2. Iminamia
2. Iminamia
2-1.
二人は空を潜り抜け、白い広場を視界に収めた。
「お帰り」
次に、間もなく、力強くも可憐な声を聞いた。
デディゼンドは仕方なく頭上を見上げて声の主を確認し、観念して溜息交じりに頷いた。
白い衣装と鮮明な輝きを身に着けた金髪金眼の十代中程の少女。白い広場から出るための大きく緩やかな階段の終点で二人を出迎えていた。
笑みを湛え、腰に手を当て、階段の中央に立ち、明らかに進行妨害をしていた。
幼いレイディアを抱えて進む彼を見ていた。その視線は蔑みではなく、とても微笑ましいものを見ているような柔和なものだった。
そして、少女の横には同じくらいの背格好をした、やはり金髪金眼の少年が静かに立っているのが見えていた。少年も微笑んで彼らを見ていた。
デディゼンドは黙ったまま広場を横切り、階段を上った。
しかしそのまま無言で横を通り過ぎることはできず、待ち構えていたことに対する乱暴な意見を押し殺し、少年少女の横で足を止めた。
つまり、彼はどうしても十二歳の体の子どもだったので、黄金の少女より頭一つ分低い位置で視線を受けるしかなかった。その、金色の瞳。強く煌びやかな力が宿っていた。胸元の彼女にも煌く視線は投げかけられ、彼は少し不安になった。
「お帰り、シズ」
その時、少女の隣にいた少年が労いの言葉をかけてきた。最初の言葉とは違い、それは純粋に優しいものだった。
だから少し安心して頷き、続けてレイディアへと向けられる金色の優しい視線に静かに追随した。
「君を知ってる(ウィノウユー)」
優しい、地球の言葉。祝福のように彼女に伝えた。
「はじめまして(ナイストゥミーチュー)。メカナへようこそ(ウェルカムトゥメカナ)。僕はオリオン(アイムオリオン)、この人はエクシ(ディシズエクシ)」
「はじめまして(ナイストゥミーチュー)」
二人の言葉を聞き、月と地球の少女は二人を見つめ返していた。どれほど衰弱していたとしても、その青い瞳には理解の光が灯っていた。夜と暗闇の彼は黙って彼女を抱きかかえたままでいた。
すると、エクシが突然に黒い方の頭に手を置き、慈母の笑みを浮かばせ、そっと優しく硬い髪を撫でてきた。
無論、両手を使えなかったので、物理的に抵抗するのは無理があった。
「手を置くな」
そのまま抗議した。
「あはは」
次は明るく笑われた。オリオンも笑っていた。もう何も言えなかった。励まされているのだと分かっていた。
「あ、笑った」
エクシが喜んで彼女を見た。
「いい子いい子」
そう言い、今度は月色の細やかな髪を撫でた。彼女はずっと大人しくしていて、そして確かに小さな笑みを作っていた。
◇
その後、デディゼンドが未知の言葉で黄金の少年と少女と別れを交わした後も、レイディアはよく見ていた。薄れた意識と視界で、異世界の街の光景を。
デディゼンドが連れて来た街は、星型の地面が十数も重なる幻想的で巨大な白い都市だった。
側面の窪んだ多角錐のような立体都市。少しずつ半径を減らしながら、建築物を乗せる床が階層となって上下に重なっていた。それぞれの階層から階層までの高さはニルキナの建造物の十階分ほどもあった。彼は階層の外縁に造られた大きな階段をそのまま上り続けていた。何百段もの大階段。緩やかな曲線を描きつつ、上れば上るほど傾斜は急になっていった。
レイディアは階下を見下ろしてみた。地球の空と繋がる円形の真っ白な広間が星の地面の向こうで浮き島のように小さく浮き上がっているのが見えた。一階の白い星の床の先端は街を包む大きな藍色の空間と接していた。空のようでも海のようでもあるその空間はさらに下に続いているようで、深い部分はさらに深い色をしていた。
ふと、なぜか、あの街に似ていると思った。
デディゼンドは大階段の終点、数えて十一番目の階層まで上り続け、円周を描く外縁の通路へと足を向けた。
空と円形の街並みの狭間に、人通りはなかった。
灰白色の石畳。黒い軸と橙の明かりの街灯。光に溢れて見えない天井。そして、左右の、透明な硝子の層に覆われた白亜の壁。
壁の表面には遥かな天井から続く壮大な幾何模様。何種類もの線形の集合が一定の間隔の規則の元に複雑に絡まり合って白亜に薄く掘り込まれ、その全てが平らな硝子の層に薄く保護されていた。
彼の家の扉は地層のような規則を持った模様の足元に隠されていた。その場所まで彼が近づいた時に二層の壁が消え去るように長方形に開き、褐色の扉を自動的に曝け出したようだった。
彼を出迎えたものはいなかった。暗く、静かだった。
暗い廊下を進み、螺旋階段を上がり、その途中の扉が開き、長い廊下をまた進み、奥の部屋に入った。
そこが寝室だった。何の模様もないと思われる床と壁。最低限の家具が備えられた場所が開けていた。
暗闇の中、寝台に横たえられた。彼の体温の傍で、ほどなく深い眠りに落ちた。
(Into the dream ; recollection)
夢だと、初めから分かっていた。
煌びやかな街。あの街の、向こう側の世界。
毎日のように行われていたパレード。
電子の光。電子の私。電子の、母。
それでも、本当の、現実。本当の母。
拡張されたのは、原子世界ではなく、電子世界。
発展のためではなく、生存のために。選ばれたのは仮想現実。
つまり夢。苦痛を和らげるための偽りの楽園。
これは夢だと、初めから分かっていた。
このパレードも、母の笑顔も、今しか見られない幻だと。
それでも、これは現実だ、と認識しなければならないから。
できなければ、心が壊れてしまうから。
「ママ」
私は迷子。
「ママ」
罰が当たり、私は夢でも迷子になり、電子のヒトゴミに埋まる。
私もやがてゴミになるだろう。行く先はゴミ箱。デリート。母に触れられることなく消える。
それなのに、こんなにも簡単に私の手を握る、硬い手の人は誰?
「ロボットさん?」
見上げると、ヒトではなく、それは無口なロボット。パレードの入り口の無愛想な受付ロボットのヒトリ。実は逆に人気者。
「お仕事は?」
無表情で無骨なロボット。そういえば、どうしてこのヒトリだけがあんな態度が許されているのだろう。怒られないのだろうか。笑わないし、無礼だし。ずっとあのままでいいなんて、羨ましい。
「なに?」
接客用の無音声の定型文を書いたウィンドウは開かれない。もちろん、定型でない言葉がその口から表示されたこともない。
代わりに無言で私の手を引いてくる。背を向け、肩越しにこちらに振り返り、どこかに連れて行こうとする意図を見せる。
私は、拒めない。
ロボットは歩き始める。私はその細長い背中を見つめる。そのままヒトゴミの隙間を縫うように進んでいく。ジグザグ。止まったり進んだり。喧しいヒトと電飾と音楽の流れに逆らい、交わり、混ざり、分かれる。
やがて、ロボットたちと妖精たちのパレードが始まる。
「ママ」
その時訪れた、短い冒険のゴールは、ママ。恐くなんてなかったけれど、少し意外でありきたりで、幸せな結末。
代わりに無くしてしまうのは、そう、硬いけれど優しい手。
「プラスマイナスゼロ? 最初と同じ?」
なのに、口にされたのは、ありがとうも言えない馬鹿な私の、あまりに馬鹿な言葉。
でも、そんなことを気にもしないロボットは、もう片方の手を差し出してきて、そっと私に開いてみせる。
それはコトバの時計。そうだと分かるもの。機械のコトバを刻むもの。
私は恐る恐る手を伸ばす。私は開かれたワタシになる。
とてもキレイで、宝石のように煌くヒカリ。
代わりに、ヒトリのロボットはワタシと繋いでいた手を離す。
そして、夢を終わらせるためのように、語り出す――。
(Back to the peace ; mind)
◇
目を覚ました時には早朝だった。すぐ横でレイディアが目を覚ましていた。二人は同じベッドで横になっていた。
デディゼンドは室内用の簡素な白の上下を身に着けていた。一方で、彼女は。
意識はすぐに覚醒したが、眠ってしまっていた、という理解と諦めまでに数瞬もかかった。硬直し、息をつくまで数秒もかかった。その状況を鑑み、なんということだ、と嘆いた。
「おはよう」
彼女は恥ずかしそうだった。当たり前だった。
「おはよう」
彼は嘆きながら答えた。
「起きるか?」
沈黙に耐えられず、仕方なく言った。それでも、ベッドの上で見合ったままの姿勢から動けないでいた。
「今日はこのまま休んでいたほうがいい」
視線を外しながら、無理に体を動かして起き上がった。
「鞄をここに置いてあるから、着替えておいてくれ」
「うん」
彼女は弱々しくも丁寧に頷いたようだった。
◇
デディゼンドが部屋を出てからレイディアは体を持ち上げた。その時になって初めて、自分が裸であることに赤面した。
痩せた体は洗われていた。きっと昨日の夜の内に。何も言われなかったから、彼女も何も聞かなかった。ただ、恥ずかしさと申し訳なさと感謝があった。
