結させられ、その影響を受け、なんらかの相互作用によって仮想現実の中で複写符合(ビアス)が強制的に覚醒した。そしてその結果、根本的な集積経路(ソルタ)魔法系式(カロン)が極めて特異的にニルキナの情報回路網と電子炉炉心に伝播し、作用したのではないか、と解析された」

「それは、その人の意志とは無関係に?」


 私は聞いた。声が震えてしまうのを止められなかった。


「そう。どんなことを思っていたとしても、多くの蓋然、必然的な偶然が重なり、あらゆる条件を満たして覚醒したのは、きっと、人の意志とは無関係だった。それがどんなに非人道的な実験だったとしても、きっと、自分が死ぬだけだと思っていたはずだ。本当に最悪の事態を引き起こすとは誰にも予測できなかった。だから、それが唯一の救いになり、最悪の原罪になった」

「その人は、どうなったの?」

「最初の集積経路(ソルタ)が作られた一瞬後、覚醒者はその複写符合(ビアス)の起源となる文明の宇宙に転移する。この場合は、ナクリスと呼ばれるメカナの聖地へ。それはメカナの魔法使い(カルン)の子どもでも地球人でも変わらない。それが力の実の卵である複写符合(ビアス)が最初に開放する、本当の魔法(マジック)なんだ」

「今も、生きてる?」

「生きている。きっと。短い時間だったが、俺も聖地に立ったことがあるから分かる。あの時は恐かっただけだった。でも、光をずっと憶えていた。だから、帰ってきて、この世界で生きていこうって決めたんだ」


 ああ。

 ああ、その人は今、何を思っているのだろう。

 彼の肩に額を乗せ、私は静かに思いを閉じた。

 ああ、せめて、どうか、もう今以上の苦しみを背負いませんように。私は祈った。どうか。どうか。何も言わずに受け止めてくれた彼に寄り添い、どうか、といつまでも祈り続けた。




 夕方、食卓に座って食事を待った。


「いただきます」


 初めて家族が揃った温かな団欒。母の故郷の、西洋の料理によく似ていた。幸せを素直に受け止めた。




 そして、その夜もディズは一緒に寝てくれることになった。ただ、朝までいてくれるかどうかは言葉ではできない交渉事であって、多くは彼や雰囲気に委ねられていた。


「命って、何?」

「自由な動きの源、あるいは、動きそのものの総体。もしくは、総体以上のもの」


 ベッドに潜り込んでから、幼い子どものように私は聞いた。外灯だけの明るさが不思議と心を高揚させていた。彼はベッドの上で姿勢を整えながら、言葉遊びのように答えてくれた。


「現実は、何?」

「命が認識できる全て」


 無性に嬉しくなり、私は言葉を連ねた。ディズの方も、横たわる私を見下ろして薄く笑みを作っていた。


「この世界は?」


 そう、世界。あらゆる物事の前提。私以前から存在する全ての広がり。この世に生まれてきて、やっと、私はこの問いを発することができたのだ。


「この世界は」


 横顔を見せ、秘密を囁くように彼は言った。


「光と闇の模様」


 そして静かに私の隣に横たわり、優しい眼差しで眠りへの誘いを紡ぎ始めた。


「認識できるものが、光。だから、現実は全て光だ」

「じゃあ、何も見えない、宇宙のほとんどが非現実で、闇?」

「多くの命にとっては。水素の海が見えるなら、宇宙は光に満ちている」

「空気が見えたら、どこも光ばかりで眩しいね」

「そう。だから闇も必要になる。見えないものもあるように、命は生まれてくるんだ」

「世界は、私の周りにあるものは、現実と、透明な空気や黒い闇。でも、空気があるって、私は知ってる」

「それが、知恵を持つ人間の力。非現実を、感じられないという欠点を持つ現実で埋めていく。それが、知識。実験や計算を行い、知識の上に知識を積み重ねていく。知識は感覚よりも優れていると信じて」