そんな気持ちのまま、半ば夢心地で鞄を空け、下着と寝具を身に付け始めた。鞄の重量は元に戻っていた。思われることはたくさんあった。しかし、いつまでも漠然としたままだった。
黒い髪と瞳の少年の言葉と行いと表情が思い出された。全てが彼女のものと違っていた。あまりに違っていた。
どうしても覚えていることはあった。思い出してしまうことがあった。長い激震、崩れ落ちた建物、人体と死体、そしてあの一瞬。
しかし途端に恐ろしくなるわけではなかった。恐慌をきたさなかった。まるで見えない綿が心の毒を吸い取ってしまっているようだった。
漠然としたまま思い返しながら、前の釦を留めながら、自分はもう狂ってしまっている、ということを思い出していた。
◇
「顔が青い」
デディゼンドはメカナの飲物と果物を机に置いてからベッドの傍に立ち、冷たい汗の浮かんだレイディアの額に手を触れさせた。
「大丈夫か」
それ以外、何も言えなかった。
「うん」
それ以外、言える言葉があるはずもなかった。
だから、半ば無意識の内に彼女を抱擁していた。背中に手を回して抱きしめた。
「今は、俺は誰でもない。目を閉じて、楽にしてくれたらいい」
ひと時の間、彼は誰でもない者になることにした。でなければこんなことはできなかった。先に目を閉じた。
そして、その行いをどう思ったにせよ、彼女の体から強張りが消えた。
「うん」
彼女も誰でもない者になったのだろうか、それはそれでいいことだろう、と彼は思った。
衣服を間に挟み、呼吸や体温が伝わり続けていた。それらは次第に落ち着いていった。
ひと時が過ぎた。
地球の青い瞳。この黒い瞳はどのように見えているのだろう。
果物は前と同じようにデディゼンドが切り分けた。レイディアは時間をかけて全て口の中に入れた。その後、手渡された白い錠剤を何の警戒も無く飲み込んだ。
手洗いについては、彼が彼女を背負って一階のその場所まで連れて行った。抵抗は全くなかった。
落ち着いた頃、朝はもう早朝ではなくなっていた。睡魔が再び彼女を誘おうとしていた。
促されるまま横になり、彼女はすぐに安らかな眠りに落ちた。
携帯型の数位恒体の私的機密区分に、文字情報だけの一つの文書が直接届いていた。
メカナの最高責任者からの通告だった。
[お前の要望は承認された。被保護者を連れて私の部屋に来い]
時間指定すらないあまりに乱暴な物言いと権限の行使。苦い思いを抑え切れなかった。
静かな寝台を横目に見た。穏やかな眠りの光景。被保護者である少女の安息を願う自分を再確認した。
気を取り直し、恒体を集積情報網に繋ぎ、ここ数日の世界中の時事を確認することにした。
メカナではさして変わりはないようだった。彼が責任を負っている地上の軍管区は平常に機能を維持していた。
地球は、彼の予想通りの事態となっていた。
世界の半数以上の地域が人類史上で最大級の歴史的事業について大々的に報じていた。
[移民宇宙船の旅立ち]
[宇宙史の始まり]
[ついに銀河のステージへ]
地球の時間で今から二十二時間ほど前、欧米圏の全土から選抜された移民希望者を乗せた大型宇宙船の第一号が地球圏から宇宙に向けて発進した。正確には搭乗した四百八十人の内の大半が冷凍保存されたまま恒星間航行船に載り、太陽とは異なる恒星系の惑星へと送り出されたのだった。
未だ火星にも入植していない今の地球人類にはあまりに無謀な計画。しかし、銀河の海へと船出する人類の強さと英知を自画自賛してはならない理由はどこにもないようだった。まるで人類がこのまま宇宙を飛び回る新人類へと進化できるかのような妄信が生まれ始めているように思われた。
キリスト教圏や中道圏では未来に対する無批判の希望、栄光と賛歌が。イスラム教圏や共産圏では押し並べて冷ややかな無視が。独裁国や貧困国では無関心が。そしておそらくは羨望と嫉妬の怨嗟が。
大陸辺境の一都市がその歴史的出航の数時間前に消滅していた事件については、未だどのような機関も報じてはいなかった。その実験都市を抱えていた当事国でさえ。
地上の宇宙船は天空に旅立った宇宙船の影で人知れず消滅し、地球史で証明された箱舟は永遠に闇に葬られた。
電子炉の大釜は無という地獄の底に沈められた。蓋は閉じられ、二度と光を取り戻すことはない。
宇宙へと発進した船は従来通りの核融合炉を利用したもの。地球人はエネルギーと情報を分離させたままの文明水準で光速を超える魔法を目指し続けなければならない。
人類が黴菌か癌細胞の様に星の海へと増殖し始めようとしたその時から、あるいは人類の存在意義を終わらせる最後の予言から逃れようとしたその瞬間から、審判が下されたかのように地球は倦怠と衰退の地獄になるのだと思った。
母星にこびりつく、他の細々とした政治や経済の時事、殺伐とした貧困やテロの記事を見ながら、デディゼンドは深く、これからの暗黒と混沌の時代について思索し続けた。
何事もなく一日が過ぎ、次の日の朝が訪れた。デディゼンドは一日中彼女の傍にいた。メカナの惑星社会から送られてくる公式文書に目を通し、情報官から提供される情報と自身の見解の二方向からそれらを検証し、文書に誤りがないことを確認し、承認した。その仕事を繰り返した。
その後も地球とメカナの多数の惑星で生まれる最新の時事を常に数位恒体が自動的に収集し続けていた。
彼はただ彼の部屋に在り、広大な世界を必要とせず、いくつかの小さな窓を通じて無言のまま他世界を眺めていた。冬眠しているように深く眠る彼女の様子を時々伺いつつ、時が過ぎるのを静かに待っていた。
[今日一日はいつでも大丈夫だから]
そう伝えてくる一つの文書を除き、デディゼンドが相対するものは時間だけであるようだった。
「おはよう、ディア」
そして、レイディアが目を覚ました。
「これからはそう呼ぼうと思う。駄目か」
「ううん」
彼女は首を振った。
「気分はどうだ?」
彼はそのような愛称を使う理由を言わなかった。時機が来ればそうしようと決めていたことであり、明確な理由を言うべきことではないと理解していた。
「大丈夫」
彼女もその理由を聞かなかった。
「ありがとう」
構わず、そのまま無垢な感謝を表した。仕草には無条件の安堵が表れていた。
◇
地上を離れ、訪れたのは、清水の時代。清らかな水分がこの体に入ってくるのを感じていた。
そして、世界について、彼の言葉が浸透する。
「並列宇宙層。それが、この宇宙の構造だ。
地球人を祖先にする文明が広がる、地球宇宙やこの宇宙を含む宇宙の層の名前は、フンクト。
事象の平行な世界というわけではない。地球宇宙と同じ物理法則を持つ、無数の球面状の三次元宇宙の並列宇宙がさらに球面状の四次元空間上に並んでいる、という意味での並列になる。
違う可能性やイフの世界という意味の平行世界は過去世界、未来世界と同じものだ。四次元の空間には存在しない。
フンクトの人類のほとんどは複数の並列宇宙にまたがって文明圏を形成している。このメカナもその文明の一つだ。
俺は、メカナのカルンの一人。
カルを英語に直訳するなら、魔法系。そしてその行使者、魔法使い(メイジ)を、カルンという。
人間にはソラという体内の量子領域が存在している。それは生命の半直線。そのソラの中で並列宇宙層の直線樹の一端を紐解き、恒久のエネルギーを取り出して利用する技術体系がフンクトにはあり、それをカルと総称している。
直線樹はイミルと呼ばれる。仮想的なエネルギー体でもあり、カルを実在させるために存在していなくてはならない五次元以上の天体でもある。古くはカーが魔法を、ルーが系を意味していた。つまり、カルとは高次から得られる力の法則を体系化させたものだ。
パラレルスペースレイヤー、マジックシステム、メイジ、クオンタムドメイン、ラインツリー。
フンクト、カル、カルン、ソラ、イミル。
そして、ビアス。
人は精神とソラだけではイミルには触れられない。カルを使えない。そのためには、ビアスという複写符号が必要になる。
メカナでは、単純な有機物から生命が生まれたように、原始的な生命がDNAを獲得したように、それは極めて低い確率で自然発生した生物学的な組織だと考えられている。
ただ、フェノと呼ばれる数的物質の中の、さらに未知の物質から作られている符号だということ以外、その正体や起源は人間の意識と同じように今でもほとんど解明されていない。最古のもので一万五千年前。それ以来、地球上の各地の人間に断続的に発生したビアスがDNAのようにフンクトの人類に受け継がれている。
ビアスは複写される。多くの場合、親から子へと遺伝する。人の、体内の量子領域、細胞の狭間、粒子の隙間、電位の間隙を巡る、量子領域の背景宇宙に。
ビアスは人体の宇宙に宿る可能無限。
無数の球面三次元宇宙の積み重なる、この一塊の球面四次元空間を遥かに越えて流れる大樹から質点を取り出すための可能無限。力の果実であり、魔法の源だ。
ソラに宿るビアスからイミルに至り、カルを用いカルンになる。それが、フンクトの人間の生き方になる」
◇
「ディズは?」
「俺か?
俺はここで暮らすようになって一年になる。メカナに来たのは六年前だ。地球で生まれた人間で、元々はこちら側の人間じゃない。今は、英語でそのまま騎士と呼べる、軍人として働いている」
「騎士?」
「ああ。騎士という。色々なことがあり、こんな滑稽な場所に落ち着いた。
「荒唐無稽な上、少し長くなるが、自分のことを話していいか?」
「うん。教えてほしい」
「そうだな、俺は、物心がついた頃には人間としてはもう手遅れだった。自分でその頃の俺を殺したくなるほどだ。そして、結局、自分から殺されるようなことをした。
行けるはずのない遠い宇宙に行こうとして、自暴自棄になって、抵抗もせずに自分から体を捨てたんだ。もちろん、望んでいたような宇宙には行けなかった。辿り着いた先に広がっていたのは、絶望するしかないほどに光輝く風景だった。
耐えられなかった。だからすぐにその場所からも逃げた。その次は、数位宇宙。元素宇宙のこのフンクトとは物理法則が異なる、全く別の並列宇宙層。もう、どうしようもなかった。
違う宇宙に辿り着いてしまってからどうしようもないほどの時間を過ごした。
主観時間で、およそ千八百一年。
本当だ。馬鹿みたいな話だが。
そして、この宇宙に戻った後もただひたすらさ迷っていた。そうしていたら、メカナの一つの惑星でカルンという魔法使いに捕まった。俺のことを、物珍しいから調べてみようと思ったんだそうだ。それが俺の教師だ。魔法使い(カルン)から魔法系を正式に教わったのはそれが初めてだった。
カルンはどうしようもない人殺しだった。ああ、彼の名もカルンだ。初めにそう言われ、俺が勘違いをしてそう言い、向こうもそのままでいいと言ったんだ。
カルンは何の躊躇も無く敵対者を皆殺しにしていた。慈悲を乞わせる時間も与えず、一度に数百人を殺す魔法を使い、生涯の内に間違い無く百万人以上を殺していた。俺は彼に従事し、この世界の常識や歴史、カルの基礎を教わり、最後に遺言を聞いた。彼は千年の壁を越えられなかった。
そして、カルンの遺言に従い、戦うためにここに来た。騎士になり、殺人にしか使えないような銃を撃ち、敵を殺している。
まあ、俺のこの口調からも分かると思うが、それでも、人間としての精神年齢は十八歳程度に過ぎない。千年の時間を過ごしても大人や賢人になれるわけじゃない。ただ、もうどうしようもなく子どもでもない。大人として生きている。
俺はどうしようもない人殺しだ。今までに何千人も殺している」
◇
「本当の名前を教えてくれる?」
「エンデ エンジェル。エンデの方が名前だ。エンジェルが家名」
偽名だとよく気付いたな、と言っているような穏やかな声と表情で彼は言った。
「両親は俺に名前をつける前に戦災で死んでしまっていたから、エンデという名前が施設の年長の子どもから名付けられた。この名前は彼女が好きな作家の名前だった。ただ、これがその作家の家名の方だと知らなかったらしい」
そう言い、懐かしそうに小さく苦笑した。
「教えてくれて、ありがとう」
彼は小さく頷いた。
その時、彼女は命のかたちを見たように感じた。それは彼の姿をしていた。彼は黒い髪と瞳を持ち、子どもの顔で父の表情をしていた。そして彼は白い服を着る少年でありながら赤い姿で人を無残に殺す者だった。彼女は自分が少女であることを瞬きの内に見直し、あの残虐な光景を思い出し、かつての平和なあの頃に自分が無邪気な子どもであったことを認めた。
優しく扱われていた性と無理やり暴かれた性があり、彼は暴くものを殺すものであり、同時に優しい少年であり、暴かれた彼女はそのような彼という存在に依存していた。彼女の命のかたちはそれを是とした。それを彼女は認め、大切なことだと思い、大事に胸の内に秘めておくことにした。
恐れを持たず、命を預けた彼に従うことを改めて自ら認めた。
破滅と死と悪意に襲われ、光景と記憶を破壊され、死神のような魔法使いに助けられ、心は普遍性から逸脱するものとなっていた。
彼のように。
そのように、半ば意識された望みを持って。
玄関が開き、街中に溢れる白い光が差し込んできた。
「一緒に来て欲しい。直接会って許可をもらう必要があるんだ。いいか?」
レイディアの答えは決まっていた。しかし、それでもすぐに頷きを示すのが申し訳なくなるような表情をデディゼンドはしていた。命令することに慣れていないのかもしれない、と思った。
初めて自分の足で歩くメカナの街並み。これが異世界。
街路に吹いているのが不思議なくらいに爽やかな風を感じた。左右の壁と模様に囲まれた道は不思議な明るさを湛えていた。明るい光が天井や街灯から零れ落ちていた。壁の透明な層は白い壁と模様を保護するだけではなく、二つの色の半分ずつを一度取り込んで模様に当ててから街路の空間に優しく投げ返していた。
同時に、少しばかりの寂しさを感じた。それは寂寥でもあり、静寂でもあった。天上はこのように寂しいのかもしれないと、光の空洞の向こうにある大きな木の緑を見ながらレイディアは思った。
「ここに来た時に、十五歳位の男女に会ったんだが」
もちろん彼女は憶えていた。少し年上の人たちの輝き。とても鮮明なものだった。
「オリオンとエクシ。地球の言葉が今の名前になっているのは、二人の趣味が地球文化の模倣だからだ。メカナにはそういう人間がかなり多い」
彼は少し笑って言った。
「二人は俺の上官に当たる。ニルイウスという最上級の軍人で、見た目通り、御伽噺の住人だ」
「あの人たちも?」
「ああ。ここ、イミナミアはそういう人間が住む場所になっている」
「ここは、基地のようなもの?」
「そう。魔法を使う異世界の官僚と軍人の本拠地。ここはメカナの全てじゃない。それどころかここは支配者たちが住む天上の小さな城で、メカナの文化のほとんどは地上にある。地上は、そう、エネルギーに満ちている。豪華で綺麗な世界だ」
「地球とは違うの?」
「主に流通している資本は、エネルギーそのものだ。エネルギーや資源の恒久生産が達成されていて、個人や企業が使用できる多様なエネルギーと、資金化されたその数量が生活水準を決める。恒久ではあっても有限だから、そういう資本経済が成り立っている。
ただ、メカナでも犯罪や抗争は無くなっていない。エネルギー分配の問題も残っている」
目覚めた時からレイディアは傾聴していた。彼の言葉を全霊で記憶の空間に刻み続けていた。なぜなら、そのような言葉の全てが今ここで記憶すべきことだった。とめどなく空気に散る、しかし明瞭に彼女へと与えられているこの世界についての事柄だった。
それは、彼女自身の利益のために。条理から逸脱した者として、人格のひどく冷静な一面をつくり、敬愛する人の言葉を呑み込み続けた。
敬愛する彼の言葉を。
それを、人格のひどく冷静な一面が、ここで初めて認識した。自身の人格を俯瞰する彼女は、それを、胸の内に秘め持つことを是とした。
「政治も男女平等の民主主義を維持しているが、有力な家系に役職を独占される傾向は地球の大国以上だ。深刻なところでは、家名がそのまま地位を表している。腐敗もある。
致命的な宗教対立が存在しないことが平和維持の大きな救いになっているところが大きい。幸い、大規模な内戦は千年以上起きていない。治安も良く、一般市民の安全は保障されている。仕事や娯楽が充実していて、生きていく上で退屈することはないだろう」
前を見て話していた彼は少女の様子に気付かなかったようだった。意図して、気付かないように、前を見てくれていたのかもしれなかった。
レイディアが街路の端まで辿り着いたのは、そのような喜びの中で感受性が高まっていた時だった。
その帰結として、彼女の中で極めて純粋な表象が新しく生まれた。それもまた、あるいは奇跡的なことだった。
「あれに乗って上に行く」
何本もの大木に囲まれたそれは、天国の階段だった。
空中に浮かぶ何十枚もの白い結晶板が二重螺旋を描いて天に向かって伸びていた。螺旋の一本が上空へ、もう一本が階下へと、ゆっくりと自ら回転しながら動いていた。
「あれを初めて見た時には俺も驚いた。あまりに幻想的だな」
「うん」
螺旋階段が貫く大きな縦の空洞の周りに広々とした公園が造られていた。芝生の緑と木々の緑。小さな泉と小川もあった。
そして、公園内や螺旋階段の段上に人の姿が見えていた。初めての他者たち。彼と同じような青い服を着た人間たちが普通に石畳を歩いていた。