「本当は違うの? 正しい知識でも」

「空気がある、という知識を認識し続けられる限り、人の周りには光が満ちている。見えないだけの光を認識できるのが、現実を広げられるのが、人の力。でも、もしその知識を失うか、認識できなくなったら。認識するということ自体を忘れても」

「現実が、無くなっていくね」

「それが人の弱点で、限界だ。いくら知識自体が正しくても。歴史が積み重なるごとに知識が積み重なっていっても。人が体の中に持てる知識は失われやすい。忘れられることも消されることも多い。一度に認識できる知識の量は限られている。だから、一人一人、現実は様々に色と形と大きさを変え続けているんだ」

「世界の模様が変わっていくのね」

「人のそれを、美しいと、思ったことがある」


 ディズの言葉と眼差しに、私は悲しみを憶えた。現実と非現実の移り変わりを美しいと思うのは、つまり、その視点を得るというのは、現実から離れていくということ。

 その位置には尊さも思える。けれど、同時に、途方もない寂しさも。


「今は、違うの?」

「ああ。今は、違う。美しいと思うのは」

「なに?」

「秘密だ」


 教えて、と素直に頼めば良かっただろうか。そうすれば快く打ち明けてくれただろうか。そうかもしれない。


「そんなこと言われたら、気になって眠れない」


 でも、私は、こんなふうに言ってしまった。




 文化的な慣習、というものがある。子どもとして、期待すべきことが。していいことが。それはこの部屋でも有効なはずだった。


「ディア」


 言い訳をするなら、つまり、そういうことだった。


「じゃあ、お休みのキスを」


 そして、ディズはこんなショウジョの期待を裏切らない、とても素敵な人だった。


「うん。ありがとう」




「お休み」

「おやすみなさい」




 私の少女は目を覚まさなかった。寂しく感じなかったと言えば嘘になるけれど、このままでも構わない、とも思えた。

 私の心の性別の秘密は大げさにするべきではないと思う。ただ過度に女の子らしい服装や口調が苦手なだけで、今のままでいいなら問題ない。ワンピースくらいなら違和感はない。

 私は私でしかないのかもしれない。全てが思い込みに過ぎない、とは言わないけれど、少年として彼を好きでいられるのだから、結果的には少女の時と違いがない。一枚のコイン。

 ただ、私が成長するにつれて問題は大きくなるだろう。女性の体に宿るこの心の成長が楽しみでもあり、不安でもある。だから、それまではそっとしておこう。私は私。彼への好意を中心に、ゆっくりと歩いてゆこう。




 ニルキナが光に包まれて消えてゆく夢を見た。私の傍にディズがいた。小さな横顔が光に照らされていた。

 そして、光と闇の模様。宇宙の時空が渦を巻いているイメージ。私の内外に闇はあり、それらは光の輪郭によって示されていた。

 目覚めた時、私の傍に彼がいた。昨日と同じように、私は彼が目を覚ます夜明け前まで、そのあどけない寝顔を見つめていた。




 その、夜明け前。


「私、魔法使い(カルン)になりたい」

「なれる」

「どのくらい、時間がかかるの?」

「一人前になるには、何十年も。見習いになるだけなら、誕生日を迎える前には」

「よかった」

「ナクリスに行く。殻を破って魔法使い(カルン)の雛として生まれ直す旅になる。二日をかけて、地平線の向こうまで続く草原を歩いて海を目指すんだ」

「楽しみ」

「俺も一緒に行く」


 ディズは言った。内緒にしていた決意をいい機会に言えたと喜んでいるような表情をしていた。


「やり直したいんだ」


 思いがけない喜び。心が温かく膨らんだ。


「本当に、一緒に行ける?」

「許されるなら」


 弾けそうなこの気持ちは冒険心だろうか。期待と好奇心が入り混じり、私の少年も少女も喜んでいる。


「ディア?」


 万感を込め、言葉にならない思いを伝えようと、思い切って抱きついた。

 抱き返され、ちゃんと抱き合えたのは初めてかもしれない、と思った。







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