デディゼンドは空のように青く澄んだ衣装を身に着けていた。他者を認めて、彼女はその事実も改めて認識した。あの街での赤や自室での簡素な白ではなく、高貴さも漂わせる青いローブ。彼女は彼に合わせて空色のワンピースを選んでいた。色という表象はこんな場所でも共有できる価値観であるようだった。
ふと、まるで透明な言葉が彼女の耳を通り過ぎた。メカナの、イミナミアの人間たちが彼女の知らない言葉で話し合いながら、公園に足を踏み入れた二人の横をまるで無関心に通り過ぎていった。
彼らが二人に気付いた時、彼女に対してはもちろん、そして彼に対しても無色で静かな視線を向けてきた。
デディゼンドも気にせず通り過ぎた。一人一人にレイディアを紹介することもなく、無言のまま進み続けた。
理解した。異世界にあってもなお、天国のような場所でもなお、地球と同じような社会が形作られているのだと。このように見てくる彼ら、このように見えている彼らとはこれからもずっとこのままなのだろう、と思い、静かに見返し、見遣ることにした。
このような人たちの中から彼だけが地球のあの街に来てくれたのだと分かった。それはとても大きな不思議だった。見逃してはならない、とても大きな事実だった。
無作為がありえないのなら。それに気付いた。
「黒い髪と赤い服の少年に助けられましたか? 西へ逃げろと言われましたか?」
果たして、その時、女性の声が白い石畳の上に放たれた。ソプラノの声が大きく響き、彼女の足を止めた。
「黒い髪と赤い服の少年に助けられましたか? 西へ逃げろと言われましたか?」
美しい女性。二人と対面して立つ大人の女性。長い髪は夜空で、瞳は満月の傍の深く澄んだ藍の色。銀の刺繍の純白のドレス。そして、両手で胸に持つ、一輪の白い花。
一片の宝石のような青い蝶が女性の傍でひらひらと舞っていた。
英語で質問されているという状況それ自体に気付いた。
「はい。私は彼に助けられました。そしてそのまま彼について行きました。他の人たちは彼に言われた通りに西へ行きました」
「分かりました。では、私の助けはいらないようですね」
同じ言葉のまま、女性は言った。
「これで私の役目は果たされました」
レイディアはあの八人の市民が青い蝶と共に消えた光景を思い出していた。つまり、それが答えだった。
「彼女のことについて、あなたには詳しく報告するべきでした。申し訳ありません」
それまで黙っていたデディゼンドが言った。とても丁寧な口調が彼女の耳をくすぐった。
「構いません、正規の任務ではなかったのですから。これは私が勝手に確認したかったことです。こちらこそ済みません。あなたたちの邪魔をしてしまいました」
女性は優しい口調で応じ、くすりと笑って話を続けた。
「私の方は少し大変でした。どうやら、街の反対側から来た人たちが大勢の市民を引き連れて来ていたようです。あなたたちがこちらに来なかったのは幸いでした。最悪の場合、安全を優先するために彼らの自由を奪わなければならなくなっていたでしょう」
「そうでしたか」
「安心して下さい。あなたからの連絡までに、ゲートまで辿り着いていた市民全員を無事に救助しました。脱出できた市民は地上で治療を受けています。状態が落ち着き次第、順にナクリスに移されて正式な登録を受けるでしょう」
デディゼンドに助けられた時のことを思い出した。彼が助けた人たちのことを思い出した。なぜなら、思考するべき機会がこんなにも明白に与えられていた。
今ここで、分からなければならなかった。そう要請されていた。時空に、世界に。言外に、目の前の女性に。
彼女は理解した。理解できた。
少なくとも、自分のせいで彼が本当に貴重な時間を失っていたと分かった。
そうだと分かった。言葉にならないものが胸で生まれた。もう、理屈ではなかった。感情の海に落ちて解け消えた。しかし無くなることなく言葉を生んだ。
「ありがとう。ごめんなさい」
傍から、心からの言葉を受け、デディゼンドは驚いた。
「ありがとう」
レイディアは感謝を繰り返した。その時にはもう、俯いて胸に手を当てて我慢していた。多くのことが一度に理解され、感情がどうにかなってしまいそうだった。
向こうで美しい女性が笑っていた。彼はまだ戸惑っているようだった。
命懸けで自分の気持ちを落ち着かせ、顔を上げて女性に向かって丁寧に頭を下げた。
「教えて頂いて、ありがとうございます」
「構いません、このくらい。あなたは賢い子ですね」
女性は優しい笑顔で言った。
「私はサフィア メカナ。騎士の最高位を預かる者です。ニルキナでは炉心と市民の救援を担いました」
「レイディア イチカといいます」
女性に応えて名乗りながら、今度は彼女も驚きを隠せなかった。
「今日は、あなたに会いたくて来ました」
サフィアは言った。
「そして、できるならあなたに謝りたい。しかし、それは許されないことです。だから、せめて、あなたに」
差し出されたのは、両手に挟む白い花。応え、そっと片手を伸ばした。
「ありがとう」
対面する女性の深い青の瞳に大切なものを受け取ったレイディアの姿が映っていた。
「あなたの幸せを心から願っています」
答えられなかった。理解した時からずっと、もう片方の手で胸を強く押さえていた。
青い蝶と共にサフィアが静かに去った後も、ずっと。前を向いて俯き、受け取ったもののかたちを胸に抱き続けていた。
二人は螺旋を描いて自転する白い階段を見て立っていた。上昇する螺旋は縦穴の向こう側に逃げていた。時間が二人に与えられていた。
「そもそも、俺は根本的に見捨てすぎた」
彼は言った。
「脱出できた者は、ごく僅かだ」
それは、懺悔のようにではなく、告示のように語られた。
緩やかに回転する真っ白な螺旋。時間をかけて二人の元に戻ってきた。
宙に浮かぶ一枚の半透明の石板は大きく、二人を乗せる時に速度を緩めたため、彼女は簡単にその流れに乗れた。螺旋は簡単に二人を持ち上げた。
回転し、上昇した。公園が眼下になった。大樹の樹冠の隙間から放射線状に築かれた六本の街路が見えた。青白い空が見えていた。
恐ろしくはなかった。高いところにいるのは苦手ではなかった。ただ、彼への感情があまりに高まるのが、少しだけ怖かった。
「俺はあまりに傲慢だ」
彼は言った。
「あまりに殺しすぎた。今はもう、手を繋ぐこともできない」
彼は呟いた。自分の手を見て言っていた。
「手を繋いで欲しい。そうしてくれると、嬉しいから」
彼女は願った。その願いと言葉に彼女自身も驚きながら、しかし言葉は止まらなかった。連なる階層を越えながら、あの雨の中の記憶を思い出しながら伝えた。
「メカナはずっとニルキナを見守っていた。地上の宇宙船を」
彼は続けた。悔い改めるように言った。
「俺も見守っていた。それなのに、危機に気付けなかった。その可能性に気付けなかった。見守っていただけだった。本当の危機から救えなかった。それが、どうしようもなく、悔しい。悪いのは、俺なんだ」
二人とも、もう何も言えなかった。
短くはない時が過ぎた。
少女のささやかな願いは聞き届けられた。
二人は手を繋ぎ、緩やかな上昇を共にした。
「見て欲しいものがある」
二人は手を繋いだまま螺旋階段から降り、細く尖る空中の渡り廊下に足を踏み入れた。燐光を抱く眼下の階層が見下ろせた。巨大な吹き抜けの中、星型の床が何重にも積み重なっていた。青い服の人間たちが回廊や階段を行き交っていた。
つまり、それ以上、見るべきものは何もなかった。
レイディアを見る他者はいた。回廊の只中で手を繋いで歩いている二人と彼女の持つ白い花に目を止め、何も言わないまま足を止めずに過ぎ去っていく大人たちだった。
それを彼女は気にしなかった。繋がれている手に感覚を置いた。
網の目のように張り巡らされた回廊の一つの先端を抜け、白い巨大な壁面を潜り抜けると、花の咲き誇る庭園があった。
遮るもののない大きな球形の空間の中、何十段もの花壇が同心円状に形作られていた。赤煉瓦の通路や水の流れが色とりどりの花や芝生を繋げていた。
最上段の花壇の外縁に沿う扉は幾つもあった。しかし、花を観賞する大人たちはいなかった。花の色と水の光が輝くだけで、二人を除いて、天国の庭園は無人だった。
煉瓦の坂を下り、アーチ状の小さな橋を渡り、見たこともない美しい花の園の只中を通り過ぎた。
花園の向こう側にも直線状の空中回廊はあり、やがて、大きな半円形の扉の一つに辿り着いた。
半円の扉が左右へと消えるように開いた時、同調するように二人の手も自然と離れた。
「展望室だ。イミナミアが停留している星がよく見える」
青く輝く星が見えた。
薄暗い部屋の透明な壁と床と天井の向こう。大きな青い惑星。その全球。両手に抱えられないほどの巨大な青い天体が漆黒の宇宙空間を背景にして浮かんでいた。丸い海がレイディアを飲み込んだ。突如として光と闇の空間に立ち、彼女は自身の姿を無くしてしまいそうになった。
「キキス。地球によく似た環境の惑星で、メカナの惑星の一つ。人口は六億ほど。居住区は大陸沿岸の都市群に集中していて、他の地域の自然環境を保全している。入植から五十年が経過した、典型的な慰安型の植民星」
デディゼンドが彼女の背後から説明した。
「メカナは地球文明の理想的な未来図に近い。基本的に、こうした地球型惑星に生活圏を造っている」
波打つように広がる青い海と白い雲、緑の大地。暗い地表部分で炯々として連なる都市の明かり。
「カルンは並列宇宙を渡る技術を持っている。それがカルの本来の用途でもあり、本質でもある。
一万五千年前、地球で生まれた最初のカルンが宇宙層を越えて地球とは異なる惑星に辿り着き、それから数多くの文明が興隆と衰亡を繰り返した。
メカナが発祥したのは地球時間で二千二百九十一年前。他文明の吸収と殖民を繰り返し、現在の人口は一兆五百三十億まで増大している。人間の平均寿命は、約三百二十年。老化もほとんどない不老長寿の人類社会。四十一の惑星と七十五の衛星、九つの小惑星群、そして千億近くの人間を抱える恒惑星を七つ携え、巨大な文明圏を形成している」
「私も、いつかあんな星に行ける?」
「ああ。必ず」
「楽しみ」
「こんな世界が、遥か昔から造られていた。何千年も前から。フンクト全体では推定で十兆七千億を越える。それだけの人間が星の世界に散らばっている。もう誰もその全貌を正確に把握できていない。人間の数はこれからも増え続ける。宇宙は無数にあり、星はさらに無数にある」
「戦争も?」
レイディアは背後へと振り向いて尋ねた。デディゼンドは体を淡い青の燐光に染めていた。
「戦争も。何度も大きな戦争があった。今でも、何度も繰り返されている。そして、壊されてきた。何百もの惑星が。殺されてきた。今の全人類を滅亡させるほどの数の人間が。
何千年の年月とカルの力が人間のかたちを変えた。今ではもう、異なる文明には異なる人類しかいない。戦争以外の交流はほぼ不可能になっている。人のかたちをそのまま保っているのは、メカナの人間くらいだ」
星は光り続けていた。回り続けていた。丸い大陸や海の上で綿のような雲が流れていた。暗い海の傍で街の明かりが瞬いていた。
「こんなどうしようもない世界を、知っていかないといけない。それでも、少しずつでいい、この世界を、知っていってほしい」
「うん」
二人は宇宙に浮かぶ星と立ち並んだ。時の経過を忘れるほど、静かに青い星に見入っていた。
そして、時の果ての試練の時。
「メカナの言葉の意味を伝えるから大丈夫だ」
展望室を出てから、彼は口数を少なくしていた。
だから、大樹の幾何模様が描かれた白亜の扉を見た時、そうなのだと彼女は理解した。あの女性に続き、しかし予定された異世界の他者との面会が迫っていた。
「この先に、メカナの長がいる。ユグライグノという。神話の時代から一万年以上を生きているカルンだ」
そして、扉の向こうで小さな二人を待っていたのは、まるで皺がないだけの老人のような、石のような青年だった。
「来たか」
年若い老人は黒く荘厳な机の向こうで厳かに告げた。
硝子の下で蛇のような模様が渦巻く白亜の部屋で、老人が唯一つ黒い机の向こうにあり、室内の小階段の上から二人の入室の様子を注視していた。
デディゼンドが一歩前に歩いて段を進んだ。二人の手は入室前に再び離されていた。離れないようにレイディアも足を進めた。言葉の数々は無事に胸の中に抱かれていた。白い花も。
遅れずに足を踏み出せた瞬間から、言葉が自然と心の中に浮かび上がっていた。
カル。カルン。イミル。ソラ。ビアス。
デディゼンド。オリオン。エクシ。サフィア。
ニルキナ。イミナミア。イシャ。メカナ。フンクト。
三百二十。二千二百九十一。一万五千。一兆五百三十億。十兆七千億。
エンデ エンジェル。千八百一。見えない力。見えない銃弾。
故郷の街での出来事。地球での飛行と天国での休息。彼と私の言葉と行動。
「分かるか」
それはまるで儀式のように。老いた青年が彼女に向かって厳かに尋ねた。
「はい」
レイディアは明瞭に自分の言葉で答えた。老人から放たれた言葉の翻訳が彼女の中に伝わっていた。言語という非心象の意味理解が老人の音声に重なり、なおかつ未知の言語の発音と混濁することなく彼女に対して啓かれていた。
「終局で知恵の実を得たか」
老人は彼女が胸に抱く白い花を一瞥し、厳かな表情のまま頷いた。
「デディゼンドの保護の下、思うままに生きるといい。責任者である私が認めよう。これに手をかざせ」
老人の手元から差し出されたものは、長方形の薄い板。
全くの、黒色。室内の明かりを四角に切り取り、闇を硬く投げかけていた。
「登録のため、保護者による命名が必要だ。まず、家名は、リアリオンとする」
レイディアが前に歩み出て手をかざした時、老人は言った。
「レイディアンシア」
手を差し出したままの彼女にその声は届いた。彼女の名を含む、この世界の言葉。
「レイディアンシア リアリオン。これで、お前はメカナの人間として生きる権利を得る。正式な認可を待て。私も、おまえの幸せを願っている」
老人は深く溜息をつくように言った。
退室時、扉が自ら閉まろうとしていた直前に振り返ると、老人が腰を深く下ろしたまま二人に厳粛な一瞥を投げかけているのが見えていた。
「大丈夫だったか?」
「うん」
レイディアは様々な驚きを持ち続けていた。離さないでいた。
与えられ続ける、このあまりに不可思議なものを無くさないようにすることが改めての試練だった。片方の手に彼の手のかたちを、もう片方にこの世界の不思議のかたちを、その間の心に今見聞きしているものと今まで見聞きしたものの象りを感じていた。
それは喜びだった。幸せだった。
レイディアはどうしようもなく狂いながら、ささやかにおかしみながら、あの瞬間からずっと彼に善がり続けていると自覚しながら、優しいデディゼンドに愛を求めていた。
そして、彼女は自分が彼に愛されていると分かっていた。それをきちんと理解できていた。それが嬉しかった。
彼女が背負うべき罪も彼女に下るべき罰もないことを彼がいつも教えてくれていた。無力であることが罪であると、無力なものが悪を生かすと知った彼女は、だから余計に嬉しかった。より深く感謝した。
「レイディアンシア リアリオン」
「ああ。それがこれからのディアの名前になる。勝手に決めてしまって、すまない」
「ううん、いいの。ありがとう、私の名前から作ってくれて」
「リアリオンは俺の今の家名だ。デディゼンド リアリオンがここでの正式な名前になっている。それと」
「それと?」
「いや、後で話す。もう少し驚かせたい」
驚き、喜んだ。何より、彼と同じ名であることと、彼が笑っているのがとても嬉しかった。
「最初の名前を忘れる必要はない。俺も覚えている」
穏やかな笑顔のまま、横顔のまま、少し俯いて、目を閉じて、彼は言った。
「うん」
「レイディアンシア」
「うん」
「どうか、その名と共に、幸せが訪れますように」
たとえ彼が否定したとしても、それはきっと、愛以外のなにものでもなかった。
その直後の、邂逅。二人が渦巻く階段に足を乗せようとしていた時の、僅かな時空の隙間。
天の階段の終端よりも高い階層にあるテラスから美しい女性が二人を見下ろしていた。最初にデディゼンドが気付いた。高く遠いところにいるその女性は二人の視線に静かな笑みで答えた。
女性の髪は夜空で、瞳は満月の傍の深く澄んだ藍の色。
サフィア メカナ。この世界と同じ名を持つ人。彼と一緒にニルキナを。
言葉を止め、女性を見つめるだけにした。見つめずにはいられなかった。二度目の表象はとても強く心の奥に焼きついた。
「ディア」
名を呼ばれ、彼を追って階段へと足を踏み出した後も、とても強く、心に残っていた。
◇
(1st clear revolution ; you)
◇
螺旋階段の公園と繋がる街路の内の一つ、その道のほぼ中央、銀河が生まれようとしている模様の下。
「この先にオリオンとエクシの家がある。寄っていこう。招かれているから大丈夫だ」
現れた扉の向こうには、まず、新緑。公園の緑とも違う若々しい色が土と芝生の上で小さな繁みを作っていた。
そして、その色の向こうには、室内とは思えないほど広大な白い空間。今までのどんな場所よりも大きく開けた場所だった。
「俺は一人用の家の分しか使っていないが、イウスに与えられる家屋の空間はかなり大きい。普通はこうして箱庭のような場所を内部に作り、その中に宮殿か城のような家を立てる」
扉を囲む緑を潜り、空中を横切る広い通路に出た。天井は空のように頭上の遥か上にあった。縦に長い円筒だとかろうじて視認できる光源が列を作って天井から下がっているのが見えた。それらは太陽のような純白の光を放出していた。だから、彼の光の魔法が自然と彼女の中で思い出された。
「ただ、オリオンとエクシは変わり者で、小さな家と森で満足しているみたいだ」
広い通路の先には、入り口と同じ新しい緑の茂みを両手に抱えた一戸建ての家が見えていた。白亜の壁が正方形に取り囲むこの大きな空間の中、家は二人が入ってきた扉とは対角線上に位置しているようで、まさにその線上の通路によって一直線に結ばれていた。
もう一つの対角線上には短い通路があり、その左右に森と言うべき木々の集まりを載せた白い基部がせり出してきていた。森は向こう側にも大きく広がっていて、庭を通じて家の敷地と陸続きになっているようだった。
対角線の中央、二本の通路が直交する場所は円形の踊り場になっていた。そこから四本の白い階段が下に向かって伸び、それぞれが緩やかな曲線を描いて眼下の空間を目指していた。
空中の通路と基部の下は全て湖だった。綺麗に透き通る水が正方形の底面に湛えられていた。宝石のように煌く黄色や水色の砂粒が水底の多くの範囲に敷き詰められ、鮮やかな赤色や青色をした熱帯魚のような美しい魚が悠々と泳いでいた。
そして、下へと伸びる階段は途中の湖の水中に空洞を作り、空中の湖の透明な底を越え、さらに下へと続いていた。
四本の下降曲線のそれぞれの終点で新しい踊り場が設けられ、そこでまた数本の階段が分岐して下に向かい、それぞれの先にまた踊り場があり、また階段が分岐し、下へ下へと続いていた。
数え切れない程の数の階段が曲線を描き、ずっと下の方で白い円柱形の建造物を囲み、青い服とは違う色彩豊かな衣装に包まれた多くの人間たちを乗せているのが見えた。
円柱の建造物はその幹からいくつもの枝を伸ばし、座席と机を備えた台座を掲げていた。人々は階段を伝って自由に台座の行き来をしていた。建造物の中に入っていく者もいた。
白い表面と服装の色彩だけの光景ではなかった。七色以上の光が階段や建造物を彩っていた。それらは眼下の人々が手元に生み出す細やかな光だった。それらは人の手元や建造物の傍に浮かぶ厚みのない枠の中で点灯や点滅を繰り返していた。向こうの街のウィンドウと同じようなものだ、とディアはすぐに気付いた。
魔法の光は星のように瞬いて白い地底を美しく彩っていた。そのような白さと眩さが遥か底まで続いていた。二人がいる上空を見上げてくる者はいなかった。
どこか、不思議と日常的な光景に見えた。天使の職場みたい、と素直に思えた。
「オリオンとエクシが作った個人的な研究所で、働いているのは二人に雇われた研究員だ。下の階からこうして繋がっている」
下を覗き込んでいる彼女に、ディズが優しい口調でそう教えた。
三度、手は繋がれていた。ただ、手と指以外が触れ合うことも、またなかった。
だから、手と指以外の多くの部分が触れ合っていた時のことが連想的に思い出された。
今は違っていた。これが彼の決めた私との距離なのだろうと思った。これからはもうこれ以上はないのかもしれないと思うと少し寂しくなった。それが正直な気持ちだった。
この人はどう思っているのだろう。
その思いはつまり、今までの一方的な感謝と敬愛とは異なり、教示を望む思慕だった。話を聞きたいと思った。保護の下、どのような関係で過ごしていけるのかを知りたいと思った。
極端に言えば、私を好きにできるということを彼がどのように考えているのか、私は知りたいのだ、と気付いた。
しかし、それを声にすることはできなかった。心の中でしか言葉にできない不文律であり、生前の原因だった。私、という存在が存在するための条件だった。
だからこそ、不文律の過去を前提とし、これからどのように接していけばいいのか、ということ、つまり、彼への従い方について、彼に教えて欲しいと願った。
◇
新緑の木立に囲まれた、地球の西洋風の上品な家屋。正面の扉が開いたのは、その庭先に足を踏み入れた時だった。
「いらっしゃい。待ってたよ」
少年の姿。オリオン。
ディズは頷きで答え、そのまま少年が待つ玄関へと向かった。手を繋いでいるディアも自然に彼に続いた。少年は柔らかな笑みを浮かべ、そんな二人の到着を玄関先で眺めて待っていた。
「手を繋いでる!」
甲高い声が突然響いた。
家の中から小さな男児が出てきてオリオンの足元で止まった。目の前に垂れている裾をかじり、驚いた顔で二人を見てきた。その子どもはオリオンと同じ金色の髪をしていた。顔立ちもよく似ていた。
ディズは何も言わずに子どもの頭の上に手を置いた。そしてそのままやや乱雑に小さな頭を撫でた。
「世話になる」
子どもの抗議の声を無視してオリオンに言った。
「遠慮せずに、どうぞ」
少年オリオンは笑顔で二人を家の中に導いた。まだ何も言えないでいる彼女は少し緊張した様子で、対面した少年と男児を交互に見ていた。
「シズ、ガールフレンド?」
手元の子どもの方は遠慮なく聞いてきた。子どもは頭の上に置かれたままの手をもう気にする様子はなく、オリオンからディズに移り、彼の体越しに彼女を伺っていた。
屋内に入った時、二人の手が三度離れた。
パタパタという軽い足音。廊下の向こうから聞こえてきた。
その角から姿を見せたのも、金色の髪をした子どもだった。彼にかじり付く男児よりも少しだけ小さな、女児。長い髪とスカートをはためかせ、元気よく向こうから駆けてきた。
そしてこちらを確認してすぐ、出てきた方に首を向けた。
「ママー、シズが女の子連れてきたよー」
それは告げ口だった。彼は内心で苦笑した。
「知ってるよ。可愛いでしょ」
返されたのは軽口だった。もう一度苦笑した。
なおも男児の視線を一身に受けていたディアは聞こえてきた声に少し驚いてしまったようだった。それも無理はないことだった。
女児に続いて廊下の角から姿を見せたのは、少女の姿をしたエクシだった。
少女エクシ。相似のオリオンと同じように柔らかな笑顔を二人に向けた。
「いらっしゃい。ゆっくりしていって」
ひとまずの挨拶をし、エクシは戸惑いを隠せないでいるディアに笑顔を向けた。
「シズによくしてもらっているようでよかった。私たちのこと、憶えてる?」
そう聞かれ、ディアは手を重ねて小さく頷いた。すると、男児の方の子どもが不思議そうな顔をした。
「お姉ちゃん、話せないの?」
「まだここの言葉を話せないだけだ。こっちの言っていることは伝わっている」
「どうして」
無垢な疑問の表情は消えなかった。エクシの腰に抱きついている女児も不思議そうにディアを見ていた。
怯えや警戒は見られなかった。多くのものを映す大きな目。興味と好奇心、そして気遣い。見えるものは善性の発露。ディズは黙って成り行きを見守ることにした。エクシとその横に並んだオリオンも様子を見ることにしたようだった。
「お姉ちゃん、お名前は? 私はアリア」
「僕はアクア。アリアは妹」
「ディア」
彼女は子どもたちを真っ直ぐに見て、一人でそう答えた。
「ディア?」
子どもたちは揃ってその名を口にして確認した。
うん、と彼女は頷いた。小さな笑みをつけて。
子どもたちが笑顔になった。
「ディアお姉ちゃん、こっち。座れるところ」
「こっち、こっち」
アリアが嬉しそうにディアの手を取って案内をしようとした。アクアも続いてもう片方の手を取って前に引っ張った。
ここで、この家に来て初めて、ディアはディズを窺ってきた。彼は頷いてみせた。この顔は少しでも笑えているだろうかと思いながら、彼女に大丈夫だという意志を伝えた。
「じゃあ、ちゃんとお姉ちゃんを居間まで案内してくれる? こら、引っ張っちゃ駄目」
「はーい」
エクシの言葉に対し、子どもたちの元気のいい返事が響いた。
ディアは、少し困ったような笑顔を見せていた。
「いい子ね」
「ああ」
甲高い声が遠ざかってから、ディズはオリオンとエクシに目を向けた。
いや、違う、と思った。二人の方も彼を見てきていた。今度は、彼が二人に見られていた。
「あなたもね、シズ。あの子にちゃんと優しくしてるか、心配してたのよ」
「子ども扱いするか、大人扱いするか、どっちかにしてほしい」
「うん。シズは大人だって、僕もエクシも分かってる」
オリオンは言った。
「ただ、一歩踏み込むのは、これまで遠慮してた」
「でも、もう願いごとを決めたの。どうか、私たちがあの子も迎えて家族になれますようにって。シズさえよければ、いつでも。前にも少し言ったけど、私もオリオンも、子どもたちも、あなたにここで暮らして欲しいから」
二人はディズのことも見守っていた。彼の様子も見ていた。彼はそれを知っていた。
ディズがあの街から戻り、一人の少女を連れてきた今日という日に、遂に彼の方へと踏み込んできた。
いつかそういうことになるとは予想していた。だが、予想以上に直截的だった。正直に言うなら、不意を突かれた。
敵わないなと思い、小さく吐息をついて廊下の向こうに視線を逃した。
「あの子が、リアリオンの名を貰った」
「そう」
祝福の笑顔。無論、承知していたのだろう。
「一緒に暮らす家族になるかどうかは、まだ答えられない。ただ、自分にも親が欲しいと思ったことはある。もう少し、待っていてほしい」
心の奥の気持ちを吐露し、窺うと、二人は優しく笑っていた。それは人の親の笑顔だった。
「うん。分かった。待ってるから」
ディズは憧憬を覚えた。望むべき未来が見えた。そして、未来のディアの姿も。
もう一度、廊下の向こうに目を転じた。彼女が子どもたちと一緒に楽しく待っているはずだった。
全員が居間に着いてからも、子どもたちはディアから離れようとしなかった。懐かれすぎて困っているようにも見えた。
ディズは隣のアリアの小さな頭に手を置いて言った。
「こういうふうに適当に構っていてやればいい。俺も、この二人に何かを言うことはあまりない」
「シズはぶあいそだから」
そのアリアが言った。頭を触られる感触には無関心であるかのように見上げてきた。
「僕とリアは慣れたけど、お姉ちゃんは大変だね」
ディズの手が届かない、ディアの向こう側のアクアはこの上なく上機嫌だった。
「クア」
オリオンとエクシが温かい飲み物と茶菓子を運んでくるところだった。何も言えないまま畏まって座るディアに何度目かになる笑みを見せ、丁寧に皿を並べてから机を挟んで向こう側のソファに腰を下ろした。
皆が揃い、エクシとオリオンが四人の子どもたちと向かい合う状況になった。
「改めて、はじめまして。私とオリオンは夫婦で、アクアとアリアは私たちの子どもよ。体がこうなのは、私たちにとってはこれが一番安定する姿だから。ディズが言ってなかったみたいね。驚かせてごめんなさい」
「長い間この姿と命を保っているという以外、僕たちは人間と変わらない。それは、どれだけ生きても。自分の生活の中で、僕たちは親であることを選んだんだ」
「私はね、二十六番目なんだよ。末っ子なの。五歳」
「僕は二十五番目。六歳。ママは、ええと」
「年齢は、ごめんなさい、今は秘密にさせて。いつか、ちゃんと教えるから」
一度に押し寄せてくる金色の言葉。ディアは静かに受け止めていた。言葉にならないようだった。たとえ言葉を使えても、彼女は何も言わずにいただろうとディズは思った。
「家名は、リアリオン」
最後に、彼が引き継いだ。
「オリオンとエクシは俺の一応の保護者なんだ。名前を与えられた子どもとして、時々こうしてここに来ている」
「その割に、シズはいつまでも他人行儀だけどね。子どもらしくないし」
「シズね、初めてあいさつした時もこんな感じだったんだよ」
「かわいくないってママが言ってた」
「こら、もう。クアはこっち」
そうして、金色の和やかな声が満ちていった。
ディアはアリアに抱きつかれて触れ合いの相手をしていた。とても優しい笑顔をしていた。
温かな紅茶を口に含みながら、十分だ、とディズは思った。十分過ぎるくらいだ、と満足した。
「ことば、教えてあげる」
アクアが言った。向こう側でエクシに抱きかかえられたまま、いいことを思いついた、と言いたげな満面の笑みを見せた。
母親の抱擁から抜け出してディアの方に身を乗り出した。注目を浴びる中、ディアの胸元に飾られていた白い花を慎重に手に取り、言った。
「これは、はな。花」
「花?」
それは、彼女が初めてこの世界の言葉で会話をした瞬間だった。
「そう、花!」
アクアは本当に嬉しそうだった。彼女も嬉しそうにした。
「絵本があるよ。こっち」
すると、一歳違いの兄に対抗心を燃やしたのか、今度はアリアが勢いよく立ち上がってディアの手を引き始めた。
「いいと思う」
困り始めた彼女に、ディズが言った。
「絵本なら簡単な言葉から順序良く覚えられる。メカナのアルファベットの絵本もあったと思う」
「あるよ。こっち!」
「行こうか」
「うん、だよ。ディアお姉ちゃん」
「うん」
ディアは教えられた通りに言った。一度目はアクアに。
「じゃあ、ディア」
「うん」
二度目はディズに。綻んだような笑顔を見せた。
彼は胸を突かれた。ああ、この子のことが本当に好きだ、と思った。
「こっち」
ディズは瞼を少し下ろした。子ども二人が彼女を先程と同じように連れて行くのを見ながら、ゆっくりと後を追い、後ろの大人たちの方に振り返った時もまだ、胸の中に生まれた衝撃に耐えていた。
「ゆっくりしていって。泊まっていってもいいから」
「そうさせてもらって、いいか」
その返答は、彼らを少なからず驚かせたようだった。
「ええ」
エクシは言った。こちらの意志を汲み取ったてくれた、と思ってもいいような表情だった。
「本当に、あの子のことが大切なのね」
「ああ」
彼は正直に答えた。
「すまない。面倒をかける」
「いいのよ。いいことなんだから」
「いいこと、か」
「シズ」
部屋を出る前に呼び止められ、ディズは無言で振り向き、無言で聞き返した。
「気付いてる? あなた、今、幸せそう」
そうか、と無言で答えた。それから少し俯き、苦笑した。
二人はディズのことも見守っていた。彼の様子も見ていた。彼はそれを知っていた。それを何度も確認できることもまた、幸せなことだった。
もう一度、廊下の向こうに目を転じた。彼女が子どもたちと一緒に楽しく待っているはずだった。それを何度も確認できることもまた、幸せなことだった。
「うみ」
「海」
絨毯の上に絵本を広げ、ディアがアクアに続いて発音を繰り返していた時、ディズの携帯端末の公的機密区分にその文書が届いた。
最高指令通達。
サフィアから送られたものだとすぐに分かった。
文書を開いた。情報は全て彼の内側で処理された。
[92.09.14.22.10時、第一軍議局に出向して下さい。最高位騎士の名において、イスニⅢへの出撃を命じます]
そうして、直ちに把握した。正確には脳内の量子領域に構築されている数位集積経路を携帯型の数位恒体に繋ぎ、瞬時にそれらの文字情報を理解した。
ディアは子どもたちと一緒にメカナの言葉を口にしていた。その光景が彼の脳内に展開された。脳神経という、言わば元素物質の集積経路が彼女の姿を彼の意識に認識させた。その認識こそが意識となった。
認識が意識と合一した時、永遠は現れた。
デディゼンドはレイディアンシアを認識した。
自分に寄りかかってきているアリアの腰に手を回し、足を畳んで座っていた。高く澄んだ声を出し、アリアに笑顔を見せ、大きく広げられた絵本に目を落としていた。反対側から声を上げるアクアの方にも微笑みかけていた。よく笑う子どもたちにつられて何度も表情を明るくしていた。
「ディア」
その声に、ディアはすぐに絵本から顔を上げてきた。その時の彼女が、一瞬、まるで言葉を上手く話せない子どものように、彼には見えた。この幼い兄妹と初めて会った時のことを思い出した。そして、ほんの数日前の彼女を思い出した。
「なに、だよ、ディアお姉ちゃん」
「うん。ありがとう」
助け舟を出され、ディアは丁寧にアリアに感謝の言葉を伝えた。もうここまで話せるようになっていた。
「なに?」
それから、教えられた通りに、ディズの方を見て落ち着いて聞き返してきた。
その言葉を聞き、穏やかな顔を前にして、彼はすぐには何も言えなかった。
「今日は泊まっていこう」
そして、万感の思いで、言った。
「ほんと?」
「いいの?」
派手に喜ぶ子どもたちを左右にして、彼女も純粋に嬉しそうにした。
きっと幸せになれる、と思った。
2-2.
瞬く間に時間が過ぎた。ディズにとっては文字通りに無いに等しい時の流れも、その時だけは特別に確かに存在していた。暗くなるまで子どもたちと家中の言葉を追い、夜には豪華な夕餉のもてなしを受けた。
ディアは子どもたちとの入浴を終え、意識していなかった疲労と緊張で瞼を重くしていた。もう休むように言われて従順に頷いた。興奮して元気になり過ぎていた兄妹は寝る時も一緒がいいと主張したが、母親であるエクシが注意し、彼女は一人で静かに横になれることになった。
「ディズ」
そう呼びかけられたのは、ディアの様子を見るために、用意された居室に入った時のことだった。
明日までに言うべきことはとても少なくなっていた。とても。まだあまり話をしていないのに、とどこか不思議に感じた。
「眠れないのか」
「うん」
「どうした」
「話をしたくて」
「どんな?」
「何でもいいの。例えば、この家のこととか」
そう言い、ディアは古めかしい意匠の凝らされたベッドの上で薄明かりの中の部屋を見渡した。彼女が今いる場所から見えるものが彼女の新しい世界だった。
中世のヨーロッパに似ている、異世界の夜。
「そうだな」
ディズは窓辺に置かれていた丸椅子に腰掛けた。そこから外の明かりが入ってきていた。花瓶に注された一輪の白い花に月明かりのような柔らかな光が注がれていた。
「この世界は、本当に地球に似ている」
彼女の方を見て言った。
「地球宇宙を取り囲む唯一の文明だから、フンクトの多くの文明圏の中でも最も地球と似ている。この家のように、特に西洋文明の影響を強く受けている。文化様式も、言語も、人間も。もちろん、家の間取りも。料理も。花も。意図的に模倣しているところも多い。懐古主義というか、故郷への憧れがあるんだろう。
ディアが理解できないことは少ないはずだ。今の地球よりも数百年程度分、上手く科学技術が発達した世界だと考えもらっていい。ただ、宇宙船ではなく、カルの力で星々を渡るところが違っているだけだ」
「星の上で、メカナの人はどんな暮らしをしているの?」
「朝起きて、仕事をし、夜に寝る。服を着て、食事をし、娯楽に耽る。生まれ、成長し、恋をし、子どもを生み、やがて死を迎える。かつての地球人のように生きている。電力もある。規模と動力が違うだけだ。車も飛行機も、携帯端末もある」
「私も、どこかの星で暮らせるかな」
「ああ、大丈夫だ。アクアもアリアも大人になればどこかの星に下りて自立する」
そこまで言い、ディズは自分の手を見つめた。この自分がとても歪な存在だということを、ディアはもう嫌というくらい分かっているだろう、と思いを巡らせた。
イミナミアを自由に歩ける子どもは自分しかいない。家屋の空間の外は優秀すぎる青い天使ばかりだ。
「ここはどこでもないような場所だ。星々の上で生きる一兆の人間を見下ろし、地上の情報を徹底的に管理し、他文明の人類と千年以上に渡って殺し合っている。それでいて静かで穏やかな、天上の白い世界。
理想的過ぎて、苛烈すぎて、これ以上のない、終わってしまった場所。だから、いつかは星で暮らすのが、普通なんだ」
「いつか、私がどこかの星に行く時、案内してくれる?」
彼女は笑っていた。彼の今や未来を問わず、穏やかに、寂しそうに、辛そうに、独りでそっと笑っていた。
どうしようもないと思い知っていた。ディズは自分自身の絶望を持ってはいたが、その絶望はディアのものではなく、彼女は彼女の絶望を持っていた。
救済者として彼女を慰めるのは愚行だった。自分はどうしようもない殺害者であり、助けることしかできない人間だった。そのことは既に伝えていた。
「ああ。分かった」
だから、小さな声と言葉で答えることしかできなかつた。
◇
気付いた。気付いてしまった。気づきたくなかった。
彼は私を従えるつもりはないのだと。あの時のことは、全部、私の一方的な愚行だった。そういうことだったんだ、と分かった。
そして、彼はきっと、もう、満足している。彼は、きっと。
彼はきっと、私をこの家族に引き合わせたことで、もう満足している。今日のことはあまりに明らかな意図があった。
彼は、きっと。
考えたら駄目。咄嗟に考えを遮った。心がその考えを拒絶した。
「私は、何もしてあげられないの?」
代わりに、そんな愚かな言葉が、出てきてしまった。
◇
「どうして、そう思うんだ?」
「ううん。そう思っただけ。思った、だけ」
ディズは動揺していた。予想していなかったことだった。
ディアは突然取り乱したように言葉を連ね、不安定になってしまっていた。
だから、立ち上がって彼女の傍に行った。それからはもう、その場から遠ざかることはできなくなっていた。
彼女が儚げに見上げてきた。さらに動揺した。そして、心を、奪われた。
「私は、あなたに命を預けたから」
彼女は言った。
「私がこうして生きているのは、全てあなたのおかげ。あなたが助けてくれなかったら私はあのまま犯されてた。どこにも逃げられなくて、きっと死んでた。殺されたかもしれない。それなのに、あなたは私の命の恩人なのに、私はまだ何も出来ないまま」
「感謝を、受け取っている。十分すぎるくらいだ」
「駄目。私はまだ何も出来ていない。何も。私は自分の命をあなたに預けた。私が死なないために。わけの分からないことが起きて、みんな死んで、それでも助けられて。私は、自分のために、私はあなたのものになると誓ったの。あなたに守ってもらうために」
涙が流れていた。ディアは顔を隠すように俯き、それでも手で覆うことはせず、流れるままに流していた。
「それなのに、あなたは私を守ってくれただけじゃなかった。優しくしてくれて、気遣ってくれて、でも、私に、なにかしたい、なんて、思っていないみたいで。本当に同い年の男の子みたいに思ってしまうくらいに、優しくしてくれて。でも、私、私は、そう思ったら、駄目なの。勘違い、したくない。このまま、お礼ができないなんて、私は、嫌」
この時、正しく理解できた、とディズは自分を信じられた。今、自分は彼女と同じ表情をしているのかもしれない。そう思った。
ディアは囚われていた。あの街での惨事は過去のものではなく、今も彼女を苦しめていた。そして暗い夜も彼女を捕えていた。彼女に逃げられる場所はなかった。
保護をしたいという衝動に耐え、この家の子どもにしたように彼女の頭に手を乗せた。もしくは、自分がそうされたように。
「恩返しをしないと気が済まないのか?」
優しく、月の髪を撫でた。内心の吐露を終えたのか、彼女はとても静かになっていた。そのまま撫で続けた。
しばらくそうしてから膝を屈めて地球の瞳を覗き込んだ。円らな瞳で覗き返された。ディズを見ていた。
信頼と敬慕の情を受け取った。彼は自己を卑下せず、正面から受け止めた。
「個人的なことだが」
覚悟を決め、やや唐突に軽く溜息をつき、彼女の隣に腰を降ろした。視線も夜光の滲む床に落とした。
「確かに、俺の心はもう自分が勘違いできないくらい、どうしようもなく子どものものじゃなくなっている。でも、体がまだ子どもなのも、見ての通りだ。ディアより背が低くて平均より少し成長の遅い十二歳の体だ。精通も、まだだ」
こんな告白をすることになるとは、と逆に可笑しく思いながら告げた。
「だから、そういうことだ。年を取っていても、大人として生きていても、ディアになにかをする、なんて思えない。体がそういう時期なんだ。意図的にそうしているところもある。でも、ちゃんと、無垢な頃だ。だから、そういうことだ」
ここまで言うと、さすがに羞恥心が出てきていた。自分の口が苦笑するのを止められなかった。
「平等ではない関係で交わされるものや生まれるものを否定しない。こうしているだけでも、とても多くのことを生んでいると、俺は思う。これ以上のことは、今は、気持ちだけで十分だ。ありがとう」
それが、彼に言えることの全てだった。正しく言葉を失えた。後はもう、何もせずに待つしかなかった。
「うん」
やがて、ディアは答えた。
「よかった」
ディズは大きく安堵の息をついた。
「だから、まあ、そういうことだ」
大きな声を出し、彼女を抱えて、大げさに横に倒れこんだ。音を立てて二人でベッドに寝転がった。
突然のことに彼女が驚いていた。
そのままの姿勢で、笑って言った。
「俺に何かされないと気が済まないというのなら。俺が望むのは、ディアと一緒に寝ることくらいだ。いいか?」
◇
ディアの答えは決まっていた。あまりに心が揺さぶられ、止めどなく涙した。
ディズは笑っていた。あの時のあの人の笑顔に似ている、と彼女は思った。
思っていたら、また抱きしめられた。涙した。彼の胸に顔を埋めた。誰かにこんなにも強く抱きしめられたのは生まれて初めてだった。
少しだけ抱き返した。さらに涙が溢れてきた。
その後。
その後、ディアは彼の傍で安らかに眠った。
彼に何かされないと気が済まないのなら。自分自身の言葉が温かな夢の中で生まれ、残響した。それが私という人間の真実だろうと考えた。預けた命のことについては、まだ上手く話せていないけれど、と心残りも覚えながら。
明くる日。
明くる日、目覚めた時にはもう、傍に彼はいなかった。
パパとママと一緒に行ったの、と子どもたちから教えられた。
そして、あの人が家に来ていた。昔からの約束なんです、と静かに言った。驚いて取り乱すべきだった。考え付く限りのことを尋ねるべきだった。しかし、結局は切れ切れの感謝しかできなかった。
白い花と共に奥の居室に残された。
朝を過ぎる頃には子どもたちの言葉が分からなくなっていた。彼の魔法が消えた理由を考えるのも嫌だった。すると、男の子も女の子も、もうほとんど何も言わずに温かく寄り添ってきてくれた。笑顔と身振りで元気付けてくれた。熱いくらいの体温が私を支えてくれた。いつしか三人で眠りに落ちてさえいた。
手を合わさず、十字を切らず、両手を重ね、窓の外を見て彼の無事を祈り続けた。
両親の無事を祈る兄妹たちと一緒に、静かな家の中で、夜が再び訪れるまで、ずっと。
◇




